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2009年5月31日 (日)

無罪ではなく、「不罰」という選択を

 先日の記事で「推定無罪の原則」に触れましたが、今回はその補足です。インターネットで裁判員制度の模擬裁判について書かれた文章を読んでいて、不審に思ったことがあります。裁判を始めるに当たって、裁判長から裁判員に口頭で説明がある訳ですが、そのなかでこの推定無罪の原則(疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に、という裁判の原則)について、まったく説明が無かったというのです。裁判所が候補者に送り付けた書類のなかでも、このことには触れられていないらしい。これには非常に意図的なものが感じられます。アメリカの陪審裁判などでは、陪審員が審議を始めるに先立って、裁判長からこのことがくどいくらい念押しされるのだそうです。これは法律の専門家ではない一般の市民が裁判に参加する上で、非常に重要な心構えであると考えられているからです。特にアメリカの陪審裁判が対象とするのは、被告が無罪を主張している否認事件だけですから、陪審員が感情に流されて冤罪を出さないためにも、推定無罪の原則については徹底しておく必要があるのです。これから始まる裁判員制度でも、少なくとも被告が無罪を主張しているような事件の場合には、あらかじめこのことについて説示しておくことが重要だと思います。それとも日本の司法当局には、それをしたくない理由が何かあるのだろうか?

 これもどこかの模擬裁判でのエピソードです。裁判員たちに課題として与えられたのは、まさに被告が無罪を主張している殺人事件でした。この場合、もちろん裁判官と裁判員は事件の事実認定をめぐって話し合うことから始めなければなりません。有罪ならば死刑を言い渡すしかないほどの重い犯罪です。死刑かしからずんば無罪放免か。裁判員のひとりは、思い悩んだ挙句、裁判長にこう訊いたのだそうです、「有罪と無罪の中間というのは無いんですかね?」。笑い話のようですが、気持ちは分かります。悪人は懲らしめてやらねばならない、そういう信念を持って勇躍裁判員になった人でも、相手が真犯人かどうか確信が持てないのではどうしようもない。私は思うのですが、こういう悩みを法律の専門家でもなければ捜査の専門家でもない一般人に押し付けるのは、何と言うか、ご無体な話というものではないだろうか? ところが、ここで「推定無罪の原則」が国民のあいだで合意されている前提なら、話はたいへん簡単なことになります。つまり、被告人が有罪か無罪かで悩んでいるというそのことが、可能性としての無罪を推定しているということに他ならないからです。たとえわずかな可能性であっても、被告が真犯人ではないこともあり得ると合理的に推定出来るならば、無罪にしなければならない、これが無罪の推定ということです。もっと簡単な標語にも出来ますね、「悩むくらいなら無罪!」、要するにそういうことです。

 法学者のあいだで推定無罪の原則がどのように定義されているのか私は知りませんが、私たち一般人が裁判員としてこれを守るための基準を設けることは簡単だと思います。ここで自分が有罪の判決を下して、被告人が現実に刑を執行されてしまった後で、「もしかしたら真犯人は別にいたのかも知れない」と考えて悩むことはないだろうか、そのことを想像してみればいいのです。将来にわたって悩まない自信のある人は有罪に一票を投じればいい。が、その自信が無い人は無罪の方に一票を入れるしかない。そうすることで被害者遺族の期待を裏切ることになるかも知れないなどと悩む必要はありません。冤罪を出すか出さないかという問題は、遺族の気持ちがどうこうといった問題よりも、ずっと重大で優先的な問題だからです。それでもやはり、心証としてはいかにも真犯人のように見えるこの被告を、無罪にすることには心理的な抵抗を感じるとあなたはおっしゃるのですか。よろしい、だったら裁判長にこう訴えればいい、私には被告人が有罪か無罪か判断することは出来ません、だから疑わしきは罰せずの原則に従って、単に「不罰」という選択をします、と。職業裁判官は、有罪か無罪かを決めるのが職務です。しかし、くじ引きで呼びだされた裁判員に、そんな決定をする義務などあろう筈がない。例のカレー事件のことを思い出してください、あの被告人に無罪を言い渡すことには勇気が要りますよね。正直、分からない訳です。分からない以上、「疑わしきは罰せず」の原則に従うほかないではないか。

