社会信用論と自由経済思想(4)
膨大な財政赤字を解消するために、政府紙幣を発行すべしという意見が、一部の経済学者や政治家から出されています。日銀券とは異なるデザインの新しい紙幣を考えている人もいれば、日銀券そのものを直接国庫に入れてもいいじゃないかという人もいる。いずれにしても、彼らは同じ日本円という単一通貨を前提にして議論をしているのです。私の提案は違います。そもそも「減価する電子マネー」なんてものに、従来の日本円との兌換性を持たせようということ自体が無理な話ですし(そうなれば誰もが毎日電子マネーを千円札3枚と交換するでしょう)、むしろこの新通貨導入の本当の目的は、国内の経済そのものを計画的に二重構造にしてしまおうということだからです。私たちの基本的な認識は、日本円は世界にも通用する強い貨幣になったけれども、一方で国内の普通の生活人にとっては、過剰なプレミアムが付き過ぎた不便なお金になってしまったというものです。世界のどこかに月に1万円の賃金で喜んで働く労働者がいる限り、私たち国内の労働者は、彼らにコスト競争で勝つことは絶対に出来ない。1万円の月給で働く労働者は、1万円で生活が成り立つ基盤を持っている訳で、私たちはそうした生活基盤という面で圧倒的に不利なハンデを背負っているからです。これを少しでも解消するためには、衣食住といった基本的な部分については、強過ぎる日本円とは切り離された経済の仕組みを持つ必要がある。そのためには、どうしたって日本円とは異なる第二の国民通貨が無くてはならないと私は考えるのです。
この新しい国民通貨というものが、何故減価する貨幣でなければならないかについては、前回の説明で理解していただけたものと思います。では何故、この通貨は日本円との兌換性を持たないにもかかわらず、日本円と等価でなければならないのか? ここが今回のテーマです。ゲゼルやダグラスは、商品の価格のなかには企業が背負った負債の部分、すなわち利子分が上乗せされていることを見抜きました。だから生産力と購買力のあいだには、常に構造的な不均衡があるのだと。しかし、今日の「価格問題」でさらに深刻なのは、商品の価格のなかに外国通貨との間の激烈とも言える購買力の差が織り込まれていることではないでしょうか。いまでこそ百円ショップといった業態も私たちの生活にすっかり溶け込んでいますが、最初にそれが現れた時にはみんなびっくりした筈です。どうして百円でこんなものまで買えるの? そういう素朴な驚きです。もちろんそれが、中国を始めとする途上国の通貨と日本円の間にある〈価格差〉によるものであることは、今では誰もが知っています。この10年あまり、日本国内で業績を伸ばして来た企業の多くは、この通貨間の価格差をうまく利用して、低価格戦略によって市場を獲得して来た企業だった訳です。そしてまた、日本中の多くの商店街から客足を遠ざけ、シャッター街と呼ばれるまでにさびれさせてしまった元凶もやはり彼らであった訳だ。いや、私は別にダイソーやユニクロといった成長企業を批判しているのではありません、こうした企業は低所得時代にあってまさに庶民の味方と言える存在です(無くなってしまったら、誰よりも私が困る。笑)。しかし、国内で地道に働き続けて来た人たちをいきなり失業に追いやってしまうほどの低価格攻勢は、これは何とかならないものだろうかと思うのです。それは仕事の合理化や効率化の努力でどうにかなるようなレベルの問題ではないからです。
ダグラスの社会信用論に、「正当価格」(ジャスト・プライス)という概念があります。商品には、その値段を付ければ生産と消費がちょうど均衡することになる、理論的に正しい価格というものがある筈だという考え方です。私がこれから説明しようとしているのは、グローバリズムの時代における正当価格とは何かという問題です。いや、別に難しい話ではありません、これもひと言で説明出来る簡単なアイデアです(なにせ素人が考えたことですからね)。私の考える正当価格というのは、商品の価格を構成するもののうち、国内の生産・加工・流通に由来する部分と、外国からの輸入に由来する部分とを分け、それぞれに国際通貨(従来の日本円)と国内通貨(減価する電子マネー)を割り当てて、そのトータルの価格でもって需給の均衡点を探るというものです。