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2009年4月26日 (日)

「推定無罪」という思想をめぐって

 長いあいだ世間の注目を集めていた「和歌山カレー事件」に対する最高裁判決が下りました。一審、二審の判決は覆ることなく死刑が確定したのです。私はこの事件に特に注意を払っていた訳でもありませんし、今回の判決の妥当性についても評価出来る立場にはありません。ただ、この事件のように決定的な物的証拠が無く、別に真犯人がいるかも知れないと合理的に疑うことが出来る事件では、「推定無罪の原則」というものが適用されるということは常識として知っていました。だからこうもあっさりと死刑が確定したことに、なにか意外な感じを持ったのです。インターネットでいろいろな人の意見を拾ってみると、同じように感じている人が多いことが分かります。来月からいよいよ裁判員制度が始まりますが、もしもこの事件を自分が裁かなければならない立場だったとしたら…。そんなことを想像した人も少なくない筈です。

 推定無罪というのは、平たく言えば「疑わしきは罰せず」という原則のことです。これはたとえ法律に明文化されてはいなくとも、今日の民主主義国家ではいわば不文律として通用している世界共通のルールなのだそうです。日本国憲法の第31条、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない」に、推定無罪の原則が含まれているという解釈もあるようです。刑事裁判において極めて重要なことは、「冤罪」というものを出さないことです。たとえ死刑制度を強く支持する人でも、この点について異論のある人はいないだろうと思います。裁判員制度というのは、国民がプロの裁判官と一緒に事件に関する事実の認定を行ない、もしも有罪であるならば刑の重さをどうするかを決めて行く制度です。国民の8割が死刑制度を支持していることからも分かるように、一般的に日本人は犯罪に対しては非常に強い応報感情を抱いている。このため裁判員制度が施行されたあとには、これまでよりもいっそう厳罰主義が進んで、死刑判決も増えるのではないかという懸念を私は持っています。それでも、裁判長は裁判員の人たちに推定無罪の原則については最初にレクチャーするだろうし、この制度によって冤罪というものが有意に増えることはないだろう、そういう楽観的な見通しを私は持っていました。が、今回の判決で、この点についても私は不安を感じるようになって来ました。

 推定無罪というコトバについて、インターネット上にこんな説明があるのを見付けました、「たとえ十人の真犯人を取り逃がしても、ひとりの冤罪被害者を出さないための思想」だというのです。とてもうまい表現だと思いました。と同時に、この論理をよく考えてみると、推定無罪の原則というのは誰にでも受け入れられる普遍的な思想ではないということにも気付くのです。例えばこんなふうに数字を置き換えてみます、「たとえ千人の真犯人を取り逃がそうとも、ひとりの冤罪被害者を出してはいけない」。どうでしょう、これだと少し説得力が減るのではないでしょうか。和歌山カレー事件の被告が真犯人である可能性が、90パーセントなのか、99.9パーセントなのか私は知りません。ただ、100パーセントではないことは確かだと思います。だとすると、推定無罪の原則が適応される境界線というのはどこにあるのでしょう? 今回の事件では、指紋やDNA鑑定のような直接的な証拠は何ひとつありません。いや、たとえ指紋やDNA鑑定で容疑者が特定されたとしても、それでも冤罪の可能性を100パーセント排除することは難しいに違いない。もしも裁判員として出廷した私たちに、推定無罪の原則を守らせようとするのであれば、その厳密な運用ルールを定義してもらう必要があります。

 前回の記事で、また過去に書いた記事でも、私は死刑制度のある日本には参審制よりも陪審制の方が馴染むのではないかという主旨のことを書きました。今週の最高裁判決のニュースについて考えるなかで、この私の考えはまったくの勘違いだったことに気が付きました。裁判員にはふたつの任務があります、事実認定と量刑とです。もしも被告が起訴事実を全面的に認めている事件なら、事実認定の面での難しさはそうないでしょう。しかし、今回のような被告が無実を主張しているような事件では、その困難さは想像するに余りある。そもそも自分がこのような事件に裁判員として駆り出されて、無罪か有罪かを判定しろなんて言われたら、一体何を根拠に判断すればいいのだろう。もしも量刑ということなら、素人の裁判員でもその人なりの判断を下すことが出来るかも知れません(実は私はこの点にも多いに疑問があるのですが…)。だが、事実認定について裁判員が責任ある意見を述べることなんて出来る訳がない。裁判での審理も、6人の素人探偵が下手な謎解きをする以上のものにはなりようがないと思います。陪審制というのは、このように素人には判断の難しい部分だけを、ことさら素人の判断に任せようという倒錯した制度だと言えると思う。ドラマや小説の道具立てとしては面白いけれども、公正で正確であるべき裁判の仕組みとしては根本的に欠陥のある制度だと考えざるを得ません。たとえ冤罪であることが後で判明しても、それは市民の下した判断であって、職業裁判官に責任は無いのです。これは司法の責任放棄以外の何ものでもないのではないか。