 裁判員制度が始まると、日本の検察当局はこれまでとは違って、証拠が不充分な事件であっても起訴に踏み切るという方針に転換して来る可能性があります。そもそも起訴事件の99.9パーセントが有罪になるという日本の刑事司法には、どこかおかしなところがあって、これは検察と裁判所が〈裏で握っている〉と疑われても仕方が無い。裁判員制度によって国民の目が刑事裁判の内側に向けられるようになると、このことに対する批判が起こるのは間違い無いことだからです。そしてさらに、国民が裁判に参加しない従来の仕組みであれば、冤罪事件を出すことは司法に対する厳しい批判につながりましたが、これからはいわば国民もその共犯者になる訳ですから、これまでほど検察が冤罪というものを恐れなくなることも考えられます。こういう理由で、裁判員たちの前には、白か黒かはっきりしない悩ましい事案がたくさん現れて来る可能性があるのです。これに対抗するために、国民の代表である裁判員は、有罪か無罪かの評決に手を挙げないという権利をはっきり主張しておくべきだと思います。むろんそれでも裁判である以上、評決を下さない訳にはいかない。その時には、有罪でも無罪でもなく、ただ罰しないという第三の選択肢を提示すればいいのです。そして裁判長は、判決文のなかにこう書き込んで欲しいものです、6人の裁判員は有罪か無罪かの決定をしなかった、ただ「不罰」という選択をすることで一致したと。

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2009年5月24日 (日)

あらためて裁判員制度に警鐘を鳴らす

 私が裁判員制度を批判する文章を最初に発表したのは、このブログを始めて間もない2005年12月のことでした。それ以来、折にふれてこの制度に対する反対意見を書き続けて来ました。実を言えば、自分がブログというものを始めたのも、4年後に始まろうとしていたこの制度に、深い疑問と強い反感を持ったことがきっかけだったとも言えるのです。新聞記事でこの制度のことを初めて知った私は、これに対して何か言わずにはいられない気持ちになって、新聞の投書欄に短い文章を送りました。結果はボツでしたが、自分の意見を世間に訴えたい気持ちは収まりません。その頃、少しずつ哲学的なエッセイを書き溜めていたのですが、それを発表する場としても自分のホームページなりブログなりを持ちたいと本気で思い始めました。で、『巷間哲学者の部屋』というタイトルをつけてこのブログを始めたのが、2005年の9月。そして満を持して(?)書き上げたのが『裁判員制度の愚かしさについて』という一文だったのです。

 いま読み返してみても、裁判員制度に対する私の基本的なスタンスは変わっていません。4年前にはまだこの制度に対する世間の反撥もそれほど強いものではなかったと記憶します。最近は歯に衣着せずに制度批判をする書物が何冊も出ていますし、法律の施行を延期する動議を出そうという議員連の動きもあります。裁判員制度への反対論もすっかり市民権を得たふうであります。しかし、いろいろな人の意見を読んでみるのですが、私にはその批判の根拠がどうにも薄弱であるような気がしてならないのです。例えば裁判員になった人に課せられる厳しい守秘義務であるとか、思想信条によって辞退することが出来ないことの問題であるとか、そもそも制度自体が憲法違反の疑いがあるのではないかという指摘まで、どれも尤もではあるのだけれど本質を突いた議論とは思えない。私の主張は、そもそも一般市民が刑事裁判の審理に参加すること自体がおかしいのではないかというものでした。ですから、欧米を中心とした先進諸国で陪審制や参審制が当たり前に採用されているという事実も、裁判員制度を正当化する根拠として認めたくないのです。これは世界の常識の方がおかしい。少なくとも、陪審制や参審制などというものは、すでに歴史的使命を終えた過去の制度であって、これからの時代の民主主義を先導していく制度ではないと私は考えるのです。

 もともと市民による司法参加という思想は、国王や君主の専横に対して民衆の権利を守るために生まれて来たもので、市民社会の成立という歴史的な文脈のなかで捉えるべきものです。もしも近世以降の歴史というものを、専制君主による圧政から民衆が開放される歴史として記述するならば、物語の中心には常に陪審裁判というものが登場して来る筈です。専制君主制の時代が終わっても、国家というものは常に市民に対して絶対的な権力をふるう存在ですから、陪審制はいわば市民を守る盾として今日まで生き残って来たと考えられます。この視点からすれば、陪審裁判の本来の機能は、市民が国を訴える行政訴訟のようなものにこそ活かされなければならないとも言えるのです。ところが、陪審制の長い歴史を持つ欧米諸国でも、現在では市民が国を相手取って行なう訴訟については陪審員による裁判は行なわれていません。これは奇妙なことです。現代の民主主義国家は、なるほど司法に対しても市民が参加出来る仕組みを用意しているけれども、そこで扱われる事件は、市民が同胞である市民を裁く刑事事件がほとんどで、国が被告である裁判に陪審員が判決を下すことはないのです。これでは本来の陪審制度の理念が形骸化していると考えざるを得ません。日本が真似をしようとしているのは、この形骸化してしまった現代の陪審制です。もしも本当にこの国の司法を民主化したいのなら、国が訴えられている公害訴訟や靖国訴訟のようなものをこそ、裁判員制度の対象とすべきだろうに。

