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2009年6月 7日 (日)

社会信用論と自由経済思想(1)

 インターネット上にとても刺激的な文章を見付けました。今年の3月に関曠野(せきひろの)さんという方が、ベーシックインカムについて講演をされた、その時の講演録が公開されているのです。関曠野さんという名前を、不勉強な私は存じ上げなかったのですが、幅広い分野で著書をお持ちの在野の思想家といった肩書きの方だそうです。ベーシックインカムについては、私も昨年このブログでこれを考察する文章を書きました(123)。すべての国民に対する無条件の基礎所得保証という、一見突飛で非現実的に見えるこのアイデアが、実は歴史の向かう方向性としていかに自然で、また現代に特有なさまざまな問題への特効薬ともなり得るものであるかについて、自分なりに考えた結果をまとめたものでした。ただ、その効能については素人の自分にも分かるのですが、それを実現するための具体的な方法ということになると、まるで雲をつかむような話で、夢物語のようにしか思えない。それが関さんの講演緑を読んでいて、はっきりした現実性を持ったものとして自分の頭のなかで像を結んだような気がしたのです。

 何故ベーシックインカムが夢物語なのかと言えば、それを実施するための財源をどうするかという問題があるからです。もしすべての国民に月額10万円の基礎所得を支給しようと思えば、年間144兆円もの国家予算が必要になります(この国の人口を1億2千万人として)。年間の税収入は国税と地方税を合わせても85兆円くらいですから、これがいかに荒唐無稽な話であるかは誰にでも分かります。そこで関さんの提言は、ベーシックインカムの財源として、パブリック・カレンシー(公共通貨)を充てようというものです。つまり最近よく話題になる「政府貨幣」のことですね。日銀券とは違って、国債などの裏付け無しに、まるで打ち出の小槌のように政府が勝手に発行出来るお金のことです。これだけ聞けば、荒唐無稽である以上に経済の規律を破る不道徳な考え方だとも言われそうです。実はベーシックインカムの財源を政府貨幣で負担するアイデアについては、私も考えたことがありました。しかし、政府貨幣というものを持ち出した途端、いかにもそれはいかがわしい、政策というよりも奇策に近いものになってしまう。少なくともそういう印象を持たれてしまいます。これを正当化する理屈として、現代は潜在的な生産能力が消費者の購買能力をはるかに上回っている時代なのだから、多少政府貨幣を発行してもインフレなど起こることはないといったことを言う経済学者もいます。しかし、私たち国民からしてみれば、政府貨幣によってインフレが起こるかどうかということよりも、今の腐敗し切った政治家どもに、政府貨幣発行の特権など与えることは、とても認められないという気持ちの方が強いのです。問題は経済的合理性の話ではなく、モラルの話なのです。

 関さんのお話のなかには、この政府貨幣というものを、モラルの面からも正当なものとして基礎づける理論が出て来ます。私が最初になるほどと思ったのはそこです。これは関さんのオリジナルではなく、20世紀の始めにイギリスで活躍したクリフォード・ヒュー・ダグラスという人の考えた理論なのだそうです。ダグラスという人の名前を聞くのも初めてだったし、この人の理論が「社会信用論(ソーシャル・クレジット)」という名で呼ばれていることも関さんの文章で初めて知りました。いまインターネット検索で"社会信用論"というキーワードで検索すると、175件のヒットしかありませんから、もしかしたら関さんの講演は、日本に社会信用論を紹介したほとんど初めての講演だったのかも知れません。それはともあれ、社会信用論では、民間の銀行が貨幣発行権を持っていることを問題視します。政府貨幣がモラル上問題であるならば、何故銀行がお金を発行することには問題が無いのか? 銀行がお金を発行するなどと言えば奇妙に感じられると思いますが、実は国内で動いているお金のうち、紙幣や硬貨が占めている割合は数パーセントに過ぎず、90パーセント以上は銀行マネーなのだそうです。教科書に書いてある銀行の信用創造機能というやつですね。しかもこの銀行マネー(銀行が企業などに貸し付けたお金)には利子というものが付いていて、現代の経済はいわばその利子を返済するために回っているとも言える。そこから深刻な経済格差も生まれるし、今回のような世界的な大不況も起こって来ることになります(なにしろデリバティブというのは、銀行の信用創造機能を十倍にも百倍にも拡大するものだったのだから)。であるならば、信用創造の機能を銀行から取り上げて、国が持てばいいじゃないか。国が利子の付かないお金を発行して、直接企業に貸し出せばいい。それがつまり「銀行信用」を「社会信用」に転換するということなのだと思います。