 私は本質的に市民の直接司法参加というものに反対する立場の人間ですが、もしも自分なりの裁判員制度改革案を考えるとしたら、次のふたつは譲れないポイントになります。ひとつは市民が量刑にまで参加する前提として、西欧諸国のように死刑制度が廃止されていること、これはすでに何度も書いて来ました。もうひとつは、陪審制とは逆に有罪か無罪かの判断は、市民ではなく司法機関が責任をもって行なうということです。市民は刑の重さを決める話し合いには参加するけれども、有罪かどうかを決める判断には一切関わらないものとする。そもそも無実を主張する被告人が真犯人かどうかを決められるものがあるとすれば、客観的な証拠に基づく科学的な捜査以外には無い筈です。戦後の冤罪事件のなかには、検察が被告人に有利な証拠を隠していた場合があったという話を聞いたこともあります。司法改革が必要なのはこうした部分についてです。だいたい有罪を立証する立場の検察が証拠を一手に押さえていることがおかしい。むしろ無罪を立証する立場の弁護側の捜査官を取り調べ段階から参加させ、合同で捜査に当たらせるくらいの思い切った制度改革が必要だという気がします。日本は犯罪に対しては高い検挙率と有罪率を誇っています。精密司法と呼ばれることもあります。この精密司法の公平性と正確性をさらに高める改革なら、国民の理解と賛同も得られるだろうと思うのです。

 今回の判決に対して、弁護側は再審請求を出すことがすでに伝えられています。死刑が確定するまでには、まだまだ時間がかかることになるのでしょう。これは私自身の個人的な推測ですが、たとえ死刑が確定したとしても、おそらくこの事件で死刑が執行されることはあるまいと思います。最近は死刑執行に熱心な法務大臣が多いようですが、それでも本人が無罪を主張しており、冤罪の可能性がとりざたされている死刑囚に対して刑が執行される例はほとんど無いからです。本来なら刑の確定後、半年以内に執行しなければならないという法律の規定があるにもかかわらず、司法の最高責任者自らが法を守っていない現実がある。これはどう考えてもおかしな話で、だったら最初から死刑判決など出さなければ良かったのである。これは事実として、日本の司法組織のなかで推定無罪の原則に対する認識のずれがあることの証拠であると私は見ます。最高裁は自ら下した死刑判決に対し、法で定められた期間内に刑の執行がされていない事実について、法務大臣に警告を発すべきでしょう。それをしていないという事実が、すなわち裁判所が無責任な官僚主義に毒されていることを証明しています。日本は死刑を存続させていることで国際社会から非難を浴びているのです。国家権力の最大の行使である死刑というものについて、司法の内部でこのような責任の押し付け合いがあることは、とうてい看過出来ることではありません。裁判員制度というのは、司法が負うべき厳粛な責任というものを、さらに曖昧にさせるための制度であるとも言えます。もしも司法改革が必要なら、裁判員制度のようなものではなく、司法組織内部の官僚主義を打ち破るところから始める必要があると私は思います。

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2009年4月19日 (日)

もう一度、裁判員制度と死刑の問題について

 裁判員制度の実施を目前に控え、私たち国民が裁判員として死刑制度とどう向かい合うかという問題について、いろいろなところで議論がなされています。マスコミがこの問題を取り上げる時のトーンは大体決まっていて、死刑というものは非常に難しい問題であるけれども、裁判員制度が始まる以上、国民ひとりひとりが死刑制度についても考える機会を持ち、建設的な議論をして行くことが必要である、まあそういった調子のものです。しかし、ここに私は異論があります。死刑の存否ということは個人の信条もしくは道徳観にかかわる問題であって、議論をしても結論の出るような問題ではないからです。またこのことから、そもそも死刑制度と裁判員制度は並立させるべからざるものであるということの証明も出来るように思います。今回は、もう一度そのことについて分かりやすく書いてみたいと思います。

