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2009年5月24日 (日)

あらためて裁判員制度に警鐘を鳴らす

 私が裁判員制度を批判する文章を最初に発表したのは、このブログを始めて間もない2005年12月のことでした。それ以来、折にふれてこの制度に対する反対意見を書き続けて来ました。実を言えば、自分がブログというものを始めたのも、4年後に始まろうとしていたこの制度に、深い疑問と強い反感を持ったことがきっかけだったとも言えるのです。新聞記事でこの制度のことを初めて知った私は、これに対して何か言わずにはいられない気持ちになって、新聞の投書欄に短い文章を送りました。結果はボツでしたが、自分の意見を世間に訴えたい気持ちは収まりません。その頃、少しずつ哲学的なエッセイを書き溜めていたのですが、それを発表する場としても自分のホームページなりブログなりを持ちたいと本気で思い始めました。で、『巷間哲学者の部屋』というタイトルをつけてこのブログを始めたのが、2005年の9月。そして満を持して(?)書き上げたのが『裁判員制度の愚かしさについて』という一文だったのです。

 いま読み返してみても、裁判員制度に対する私の基本的なスタンスは変わっていません。4年前にはまだこの制度に対する世間の反撥もそれほど強いものではなかったと記憶します。最近は歯に衣着せずに制度批判をする書物が何冊も出ていますし、法律の施行を延期する動議を出そうという議員連の動きもあります。裁判員制度への反対論もすっかり市民権を得たふうであります。しかし、いろいろな人の意見を読んでみるのですが、私にはその批判の根拠がどうにも薄弱であるような気がしてならないのです。例えば裁判員になった人に課せられる厳しい守秘義務であるとか、思想信条によって辞退することが出来ないことの問題であるとか、そもそも制度自体が憲法違反の疑いがあるのではないかという指摘まで、どれも尤もではあるのだけれど本質を突いた議論とは思えない。私の主張は、そもそも一般市民が刑事裁判の審理に参加すること自体がおかしいのではないかというものでした。ですから、欧米を中心とした先進諸国で陪審制や参審制が当たり前に採用されているという事実も、裁判員制度を正当化する根拠として認めたくないのです。これは世界の常識の方がおかしい。少なくとも、陪審制や参審制などというものは、すでに歴史的使命を終えた過去の制度であって、これからの時代の民主主義を先導していく制度ではないと私は考えるのです。

 もともと市民による司法参加という思想は、国王や君主の専横に対して民衆の権利を守るために生まれて来たもので、市民社会の成立という歴史的な文脈のなかで捉えるべきものです。もしも近世以降の歴史というものを、専制君主による圧政から民衆が開放される歴史として記述するならば、物語の中心には常に陪審裁判というものが登場して来る筈です。専制君主制の時代が終わっても、国家というものは常に市民に対して絶対的な権力をふるう存在ですから、陪審制はいわば市民を守る盾として今日まで生き残って来たと考えられます。この視点からすれば、陪審裁判の本来の機能は、市民が国を訴える行政訴訟のようなものにこそ活かされなければならないとも言えるのです。ところが、陪審制の長い歴史を持つ欧米諸国でも、現在では市民が国を相手取って行なう訴訟については陪審員による裁判は行なわれていません。これは奇妙なことです。現代の民主主義国家は、なるほど司法に対しても市民が参加出来る仕組みを用意しているけれども、そこで扱われる事件は、市民が同胞である市民を裁く刑事事件がほとんどで、国が被告である裁判に陪審員が判決を下すことはないのです。これでは本来の陪審制度の理念が形骸化していると考えざるを得ません。日本が真似をしようとしているのは、この形骸化してしまった現代の陪審制です。もしも本当にこの国の司法を民主化したいのなら、国が訴えられている公害訴訟や靖国訴訟のようなものをこそ、裁判員制度の対象とすべきだろうに。