 何故いまこの国で、裁判員制度なんてものが導入されようとしているのか、その本当の理由をあなたは考えたことがあるでしょうか? 私の考えはこうです。このところ日本では、犯罪に対する厳罰化ということが進行しています。犯罪の発生件数が増えているという事実はまったくないのに、マスコミによる犯罪報道は加熱し、犯罪者を極刑にしろという国民の声もボルテージを増すばかりです。この流れに対しては行政や司法も黙認していて、すでに国民の司法参加が始まる前から刑事裁判の厳罰化は現実のものとなっています。最近では参政権を持たない未成年の犯罪者にさえ、死刑の判決が下されるところまで行き着いてしまった。一方で、先進国中最後の死刑存置国である日本に対しては、国連や欧州連合などから死刑廃止に向かうよう勧告が突きつけられています(国民にはあまり知らされていない事実ですが)。この国際世論をかわすために、裁判員制度というものが利用されることになる、これが私の理解です。先進国並みの国民参加の裁判制度が採用されていて、そこで死刑判決がばんばん出されるなら、国としてこれに直接の責任は無い。なにしろこの国では国民の八割が死刑制度を支持しており、死刑存続はこの圧倒的な民意を汲んだ結果なのである。むろんこの国の為政者は、犯罪の少ない安定した社会を保つためには、死刑を含む厳罰化がぜひとも必要だと考えているのでしょう。裁判員として参加する私たちは、知らず識らずのうちにそういった国家戦略の片棒を担がされることになるのです。

 いくら国民の八割が死刑に賛成であるとしても、実際に自分が裁判員になって判決を下さなければならない立場になったとしたら、多くの国民はそう簡単に死刑とは言えないだろう、むしろ死刑判決はこれまでよりも減るのではないか、そう予想している人も多いようです。これだけは実際に制度が始まってみなければ分かりません。ただ、私の予想では、最初のうちこそ死刑判決を出すことに躊躇していた裁判員も、どこかの刑事裁判でいったん死刑を言い渡す前例が現れれば、あとはもう坂道を転げ落ちるように死刑判決ばかりが増えるのではないかという気がする。これには理由があります。一般的に言って、人を裁きたくないという人は裁判員になることを忌避する傾向があるでしょうし、はっきり死刑制度に反対する人は裁判所の面接で裁判員からはずされる可能性がある。結果、裁判員として残る人たちには、ある種の傾向を持ったタイプが多いということになるからです。加えて被害者が公判で直接証言することの出来る制度も始まりましたし、裁判所は裁判所で状況証拠だけでも死刑に出来る判例を国民に印象づけたりしている。こうした条件を考え合わせれば、裁判員制度が始まったからと言って、死刑が極端に増えることはないだろうというおおかたの観測にも、疑問を投げかけざるを得ないのです。

 さらに私が心配していることは、裁判員制度が始まることによって、これまで以上に無差別殺人事件のようなものが増えるのではないかということです。ここ何年かのあいだに世間を騒がした事件には、ひとつの共通した性質があるように思います。それは犯人が、〈世間一般〉というものに対して非常に強い憎悪を抱いているということです。特定の個人に対する恨みではなく、世間のすべてに対する憎しみを心に持っているからこそ、彼らは無差別殺人に向かう訳でしょう。裁判員制度というのは、これまで狭い法曹の世界で行なわれて来た刑事裁判を、いわば「世間化」する制度であるとも言えます。無差別殺人犯は、自分が死刑になることを知っているし、むしろそれを望んでさえいる。自分が死刑になることで、世間に対する復讐を完成させようとしているのが彼らの倒錯した心理であろうと思います。そうした傾向性を持った潜在的な殺人犯の前に、「世間化した裁判」というものが現れるのです。これは危険なことです。後悔の念などつゆほども持たない凶悪な殺人犯の憎悪に裁判員がさらされることだけが危険なのではない、そうした状況を作ることが将来の犯罪者が凶行に走ることへのきっかけになるかも知れないということ、それこそが危険なのです。世間に復讐したいと思っている追いつめられた人間にとって、世間の代表である裁判員(どこの馬の骨かも分からない愚かな人間ども)に自分が裁かれるという想像は、甘い蜜のようなものであるに違いないからです。

