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2009年8月 3日 (月)

ふたたび歌が舞い降りて来た!

 ここ2ヶ月にわたって、かなり根をつめた記事を書いて来たので、このへんで少し気分転換をしましょう。以前、私が好きな日本のポピュラー音楽について書いた記事に、コメントが付きました。取り上げたアーティストのひとりである宝達奈巳さんご本人が、コメントをくださったのです。やっぱりインターネットってすごいよね、昔まだインターネットが無い時代に、好きなアーティストにファンレターを送ったことがあるけど、返事なんてもらえなかったもんね。それがネット検索で私のようなマイナーブロガーの記事を見付けて、ご本人がコメントを書いてくださるんだもの。で、その宝達さんが、久し振りに新作アルバムを出されたというので、早速送ってもらい、ここ何週間かずっと毎日それを聴き続けています。これが素晴らしいのです。もう私にとって2009年のベストアルバムはこれで決まり! 私はブログの記事を書くときも、いつもiPodを手放せないほどの音楽アディクトなのですが、前回までの連載記事に漂っている一種の高揚感は、半分は彼女の歌に乗せられたものと言えるほどです。とにかくこれだけの優れた音楽性・精神性を持ったアーティストが、商業ベースではまったく無視されていて、世間にもほとんど知られていないことが実に惜しい。で、今回は自分なりに宝達奈巳ワールドの紹介記事を書こうと思うのです。まあ、宝達さんの音楽以上にマイナーな私のブログで紹介記事を書いても、何も反響は期待出来ないのですが、こういったものは草の根運動ですからね。もしも先週からの続きで、この記事に目を止めてくださっている「ゲゼル研究会」のメンバーの方がいらっしゃったなら、ぜひ彼女を応援してください。地域通貨やベーシックインカムに関心をお持ちの方なら、絶対に彼女の音楽も気に入ると思います。(根拠はありませんけど。笑)

 今年発表された彼女の新作は、『16 Years Later』というタイトルが付けられています。何が16年後なのかと言えば、デビューアルバムの『たからたち』が出てから今年で16年目なのですね。作者自らそういうタイトルを選ぶということは、この作品が彼女にとってひとつの節目の意味を持つものなのでしょうし、また新しい境地を開拓した自信作でもあるのだと思います。実は、ずっと一貫して多産な音楽活動を続けていらっしゃる宝達さんが、「歌」入りのアルバムを出されるのは、1999年の『天の庭』以来10年ぶりなのです。(『16 Years Later』の前身となる『Ring of Life』が昨年発表されていますので、正確には9年ぶりということになりますが。) この10年間は、ファンにとっては待ちわびた10年でした。というのも、この間に宝達さんは、夫君の石川高さん(笙演奏家)とのユニットでシンセサイザー主体のインストロメンタル・アルバムを何枚か出されていますが、彼女の魅力的な「声」をその中で聴くことは出来なかったからです。小さなヒットになったセカンド・アルバム『HOTATSU-NAMI』で初めて宝達さんの歌を聴いた時から、私はたいへん優れたシンガー・ソングライターとして宝達奈巳という人を捉えていました。思い返せば、初めて音楽を聴く快楽に目覚めた1970年頃から、洋楽邦楽とりまぜてたくさんのシンガー・ソングライターたちの歌が自分の青春を彩ってくれた。彼らのほとんどはフォークギター1本で歌う現代の「吟遊詩人」といったイメージを持つ人たちでした。宝達奈巳さんにフォークギターは似合いません。デビューアルバムの時から、彼女はシンセサイザーを自在に使いこなし、しかも単なるマニピュレーターとしてではなく、そこに生命を吹き込む稀有なアーティストとして私たちの前に現れた。