 たぶんこれは私が最初に指摘したことだと思うのですが、裁判員制度が始まると、日本は先進国のなかで唯一、市民が市民に対して死刑を言い渡す国になります。裁判員制度のような市民と裁判官が合議で評決と量刑まで行なう仕組みを「参審制」と呼びます。西欧で多く採用されている制度です。ところが西欧諸国では死刑はすでに廃止されていますから(よく知られているとおり、EU加盟の条件のひとつに死刑廃止があります)、量刑と言っても最高刑は終身刑までということになります。一方、先進国中、日本と並んで死刑を残しているアメリカで採用されている陪審制は、12人の市民がプロの裁判官抜きで審議を行ない、有罪か無罪かを決定する仕組みです(このため陪審裁判の対象となる事件は被告人が無罪を主張している否認事件だけで、しかも被告本人が陪審員による審議を希望した場合だけに限られています)。有罪が決まれば、量刑を行なうのは裁判官です。最近はアメリカでも、12人の陪審員が同意しなければ死刑に出来ないとするルールを採用する州もあるようですが、死刑を言い渡すことの責任は、あくまで裁判官にあるのです。これだけの説明でも、死刑制度と相性が良いのは参審制ではなく、陪審制の方であることは分かっていただけるのではないかと思います。法律の専門家でもない市民が死刑の判決に対して責任の一端を担う、その精神的な重圧だけが問題なのではありません。そこにはもっと単純で基本的な問題があります。

 例えば私自身はかなり頑強な死刑廃止論者です。そんな私が裁判員に選ばれ、明らかに死刑が予想されるような重大事件に参加することになったと考えてください。私にしてみれば、被告人に厳刑を言い渡すことに異論は無いし、ことさら情状にこだわりたい訳でもありません。ただ死刑だけはどうしても認められないというだけです。何故ならそれは私の信念に反することだから。私には、死刑を廃止することが人類の道徳的向上に欠くことの出来ないステップであるという、確固たる信念があるからです。だからもしも私が他の裁判員と議論をすることになれば、今回の事件の内容を論じる以前に、死刑制度の是非という点に議論を持ち込まざるを得ない。審理の席にそんな議論を持ち出す私のような人間は、他の裁判員にとって実に迷惑な存在でしょう? だから裁判員を選ぶ時の面談では、明らかに死刑反対派である人間を排除する方針もあるのだそうです。先日の新聞記事にはこんな記述がありました、『日本でも制度上、「絶対に死刑を選ばない」と決めている裁判員候補者は、裁判長による面接の段階で排除される可能性がある。「法律に従わないことになり、不公平な裁判をするおそれがあると判断される」(最高裁関係者)からだ。』 つまり、この制度は最初から死刑に反対する人たちを排除して行なわれる、「欠席裁判」として制度設計がされているのです。

 あることがらについて建設的な議論が成り立つためには、そこに参加する人たちが同じ前提条件や合意事項を共有していることが必要です。進化論に関する専門的なテーマについて話し合う生物学者のシンポジウムに、神による創造説を信じている神学者が出席して自説を滔々と述べたりすれば、会議が目茶苦茶になってしまう。逆に世界中の宗教家が集まって21世紀の宗教のあり方を話し合う会議に、『神は幻想である』を書いたリチャード・ドーキンスのような人が現れて、宗教そのものを舌鋒鋭く批判したのでは、そもそも会議自体が成り立たない。「死刑のある国の裁判員制度」というのは、要するにそれと似たようなものです。裁判員制度によってこの国の裁判は、不毛な神学論争のようなものになってしまう可能性がある。「だからこそ融通の利かない死刑廃止論者は裁判員から排除する必要があるのだ。」 あなたはそうおっしゃいますか? 私はそのロジックには賛成出来ません。もしもこれが科学や宗教といった分野の会議であれば、事前の思想チェックによって参加者を選別することもあるいは許されるのかも知れません。しかし、国民すべてに関係のある刑事裁判というものへの参加に関して、事前の思想チェックなどというものはあってはならないと私は考えます。ましてや死刑廃止論というのは、決して一部の狂信的な人間が持つ偏った思想などではなく、世界的に見ればむしろそちらの方が優勢であるスタンダードな思想なのだからなおさらです。