一番簡単な例で説明しましょう。ここに性能が全く同じである2つの商品があります。ひとつは中国製でひとつは日本製、値段はそれぞれ100円と500円とします。いまの単一通貨の経済では、日本製品にはほとんど市場での競争力が無いと言えます。ところが、もしも日本製品の方は電子マネーでの支払いでもオーケーということだったらどうでしょう? なにしろ毎日3000円ずつ振り込まれて、毎日1パーセントずつ目減りしてしまうお金です。日本円の100円は惜しいけど、電子マネーの500円なら早く使ってしまえという気分になっても不思議ではない。減価するお金というのは、早くおさいふから逃げ出したくて、使われる機会をいつも窺っているようなお金だからです。「メイド・イン・ジャパンは新しい電子マネーで」といった消費行動が一般化したら、どういうことが起こるか? これまでは価格競争で全戦全敗だった国内製品にも、新しい市場価値が生まれる可能性が出て来るのです。
(毎回「減価する電子マネー」と書くのもわずらわしいので、この新しい通貨にも名前が欲しいですね。とりあえず、コメントをくださったあかみどりさんが「国内円」と呼んでいらしたので、これを拝借しましょう。以後、従来の日本円を「日本円」、減価する電子マネーを「国内円」と表記して使い分けることにします。もっと魅力的なネーミングを思い付いた方がいらしたら、ぜひコメントでお知らせください。電子マネーなんだから「e円」? 人民のための通貨だから「人民円」? 足が生えたようにどんどん減って行くお金だから「おあし」? うーん、いまいち。笑)
ここであわてて重要なポイントを付け加えておかなければなりません。それはすなわち、輸入品の支払いには日本円、国産品の支払いには国内円を使うということは、法律などによって一切強制されるものではないということです。価格の設定は完全に売り手の裁量に任されます。例えば、ある商品は日本円のみ、ある商品は日本円でも国内円でもオーケー、またある商品は日本円と国内円の割合が7対3といった値付けをしても構わない。個人商店などで、いちいちすべての商品に値段を付けるのが面倒なら、うちはどの商品でも5割まで国内円を受け付けるよといった看板を出すことだって出来ます。ただ、同じひとつの商品に、日本円なら100円、国内円なら500円といった二重価格を設定することだけは法律で固く禁じられます。(それをやられると「正当価格」のコンセプトが根底から覆ってしまいますから。これが日本円と国内円は等価でなければならないということの意味です。) たったこれだけのルールでも、おそらくふたつの通貨の適切な棲み分けが自然に進むだろうと私は予想しています。何故なら、輸入代金の支払いに国内円を使うことは出来ませんから、輸入製品の販売価格はどうしても日本円で設定せざるを得ないでしょうし、また国内製品の方も売り手としては日本円で販売したいところですが、国内円の圧倒的なバイイングパワー(ひとり当たり平均30万円の貯蓄額)を考えれば、これを受け入れなければ価格競争で(今度は他の国内製品に)負けることは分かり切ったことだからです。すなわち、健全な市場原理がグローバリズム時代の正当価格を決めてくれるだろうという楽観的な見通しを私は持っているのです。(これに対してダグラスの正当価格は、国民経済の綿密な計算によって事後的に導き出されるものだと私は理解しています。それは統制経済の色合いのとても強い思想です。)
もう少しこのひとつの国におけるふたつの通貨ということについて考察を続けましょう。今日、国内で流通しているどんな商品でも、そのコストの構造から見れば、完全に外国製だったり完全に日本製だったりするものはありません。例えばベンツのような輸入車にだって国内での販売費や物流費がかかっていますし、日本の農家が作る野菜にだって外国産の肥料や燃料が使われているかも知れない。厳密に分析すれば、理論上はどんな商品であっても正確な内外比率というものが求められるのではないかと思います。が、私は市場原理によって、どんな商品にでも自動的に価格の最適な内外比率が決まるだろうと単純に考えている訳ではありません。