 日本でシンセサイザー・ミュージックが脚光を浴びるようになったのは、富田勲さんの作品が最初だったのではないかと記憶します。1970年代中頃のことです。その後、YMOや喜多郎さんの活躍などもあって、電子楽器はすっかり日本の音楽シーンに溶け込んだ感がありますが、それは何というか、手軽に安いコストで耳当たりの良い音を作り出すことが出来るという便利さの方向にどんどん流れただけのことであって、これを自己の表現に使う本当の意味での音楽家はとても少なかったのではないかという気がします。ましてや自作の詩を自作のメロディーに乗せて歌うシンガー・ソングライターというジャンルの人で、シンセサイザーに自己表現の可能性を見出した人は皆無に近かった。もちろんこの分野での偉大な先駆者にエンヤという人がいる訳ですが、現在に至るまでこの流れに連なるアーティストというのは、世界を見回してもそう多くはないのではないかという気がします(単に私が知らないだけかも知れません)。エンヤが『オリノコ・フロウ』で日本デビューしたのが1988年、宝達奈巳さんが1993年にデビューアルバムを出した時、「日本のエンヤ」と称されるようなことがあったそうです。『16 Years Later』のセルフ・ライナーによれば、エンヤは宝達さんの音楽形成史のレパートリーには入っていなかったようですし、本人としてはエンヤよりもVirginia Astreyに喩えられたかったなんて書いてらっしゃる。(バージニア・アストレイという人のことを私は知りませんでしたが、機会があればぜひ聴いてみたいと思います。) それでも電子楽器と孤独に格闘しながら、そこに音楽と詩の魂を刻みつけていくというスタイルにおいて、エンヤと宝達奈巳はとても近い位置にいるアーティストではないかと思う。フォークギターで作曲するシンガー・ソングライターにとっては、曲を生かすも殺すも編曲者次第というところがありますが、自らが演奏者かつ編曲者でもあるシンセサイザー・ミュージシャンは、作品の出来栄えに対する責任をすべてひとりで負わなければならない。もしかしてそれは、音楽家にとっての孤高にして理想的なあり方なのではないかとも思えます。

 これは私の以前からの持論ですが、詩人には一箇所に留まって円熟して行くタイプと、常に新しい境地を目指して変化して行くタイプのふたつがあるように思います。エンヤが前者のタイプだとすれば、宝達奈巳は典型的な後者のタイプの詩人です。こういうタイプのアーティストに対しては、新作が出るたびにファンはいわば挑戦状を突き付けられているようなもので、これまで作り上げて来た音楽脳のニューロン・マップを毎回書き換えなければならなくなる。これがエンヤの新作アルバムであれば、たとえ前作から7年という年月が経っていても、ファンは安心して聴くことが出来る訳ですが、宝達さんの新譜ではそうは行きません。今回のアルバムを最初に聴いて、まず私が戸惑ったことは、詩がすべて英語に置き換わっていたことでした。というのも、私が最高傑作だと考えている前作の『天の庭』では、日本語の詩(詞)による完璧な曲作りがなされていて、その意味でもこれは日本のポピュラー音楽がたどり着いた最高の到達点だと信じていたからです。(ファンですから、いくらでも賛辞を捧げちゃいますよ。笑) 新作の『16 Years Later』では、詞がすべて英語だというだけでなく、曲と曲のあいだに自作の英語詩の朗読が置かれています。これがまず作品を〈鑑賞〉することの妨げになってしまった。英語の作詞や彼女の朗読に問題があるという訳ではありません(彼女の英語での作詞や朗読はなかなかのものだと思います、私にはそれを評価する能力がありませんが)。そうではなくて、何故いま宝達奈巳が英語で表現する必然性があるのか、その点が理解出来なかったのです。だからアルバムに付けられた彼女自身の解説を読まなければ、今回の作品を自分のなかで消化するのにももう少し時間がかかっただろうと思います。

 詩も書けなければ、曲も作れない、私のような散文的な人間にとってはなかなか想像しにくいことですが、日本語で曲を作り歌うシンガー・ソングライターにとって、言語の問題はとても大きな〈躓きの石〉なのではないかと思います。現代日本語というのは、明治以降の急激な西欧化の流れのなかで人工的に形成されて来たとても〈いびつな〉言語です。古来、日本というのは「言霊の幸ふ国」であり、日本語は世界の言語のなかでも最も詩的に洗練されたもののひとつだった筈です。今日でも短歌や俳句を作る人は多いですから、その伝統が死んでしまった訳ではないでしょう。しかし、私たちの日常を振り返った時、詩を朗読をしたり聴いたりする機会はほとんどありませんし、日本語を口のなかでころがしていい気分になるという経験もなかなか味わえない。それにこれは自分のような宝達さんよりも上の世代の人間でも同じですが、戦後生まれの私たちは英語の歌を聴いて育って来たという事実も一方にある訳です。だから英語で歌うことは、彼女自身が言うように原点回帰であり、とても自然なことなのかも知れません。アルバムの解説には、今回の作品を解く鍵になる作者のこんな言葉が記されています。

