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2009年6月28日 (日)

社会信用論と自由経済思想(4)

 膨大な財政赤字を解消するために、政府紙幣を発行すべしという意見が、一部の経済学者や政治家から出されています。日銀券とは異なるデザインの新しい紙幣を考えている人もいれば、日銀券そのものを直接国庫に入れてもいいじゃないかという人もいる。いずれにしても、彼らは同じ日本円という単一通貨を前提にして議論をしているのです。私の提案は違います。そもそも「減価する電子マネー」なんてものに、従来の日本円との兌換性を持たせようということ自体が無理な話ですし(そうなれば誰もが毎日電子マネーを千円札3枚と交換するでしょう)、むしろこの新通貨導入の本当の目的は、国内の経済そのものを計画的に二重構造にしてしまおうということだからです。私たちの基本的な認識は、日本円は世界にも通用する強い貨幣になったけれども、一方で国内の普通の生活人にとっては、過剰なプレミアムが付き過ぎた不便なお金になってしまったというものです。世界のどこかに月に1万円の賃金で喜んで働く労働者がいる限り、私たち国内の労働者は、彼らにコスト競争で勝つことは絶対に出来ない。1万円の月給で働く労働者は、1万円で生活が成り立つ基盤を持っている訳で、私たちはそうした生活基盤という面で圧倒的に不利なハンデを背負っているからです。これを少しでも解消するためには、衣食住といった基本的な部分については、強過ぎる日本円とは切り離された経済の仕組みを持つ必要がある。そのためには、どうしたって日本円とは異なる第二の国民通貨が無くてはならないと私は考えるのです。

 この新しい国民通貨というものが、何故減価する貨幣でなければならないかについては、前回の説明で理解していただけたものと思います。では何故、この通貨は日本円との兌換性を持たないにもかかわらず、日本円と等価でなければならないのか? ここが今回のテーマです。ゲゼルやダグラスは、商品の価格のなかには企業が背負った負債の部分、すなわち利子分が上乗せされていることを見抜きました。だから生産力と購買力のあいだには、常に構造的な不均衡があるのだと。しかし、今日の「価格問題」でさらに深刻なのは、商品の価格のなかに外国通貨との間の激烈とも言える購買力の差が織り込まれていることではないでしょうか。いまでこそ百円ショップといった業態も私たちの生活にすっかり溶け込んでいますが、最初にそれが現れた時にはみんなびっくりした筈です。どうして百円でこんなものまで買えるの? そういう素朴な驚きです。もちろんそれが、中国を始めとする途上国の通貨と日本円の間にある〈価格差〉によるものであることは、今では誰もが知っています。この10年あまり、日本国内で業績を伸ばして来た企業の多くは、この通貨間の価格差をうまく利用して、低価格戦略によって市場を獲得して来た企業だった訳です。そしてまた、日本中の多くの商店街から客足を遠ざけ、シャッター街と呼ばれるまでにさびれさせてしまった元凶もやはり彼らであった訳だ。いや、私は別にダイソーやユニクロといった成長企業を批判しているのではありません、こうした企業は低所得時代にあってまさに庶民の味方と言える存在です(無くなってしまったら、誰よりも私が困る。笑)。しかし、国内で地道に働き続けて来た人たちをいきなり失業に追いやってしまうほどの低価格攻勢は、これは何とかならないものだろうかと思うのです。それは仕事の合理化や効率化の努力でどうにかなるようなレベルの問題ではないからです。

 ダグラスの社会信用論に、「正当価格」(ジャスト・プライス)という概念があります。商品には、その値段を付ければ生産と消費がちょうど均衡することになる、理論的に正しい価格というものがある筈だという考え方です。私がこれから説明しようとしているのは、グローバリズムの時代における正当価格とは何かという問題です。いや、別に難しい話ではありません、これもひと言で説明出来る簡単なアイデアです(なにせ素人が考えたことですからね)。私の考える正当価格というのは、商品の価格を構成するもののうち、国内の生産・加工・流通に由来する部分と、外国からの輸入に由来する部分とを分け、それぞれに国際通貨(従来の日本円)と国内通貨(減価する電子マネー)を割り当てて、そのトータルの価格でもって需給の均衡点を探るというものです。一番簡単な例で説明しましょう。ここに性能が全く同じである2つの商品があります。ひとつは中国製でひとつは日本製、値段はそれぞれ100円と500円とします。いまの単一通貨の経済では、日本製品にはほとんど市場での競争力が無いと言えます。ところが、もしも日本製品の方は電子マネーでの支払いでもオーケーということだったらどうでしょう? なにしろ毎日3000円ずつ振り込まれて、毎日1パーセントずつ目減りしてしまうお金です。日本円の100円は惜しいけど、電子マネーの500円なら早く使ってしまえという気分になっても不思議ではない。減価するお金というのは、早くおさいふから逃げ出したくて、使われる機会をいつも窺っているようなお金だからです。「メイド・イン・ジャパンは新しい電子マネーで」といった消費行動が一般化したら、どういうことが起こるか? これまでは価格競争で全戦全敗だった国内製品にも、新しい市場価値が生まれる可能性が出て来るのです。