 何故いまこの国で、裁判員制度なんてものが導入されようとしているのか、その本当の理由をあなたは考えたことがあるでしょうか? 私の考えはこうです。このところ日本では、犯罪に対する厳罰化ということが進行しています。犯罪の発生件数が増えているという事実はまったくないのに、マスコミによる犯罪報道は加熱し、犯罪者を極刑にしろという国民の声もボルテージを増すばかりです。この流れに対しては行政や司法も黙認していて、すでに国民の司法参加が始まる前から刑事裁判の厳罰化は現実のものとなっています。最近では参政権を持たない未成年の犯罪者にさえ、死刑の判決が下されるところまで行き着いてしまった。一方で、先進国中最後の死刑存置国である日本に対しては、国連や欧州連合などから死刑廃止に向かうよう勧告が突きつけられています(国民にはあまり知らされていない事実ですが)。この国際世論をかわすために、裁判員制度というものが利用されることになる、これが私の理解です。先進国並みの国民参加の裁判制度が採用されていて、そこで死刑判決がばんばん出されるなら、国としてこれに直接の責任は無い。なにしろこの国では国民の八割が死刑制度を支持しており、死刑存続はこの圧倒的な民意を汲んだ結果なのである。むろんこの国の為政者は、犯罪の少ない安定した社会を保つためには、死刑を含む厳罰化がぜひとも必要だと考えているのでしょう。裁判員として参加する私たちは、知らず識らずのうちにそういった国家戦略の片棒を担がされることになるのです。

 いくら国民の八割が死刑に賛成であるとしても、実際に自分が裁判員になって判決を下さなければならない立場になったとしたら、多くの国民はそう簡単に死刑とは言えないだろう、むしろ死刑判決はこれまでよりも減るのではないか、そう予想している人も多いようです。これだけは実際に制度が始まってみなければ分かりません。ただ、私の予想では、最初のうちこそ死刑判決を出すことに躊躇していた裁判員も、どこかの刑事裁判でいったん死刑を言い渡す前例が現れれば、あとはもう坂道を転げ落ちるように死刑判決ばかりが増えるのではないかという気がする。これには理由があります。一般的に言って、人を裁きたくないという人は裁判員になることを忌避する傾向があるでしょうし、はっきり死刑制度に反対する人は裁判所の面接で裁判員からはずされる可能性がある。結果、裁判員として残る人たちには、ある種の傾向を持ったタイプが多いということになるからです。加えて被害者が公判で直接証言することの出来る制度も始まりましたし、裁判所は裁判所で状況証拠だけでも死刑に出来る判例を国民に印象づけたりしている。こうした条件を考え合わせれば、裁判員制度が始まったからと言って、死刑が極端に増えることはないだろうというおおかたの観測にも、疑問を投げかけざるを得ないのです。

 さらに私が心配していることは、裁判員制度が始まることによって、これまで以上に無差別殺人事件のようなものが増えるのではないかということです。ここ何年かのあいだに世間を騒がした事件には、ひとつの共通した性質があるように思います。それは犯人が、〈世間一般〉というものに対して非常に強い憎悪を抱いているということです。特定の個人に対する恨みではなく、世間のすべてに対する憎しみを心に持っているからこそ、彼らは無差別殺人に向かう訳でしょう。裁判員制度というのは、これまで狭い法曹の世界で行なわれて来た刑事裁判を、いわば「世間化」する制度であるとも言えます。無差別殺人犯は、自分が死刑になることを知っているし、むしろそれを望んでさえいる。自分が死刑になることで、世間に対する復讐を完成させようとしているのが彼らの倒錯した心理であろうと思います。そうした傾向性を持った潜在的な殺人犯の前に、「世間化した裁判」というものが現れるのです。これは危険なことです。後悔の念などつゆほども持たない凶悪な殺人犯の憎悪に裁判員がさらされることだけが危険なのではない、そうした状況を作ることが将来の犯罪者が凶行に走ることへのきっかけになるかも知れないということ、それこそが危険なのです。世間に復讐したいと思っている追いつめられた人間にとって、世間の代表である裁判員(どこの馬の骨かも分からない愚かな人間ども)に自分が裁かれるという想像は、甘い蜜のようなものであるに違いないからです。