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2009年4月12日 (日)

小沢一郎氏のための演説原稿

 民主党小沢代表の公設第一秘書が逮捕されるに及んで、いよいよ自民党対民主党の政権争いは泥試合の様相を帯びて来ました。民主党内部でも小沢氏退陣論が公然と口に出され、逆に自民党からは不人気な小沢氏続投への期待がささやかれている。私はこのブログで、次の選挙では政権交代に期待すると書きました。同時に民主党はこの機会にトップを交代すべきだという意見も発表しています。その考えにいまも変わりはありませんが、こうも絶妙なタイミングで検察を動かす国家権力の闇の部分を見せつけられると、ここはもう少し小沢さんに踏ん張って欲しいと思う気持ちも禁じ得ないのです。一連の小沢さんの発言を聴いていると、やはりこの人は政治家として言葉の足りない人だと思わざるを得ません。確かに追い詰められているには違いありませんが、一流の政治家ならそれを撥ね返すくらいの言葉の力を見せつけてもらいたいものです。今回は、もしも私が小沢さんのスピーチライターだったとしたら、こんなふうな演説を彼にさせてみたい、そんな思いつきで記事を書いてみました。断っておきますが、もともと私は小沢一郎という政治家が嫌いだし、いますぐにでも代表を辞任してもらいたい気持ちに変わりはありません。ひとつのネタとしてご笑覧いただければと思います。

 『このたびの一連の事件では、国民の皆さんには大変なご心配をおかけしました。突然降って湧いた不正献金疑惑と、それに続く秘書の逮捕、これは私個人にとって大きな試練であったと同時に、我が国の政治のゆくえにも暗雲を垂れ込めさせる事件であったと思います。ことのいきさつはどうあれ、多大な期待をかけていただいた国民の皆さまに、余分な心配をおかけしたことにまずはお詫びを申し上げなければなりません。本日、私が皆さんにお伝えしたいことは、我が身の潔白を証明することではありません。それはやがて歴史が証明することだと私は信じています。一番重大な問題は、今回の事件の本質は、戦後一貫して続いて来た自民党の一党支配のなかで既得権を獲得して来た者たちによる最後の抵抗であるということです。

 ここで私は週刊誌の記者の方々が喜びそうな陰謀説を主張したい訳ではありません。また検察を背後で操っている黒幕は誰かなどと詮索したい訳でもありません。事件の原因の半分は私自身の不徳の致すところであり、身から出た錆びであることも承知しておる。が、それでも私はここで潔く身を引く訳にはいかんのです。何故なら、ここで私が身を引いてしまっては、この国が変わることを好ましく思わない者たちを権力の世界に野放しにしたままになってしまうからだ。今回の事件が起こる前までは、私も単純に次の選挙での政権交代を目標にしていたし、民主党の代表として政権獲得後の役割もわきまえているつもりでいました。しかし、いまは違います。どうやら私には、政権政党のトップに収まるよりも、もっとずっとたいへんな役割が与えられているらしい。それはすなわち、既得権の上にあぐらをかき、この国の根元を腐らせて来た者たちに一撃を食らわすという「壊し屋」の役割です。

 この国の新しいかたちを作って行くためには、まずは古い建物を壊して土地を更地にしなければなりません。幸いなことに、我が民主党には既成のしがらみにとらわれない有能な若手議員、中堅議員がたくさん集まってくれた。新しい日本の設計図を描くのは、自分のような老人ではなく、彼らに任せておけば安心だと私は思っとります。ただ、残念なことに、彼らは政と財と官との癒着の構図がどれほど根深いものであるか、身をもっては分かっておらん。既得権にしがみつく者たちがどのような隠れ蓑をまとっていて、彼らが本当は何を怖れているのかが分かっておらんのです。こう言っちゃあ何だが、私は今では珍しいほどの古いタイプの政治家です。最近は自民党の先生方もだいぶ小粒になってしまった感がありますが、私は野党にいながら誰よりも自民党らしさを残している最後の政治家だと言えるかも知れない。これは、まあ、国民の皆さんにも信じてもらえることだと思いますが、私はたいていの自民党議員よりも献金を集める力だって持っています。むろん違法なことはしちゃいないが、叩けばいくらだってホコリが出る身の上だ。民主党が真の意味で政権政党になるためには、私のような人間がひと暴れして、守旧派を蹴散らすことから始めなければならないのではないか、これがこの1ヶ月間、事件の渦中にあって私がたどり着いた結論です。