 この十年ほどのあいだに、国内ではひどい経済格差が広がりました。これは構造改革政策が残した負の遺産と言ってもいいかと思います。裁判員制度は、この構造改革政策が残したもうひとつの置き土産ですが、これはまた別の格差を国民のあいだにもたらす可能性があります。それはすなわち「道徳格差」というものです。裁判員制度がスタートすれば、国民は否応もなくふたつの階層に分けられます。つまり裁く側の国民と裁かれる側の国民に。裁判員として登用されるような立派な道徳性を持った国民と、彼らに裁かれなければならない道徳的に劣った国民という二分法と言ってもいい。これが経済格差ということなら、貧しくても心に誇りを持って生きることは出来るし、この国はそうした〈高潔な貧乏人〉によって支えられている部分もあるのかも知れません。が、道徳格差ではそうはいかない。裁判員にさえなれない道徳劣者(前科者、暴力団員、不良少年、ホームレスといった人たち)が、それでも心に誇りを持って生きることは出来ないからです。これは経済格差などよりもずっと深刻な問題を社会にもたらす可能性があると私は考えます。国民のあいだに道徳的な分断を内在させた社会が、安定した幸福な社会として存続することなどあり得ないだろうと考えるのです。――悲観論者の杞憂に過ぎないと言われましょうか?

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2009年5月17日 (日)

筋目を通せなかった民主党

 民主党の代表選は下馬評どおり鳩山由紀夫さんが岡田克也さんを負かしました。124票対95票という結果については、岡田氏の善戦を言う向きもあるようです。政権交代に期待するひとりとして、私は岡田さんに次の代表になってもらいたいと思っていました。この二人の政策論を聞く限り、さほどの相違があるとも思えませんし、どちらが代表になったとしても、党内に向けては今回の代表選がしこりにならないよう融和的な方針を採るのでしょうから、政局に大きな影響があるとも思われない。国民に対するアピール度という点でも、お二人はまあ似たり寄ったりだという気がします。ただ、民主党議員がここで鳩山氏を選んだということには、もっとずっと重大な意味があります。それはつまり民主党は国民に対して筋目を通すことが出来なかったということです。

 西松問題で国民の支持率が下がり、代表が辞任に追い込まれたのですから、今回の代表選は何よりもまずこの点で襟を正す姿勢を見せなければなりませんでした。最後まで小沢氏をかばい、小沢さんと一蓮托生だとまで言った鳩山さんは、少なくとも今回は代表選に出るべきではなかった。国民が直接関わることの出来ない党内選挙なのだから、筋を通すためにはそれしかなかった筈です。ましてや当の小沢氏の肝入りで、ほとんど出来レースのような選挙だった訳ですから、いくら党内では拍手喝采を浴びたとしても、本来は国民に対して顔向け出来ないくらいのものではないのか。これは鳩山さんという政治家に、党代表としての実力があるかどうかというような話ではない、政治家としての倫理性の問題です。現在のこの国の政治で、何が一番の問題かと言えば、政策や財源問題をどうするかということよりも、政治家や官僚の道徳的な堕落をどうたたき直して行くかというその点にあると思います。その使命を与えられている次期政権政党の党首に、倫理的に問題のある人を就ける訳にはいかないのです。

 おそらく今回投票した124人の民主党議員のなかには、ここで鳩山氏に一票を入れることは国民に対する背信行為なのではないか、そう思って最後まで迷った人も多かったのではないでしょうか。少なくとも多くの議員が投票後に後味の悪さを味わったに違いないと思います。よろしい、その後味の悪さこそが真実だったことを、今度は有権者があなたがたに証明してみせようじゃありませんか。今回の代表選を見ていて、岡田氏の支持に回った若手を中心とする95人を私は頼もしく思いました。いや、実を言えば、たとえ誰が代表になったとしても、民主党による政権交代はやはり必要だとさえ思っているのです。それでも次の選挙での自分の一票は、民主党に投じる訳にはいかなくなりました。政治の世界から自浄能力が失われ、野党でさえ権力構造に絡め取られる構図がはっきりしてしまった以上、政治に筋目をつけさせる最後の役割は、私たち有権者が引き受けるしかないからです。

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2009年5月15日 (金)

もう一度、日本をあきらめない

 とうとうと言うべきかやっとと言うべきか、民主党の小沢代表が辞意を表明しました。党首討論を二日後に控えての辞任は、タイミングを計っていたというより敵前逃亡のような印象を国民に与えましたが、まあひとりの有権者としては、喉に刺さっていた魚の骨が取れたような気分ですっきりした。と、思ったのもつかの間、党首討論が行なわれる筈だった水曜日の朝刊にはこんな記事が掲載されました。朝日新聞一面からの引用です。