 この十年ほどのあいだに、国内ではひどい経済格差が広がりました。これは構造改革政策が残した負の遺産と言ってもいいかと思います。裁判員制度は、この構造改革政策が残したもうひとつの置き土産ですが、これはまた別の格差を国民のあいだにもたらす可能性があります。それはすなわち「道徳格差」というものです。裁判員制度がスタートすれば、国民は否応もなくふたつの階層に分けられます。つまり裁く側の国民と裁かれる側の国民に。裁判員として登用されるような立派な道徳性を持った国民と、彼らに裁かれなければならない道徳的に劣った国民という二分法と言ってもいい。これが経済格差ということなら、貧しくても心に誇りを持って生きることは出来るし、この国はそうした〈高潔な貧乏人〉によって支えられている部分もあるのかも知れません。が、道徳格差ではそうはいかない。裁判員にさえなれない道徳劣者(前科者、暴力団員、不良少年、ホームレスといった人たち)が、それでも心に誇りを持って生きることは出来ないからです。これは経済格差などよりもずっと深刻な問題を社会にもたらす可能性があると私は考えます。国民のあいだに道徳的な分断を内在させた社会が、安定した幸福な社会として存続することなどあり得ないだろうと考えるのです。――悲観論者の杞憂に過ぎないと言われましょうか?

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コメント

>欧米を中心とした先進諸国で陪審制や参審制が当たり前に採用されているという事実も、裁判員制度を正当化する根拠として認めたくないのです。これは世界の常識の方がおかしい。

これはひどいダブルスタンダードじゃないですか?死刑制度については散々世界の趨勢・常識に乗り遅れていると批判してきたじゃないですか。だから僕が前にも書いたように他の国がどうこうではないんです。問題の本質から考えるべきでしょう。こういう議論は全く誠実さを感じませんね。「国際世論」という言葉を自分に都合よく使ってることについてどう思ってるんでしょうか。目的の為には手段などどうでもいいということなのか。

>国が被告である裁判に陪審員が判決を下すことはない

確かにこれは政治的な恣意性を感じる。横田基地の騒音訴訟なんか特に国民が参加すべき事案だと思う。

>ここ何年かのあいだに世間を騒がした事件には、ひとつの共通した性質があるように思います。それは犯人が、〈世間一般〉というものに対して非常に強い憎悪を抱いているということです。

これは個々の事案を雑に一般化するやり方で非常に問題がありますね。それぞれのケースで考えるべきことでしょう?下らない情報系の番組のコメンテーターが言うようなことで気に入らないですね。そもそも〈世間一般〉って何なんですか?その種の犯人が殺すのはそんな抽象的な存在ではなく、ちゃんと名前も顔もある被害者なんですから、したり顔の自称専門家みたいな分析に意味があるとは思えません。

>無差別殺人犯は、自分が死刑になることを知っているし、むしろそれを望んでさえいる。自分が死刑になることで、世間に対する復讐を完成させようとしているのが彼らの倒錯した心理であろうと思います。

忘れてはいけないのはLike_an_Arrowさんご自身が書いているように「犯罪の発生件数が増えているという事実はまったくない」ということです。危惧されている無差別殺人の数に至っては極めて稀だということをもう一度思い返してもらいたい。報道の過熱と歩を同じにしてLike_an_Arrowさんの妄想まで過熱させるべきではないと思うけど。

全体的に批判的なトーンになってしまったけど、スルーしないで欲しいな。死刑反対・裁判員制度反対はいい。でもそのロジックは冷静じゃないし、ズルがある。特に「国際世論」なるものを都合よく使い回す議論などはフェアではない。自分で書いててそう思いませんでしたか?

投稿: 法哲 | 2009年5月25日 (月) 23時24分

法哲さん、こんにちは。

今回の記事は、裁判員制度がスタートするに当たって、過去に自分が書いた考えをもう一度まとめてみただけのもので、特に新しい観点や主張が提示されている訳ではありません。以前の記事も読んでくださっている法哲さんには、その点はご理解いただいているものと思うのですが…

>これはひどいダブルスタンダードじゃないですか?死刑制度については散々世界の趨勢・常識に乗り遅れていると批判してきたじゃないですか。だから僕が前にも書いたように他の国がどうこうではないんです。問題の本質から考えるべきでしょう。

どこがダブルスタンダードなのでしょう? 私は死刑制度に関しては、他の先進国に倣って日本も廃止の方向に向かう必要があると考えています。一方、裁判制度に関しては、欧米で採用している陪審制や参審制はむしろ過去の遺物のようなもので、日本が今からそれに追随する必要などないと考えている。まったく別の問題ではないですか。別に欧州諸国のやることなら何でも正しいと言っている訳ではないですよ。「問題の本質から考える」ことは、私がいつも心がけていることです。なかなか力不足で、本質を突くことは出来ていないかも知れませんが。