 (毎回「減価する電子マネー」と書くのもわずらわしいので、この新しい通貨にも名前が欲しいですね。とりあえず、コメントをくださったあかみどりさんが「国内円」と呼んでいらしたので、これを拝借しましょう。以後、従来の日本円を「日本円」、減価する電子マネーを「国内円」と表記して使い分けることにします。もっと魅力的なネーミングを思い付いた方がいらしたら、ぜひコメントでお知らせください。電子マネーなんだから「e円」? 人民のための通貨だから「人民円」? 足が生えたようにどんどん減って行くお金だから「おあし」? うーん、いまいち。笑)

 ここであわてて重要なポイントを付け加えておかなければなりません。それはすなわち、輸入品の支払いには日本円、国産品の支払いには国内円を使うということは、法律などによって一切強制されるものではないということです。価格の設定は完全に売り手の裁量に任されます。例えば、ある商品は日本円のみ、ある商品は日本円でも国内円でもオーケー、またある商品は日本円と国内円の割合が7対3といった値付けをしても構わない。個人商店などで、いちいちすべての商品に値段を付けるのが面倒なら、うちはどの商品でも5割まで国内円を受け付けるよといった看板を出すことだって出来ます。ただ、同じひとつの商品に、日本円なら100円、国内円なら500円といった二重価格を設定することだけは法律で固く禁じられます。(それをやられると「正当価格」のコンセプトが根底から覆ってしまいますから。これが日本円と国内円は等価でなければならないということの意味です。) たったこれだけのルールでも、おそらくふたつの通貨の適切な棲み分けが自然に進むだろうと私は予想しています。何故なら、輸入代金の支払いに国内円を使うことは出来ませんから、輸入製品の販売価格はどうしても日本円で設定せざるを得ないでしょうし、また国内製品の方も売り手としては日本円で販売したいところですが、国内円の圧倒的なバイイングパワー(ひとり当たり平均30万円の貯蓄額)を考えれば、これを受け入れなければ価格競争で(今度は他の国内製品に)負けることは分かり切ったことだからです。すなわち、健全な市場原理がグローバリズム時代の正当価格を決めてくれるだろうという楽観的な見通しを私は持っているのです。(これに対してダグラスの正当価格は、国民経済の綿密な計算によって事後的に導き出されるものだと私は理解しています。それは統制経済の色合いのとても強い思想です。)

 もう少しこのひとつの国におけるふたつの通貨ということについて考察を続けましょう。今日、国内で流通しているどんな商品でも、そのコストの構造から見れば、完全に外国製だったり完全に日本製だったりするものはありません。例えばベンツのような輸入車にだって国内での販売費や物流費がかかっていますし、日本の農家が作る野菜にだって外国産の肥料や燃料が使われているかも知れない。厳密に分析すれば、理論上はどんな商品であっても正確な内外比率というものが求められるのではないかと思います。が、私は市場原理によって、どんな商品にでも自動的に価格の最適な内外比率が決まるだろうと単純に考えている訳ではありません。それはこのふたつの通貨のあいだに基本的な選好性の差異、つまり人に好まれるか好まれないかの違いがあるからです。例えば自動車やエレクトロニクス分野の商品は、いまや主要な生産拠点が海外に移っているので、販売価格に占める日本円の割合はどうしても大きくならざるを得ないし、消費者もそのことに不満を持つことはないと思います。一方で国内原価比率の高い商品でも、高級なブランドイメージを持っているような商品は、容易に国内円の経済圏には降りて来てくれないでしょう。むしろブランド価値を損なうものとして、それを嫌う筈です。で、せっかく流通し始めた国内円なのに、これで買えるものと言えば、ごく一部の人気の無い商品に限られることになる。それでいいじゃないか、と私は思います。少なくとも当初はそれが自然なことの成り行きです。減価貨幣を導入するということは、単なる経済政策の問題ではなく、その社会に住む私たちに対して価値観の転換を迫る一大革命なのです。たとえ制度が先行しても、私たちの価値観は一朝一夕に変わるものではありません。むしろ制度を導入した後の、私たちの心構えこそが重要になります。

 そもそも私たちがいま考察しているのは、すべての人がベーシックインカムによって最低限の生活を保障されるという夢のような世界の話です。夢を買うのに何も元手がかからない訳がありません。インターネットを検索して、いろいろな人がベーシックインカムについて書いている文章を読むのですが、誰もこれを導入した時に私たち自身が引き受けなければならない新しい社会的責任のことについて触れる人がいない。これは不思議なことに思えます。私の考えはこうです。ベーシックインカム時代には、国民ひとりひとりが消費者としてではなく、生産者として主体的に経済にかかわる姿勢を持つことが何よりも重要になります。先ほどの話を思い出してください、せっかくベーシックインカム制度が始まっても、相変わらずみんなが日本円ばかりを選り好んで、国内円が流通する市場がまったく広がって行かなかったとすれば、この制度そのものが成り立たなくなって、やがては廃止されてしまうことでしょう。そうなる前に、この新しい市場に価値を吹き込み、この新しい市場を価値で満たすこと、それが国民ひとりひとりに課せられた義務となるのです。ベーシックインカムのある時代は、誰もが働かなくても食べて行ける時代だというのは大きな誤解だと思います。ただ、労働だとか、労働が生み出す価値というものについて、私たちが持っているこれまでの固定観念は、少し修正を受ける必要が出て来ます。日本円を稼ぐことだけが経済的価値であるならば、家庭内の育児だとか介護といった仕事は、全く経済的価値の無いものということになってしまう。これは現在の経済制度の方がおかしいのです。国内円のある社会では、育児や介護といった仕事も、小さな家庭のなかから解き放たれて、地域ぐるみで引き受けるべき仕事になるだろうと私は考えます。こういう仕事を人に頼んだり、地域で分担したりする時に、国内円というのはとてもカジュアルで使いやすいお金になるのではないでしょうか。いまの日本円というのは、人と人とを分断してしまう恐いお金ですが、減価する国内円の方は、この分断された人と人とを新たな絆でふたたび結び付けるお金ということも出来そうです。