 「12日午前の民主党役員会・常任理事会。小沢氏がしおらしかったのは、辞任あいさつぐらいだった。代表職の重圧から解き放たれたのだろうか。「剛腕小沢」が突如、復活した。複数の出席者によると、小沢氏は4人の役員をにらみつけた。一人ひとりを指さし、こうまくし立てたという。「福山、長妻、安住、野田、この4人組。お前らいつも反対反対と。最後くらい言うことを聞け!」…鳩山由紀夫幹事長が提案した新代表選出案に異論を唱えた面々だが、いずれも小沢氏と距離を置く議員たちだ。」

 なるほど。最近は小沢一郎も往年のすごみと言うか、迫力を失ってしまったという意見も耳にしますが、そうではなかったのですね。ひとつはっきりしたことは、小沢さんという人は、つくづく陰の実力者が似合う人で、決してトップとして表に立つタイプの人ではなかったということです。この人をおとなしくさせておく唯一の方法は、トップに祭り上げておくことだけらしい。この2ヶ月余りの間には見たこともないような生き生きした様子の小沢氏を見れば、そのことがはっきり分かるのです。それにしても、これほど露骨なやり方で「院政」に持ち込もうとしている今の動きが、国民の目にどう映っているかということへの想像力がこの人には無いのだろうか? アンケートの結果によれば、国民のあいだにはクリーンなイメージのある岡田克也氏を待望する声が強いらしい。私も民主党の新しい代表には岡田さんが相応しいと思うひとりです(長妻さんだったらもっといいけど、それは将来のお楽しみ)。小沢氏に「4人組」と名指しされた福山、長妻、安住、野田の四氏も、もちろん岡田さんを推している。それにしても、対立候補となった鳩山由紀夫さんは、今回のことで国民の信頼を完全に裏切りましたね。小沢氏と一蓮托生だと言い、代表が辞任するなら自分も辞任すると言った本人が、その舌の根も乾かないうちに小沢氏の傀儡として代表選に出馬するなんて。

 誰にも予想がつくことですが、もしも小沢-鳩山ラインが今度の代表選に勝つようなことがあれば、民主党は次の選挙で国民から厳しい審判を突き付けられることになるでしょう。報道によれば、小沢派の派閥を中心に党内選挙は鳩山氏有利に進んでいるらしい。この期におよんで小沢氏の「剛腕」にすがろうとする民主党議員は、政権交代に期待する国民の気持ちがまったく分かっていないと言わざるを得ません。逆におおかたの予想を覆して岡田氏が勝利するということにでもなれば、この時はそのドラマチックな展開も手伝って、国民の支持は一気に民主党に傾く可能性がある。党代表の不正献金疑惑で失った失地回復のためにも、民主党にとってこれ以上のシナリオはあり得ないだろうとさえ思います。そういう意味では、いま民主党は次の国政選挙に向けて党勢を一気に盛り返す千載一遇のチャンスにめぐり合っているとも言えるのです。そのチャンスを生かすも殺すも、221人の民主党議員にかかっているという訳です。

 思い返してみれば、2005年9月11日の衆議院選挙で、飛ぶ鳥を落とす勢いの小泉前首相を相手に民主党を率いて戦ったのが、時の岡田克也代表だった訳ですね。結果は誰も予想しないほどの自民党の大勝で終りました。その責任を取って岡田さんは代表を辞任したのでした。あれから4年、国民は今も小泉改革の重いツケを払わされ続けています。あの時、与党に三分の二以上もの議席を与えてしまったことは明らかに誤りだった。日本の歴史を誤らせたとも言える9.11選挙で、岡田民主党が掲げたスローガンは「日本をあきらめない」というものでした。これは岡田さん自らが選んだコトバだったそうです。なんてまあ後ろ向きでいじけたスローガンだろうと、当時のマスコミも私たち国民も笑ったものでした。これじゃあ選挙に負けるのも仕方ないよねと。しかし、あの頃からすっかり状況の変わってしまった今日、もう一度「日本をあきらめない」とつぶやいてみれば、なかなか心にしっくり来るコトバではありませんか。この4年間で、すっかりこの国には格差や貧困が定着してしまい、政界では今も魑魅魍魎が跋扈している。しかも底無しの不況のなかで将来に明るい光も見えない絶望的な状況だ。いやいや、それでも日本をあきらめない。もしも民主党が岡田代表を立てて次の衆院選を戦うという選択をするならば、国民はあの遺恨の残る9.11選挙をもう一度やり直すチャンスを持つことになるのです。