>「国際世論」という言葉を自分に都合よく使ってることについてどう思ってるんでしょうか。目的の為には手段などどうでもいいということなのか。

これも言いがかりだなあ。私が国際世論と言ったのは、世界中の人々が日本の死刑制度を批判しているかも知れないなんて漠然とした話ではなくて、日本は国際連合と欧州連合とアムネスティ・インターナショナルという3つの団体から、死刑を存続させていることへの正式な抗議を受けているということです。もちろんそんな抗議は内政干渉だと一蹴することも出来るし、日本政府がやっているように無視する(法哲さん的に言うと、スルーする?)ことも出来る。しかし、日本だってもう立派な先進国の一員なんだから、そこにはしかるべき理屈や反論があって然るべきなんじゃないかということです。

>そもそも〈世間一般〉って何なんですか?その種の犯人が殺すのはそんな抽象的な存在ではなく、ちゃんと名前も顔もある被害者なんですから、したり顔の自称専門家みたいな分析に意味があるとは思えません。

世間一般は世間一般です。下らない情報系のコメンテーターのような口ぶりかどうか分かりませんが、無差別殺人犯は〈世間一般〉に対して憎悪を燃やしており、それが犯行の動機になっているという言い方は、常識的に受け入れられるものではないかと私は思います。これが抽象的に感じられるのは、そもそも無差別殺人というもの自体が抽象的で観念的な事件だからです。被害者が名前も顔もある具体的な人間であるのはもちろんです。しかし、犯人にはその具体性に対する想像力が足りない。私がここで問題にしているのは、犯人の動機であり、犯罪を引き起こす誘因ということです。

>危惧されている無差別殺人の数に至っては極めて稀だということをもう一度思い返してもらいたい。報道の過熱と歩を同じにしてLike_an_Arrowさんの妄想まで過熱させるべきではないと思うけど。

これが単なる妄想であるかどうかは、以前にも一度議論したことがありましたよね。確かにドストエフスキーやカミュを読み過ぎた人間の妄想に過ぎないかも知れません。また実際に事件として現れる無差別殺人が、数の上では極めて少ないことも事実でしょう。でも私の推測では、1件の池田小事件、1件の秋葉原事件の裏には、未遂に終わった無数の事件が隠れているのではないかと思うのです。これは証明出来ませんし、妄想と言われても反論は出来ない。私はそう信じているというだけのことです。ついでにもっと妄想をふくらませるなら、私はこれからしばらくはこうした事件は一時的に減るのではないかと思っています。何故なら経済格差や派遣切りといった問題が、これだけマスコミでも話題になって社会問題化すれば、失業者や派遣労働者といった人たちの被害者意識にも連帯感というものが生まれて来るからです。もっと早くバブルがはじけていれば、秋葉原事件の犯人もあそこまで孤独に追いつめられて、犯行に及ぶことはなかったのではないか。むろんこれも私の妄想というか、空想に過ぎませんが…

投稿: Like_an_Arrow | 2009年5月30日 (土) 01時05分

>別に欧州諸国のやることなら何でも正しいと言っている訳ではないですよ。

と書いてておられますけど、そのすぐ後に

>私は死刑制度に関しては、他の先進国に倣って日本も廃止の方向に向かう必要があると考えています。

と続けているのは解せません。僕の主張は死刑制度“そのもの”についてその本質を考えるべきだ、というものなのであって「他の先進国に倣って」というのはおかしな話でしょう。これは重要な点だから何度も書きますけど他の国がどうかとは関係ないことです。前にも書いたけど他の「先進国」が死刑をどんどん復活させたとしたらLike_an_Arrowさんの見解は変わるのですか?違うでしょう?だから、

>日本は国際連合と欧州連合とアムネスティ・インターナショナルという3つの団体から、死刑を存続させていることへの正式な抗議を受けているということです。

というのも「だからどうした?」ということなんです。「抗議を受けたからやめる」では何の自主性も無く、何の反省も無い。そういう態度には思考能力の欠片も無い。Like_an_Arrowさんが「それでいい、日本は何も考えずに死刑を廃止すればいい」と考えているのなら、がっかりですね。「そこにはしかるべき理屈や反論があって然るべきなんじゃないかということです」というのは「先進国に倣う」ことではないですから。