 いや、またひとつのパラグラフがとても長くなって来たぞ。私の場合、テーマが道徳論に傾くと、文章がとめどもなく長くなってしまう傾向があるのです。(あかみどりさん、ついて来てる?) という訳で、とりあえずこれで減価する第二通貨を受け入れる私たちの心構えは出来たことにしましょう。次回は、国内円というものがどのように社会のなかで流通するのか、その具体的な現場を見て行きたいと思います。そうだ、少し堅苦しい話が続いたので、来週はこの新しい電子マネーを持って、実際に街に出掛けてみましょうよ。この通貨が登場して、お店のレジはどんなふうに変わったのか? 電車やタクシーに乗る時にもこれが使えるのか? ハローワークではいまも失業者の長い列が出来ているのか? そんなところを実際にこの目で見て回って、レポートすることにしましょう。

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2009年6月21日 (日)

社会信用論と自由経済思想(3)

 C.H.ダグラスが提唱するベーシックインカムにしても、シルビオ・ゲゼルが提唱する減価貨幣にしても、一般人受けする分かりやすいアイデアなので、私のような経済学の素人でもこれについて何か言えそうな気にさせられますが、当然のことながら分かりやすさということと、実現のしやすさということはまったく別ものです。ゲゼルの著作を読むと、この人がいかに過激な革命思想家だったかに驚くことがあります。ゲゼルはマルクスにむき出しの敵意を抱いていました。彼は単に減価貨幣というものの理論的効能を説いただけではありません、一国の通貨を丸ごと減価貨幣(自由貨幣)に転換し、全国の土地をすべて国有地(自由土地)にするというのが彼の改革プログラムでした。その背景には燃えるような理想主義と人類愛とがあって、それがこの人の思想の魅力なのですが、一方で経済学の正統派からは非現実的なユートピアンのように扱われて来たのも事実です。ダグラスの著作については読んだことがありませんが、この世界から利子というものを全廃して、すべての人に基礎所得を配ろうと考えていた人がリアリストであったとは思われない。今日、彼らの思想が私たちにどれほど魅力的に映ろうと、実現不可能な見果てぬ夢であることは、百年前と少しも変わってはいないのではないかと思います。

 私がそこに「地域通貨」の考え方をブレンドしてみたらどうかと言う意味はとても簡単な話で、国家の基本通貨を減価貨幣で置き換えるなんてことは容易なことじゃないので、とりあえず基本通貨とは別の第二通貨でやってみたらどうかということです。ご存知のように、今日地域通貨の試みは国内外のあらゆるところで行なわれています。やり方はいろいろですが、目指すところはたぶん共通していて、凶暴な経済のグローバリズムから地域の経済を守るという一点に尽きます。地域の中でだけ通用する貨幣なら、富が外部に流出することも少ないし、自然に「地産地消」ということが実現出来るからです。最近政府が実施した定額給付金を、多くの自治体が地域振興券のかたちで配ったのも、同じ考え方からですね。そこには行き過ぎた金融資本主義へのアンチテーゼという意味合いも含まれています。しかし、経済のグローバリズムで傷ついているのは、地域経済だけではありません。よその国の住宅バブルがはじけたくらいで、この国の国民経済全体がずたずたにされてしまう、それほどの影響を現実に受けている訳です。問題は単に地方の疲弊といったことだけにとどまらない、私たちがいま経験していることは、まさに日本というコミュニティ経済が崩壊しつつある、そのことなのだと思います。であるならば、国が政策として国内向けの地域通貨を発行して、国民経済をグローバリズムから守るという選択肢は充分にあり得ると思うのです。いまは世界中の国がみんな自国のことで手一杯ですから、それを保護主義だなどと言って非難する国だって、たぶんどこにも存在しない筈です。

 私たちにとって問題の根本は、日本円が強くなり過ぎたことにあると考えます。特別に秀でた能力や技術を持たない普通の労働者が、一ヶ月働いて得られる賃金は、せいぜい十数万円くらいのものでしょう(それも運よく職にありつけたとして)。その金額で一戸を構え、一家を養って行くことなどとても出来ないと常識的には思えます。が、もしもそのお金を持ってタイかマレーシアにでも行けば、プール付きの豪邸に住むことだって出来る訳だし、中国に行けば若い有能な工員さんを10人くらいまとめて雇うことだって出来る訳です。事実、この国の富裕層や大企業は、そうしたジャパンマネーの強さを活かして、世界中でやりたい放題をやっている訳だ。ところが、私たちのような貧しい国内の労働者には、いくらジャパンマネーが強くなっても、その恩恵を受ける機会はほとんど無いのです(たまに百円ショップでそのおこぼれにあずかれるくらいで)。一般の生活人にとって、現在の日本円というのは明らかにオーバースペックなのですね。何故この国では、お金というものがそんな高嶺の花になってしまったのだろう? 何故もっと手軽に稼いで、気軽に使えるお金というものが無いのだろう? 別に私たちは外国の高級ブランド品が買いたい訳でもないし、株を買ってひと儲けしようという訳でもない。日本円ほど高機能ではないもっとライトなお金があるなら、それがマイナス利子付きのお金であってもまったく構わないというのが私たちの本音なのです。だってどうせ今月稼いだお金は、今月の生活費に消えて行ってしまうのだから。