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2009年5月10日 (日)

痴漢犯罪と痴漢冤罪を防止するアイデア

 先日、電車のなかで痴漢を働いたということで訴えられていた男性に、最高裁が逆転無罪の判決を下したことがニュースになっていました。この方は事件がきっかけで大学教授の職を追われることになったと言いますから、たかが痴漢冤罪事件と言っても些細な問題ではありません。周防正行監督の『それでもボクはやってない』という映画を観た人なら、いったん痴漢の嫌疑をかけられたらほとんど逃れる術も無く、自動的に犯罪者にされてしまうことの怖さを感じただろうと思います。満員電車で通勤している自分にとっても、これは他人事では済まされない問題です。痴漢事件は、その卑劣な行為そのものの被害と、身に覚えの無い罪を着せられるという二重の被害の構造を持っている。今回は、都会の中で日常的に起こっているこの不幸な事件を未然に防ぐためのアイデアについて考えてみました。

 この問題を考える時、私たち男性の側がまず肝に銘じておかなければならないことは、痴漢犯罪というものに対しては男と女とで認識のしきい値に違いがあるということだと思います。例えば自分のようなしなびた中年男でも、車内で魅力的な若い女性を見かけると、ついつい目がそちらに行ってしまうということがある。そこから痴漢犯罪の第一歩は始まっています。おじさんのいやらしい視線を感じて、不快な思いをするというのは、多くの女性にとって日常的な経験であるに違いない。多くの男性は、自分は痴漢犯罪には無縁だと思っているでしょうが、仮に聖書の中にある「女を情欲の目で見る者は姦淫の罪を犯したことになる」という厳格な道徳律に照らしてみれば、それでも無実潔癖だと言い切れる男性はそう多くはないような気がします。この問題の対策を考えるに当たっては、痴漢冤罪を起こさない工夫をするよりも前に、まずは痴漢犯罪そのものを根絶する方法を考えなければならない。明らかに言えることは、痴漢行為の疑いで取り調べを受ける男性よりも、痴漢行為の被害に遭って傷ついている女性の数の方が圧倒的に多いだろうからです。

 最近では都会の通勤電車に、女性専用車輌というものがほとんどの路線で設けられています。もちろん痴漢防止のための切り札と言っていい対策である訳ですが、私は以前からこれに違和感を感じていました。それは女性専用車と言っても、長い車輌の一番端っこに一輌だけ接続されているだけで、電車に乗るすべての女性を守るためのものではないという点です。いかにも鉄道会社が、我が社では痴漢犯罪防止のための対策を実施していますという言い訳をしているだけのように見えてしまう。女性専用車のマークを付けた車輌が、時間帯によっては普通車になってしまう、その点も分かりにくくて不親切です。で、私の考えたアイデアというのは、混雑する通勤電車のすべての車輌を、「女性優先車」と「男性優先車」と「一般車」の3種類に分けて、女→男→一般→女→男→一般…というように交互に連結するというものです。よく痴漢冤罪事件が話題になると、女性専用車があるなら男性専用車だって作って欲しいと言う男の人がいますが、ここでのミソは「優先車」であって「専用車」ではないというところにあります。つまり、女性優先車には男性も乗っていいけど、混む時間帯にはなるべく女性を優先にしてね、と車内放送でも繰り返しお願いするのです。一般車というのはもちろん家族連れやカップルのための車輌で、これについてはすべての座席をシルバーシートにしてしまうというアイデアもあります。(女性優先車と男性優先車にもシルバーシートは残します。) それぞれ電車の窓には、「女性優先」、「男性優先」、「シルバーシート」のシンボルマークを貼っておけば乗り間違いも無い筈です。時間帯で車輌の機能が変わるという面倒なルールも廃止しましょう。

 もしもそんな電車があったら、ラッシュアワーの乗客はどのような乗車行動をとるでしょう? いくら優先車輌と言っても、混雑する時間帯に男性が女性優先車に乗り込むことは勇気が要る。逆も同じです。私の想像では、なんとなく自然に男女の棲み分けが進むような気がします。(通勤時間帯の乗客の男女比は路線によっても異なるでしょうが、その偏りは一般車が吸収することになります。) これは私の仮説ですが、女性専用車以外の現在の通勤電車は、実は痴漢にとって非常に都合よく出来ているのです。一般的な通勤電車における乗客の男女比は、6対4か7対3くらいのものでしょう。その割合で車内に乗客を詰め込むというのは、端的に言って痴漢行為を誘発しているようなものです。痴漢を働こうとしている男にとって、〈ターゲット〉となる女性の周りを他の男性客が取り囲んでいる状況の方が好都合な筈だからです。うまくやれば痴漢の嫌疑を他の男にかぶせることだって出来る。(あ、これは自分の経験から言っているのではありませんよ、あくまで想像です。笑) 痴漢常習犯の男が女性優先車に乗り込んだら、周りはみんな女性ばかりで、痴漢のし放題で喜ぶと思いますか? そんなことはあり得ないですよね。男女別優先車輌の発想は、痴漢犯罪が起こりやすい乗客の男女比をくずしてやるところにその眼目があります。