>私がここで問題にしているのは、犯人の動機であり、犯罪を引き起こす誘因ということです。

犯人の動機がどんなものであろうと被害者が出てしまった、という事実の方が重要ですよ。世の中に恨みを抱くのは勝手だけど他人を巻き添えにするなってことです。秋葉原の事件の犯人だって同じ境遇で、しかし人殺しにならなかった人なんてたくさんいるんだから、単なる言い訳でしかない。

>これが単なる妄想であるかどうかは、以前にも一度議論したことがありましたよね。確かにドストエフスキーやカミュを読み過ぎた人間の妄想に過ぎないかも知れません。

妄想ですね。はっきりと。「これまで以上に無差別殺人事件のようなものが増えるのではないかということです」と漠然とおっしゃっていますが、殺人事件の内訳がそのように変化したなどという事実は無いでしょう?そもそも何故、それ以外に起こっている多くの金目当て・怨恨の殺人事件は無視されているのですか?殺人の理由の多くはこうした理由であるのは明らかです。

マスコミによる犯罪報道の過熱については正しく「犯罪件数が増えているという事実は無い」と言っているのに、何故、無差別殺人の場合には裁判員制度と絡めて「増えるかもしれない」などと煽るのでしょう?裁判員制度に反対だからこういう事を書くんですか?それではマスコミの過熱報道に対する批判も死刑制度維持に繋がるからくさしているようにしか読めません。なんにしてもフェアな議論じゃない。

・・・・これ、言いがかりかなあ?とりあえず「みんなが言ってる、みんながやってる」みたいな理由は理由にならない、というのは認めて欲しいんだけど。

投稿: 法哲 | 2009年6月 1日 (月) 02時51分

法哲さん、残念ですが、あなたは私の読者ではないのです。どこかにあなたと議論の噛み合うブログもあると思います。ぜひそちらを当たってみてください。

投稿: Like_an_Arrow | 2009年6月 1日 (月) 23時22分

反論しない(出来ない)ということはご自身の議論を正当化したということですね。僕の批判を「あなたは私の読者ではないのです」と言って無視することで自説の正当化がなされたと本気でお考えなら、これは本当に残念です。

死刑制度そのものについて反省し、その是非について考えるべきなのは我々自身であって、「他の先進国」やら「アムネスティ」やらがやれと言うからなどではないということを認めないというのは全く誠実な態度ではありません。

「裁判員制度が始まると無差別殺人が増える」などという根拠の無い主張で人々を煽動しようとするのでは、あたかも凶悪犯罪が増えたかのような(だから死刑は必要と人々に思わせるような)過熱報道をするマスコミと同罪ではないですか?

死刑廃止という主張は良い。でもその目的の為にこういった不誠実なロジックを用いても良い、と考えているのならそれは間違いだと思います。

個人のブログなんだから好き勝手書いたって構わないだろう、と言われればその通りですがLike_an_Arrowさんの考察にはそれなりの知性が伺えるものがあったし、自らの誤りを認める誠実さがあると思って諌言したのですが・・・・

老婆心ながら言っておきますと、自分のイデオロギーに賛同しない人との(誠実な)議論の方が仲間内で何も考えずに「自分たちは正しい」と言い合っている環境より、自分の議論の弱点を補強する良い機会になると思います。(どうも僕以外にこの問題に関してまともなレスポンスも無いようですし)

確かに互いに価値観の違う極点に至ればもはや議論の余地はないでしょうけど今回の批判はそういうものではない。是非誠実な再反論、或いは自説(特に世界の時流がそうなってるから説)の撤回を期待します。

投稿: 法哲 | 2009年6月 3日 (水) 14時38分

今度の衆議院選挙と同時に、最高裁判所の裁判官の信任投票があります。裁判官の多くは、最初は裁判員に反対していたのに、途中で突然賛成に変えました。そこで、全員不信任に投票するのはどうでしょうか。

投稿: 名称未設定 | 2009年8月27日 (木) 11時16分

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