それはこのふたつの通貨のあいだに基本的な選好性の差異、つまり人に好まれるか好まれないかの違いがあるからです。例えば自動車やエレクトロニクス分野の商品は、いまや主要な生産拠点が海外に移っているので、販売価格に占める日本円の割合はどうしても大きくならざるを得ないし、消費者もそのことに不満を持つことはないと思います。一方で国内原価比率の高い商品でも、高級なブランドイメージを持っているような商品は、容易に国内円の経済圏には降りて来てくれないでしょう。むしろブランド価値を損なうものとして、それを嫌う筈です。で、せっかく流通し始めた国内円なのに、これで買えるものと言えば、ごく一部の人気の無い商品に限られることになる。それでいいじゃないか、と私は思います。少なくとも当初はそれが自然なことの成り行きです。減価貨幣を導入するということは、単なる経済政策の問題ではなく、その社会に住む私たちに対して価値観の転換を迫る一大革命なのです。たとえ制度が先行しても、私たちの価値観は一朝一夕に変わるものではありません。むしろ制度を導入した後の、私たちの心構えこそが重要になります。
そもそも私たちがいま考察しているのは、すべての人がベーシックインカムによって最低限の生活を保障されるという夢のような世界の話です。夢を買うのに何も元手がかからない訳がありません。インターネットを検索して、いろいろな人がベーシックインカムについて書いている文章を読むのですが、誰もこれを導入した時に私たち自身が引き受けなければならない新しい社会的責任のことについて触れる人がいない。これは不思議なことに思えます。私の考えはこうです。ベーシックインカム時代には、国民ひとりひとりが消費者としてではなく、生産者として主体的に経済にかかわる姿勢を持つことが何よりも重要になります。先ほどの話を思い出してください、せっかくベーシックインカム制度が始まっても、相変わらずみんなが日本円ばかりを選り好んで、国内円が流通する市場がまったく広がって行かなかったとすれば、この制度そのものが成り立たなくなって、やがては廃止されてしまうことでしょう。そうなる前に、この新しい市場に価値を吹き込み、この新しい市場を価値で満たすこと、それが国民ひとりひとりに課せられた義務となるのです。ベーシックインカムのある時代は、誰もが働かなくても食べて行ける時代だというのは大きな誤解だと思います。ただ、労働だとか、労働が生み出す価値というものについて、私たちが持っているこれまでの固定観念は、少し修正を受ける必要が出て来ます。日本円を稼ぐことだけが経済的価値であるならば、家庭内の育児だとか介護といった仕事は、全く経済的価値の無いものということになってしまう。これは現在の経済制度の方がおかしいのです。国内円のある社会では、育児や介護といった仕事も、小さな家庭のなかから解き放たれて、地域ぐるみで引き受けるべき仕事になるだろうと私は考えます。こういう仕事を人に頼んだり、地域で分担したりする時に、国内円というのはとてもカジュアルで使いやすいお金になるのではないでしょうか。いまの日本円というのは、人と人とを分断してしまう恐いお金ですが、減価する国内円の方は、この分断された人と人とを新たな絆でふたたび結び付けるお金ということも出来そうです。
いや、またひとつのパラグラフがとても長くなって来たぞ。私の場合、テーマが道徳論に傾くと、文章がとめどもなく長くなってしまう傾向があるのです。(あかみどりさん、ついて来てる?) という訳で、とりあえずこれで減価する第二通貨を受け入れる私たちの心構えは出来たことにしましょう。次回は、国内円というものがどのように社会のなかで流通するのか、その具体的な現場を見て行きたいと思います。そうだ、少し堅苦しい話が続いたので、来週はこの新しい電子マネーを持って、実際に街に出掛けてみましょうよ。この通貨が登場して、お店のレジはどんなふうに変わったのか? 電車やタクシーに乗る時にもこれが使えるのか? ハローワークではいまも失業者の長い列が出来ているのか? そんなところを実際にこの目で見て回って、レポートすることにしましょう。
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