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2009年5月 3日 (日)

裁判員制度で有罪率99.9パーセントはどうなる?

 司法と冤罪の問題を考えるに当たって、またひとつ無視することの出来ない事件が起こりました。舞鶴市で起きた女子高生殺人事件に対し、検察は前科のあるひとりの男を、決定的な証拠が無いままに殺人罪で起訴したのです。毎回述べていることですが、こうした事件に対してひとりのブロガーとして論評を加えることは出来ません。たとえ物的証拠が無くても、充分起訴するに足る確実性を担保出来る事件というのは確かにあるでしょうし、今回の起訴が過去の同じような事件の場合と比較して、ことさら特殊なものであるのかどうかも私には分からないからです。だから今回書くことはまったくの空想または杞憂に過ぎないかも知れません。それは裁判員制度の開始を睨んで、日本の刑事司法が基本的なルールを変えようとしているのではないかということです。

 私たちは日本の警察の捜査がとても優秀であることを知っています。少なくともそう思い込んでいます。これはよく知られた事実ですが、検察が起訴した刑事事件の実に99.9パーセントに有罪判決が下っているのです。逆に言えば、有罪判決に確実に持ち込めるという裏付けの取れた事件しか、検察は起訴に踏み切らないということでもあります。これに比較すると、アメリカの陪審裁判などでは有罪判決が出る割合は7割程度で、残りの3割は無罪になっているらしい。これはどういうことなのでしょう? 常識的に考えて、アメリカの警察の捜査がいい加減だということではない筈です。仮にも科学技術の最先端を行くアメリカのような国で、犯罪捜査に関しては日本よりも遅れているということは考えにくい。そこには刑事司法に関する考え方の根本的な違いがあるのだと思います。アメリカの場合には、被告が罪を自白すれば、検察は裁判にまで持ち込まずに刑を確定させる「司法取引」という制度があるそうです。裁判での有罪率が低い背景にはそういった事情があるのですが、それにしてもアメリカの検察当局は、起訴した事件に対して陪審員が無罪の判決を下しても、それによって〈面子〉をつぶされたと感じることは無いらしい。この点がおそらく日本とは大きく異なっているのです。

 検察が確実に証拠を固められた事件しか起訴しないということは、「疑わしきは罰せず」の原則にも合っているし、不幸な冤罪事件を起こさないという意味でも理に適ったことであるかも知れません。が、見方を変えれば、日本の刑事司法では、裁判が始まる前にすでに検察の段階で有罪か無罪かの決定が実質的になされている訳で、裁判そのものが有名無実になっているとも言えます。検察の役目は疑わしい容疑者を起訴することであって、有罪か無罪かの判定は裁判所がすればいい、有罪判決が取れそうもないという理由で検察が起訴を諦めるということは、本来あってはならないことの筈である。もしもそういう言い方をする人がいたら、これは充分説得力のある主張であるように思います。ましてやこれから裁判員制度というものが始まる訳ですから、これからも99.9パーセントの有罪率に検察がこだわるとすれば、それは新制度が持つせっかくの意義を失わせるものとも言えそうです。こういう理由で、いま日本の検察は基本的な方針を転換させようとしているのではないでしょうか。裁判員として参加する私たちは、話し合いで刑の重さを決めて行くことが主な任務で、有罪か無罪を判定しなければならない事件なんてそうは無いと思っています。ところがふたを開けてみると、まずは事実認定で議論が揉めるような事案がたくさん出て来たりして。検察としては、裁判員の人たちには大いに議論をしてもらい、悩んでもらおうと考えていたとしても不思議ではありません。

 裁判員制度を前向きに支持する人なら、日本の刑事裁判がそのような方向に向かうことは望ましいことだと考えるでしょう。それこそが国民による司法参加のあるべき姿であると。しかし、実は私はこの点について反論があります。前回の記事でも書いたことですが、疑わしい容疑者について有罪か無罪かを決めるなんてことは、国民の推理力や道徳心をたのんで決めるような事柄ではないと思うからです。昔から私は、12人の陪審員が話し合いで有罪か無罪かを決めるアメリカのような制度を、ひどく野蛮で時代遅れの制度だと思って来ました。それは例えばサイコロや占いのようなもので真犯人かどうかを決めていた大昔の制度に比べればより合理的で民主的と言えるかも知れない。が、さまざまな科学的捜査の手法が確立されている現代において、素人の判断が少しでも裁判の正確性を増すことに貢献するだろうか? 量刑ということは別として、裁判における事実認定では目指す方向ははっきりしています。犯罪の検挙率を高め、裁判での有罪率を高め、結果としての冤罪率を限りなくゼロに近付ける、そのこと以外には無い筈です。そのために必要なのは、科学的捜査の手法をさらに高度にすることと、自白中心主義のようなものを改めて、捜査の公平性を高めることしかありません。これは国民が裁判に参加するかどうかに関係無く、今後進めるべき司法改革の方向として誰もが認められることであろうと思います。

 国民が裁判に参加するなどという制度変更については、やはりその国の特殊な事情をよく考えて行なわなければならないと思います。日本の刑事裁判は国民不在で、被告は〈お上〉の裁きを受ける身の上だというのが、国民一般の認識なのかも知れません。裁判員制度は、この眠れる国民意識を目覚めさせるために有効な制度ということなのでしょう。が、一方で、日本人は自国の刑事司法制度の優秀性について、かなりの信頼を持っていることも事実な訳で、それをチャラにして刑事裁判の責任を国民に負わせるなどという制度改正にはまったく納得していないのも事実です。裁判員制度に対しては、私は日本の検察当局がどのような態度で臨むのか、それをはっきり明言すべきだと考えます。もしも従来通り、99.9パーセントの有罪率を目指して検挙事件を事前に絞り込むというなら、そもそも裁判員制度の意味も大したことではなくなります。もしも方針を変えて、従来なら起訴を諦めていたような事件でもどんどん裁判に送り込むというなら、これは国民としてたいへんな変化になります。その点がはっきりしていなければ、裁判員制度の是非についても、ほんとうは議論が出来ない筈のものでしょう。そんな基本的な議論もされないまま、今月中にはもう制度が始まろうとしている。考えれば考えるほど、これはおかしな話です。

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