 と、まあ、これ以上書くと、どんどん愚痴っぽくなるだけなので止めますが(笑)、こうした理由から機能を落とした国内限定の第二通貨を発行するというのは、とても理に適った政策ではないかと思うのですね。で、つまらない前講釈はこれくらいにして、次に具体的な新通貨発行の方法について説明することにしましょう。それが現実のものとなった時のイメージをあなたと共有して、その可能性や問題点について一緒に考えて行きたいと思うからです。すでに「減価する電子マネー」というアイデアについては説明しました。カードにお金をチャージしておくと、毎日1パーセントずつ目減りして行ってしまう電子マネー。もしもそれが技術的に不可能なものであるなら、ここでの私の議論もすべて机上の空論になってしまう訳ですが、私はこれは現在の技術で充分実現可能なものだろうと思っています。これを実現する方法は、大まかに言って二通りあります。ひとつは銀行のキャッシュカードのようにオンラインで大型コンピュータと結んで、入出金および減価の管理を中央で一括して行なうという方式。もうひとつはカード自体に〈自律的に〉減価する仕組みを組み込んでしまうスタンドアロン方式です。最初に減価する電子マネーというアイデアを思い付いた時、私は前者の方法を考えていましたが、いまは後者の方が現実的だろうと考えています。オンライン方式には、セキュリティ面でのメリットがあるのですが、これを普及させるためには日本中のすべてのお店や取り引きの現場に、専用のオンライン端末を置かなければならないという問題があります。これはライトで使いやすいお金を作るというコンセプトに反するのですね。現在普及している電子マネーは、ICカード自体に残高が記録されているスタンドアロン方式です。政府発行の電子マネーでも、こちらの方式を採用します。

 とは言え、この新しい電子マネーは、いま私たちが使っているSuicaやEdyといったものとはレベルの違う、高機能なものである必要があります。(低機能なお金を実現するために、高機能な技術を動員するのですね。) 私が考えるに、この電子マネーは以下のような性能を備えていなくてはなりません。細かい技術的な問題と思われるかも知れませんが、重要なことなのでよく読んでイメージをつかんでください。

  1. 外部から影響されない正確な時計(タイマー)を内蔵していること。
  2. タイマーに連動して、残高を増減させるプログラムが実行出来ること。
  3. 電子マネー同士が、電波または赤外線等によって1対1で通信可能なこと。
  4. 操作にロックがかけられ、暗証番号か指紋認証によりそれが解除出来ること。
  5. 取り引きの履歴が記録され、その情報が盗み見られないよう守られていること。
  6. 残高や取引額や過去の履歴を見られる表示画面を備えていること。
  7. ソーラーバッテリーで動作し、電池の交換が必要無いこと。
  8. 防水性、防塵性を備え、耐久性に優れていること。
  9. 操作性が良く、誰にでも簡単に使えること。

 いかがでしょう? これだけの要件を満たすとなると、SuicaやEdyのような厚さ1ミリのICカードという訳にはいかないかも知れません。とにかく、機能、操作性、耐久性、セキュリティのどれを取っても、すべてが完璧でなければならない(なにせ一国の新しいお金を作るのですから)。いまの日本の技術力でそれが実現出来るでしょうか? まあ、iPhoneのようなものが当たり前に普及している時代ですから、技術的な面での問題はまったく無いだろうと私は思います。(ここは専門家の方のご意見を伺いたいところです。) iPhoneと言えば、当然これを携帯電話に組み込んでしまうアイデアもありますね。「おさいふケータイ」ならぬ「ベーシックインカム・ケータイ」、これはちょっといいかも知れない。(笑)

 もう少しこの電子マネーの説明を続けます。これが最初に国民に配られる時、残高はゼロになっている訳ですが、法律でこのお金が発効する日の午前3時に、すべての国民が持つ電子マネーに3000円が振り込まれます。これが我が国で最初のベーシックインカムということになります。いや、振り込まれると言っても、電波に乗ってお金が飛んで来る訳ではなく、内蔵タイマーに連動したプログラムが、電子マネーの残高に3000円を足すだけのことなのです。朝起きてみれば、あなたは残高が3000円になっていることを確認出来る筈です。そしてその日一日、あなたはそのお金をどう使おうとも自由です。そして翌朝の午前3時には、電子マネーはその時の残高から1パーセントを減額し、さらに新しい一日のためにまた3000円をチャージする。あなたが初日にお金を使わなかったとすれば、3000×0.99+3000=5970円が新しい残高になる訳です。前回の記事で、私は月に10万円のベーシックインカムというのを想定していました。日に3000円ですと、月額にして約9万円ですから、10万円には少し足りませんが、現行の国民年金や生活保護の金額と比較して、まあ妥当な線ではないでしょうか。それに私はこの毎日支給というのが、ベーシックインカムの思想にもよく合致しているのではないかと思っています。そもそも月単位で決算をするいまの会計制度は、現代の経済が負債で動いているからこその制度なのであって、本来の「人が生きるための経済」にとっては、月末の支払い期限や返済期限なんてものは必要がない筈だからです。

