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2009年4月19日 (日)

もう一度、裁判員制度と死刑の問題について

 裁判員制度の実施を目前に控え、私たち国民が裁判員として死刑制度とどう向かい合うかという問題について、いろいろなところで議論がなされています。マスコミがこの問題を取り上げる時のトーンは大体決まっていて、死刑というものは非常に難しい問題であるけれども、裁判員制度が始まる以上、国民ひとりひとりが死刑制度についても考える機会を持ち、建設的な議論をして行くことが必要である、まあそういった調子のものです。しかし、ここに私は異論があります。死刑の存否ということは個人の信条もしくは道徳観にかかわる問題であって、議論をしても結論の出るような問題ではないからです。またこのことから、そもそも死刑制度と裁判員制度は並立させるべからざるものであるということの証明も出来るように思います。今回は、もう一度そのことについて分かりやすく書いてみたいと思います。

 たぶんこれは私が最初に指摘したことだと思うのですが、裁判員制度が始まると、日本は先進国のなかで唯一、市民が市民に対して死刑を言い渡す国になります。裁判員制度のような市民と裁判官が合議で評決と量刑まで行なう仕組みを「参審制」と呼びます。西欧で多く採用されている制度です。ところが西欧諸国では死刑はすでに廃止されていますから(よく知られているとおり、EU加盟の条件のひとつに死刑廃止があります)、量刑と言っても最高刑は終身刑までということになります。一方、先進国中、日本と並んで死刑を残しているアメリカで採用されている陪審制は、12人の市民がプロの裁判官抜きで審議を行ない、有罪か無罪かを決定する仕組みです(このため陪審裁判の対象となる事件は被告人が無罪を主張している否認事件だけで、しかも被告本人が陪審員による審議を希望した場合だけに限られています)。有罪が決まれば、量刑を行なうのは裁判官です。最近はアメリカでも、12人の陪審員が同意しなければ死刑に出来ないとするルールを採用する州もあるようですが、死刑を言い渡すことの責任は、あくまで裁判官にあるのです。これだけの説明でも、死刑制度と相性が良いのは参審制ではなく、陪審制の方であることは分かっていただけるのではないかと思います。法律の専門家でもない市民が死刑の判決に対して責任の一端を担う、その精神的な重圧だけが問題なのではありません。そこにはもっと単純で基本的な問題があります。

 例えば私自身はかなり頑強な死刑廃止論者です。そんな私が裁判員に選ばれ、明らかに死刑が予想されるような重大事件に参加することになったと考えてください。私にしてみれば、被告人に厳刑を言い渡すことに異論は無いし、ことさら情状にこだわりたい訳でもありません。ただ死刑だけはどうしても認められないというだけです。何故ならそれは私の信念に反することだから。私には、死刑を廃止することが人類の道徳的向上に欠くことの出来ないステップであるという、確固たる信念があるからです。だからもしも私が他の裁判員と議論をすることになれば、今回の事件の内容を論じる以前に、死刑制度の是非という点に議論を持ち込まざるを得ない。審理の席にそんな議論を持ち出す私のような人間は、他の裁判員にとって実に迷惑な存在でしょう? だから裁判員を選ぶ時の面談では、明らかに死刑反対派である人間を排除する方針もあるのだそうです。先日の新聞記事にはこんな記述がありました、『日本でも制度上、「絶対に死刑を選ばない」と決めている裁判員候補者は、裁判長による面接の段階で排除される可能性がある。「法律に従わないことになり、不公平な裁判をするおそれがあると判断される」(最高裁関係者)からだ。』 つまり、この制度は最初から死刑に反対する人たちを排除して行なわれる、「欠席裁判」として制度設計がされているのです。

 あることがらについて建設的な議論が成り立つためには、そこに参加する人たちが同じ前提条件や合意事項を共有していることが必要です。進化論に関する専門的なテーマについて話し合う生物学者のシンポジウムに、神による創造説を信じている神学者が出席して自説を滔々と述べたりすれば、会議が目茶苦茶になってしまう。逆に世界中の宗教家が集まって21世紀の宗教のあり方を話し合う会議に、『神は幻想である』を書いたリチャード・ドーキンスのような人が現れて、宗教そのものを舌鋒鋭く批判したのでは、そもそも会議自体が成り立たない。「死刑のある国の裁判員制度」というのは、要するにそれと似たようなものです。裁判員制度によってこの国の裁判は、不毛な神学論争のようなものになってしまう可能性がある。「だからこそ融通の利かない死刑廃止論者は裁判員から排除する必要があるのだ。」 あなたはそうおっしゃいますか? 私はそのロジックには賛成出来ません。もしもこれが科学や宗教といった分野の会議であれば、事前の思想チェックによって参加者を選別することもあるいは許されるのかも知れません。しかし、国民すべてに関係のある刑事裁判というものへの参加に関して、事前の思想チェックなどというものはあってはならないと私は考えます。ましてや死刑廃止論というのは、決して一部の狂信的な人間が持つ偏った思想などではなく、世界的に見ればむしろそちらの方が優勢であるスタンダードな思想なのだからなおさらです。

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コメント

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投稿: hikaku | 2009年5月 1日 (金) 21時14分

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