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2009年5月31日 (日)

無罪ではなく、「不罰」という選択を

 先日の記事で「推定無罪の原則」に触れましたが、今回はその補足です。インターネットで裁判員制度の模擬裁判について書かれた文章を読んでいて、不審に思ったことがあります。裁判を始めるに当たって、裁判長から裁判員に口頭で説明がある訳ですが、そのなかでこの推定無罪の原則(疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に、という裁判の原則)について、まったく説明が無かったというのです。裁判所が候補者に送り付けた書類のなかでも、このことには触れられていないらしい。これには非常に意図的なものが感じられます。アメリカの陪審裁判などでは、陪審員が審議を始めるに先立って、裁判長からこのことがくどいくらい念押しされるのだそうです。これは法律の専門家ではない一般の市民が裁判に参加する上で、非常に重要な心構えであると考えられているからです。特にアメリカの陪審裁判が対象とするのは、被告が無罪を主張している否認事件だけですから、陪審員が感情に流されて冤罪を出さないためにも、推定無罪の原則については徹底しておく必要があるのです。これから始まる裁判員制度でも、少なくとも被告が無罪を主張しているような事件の場合には、あらかじめこのことについて説示しておくことが重要だと思います。それとも日本の司法当局には、それをしたくない理由が何かあるのだろうか?

 これもどこかの模擬裁判でのエピソードです。裁判員たちに課題として与えられたのは、まさに被告が無罪を主張している殺人事件でした。この場合、もちろん裁判官と裁判員は事件の事実認定をめぐって話し合うことから始めなければなりません。有罪ならば死刑を言い渡すしかないほどの重い犯罪です。死刑かしからずんば無罪放免か。裁判員のひとりは、思い悩んだ挙句、裁判長にこう訊いたのだそうです、「有罪と無罪の中間というのは無いんですかね?」。笑い話のようですが、気持ちは分かります。悪人は懲らしめてやらねばならない、そういう信念を持って勇躍裁判員になった人でも、相手が真犯人かどうか確信が持てないのではどうしようもない。私は思うのですが、こういう悩みを法律の専門家でもなければ捜査の専門家でもない一般人に押し付けるのは、何と言うか、ご無体な話というものではないだろうか? ところが、ここで「推定無罪の原則」が国民のあいだで合意されている前提なら、話はたいへん簡単なことになります。つまり、被告人が有罪か無罪かで悩んでいるというそのことが、可能性としての無罪を推定しているということに他ならないからです。たとえわずかな可能性であっても、被告が真犯人ではないこともあり得ると合理的に推定出来るならば、無罪にしなければならない、これが無罪の推定ということです。もっと簡単な標語にも出来ますね、「悩むくらいなら無罪!」、要するにそういうことです。

 法学者のあいだで推定無罪の原則がどのように定義されているのか私は知りませんが、私たち一般人が裁判員としてこれを守るための基準を設けることは簡単だと思います。ここで自分が有罪の判決を下して、被告人が現実に刑を執行されてしまった後で、「もしかしたら真犯人は別にいたのかも知れない」と考えて悩むことはないだろうか、そのことを想像してみればいいのです。将来にわたって悩まない自信のある人は有罪に一票を投じればいい。が、その自信が無い人は無罪の方に一票を入れるしかない。そうすることで被害者遺族の期待を裏切ることになるかも知れないなどと悩む必要はありません。冤罪を出すか出さないかという問題は、遺族の気持ちがどうこうといった問題よりも、ずっと重大で優先的な問題だからです。それでもやはり、心証としてはいかにも真犯人のように見えるこの被告を、無罪にすることには心理的な抵抗を感じるとあなたはおっしゃるのですか。よろしい、だったら裁判長にこう訴えればいい、私には被告人が有罪か無罪か判断することは出来ません、だから疑わしきは罰せずの原則に従って、単に「不罰」という選択をします、と。職業裁判官は、有罪か無罪かを決めるのが職務です。しかし、くじ引きで呼びだされた裁判員に、そんな決定をする義務などあろう筈がない。例のカレー事件のことを思い出してください、あの被告人に無罪を言い渡すことには勇気が要りますよね。正直、分からない訳です。分からない以上、「疑わしきは罰せず」の原則に従うほかないではないか。

 裁判員制度が始まると、日本の検察当局はこれまでとは違って、証拠が不充分な事件であっても起訴に踏み切るという方針に転換して来る可能性があります。そもそも起訴事件の99.9パーセントが有罪になるという日本の刑事司法には、どこかおかしなところがあって、これは検察と裁判所が〈裏で握っている〉と疑われても仕方が無い。裁判員制度によって国民の目が刑事裁判の内側に向けられるようになると、このことに対する批判が起こるのは間違い無いことだからです。そしてさらに、国民が裁判に参加しない従来の仕組みであれば、冤罪事件を出すことは司法に対する厳しい批判につながりましたが、これからはいわば国民もその共犯者になる訳ですから、これまでほど検察が冤罪というものを恐れなくなることも考えられます。こういう理由で、裁判員たちの前には、白か黒かはっきりしない悩ましい事案がたくさん現れて来る可能性があるのです。これに対抗するために、国民の代表である裁判員は、有罪か無罪かの評決に手を挙げないという権利をはっきり主張しておくべきだと思います。むろんそれでも裁判である以上、評決を下さない訳にはいかない。その時には、有罪でも無罪でもなく、ただ罰しないという第三の選択肢を提示すればいいのです。そして裁判長は、判決文のなかにこう書き込んで欲しいものです、6人の裁判員は有罪か無罪かの決定をしなかった、ただ「不罰」という選択をすることで一致したと。

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