Bb2

 これが描き直した残高の推移グラフです。毎日3000円支給、毎日1パーセント減価であれば、「ベーシックバランス」は30万円で収束します。この金額が、国が国民ひとり当たりに保証する基礎貯蓄ということになります。人口1億2千万人で掛けると36兆円。また後ほど検討しますが、小さな子供にも同じ額のベーシックインカムを支給することはあり得ないので、実際には30兆円くらいの金額になるでしょう。時間の経過とともに増えも減りもしない、国民の生活を一番底辺から下支えする、頼もしくも貴重な30兆円です。実際にこの減価する電子マネーを、どのように世の中に流通させるか、またそこで守らなければならないルールとはどのようなものか、それについてはまた次回考えたいと思います。ただ、ひとつだけ誤解を避けるために説明しておくべき大事な前提条件があります。それはこの電子マネーが、従来の日本円(日銀券や銀行預金など)と交換の出来ない、不換貨幣であるということです。しかも電子マネーの1円と日本円の1円は等価に扱われなければならない、このことは法律で厳格に規定されます。「そんな馬鹿な! 従来の貨幣との兌換性が無い電子マネーなんてものに、一体誰が信用を与えるんだ?」、当然そういう反論が出て来ると思います。これに対する回答は断固たるものです、「だからそれは〈社会信用〉なのです。つまりこれを信用通貨として維持して行くのは、私たち国民ひとりひとりの決意と努力にかかっているのです」。しかし、また議論が先走っている。次回はそのことも含め、減価貨幣ベーシックインカム論の核心部分に迫って行きます。

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2009年6月14日 (日)

社会信用論と自由経済思想(2)

 最初にひとつ算数の問題です。ベーシックインカムが実現して、すべての国民が毎月10万円の「国民配当」を受け取れる時代がやって来ました。ただ、これは現金で支給されるのではなく、国民のひとりひとりが持つICカードに電子マネーとしてチャージされるものとします。しかもこのICカードには不思議な機能が備わっていて、チャージされたお金が毎日1パーセントずつの割合で目減りして行ってしまうのです。そこで問題。もしもこの電子マネーを全く使わずに、毎月の10万円をそのまま貯金して行ったとしたら、1年後、2年後の残高はどうなっているでしょうか?

 毎日1パーセントの減価率というのは結構インパクトが大きくて、10万円が1ヶ月後には7万数千円ほどに減ってしまいます。それでも1ヵ月経てばまた10万円がチャージされるので、残高は17万数千円に回復する。では、そうやって減ったり増えたりした結果、12ヵ月後、24ヵ月後の残高は? もしもあなたが理系の方であれば、この程度の問題は方程式を立てて簡単に解いてしまうものと思います。が、悲しいかな、文系の私には方程式というものを立てることが出来ないので(笑)、こういう時にはエクセルで表を作って、実際に数字を入れて確認するしかありません。で、下のグラフがエクセルで作った2年間の残高の推移です。縦軸が金額で、横軸が経過日数になります。

Bb1_5

 おおっ、なんと金額が収束しているじゃないですか! 実はこのグラフを見た時の驚きが、この連載を書かせる原動力になっているのです。なんとなく自分の予想では、残高はゆるやかにどこまでも増加して行くのではないかと思っていたからです。(こんなに数字に弱いようでは、とても経済学者にはなれませんね。) 減価率を変えてシミュレーションしても同じです。収束する時期に違いはあっても、どこかで残高は上限に突き当たる。これは私にとってはとても嬉しい発見でした。何故なら、シルビオ・ゲゼルが考案した「減価する貨幣」でベーシックインカムをやれば、それは「持続可能な政策」になることが分かったからです。私が関曠野さんの講演緑を読んで直感した、社会信用論と自由経済思想との統合というのは、要するにそのことだったのです。

 だが、議論を急ぐのは止めましょう。私の過去の記事を読んでくださった方には説明は不要でしょうが、初めての方のために「減価する貨幣」というものについてもひとこと解説しておく必要を感じます。ゲゼルもダグラスと同様、銀行の利子というものを諸悪の根源と見る訳ですが、ダグラスが銀行から利子を生み出すもとである信用創造の特権を取り上げ、国家に貨幣発行権を移そうとしたのとは全く違う発想で、ゲゼルは貨幣というものの〈物理的性質〉そのものを変えて、貨幣自体がマイナスの利子率を持つように、すなわち放っておくと価値が目減りしてしまう性質を持つように出来ないかと考えたのです。荒唐無稽な発想に思えますよね? しかし、そのために彼は「スタンプ紙幣」というものを考案して、その具体的な運用方法を著書に書き記したのです。それは裏面に52個のマス目が印刷された紙幣で、それぞれのマスには日付が1週間単位で書かれているものでした。この紙幣の所有者はその日付が来たら、そのマスに政府発行の印紙を貼らなければ、紙幣が使えなくなってしまうのです。こうして紙幣を所有することに、税金(印紙税)がかかるようにするというのがゲゼルのアイデアでした。それがつまり紙幣の保有にマイナスの利子が付くということなのですね。当然、そんな紙幣は銀行では預かってもらえないし、銀行から融資を受けるにしても、銀行への支払い利子と印紙税の両方を払ってまで、お金を借りようという事業家はそうはいないでしょう。要するに、ゲゼル経済学でも、やはり銀行というものは成り立たなくなるのです。