 金融資本の際限のない信用膨張が破裂して、世界恐慌にまで至ってしまった現在の状況からすれば、これは実に説得力のある思想だという気がします。今週はとうとうアメリカのゼネラル・モーターズが破綻してしまいました。そんなニュースにさえ最近はあまり驚かなくなってしまったほど、現在の世界不況は深刻なのです。サブプライム問題に端を発する金融の世界での出来事が、何故これほど大規模な影響を実体経済に与えるのかと言えば、要するに今日の経済の本質が〈負債で動いている経済〉だからでしょう。銀行の信用創造機能を国家に移すなどと言えば、とてもあり得ない経済政策のように思えますが、シティ・グループやバンク・オブ・アメリカといった大銀行にも国有化の可能性が噂されている今日の目から見れば、むしろ時代の流れはそちらの方向に向かっているのではないかとも思えます。いまは世界中の経済が非常事態ですから、デリバティブに厳しい規制を設けるとか、銀行の自己資本比率を上げるといった政策は採りたくても採れない(そんなことをしたら、それこそ銀行がどんどんつぶれてしまいますから)。しかし、いつかこの混乱が収まって、過去への反省と新しい経済のあり方への模索が始まれば、「信用の社会化」という方向にも多くの人の目が向けられるようになるのではないか、そんな気がします。それが即、「政府貨幣」導入論につながるかどうかは分かりませんけど。

 そしてもうひとつ、関さんのお話でとても感銘を受けたのは、社会信用論でのベーシックインカムについての考え方です。こちらもやはり経済の話というよりはモラルの話なのですが。私もベーシックインカムについて書いた時には、「働かざる者、食うべからず」といったコトバが、いかに時代に即さない古臭い通念であるかということについて、あれこれレトリックを費やして説明しようとしたものでした。ところが、関さんの文章のなかに、そんなつまらないレトリックなど吹き飛ばすような明快な答えを見付けたのです。私のつたないコトバで説明するよりも、関さんの文章からそのまま引用してしまいます。

 『ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。…彼によると、生産の90%は道具とプロセスの問題で、労働者の能力は大した役割を演じていない。道具とプロセスが生産というものを大方決定している。そうならば生産を決定しているのは共同体の文化的な遺産や伝統にほかならない。道具や知識や技術は、そうした遺産や伝統である。人類は何万年もかけて、そういう知識と技術の膨大な蓄積を行ってきたのであり、だから現代人は改めて火の使い方を学んだり、車輪を発明したりする必要はない。過去の何千という世代が蓄積したものを我々は享受しているのでありまして、すべての人間は人類のそうした偉大な文化的遺産の相続人である。そういう相続人として配当をもらう権利があると彼は言っています。』

 ダグラスの思想も素晴らしいけど、それを紹介する関さんの文章も素晴らしいですね。「国民配当」という命名も私はとても気に入りました。ベーシックインカムというと、そこには賛成反対さまざまな意見が飛び交いそうな気がしますが、国民配当と言えば、勤労を尊ぶ気風の強い日本人にも受け入れられやすいのではないだろうか。そしてもうひとつそこに付け加えるべきことがあるとすれば、私たちは過去の世代が蓄積したものを享受する権利を持っていると同時に、それを次の世代に伝えていく義務も負っているということでしょう。なにも過去の遺産を蕩尽することがベーシックインカムの目的ではないのですから。このことは、最近流行りのエコロジーや持続可能な社会という考え方にもつながるものだと思います。ベーシックインカムのある暮らしというのは、決して不労所得で遊び呆けて毎日を過ごすというようなものではなく、生活に必要な最低限の物資でつましく生きて行くというイメージのものだと私は思っています。そう考えれば、社会信用論に基づくベーシックインカムというのは、まさにこれからの時代が求める思想であるとも言えるのではないでしょうか。

 さあ、今回は関曠野さんの講演録から受けた感動を伝えたくて、そのエッセンスと考えられる点について書いてみました。とにかくこれは非常に重要なテキストであるに違いありませんから、多くの人に読んでいただきたい気がします。そして自分としては、この社会信用論の考え方を、ここ三年くらい夢中になっているシルビオ・ゲゼルの思想と合わせて考えてみたい。ゲゼルの思想は「自由経済思想」と呼ばれますが、資本主義経済が持つ本質的な矛盾が「利子」というものにあるという洞察において、両者は一致しています。ダグラスとゲゼル、同時代を生きたこのふたりの異端の思想家が、互いに影響を与え合ったのかどうか、私は知りません。が、目指していた方向は驚くほど似ています。これは素人の直感に過ぎないのですが、もしかしたら社会信用論と自由経済思想とは、互いに補完し合うものではないかという気がする。無謀な企てと知りつつ、次回はそのことについて考察してみたいと思います。

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コメント

初めまして。ベーシックインカムについて興味を覚え、ネットを捜し歩くうちにこちらの記事にたどり着きました。大変面白く、また参考になるお話でした。私自身のブログでもベーシックインカムについて走り書きをしようと思い、その中でこの記事へのリンクを張らせていただきました。事後の報告となり申し訳ございません。

投稿: オナジマイマイ | 2009年11月11日 (水) 20時03分

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