 公共の交通機関に乗るのに、そこまで神経質なルールで縛られる必要があるのだろうか? ただでさえ殺気立っている満員電車の雰囲気がいっそうギスギスするだけじゃないの? そう感じる人がいるとしたら、それこそ典型的な男性側の視点だと指摘しておきましょう。例えばこんな比喩を考えてみます、ひなびた温泉地に行って風呂に入ろうとしたら混浴だった。喜ぶのは男だけで、ふつう女の人は嫌悪を感じるだけでしょう。今日、都会の公共浴場で混浴というものがあり得ないように、都会の通勤電車での「混合乗車」というものだって、半世紀後の目から見たらあり得ないことに映るかも知れません。男は鈍感で単純だから、毎日の通勤電車で感じる〈軽い情欲〉というものを、何か淡いときめきのようなものと勘違いして、浮かれた気分になっていたりする。心理的な面から見ても、痴漢犯罪は男女間で非対称であるという点に問題の本質はあるのです。女性の読者であるあなたには、もっと大変な秘密をお教えしましょうか。車内の痴漢行為というのは、何もあなたがたがそれと気付くようなものだけではないのです。あなたが混んだ電車の中で見知らぬ男と身体を接触させる時、うつろな目をしたその男の心の中で何が起こっているかをあなたが知ったとしたら、あなたはまさに心理的な痴漢行為を働かれたことに気付く筈です。

 インターネットで調べてみると、女性専用車というのは鉄道会社が取り決めた強制的なルールではなくて、あくまで男性側の理解と任意協力で成り立っているものなのだそうです。だったら「女性専用車」という強権的・威圧的なネーミングが良くないですね。ここは「お年寄りや体の不自由な方の優先席」と同じ命名規則で、「女性優先車」と名付けた方がずっと自然だし、その方が男性からも女性からも受け入れられやすいのではないかと思います。だからまず呼び名を変えるところから始めてみたらどうでしょう。そしてもしもこれが一般に受け入れられたとすれば、次には「男性優先車」だって当然作られていいし、それが長い車輌のなかの一輌ずつである必要も無い。ごく自然に私が提案したようなスタイルに収まって行くような気がします。これを試してみるのに、コストはさほどかかりません。どこかの鉄道会社のどこかの路線で、とりあえず実験してみてはいかがでしょう?

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2009年5月 3日 (日)

裁判員制度で有罪率99.9パーセントはどうなる?

 司法と冤罪の問題を考えるに当たって、またひとつ無視することの出来ない事件が起こりました。舞鶴市で起きた女子高生殺人事件に対し、検察は前科のあるひとりの男を、決定的な証拠が無いままに殺人罪で起訴したのです。毎回述べていることですが、こうした事件に対してひとりのブロガーとして論評を加えることは出来ません。たとえ物的証拠が無くても、充分起訴するに足る確実性を担保出来る事件というのは確かにあるでしょうし、今回の起訴が過去の同じような事件の場合と比較して、ことさら特殊なものであるのかどうかも私には分からないからです。だから今回書くことはまったくの空想または杞憂に過ぎないかも知れません。それは裁判員制度の開始を睨んで、日本の刑事司法が基本的なルールを変えようとしているのではないかということです。

 私たちは日本の警察の捜査がとても優秀であることを知っています。少なくともそう思い込んでいます。これはよく知られた事実ですが、検察が起訴した刑事事件の実に99.9パーセントに有罪判決が下っているのです。逆に言えば、有罪判決に確実に持ち込めるという裏付けの取れた事件しか、検察は起訴に踏み切らないということでもあります。これに比較すると、アメリカの陪審裁判などでは有罪判決が出る割合は7割程度で、残りの3割は無罪になっているらしい。これはどういうことなのでしょう? 常識的に考えて、アメリカの警察の捜査がいい加減だということではない筈です。仮にも科学技術の最先端を行くアメリカのような国で、犯罪捜査に関しては日本よりも遅れているということは考えにくい。そこには刑事司法に関する考え方の根本的な違いがあるのだと思います。アメリカの場合には、被告が罪を自白すれば、検察は裁判にまで持ち込まずに刑を確定させる「司法取引」という制度があるそうです。裁判での有罪率が低い背景にはそういった事情があるのですが、それにしてもアメリカの検察当局は、起訴した事件に対して陪審員が無罪の判決を下しても、それによって〈面子〉をつぶされたと感じることは無いらしい。この点がおそらく日本とは大きく異なっているのです。