 シルビオ・ゲゼルが唱えた自由経済思想の要点を、私なりのコトバで簡単にまとめると、「お金というものは人々に好まれ過ぎているので、お金にも少し人々に嫌われる性質を与えよう」ということだったと思います。(専門の研究者の方が聞いたら、呆れるか怒りだすような解説ですね。笑) 私たちがお金で商品を買う時、優位な立場にいるのは買い手の方です。たいていの商品は、放っておけば古びて価値を減じて行きますが、お金の方は古びて価値が下がるということがないからです。この立場の不均衡が、経済にたいへん良くない影響を与えている、と私たちゲゼリアンは考えます。お金が選好され過ぎることにより、取り引きは不活発になり、お金はむやみに貯め込まれる一方になる。(どこかで聞いたような話ですが…) ところが、もしもお金が商品と同じように、時間の経過とともに古びて価値を減じて行く性質のものだったらどうでしょう? 商売人が商品を早く売り捌いてしまいたいと思うように、金持ちは早くお金を手放してしまいたいと思うに違いない。ここで売り手と買い手のあいだに、初めて対等な関係が生まれるのです。当然、取り引きは活発になり、お金はすごいスピードで市中を駆けめぐるようになります。国民がGDPの3年分もの資産を貯め込むなんて馬鹿げたことだって起こる筈がなかったのです。(そもそも日本人の個人資産1500兆円のうち、どれくらいが利子で積み増したものなのか、あなたは考えたことがありますか?) マルクス主義にしろダグラス主義にしろ、たいていの経済学説が目指しているのは、適切な富の分配をどうするかということです。ところが、ひとりゲゼル主義だけは、すでにある富をどのように分配するかということよりも、お金そのものにいわばターボエンジンを搭載して、経済をフルパワーで牽引してしまおうと考えるのです。これが単なる机上の空論ではないことは、世界大恐慌のさなか、1932年にオーストリアのヴェルグルという町で何が起こったかを調べていただければ分かる筈です。

 ゲゼルさんの思想について書き始めると、話がどんどん脱線して行ってしまいますね。ベーシックインカムのことに話題を戻しましょう。今回の記事は、関さんの講演緑から受けたインスピレーションをもとに書いている訳ですが、政府貨幣でベーシックインカムをやるとすると、発行した貨幣はどのように社会の中で循環して行くかが問題になります。その点についての説明が、関さんのお話からは抜けているのですね。政府が民間銀行に代わって、企業に無利子でお金を貸し出すのはいい。それはやがて返済されるべきものですから、社会の中で循環して行くことが出来ます。ところがベーシックインカムは、返済の義務の無いお金ですから、社会の中にどんどん蓄積して行くしかありません。行き着く果ては恐ろしいインフレです。少なくとも乱発された政府紙幣は、早晩紙くず同然になってしまうに違いない。これは単なる仮説というより、間違いのない論理的帰結と言ってもいいと思いますが、もしも政府貨幣でベーシックインカムをやりたいなら、他に選択肢は無い、発行する貨幣は「減価貨幣」でなければならないのです。それもおそらくゲゼル式のスタンプ紙幣では難しいでしょう。ゲゼルさんはベーシックインカムのために減価貨幣を考案した訳ではありませんから、商品の減耗率に合わせて年に5パーセント程度の減価率を考えていました。ベーシックインカムとして配られるお金がインフレを起こさないためには、とてもそんな減価率では間に合わない。私は毎日1パーセントずつの減価率というのが、結構いい線を行っているのではないかと思います。これを実現するためには、どうしても現代のテクノロジーの力を借りて、「減価する電子マネー」というものを開発するしかないのです。たぶんシルビオ・ゲゼルが今の時代に生きていたとしたら、同じことを考えるのではないかと思います。

 ここで先ほどのグラフをもう一度見てください。月々10万円のお金を全国民に支給すること自体には、何も財源が要りません。それは政府貨幣でやるのですから。それどころか新しく紙幣を刷ることすら必要ありません。それは電子マネーでやるのですから。そして注目していただきたいことは、国内に出回る政府貨幣の総額は、この国の人口に比例して、ある一定のレベルで安定するということです。それはどのくらいの金額でしょう? グラフから読み取れることは、毎月の10万円をそのまま貯金しても、毎日1パーセントずつ減価するお金であれば、月の途中での期間変動はあるものの、平均して33万円くらいの金額で頭打ちになるということです。(あとでまた説明しますが、電子マネーによるベーシックインカムは「毎日支給」が原則になるので、この期間変動というものも無くなります。) このことは言葉を換えて言えば、国民ひとり当たり平均33万円という「基礎貯蓄」(これをベーシックバランスと名付けましょう)を持つということだとも言えます。すると1億2千万人×33万円で、約40兆円という金額になります。これは1年間の国民総生産(GDP)500兆円の8パーセント、金融総資産1500兆円のわずか2.7パーセントに過ぎません。国がすべての国民に月額10万円のベーシックインカムを支給しても、その残高がそのくらいの金額に収まるということは、私には驚くべきことのように思われます。それを可能にしているのが、減価貨幣というコンセプトなのですね。社会信用論と自由経済思想が互いに補完し合うものであると私が言う意味は、ベーシックインカムは減価貨幣によって初めて実現性のある政策たり得、減価貨幣はベーシックインカムによって初めてその本来の威力を発揮する、という意味なのです。