 『その後日本語との関りは、万葉集などの古語の朗読へと導かれ、別の形で言葉の響きを追求していくこととなるが、英語のほうは数年に渡ってJRRトールキン作品などを徹底的に自分に刻みこみ、(かつて琉球古典音楽やケルト民謡などをそうしてきたように)、遂に07年初頭に「歌が降りて」きて、歌わずにはいられなくなる。英語の言葉の響きのままメロディーとなって歌詞が湧き上がる』

 なるほど、詩人の創造ということの楽屋裏を垣間見させてくれるような解説だと思います。もともと彼女は多作な作家ではありませんでしたが、このように何かを徹底的に自分にたたき込むことによって、その作品世界のリアリティは支えられていたのですね。これはまた現代において詩的創造をしようとすることの苦しさと同時に、可能性をも示唆している言葉だとも思います。1970年代くらいまでのシンガー・ソングライターは、それぞれ個性を競いながらも、先行する世代から引き継いだフォークソングの流れを汲んでいた人たちでした。宝達さんのようなそれより新しい世代の音楽家になると、むしろ自分の音楽のルーツをどこに求め、どこから創造の養分を汲み上げて来るかということすら、自己決定しなければならなくなった。そうして彼女自身がそうしているように、同時代の流行などには背を向けて、禁欲的とも言える自己陶冶を自らに課さなければならなくなったのです。これは一面、とても苦しいことであるに違いありませんが、見方を変えれば時代の制約に囚われずに、自分の飛びたい世界に向かって創造の翼を羽ばたかせることが出来る時代がやって来たとも考えられる訳で、才能あるアーティストにとっては本当に面白い状況になったとも言えるかも知れない。我々の前には、万葉集の世界も、琉球古典音楽の世界も、トールキンの世界も、すべてが開かれている。そこから養分を得て生み出された作品が、決してトラディッショナルなものの真似事ではなく、新しい真正な個性の表現になり得るということについては、彼女の音楽のすべてがそれを証明しています。

 宝達奈巳さんの音楽を紹介する記事を書くつもりだったのに、また三流の批評家みたいな文章を書いていますね。もう一度次回は、私がおすすめする作品について今度はきちんとした紹介を書きたいと思います。本当に素晴らしい作品群なので、少しでも多くの人に聴いてもらいたいと思うからです。それまで待ち切れないという方は、ぜひ彼女自身のホームページを覗いてみてください。アルバムの注文も出来ますし、1曲ずつのダウンロードも出来るようです。

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コメント

初めてお邪魔いたします。

色々検索しておりまして、

神社参拝で検索していたらここにたどり着きました。

とても興味深い記事を書かれていますね。

私の知り合いに、このような活動をされておられる方がおられるので、是非遊びに来てくださいね。

http://hakuchu.blog58.fc2.com/

投稿: 小林 一 | 2009年8月 3日 (月) 12時36分

私の新作を記事に取り上げていただき、また大変な賛辞をいただきまして、ありがとうございます!!!
と、本人が読んでいるとわかっていると、いろいろ書きにくいこともあろうかと思いますが、これからもどうぞ遠慮なく思うまま自由に評論を展開していってください!
宝達奈巳

投稿: astromedia | 2009年8月 8日 (土) 15時38分

宝達奈巳さん、こんにちは。コメントをありがとうございます。

この1週間、宝達さんのこれまでのアルバムをずっと聴きなおしているのですが、やはり記事にしようと思って聴くと、いろいろ新たな発見がありますね。ただ、私には音楽に関する造詣だとか薀蓄といったものがまるで無いので、感動をどう表現してよいかに苦慮しています。

今週はどうしても書かなければならない緊急のテーマが出来てしまったので、この続きはまた来週までお待ちいただけますか? 週末に1本の記事を書くだけの日曜ブロガーなもので、どうぞ気長に付き合ってやってください。

投稿: Like_an_Arrow | 2009年8月 9日 (日) 07時53分

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