 検察が確実に証拠を固められた事件しか起訴しないということは、「疑わしきは罰せず」の原則にも合っているし、不幸な冤罪事件を起こさないという意味でも理に適ったことであるかも知れません。が、見方を変えれば、日本の刑事司法では、裁判が始まる前にすでに検察の段階で有罪か無罪かの決定が実質的になされている訳で、裁判そのものが有名無実になっているとも言えます。検察の役目は疑わしい容疑者を起訴することであって、有罪か無罪かの判定は裁判所がすればいい、有罪判決が取れそうもないという理由で検察が起訴を諦めるということは、本来あってはならないことの筈である。もしもそういう言い方をする人がいたら、これは充分説得力のある主張であるように思います。ましてやこれから裁判員制度というものが始まる訳ですから、これからも99.9パーセントの有罪率に検察がこだわるとすれば、それは新制度が持つせっかくの意義を失わせるものとも言えそうです。こういう理由で、いま日本の検察は基本的な方針を転換させようとしているのではないでしょうか。裁判員として参加する私たちは、話し合いで刑の重さを決めて行くことが主な任務で、有罪か無罪を判定しなければならない事件なんてそうは無いと思っています。ところがふたを開けてみると、まずは事実認定で議論が揉めるような事案がたくさん出て来たりして。検察としては、裁判員の人たちには大いに議論をしてもらい、悩んでもらおうと考えていたとしても不思議ではありません。

 裁判員制度を前向きに支持する人なら、日本の刑事裁判がそのような方向に向かうことは望ましいことだと考えるでしょう。それこそが国民による司法参加のあるべき姿であると。しかし、実は私はこの点について反論があります。前回の記事でも書いたことですが、疑わしい容疑者について有罪か無罪かを決めるなんてことは、国民の推理力や道徳心をたのんで決めるような事柄ではないと思うからです。昔から私は、12人の陪審員が話し合いで有罪か無罪かを決めるアメリカのような制度を、ひどく野蛮で時代遅れの制度だと思って来ました。それは例えばサイコロや占いのようなもので真犯人かどうかを決めていた大昔の制度に比べればより合理的で民主的と言えるかも知れない。が、さまざまな科学的捜査の手法が確立されている現代において、素人の判断が少しでも裁判の正確性を増すことに貢献するだろうか? 量刑ということは別として、裁判における事実認定では目指す方向ははっきりしています。犯罪の検挙率を高め、裁判での有罪率を高め、結果としての冤罪率を限りなくゼロに近付ける、そのこと以外には無い筈です。そのために必要なのは、科学的捜査の手法をさらに高度にすることと、自白中心主義のようなものを改めて、捜査の公平性を高めることしかありません。これは国民が裁判に参加するかどうかに関係無く、今後進めるべき司法改革の方向として誰もが認められることであろうと思います。

 国民が裁判に参加するなどという制度変更については、やはりその国の特殊な事情をよく考えて行なわなければならないと思います。日本の刑事裁判は国民不在で、被告は〈お上〉の裁きを受ける身の上だというのが、国民一般の認識なのかも知れません。裁判員制度は、この眠れる国民意識を目覚めさせるために有効な制度ということなのでしょう。が、一方で、日本人は自国の刑事司法制度の優秀性について、かなりの信頼を持っていることも事実な訳で、それをチャラにして刑事裁判の責任を国民に負わせるなどという制度改正にはまったく納得していないのも事実です。裁判員制度に対しては、私は日本の検察当局がどのような態度で臨むのか、それをはっきり明言すべきだと考えます。もしも従来通り、99.9パーセントの有罪率を目指して検挙事件を事前に絞り込むというなら、そもそも裁判員制度の意味も大したことではなくなります。もしも方針を変えて、従来なら起訴を諦めていたような事件でもどんどん裁判に送り込むというなら、これは国民としてたいへんな変化になります。その点がはっきりしていなければ、裁判員制度の是非についても、ほんとうは議論が出来ない筈のものでしょう。そんな基本的な議論もされないまま、今月中にはもう制度が始まろうとしている。考えれば考えるほど、これはおかしな話です。

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