 この10年間の政治を振り返ってみて、一番大きな変化は何かと言えば、やはり構造改革というものでしょう。小泉前総理は、「自民党をぶっ壊す」と言って、旧来の利権体制にメスを入れる政策を次々と導入しました。今日の世界的な大不況で、小泉さんのやったことはすべて間違いだったという意見が優勢になって来ましたが、私自身は小泉改革をそれなりに評価しています。むしろ心配なのは、国民の不満に乗じて自民党のなかの守旧派が息を吹き返そうとしていることです。結局、小泉さんが退けば誰も改革を続行しようという人はいない。何故そんなことになってしまったのだろう? もともと小泉さんという人は自民党の主流派ではありません。一匹狼のようなところのある変わった政治家です。だからこそしがらみにとらわれない思い切った改革が断行出来たのだと思う。それを支えたのは、国民の皆さんの絶大な支持です。言ってみれば、それは自民党の中から自然に湧き起こった改革ではなかった。ひとりの風変わりな部外者が、自民党を引っ掻き回したに過ぎなかった。いまさら郵政民営化には反対だったなどと、しゃあしゃあと口に出す麻生さんを見ていると、自民党の本質は何も変わっていなかったことが分かるのです。彼らにとって、いまの不景気は大歓迎であるに違いない。麻生さんは不況対策の補正予算を国会に通すことを理由に、首相の座にしがみついている。深刻な不況は、自公政権が金権政治に再び戻ることへの免罪符を与えたのであります。

 かつては田中角栄さんの後継者と言われ、いままた不正献金の嫌疑をかけられているこの私が、金権政治の批判をするなんて滑稽なことかも知れない。しかし、ものごとにはすべて時代背景というものがあります。これは自民党だけでなく、我が民主党でも同じですが、これまでの政党運営は財界からの献金無しには成り立たなかった。政治というものは実に金のかかるものだ、そのことは私自身が誰よりも身にしみて分かっております。ただ、そういう政治のスタイルももはや過去のものです。次の政権政党は、自らの政治スタイルをも変えて、まさに聖域無き改革に取り組まなければならない。今週、民主党は企業・団体献金を全廃する改革案を発表しました。私が岡田克也君らに指示して作らせたものです。これまでも政治資金を規制する動きはあったし、そのための法律も作られましたが、それは巧妙な抜け穴を設けたザル法に過ぎなかった。しかし、よろしいか、政界の裏の裏まで知り尽くしたこの小沢一郎が陣頭指揮を取るからには、今回は抜け穴は絶対に許さん。これは私の政治的パフォーマンスではありません。たとえこの法案が実現しなかったとしても、私自身は今後一切の企業献金を受け付けないことをここで皆さんにお約束します。

 正直に申し上げますが、今回の事件が持ち上がるまで、私は次期政権政党の党首として総理大臣の椅子を射止めたかった。それを最大の目標にして長い政治家人生を歩んで来たのであります。しかしこの1ヶ月で私の心は変わりました。かつては自民党の主流派にいて、誰よりも古い自民党の体質を受け継いでいるこの私が、政権末期の自民党と対決しようとしている。考えてみれば、これほど皮肉な運命もありません。今回の事件は、私に政治家としての天命を教えてくれた。私は政権党の総裁となって新しい時代の幕開けを飾るような人間じゃありません。そうではなく、自分の古巣であり、いまもその恩を思えば涙がこぼれるほどの愛惜を感じている自民党を、この手で葬る「おくりびと」となること、それこそが政治家小沢一郎の最後の使命であると私は悟ったのです。いやいや、こんなところで感傷的になっていてはいけない、もともと私は地道にコツコツ積み上げて行くタイプの人間ではない、既成の体制を引っ掻き回してぶっ壊すのが大好きな人間だ。そういう人間がどのようにひとつの歴史の幕引きをするか、ぜひ国民の皆さんに見届けてもらいたい。そのための最後のチャンスをどうか私に与えていただきたいのです。そして、民主党から新しい総理大臣が就任した後には、私は静かに表舞台を去るだろう。もうそこには私を必要とする何ものも残っていないからです。小沢一郎のような政治家は、この私をもって最後にしたい、これが本日皆さんにお伝えしたかった私の心からのメッセージなのであります。』

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