 さて、「社会信用論と自由経済思想の幸福な結婚」という作り話はこれでおしまいです。しかし、まだこれでこの連載が終わる訳ではありません。実は私が今回の記事で企てたかったのは、この一見夢物語にしか見えない「減価貨幣によるベーシックインカム」というアイデアに、もっと具体的な肉付けを与えることだったからです。「なるほど、そんなやり方ならベーシックインカムというのも、試してみる価値があるかも知れないな」、読者の方にそう感じさせることが出来れば、とりあえず私の企ては成功したと言えます。「減価する電子マネー」というアイデアも、そのための道具立てのひとつなのです。また、このテーマについてきちんとまとめておくことは、これまでにこのブログでさんざん思い付きを書き散らかして来たことへの、自分なりの責任のつけ方だという想いもあります。だから私の過去の記事を読んだ方には、あらかじめ言い訳をしておきますが、これから私が書くことは、決して過去のネタの使い回しということではありません。むしろその集大成と考えていただきたい。そのことをお断りした上で、話を先に進めます。次のテーマは、「社会信用論と自由経済思想」というカップリングに、さらに「地域通貨」のコンセプトをブレンドするというものです。

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2009年6月 7日 (日)

社会信用論と自由経済思想(1)

 インターネット上にとても刺激的な文章を見付けました。今年の3月に関曠野(せきひろの)さんという方が、ベーシックインカムについて講演をされた、その時の講演録が公開されているのです。関曠野さんという名前を、不勉強な私は存じ上げなかったのですが、幅広い分野で著書をお持ちの在野の思想家といった肩書きの方だそうです。ベーシックインカムについては、私も昨年このブログでこれを考察する文章を書きました(123)。すべての国民に対する無条件の基礎所得保証という、一見突飛で非現実的に見えるこのアイデアが、実は歴史の向かう方向性としていかに自然で、また現代に特有なさまざまな問題への特効薬ともなり得るものであるかについて、自分なりに考えた結果をまとめたものでした。ただ、その効能については素人の自分にも分かるのですが、それを実現するための具体的な方法ということになると、まるで雲をつかむような話で、夢物語のようにしか思えない。それが関さんの講演緑を読んでいて、はっきりした現実性を持ったものとして自分の頭のなかで像を結んだような気がしたのです。

 何故ベーシックインカムが夢物語なのかと言えば、それを実施するための財源をどうするかという問題があるからです。もしすべての国民に月額10万円の基礎所得を支給しようと思えば、年間144兆円もの国家予算が必要になります(この国の人口を1億2千万人として)。年間の税収入は国税と地方税を合わせても85兆円くらいですから、これがいかに荒唐無稽な話であるかは誰にでも分かります。そこで関さんの提言は、ベーシックインカムの財源として、パブリック・カレンシー(公共通貨)を充てようというものです。つまり最近よく話題になる「政府貨幣」のことですね。日銀券とは違って、国債などの裏付け無しに、まるで打ち出の小槌のように政府が勝手に発行出来るお金のことです。これだけ聞けば、荒唐無稽である以上に経済の規律を破る不道徳な考え方だとも言われそうです。実はベーシックインカムの財源を政府貨幣で負担するアイデアについては、私も考えたことがありました。しかし、政府貨幣というものを持ち出した途端、いかにもそれはいかがわしい、政策というよりも奇策に近いものになってしまう。少なくともそういう印象を持たれてしまいます。これを正当化する理屈として、現代は潜在的な生産能力が消費者の購買能力をはるかに上回っている時代なのだから、多少政府貨幣を発行してもインフレなど起こることはないといったことを言う経済学者もいます。しかし、私たち国民からしてみれば、政府貨幣によってインフレが起こるかどうかということよりも、今の腐敗し切った政治家どもに、政府貨幣発行の特権など与えることは、とても認められないという気持ちの方が強いのです。問題は経済的合理性の話ではなく、モラルの話なのです。

 関さんのお話のなかには、この政府貨幣というものを、モラルの面からも正当なものとして基礎づける理論が出て来ます。私が最初になるほどと思ったのはそこです。これは関さんのオリジナルではなく、20世紀の始めにイギリスで活躍したクリフォード・ヒュー・ダグラスという人の考えた理論なのだそうです。ダグラスという人の名前を聞くのも初めてだったし、この人の理論が「社会信用論(ソーシャル・クレジット)」という名で呼ばれていることも関さんの文章で初めて知りました。いまインターネット検索で"社会信用論"というキーワードで検索すると、175件のヒットしかありませんから、もしかしたら関さんの講演は、日本に社会信用論を紹介したほとんど初めての講演だったのかも知れません。それはともあれ、社会信用論では、民間の銀行が貨幣発行権を持っていることを問題視します。政府貨幣がモラル上問題であるならば、何故銀行がお金を発行することには問題が無いのか? 銀行がお金を発行するなどと言えば奇妙に感じられると思いますが、実は国内で動いているお金のうち、紙幣や硬貨が占めている割合は数パーセントに過ぎず、90パーセント以上は銀行マネーなのだそうです。教科書に書いてある銀行の信用創造機能というやつですね。しかもこの銀行マネー(銀行が企業などに貸し付けたお金)には利子というものが付いていて、現代の経済はいわばその利子を返済するために回っているとも言える。そこから深刻な経済格差も生まれるし、今回のような世界的な大不況も起こって来ることになります(なにしろデリバティブというのは、銀行の信用創造機能を十倍にも百倍にも拡大するものだったのだから)。であるならば、信用創造の機能を銀行から取り上げて、国が持てばいいじゃないか。国が利子の付かないお金を発行して、直接企業に貸し出せばいい。それがつまり「銀行信用」を「社会信用」に転換するということなのだと思います。

 金融資本の際限のない信用膨張が破裂して、世界恐慌にまで至ってしまった現在の状況からすれば、これは実に説得力のある思想だという気がします。今週はとうとうアメリカのゼネラル・モーターズが破綻してしまいました。そんなニュースにさえ最近はあまり驚かなくなってしまったほど、現在の世界不況は深刻なのです。サブプライム問題に端を発する金融の世界での出来事が、何故これほど大規模な影響を実体経済に与えるのかと言えば、要するに今日の経済の本質が〈負債で動いている経済〉だからでしょう。銀行の信用創造機能を国家に移すなどと言えば、とてもあり得ない経済政策のように思えますが、シティ・グループやバンク・オブ・アメリカといった大銀行にも国有化の可能性が噂されている今日の目から見れば、むしろ時代の流れはそちらの方向に向かっているのではないかとも思えます。いまは世界中の経済が非常事態ですから、デリバティブに厳しい規制を設けるとか、銀行の自己資本比率を上げるといった政策は採りたくても採れない(そんなことをしたら、それこそ銀行がどんどんつぶれてしまいますから)。しかし、いつかこの混乱が収まって、過去への反省と新しい経済のあり方への模索が始まれば、「信用の社会化」という方向にも多くの人の目が向けられるようになるのではないか、そんな気がします。それが即、「政府貨幣」導入論につながるかどうかは分かりませんけど。

 そしてもうひとつ、関さんのお話でとても感銘を受けたのは、社会信用論でのベーシックインカムについての考え方です。こちらもやはり経済の話というよりはモラルの話なのですが。私もベーシックインカムについて書いた時には、「働かざる者、食うべからず」といったコトバが、いかに時代に即さない古臭い通念であるかということについて、あれこれレトリックを費やして説明しようとしたものでした。ところが、関さんの文章のなかに、そんなつまらないレトリックなど吹き飛ばすような明快な答えを見付けたのです。私のつたないコトバで説明するよりも、関さんの文章からそのまま引用してしまいます。

 『ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。…彼によると、生産の90%は道具とプロセスの問題で、労働者の能力は大した役割を演じていない。道具とプロセスが生産というものを大方決定している。そうならば生産を決定しているのは共同体の文化的な遺産や伝統にほかならない。道具や知識や技術は、そうした遺産や伝統である。人類は何万年もかけて、そういう知識と技術の膨大な蓄積を行ってきたのであり、だから現代人は改めて火の使い方を学んだり、車輪を発明したりする必要はない。過去の何千という世代が蓄積したものを我々は享受しているのでありまして、すべての人間は人類のそうした偉大な文化的遺産の相続人である。そういう相続人として配当をもらう権利があると彼は言っています。』

 ダグラスの思想も素晴らしいけど、それを紹介する関さんの文章も素晴らしいですね。「国民配当」という命名も私はとても気に入りました。ベーシックインカムというと、そこには賛成反対さまざまな意見が飛び交いそうな気がしますが、国民配当と言えば、勤労を尊ぶ気風の強い日本人にも受け入れられやすいのではないだろうか。そしてもうひとつそこに付け加えるべきことがあるとすれば、私たちは過去の世代が蓄積したものを享受する権利を持っていると同時に、それを次の世代に伝えていく義務も負っているということでしょう。なにも過去の遺産を蕩尽することがベーシックインカムの目的ではないのですから。このことは、最近流行りのエコロジーや持続可能な社会という考え方にもつながるものだと思います。ベーシックインカムのある暮らしというのは、決して不労所得で遊び呆けて毎日を過ごすというようなものではなく、生活に必要な最低限の物資でつましく生きて行くというイメージのものだと私は思っています。そう考えれば、社会信用論に基づくベーシックインカムというのは、まさにこれからの時代が求める思想であるとも言えるのではないでしょうか。

 さあ、今回は関曠野さんの講演録から受けた感動を伝えたくて、そのエッセンスと考えられる点について書いてみました。とにかくこれは非常に重要なテキストであるに違いありませんから、多くの人に読んでいただきたい気がします。そして自分としては、この社会信用論の考え方を、ここ三年くらい夢中になっているシルビオ・ゲゼルの思想と合わせて考えてみたい。ゲゼルの思想は「自由経済思想」と呼ばれますが、資本主義経済が持つ本質的な矛盾が「利子」というものにあるという洞察において、両者は一致しています。ダグラスとゲゼル、同時代を生きたこのふたりの異端の思想家が、互いに影響を与え合ったのかどうか、私は知りません。が、目指していた方向は驚くほど似ています。これは素人の直感に過ぎないのですが、もしかしたら社会信用論と自由経済思想とは、互いに補完し合うものではないかという気がする。無謀な企てと知りつつ、次回はそのことについて考察してみたいと思います。

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