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2009年2月 1日 (日)

裁判への被害者の参加をめぐって

 前回、「一方的に被害者に寄り添うこの国の世論」ということについて書いたら、ちょうどいいタイミングで今週の新聞に裁判への被害者参加の問題が取り上げられていました。朝日新聞の朝刊に連載されている『人を裁く』という記事です。法と裁きの問題を考える上で、本質に触れる重要なポイントだと思いますので、この記事をネタにもう一度この問題を取り上げます。今回の記事に私が興味を持ったのは、日本では始まったばかりの裁判への被害者参加制度について、先行する海外の事例が紹介されていたからです。世論が死刑制度や厳罰化の流れを支持している日本で、被害者参加制度と裁判員制度とがほぼ同時期にスタートすることに私は危惧の念を抱いている訳ですが(それは偶然の一致ではなく、権力側の意図によるものではないのか)、これは多少の論点の違いはあっても、欧米各国でも共通に抱えている問題のように見えます。

 象徴的なのはアメリカの事例です。87年にメリーランド州で起きた殺人事件の裁判で、被害者遺族の証言に対して連邦最高裁は次のように述べ、「違憲」の判断を下したと言います。「被害者がどれほど素晴らしい人だったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪とは何の関係もない。陪審員を過度に刺激し、証拠に基づいた判断から遠ざけるだけだ」。ところがその4年後の91年に、連邦最高裁は別の事件でこれとは正反対の判断を下します。これも記事から引用します、「遺族の意見陳述について『被害者が一人のかけがえのない人間だったことを示すためのものだ』と述べて、違憲の判断を事実上、修正した。遺族が伝えた内容は罪の重さを決定する要素となる、との判断だった」。なるほど、面白いですね。何が面白いかって、つまり陪審制の長い歴史を持つアメリカでも、こんな基本的なことにすらコンセンサスが出来ていなかった、という点がです。つい最近も、アメリカでは殺された被害者の生涯をつづったビデオを、法廷で映すことの是非をめぐって、裁判で争われていたのだそうです。考えてみれば当たり前のことですが、日本人に限らずどこの国の人だって、愛する家族が殺されれば、犯人には極刑を望む筈です。死刑のある国なら死刑を、死刑のない国なら終身刑または無期刑を。被害者遺族がそれを法廷で訴える権利も、自由主義の社会では当然認められるべきだと思います。ただ問題は、訴える相手がプロの裁判官だけではなく、陪審員や裁判員といった素人さんたちである場合です。

 記事のなかでさらに面白く感じたのはドイツの事例です。ドイツでは市民から選ばれた参審員が裁判に参加しますが、被害者が裁判に参加する割合は25パーセント程度にとどまるのだそうです。「ドイツの参審員は立候補や推薦で選ばれ、4~5年の任期制。被害者の感情に左右されずに裁判に臨むという考えが参審員に定着しており、被害者の側も『参加してもしなくても変わらない』と参加を控えるのだという。」 記事はドイツで最近あった殺人事件の裁判について伝えています。そこには被害者の父親ら5人の遺族が参加して、被告や証人に対して長々と質問を続けたために、7回の開廷予定が12回に延びてしまったのだそうです。「判決は遺族が希望した終身刑にはならず、懲役9年にとどまった。」 これはドイツの参審員が冷静だったというより、遺族のプレゼンテーションの仕方がまずかったのかも知れません。一方フランスでは、裁判に遺族が参加することの方が当たり前のようです。渡仏していた娘さんを殺された日本人のご夫婦は、「現地の弁護士から『遺族が出ないと、娘を大切にしていないと参審員に見られ、裁判で不利になる可能性がある』と説かれ」、パリ重罪院での裁判に臨んだのだそうです。判決の結果については、「夫妻は軽すぎると感じたものの、『参審員にあれだけ真剣に考えてもらった結果だから』と納得できたという。」 こういう話を聞くと、なるほど市民の司法参加にもそれなりのメリットがあるのだなと感じさせられます。(但しそれはドイツもフランスも、すでに死刑を廃止した国だという前提条件があればこその話です。死刑のある国では、そもそも参審制(裁判員制もその一種)というものを採用すること自体があり得ない話だからです。)

 今回はあまり自分の意見を披瀝するつもりの記事ではないのですが、ひとつだけこれだけは書いておきたいことがあります。被害者遺族の意見陳述をどの程度まで量刑に反映させるべきかという点についてです。この点に関しては、私は単純に87年のアメリカ最高裁の判断を支持したい気がします。すなわち、「被害者がどれほど素晴らしい人だったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪とは何の関係もない」という割り切った考え方です。これは別に道徳的な問題として判断すべきことがらではなく、論理的に考えてそうでなければ矛盾が起こるという話です。これは逆のパターンを考えてみればすぐに分かります、被害者の遺族が切々と訴えれば、私たちは心を動かされるに違いない、では、殺された人がまったく係累の無い単身者で、法廷でその人の死を嘆く人がひとりもいなかった場合、犯人の罪は少しでも軽くなるのだろうか? あるいは出廷した遺族にどういう訳か一向に悲しみの様子が見られないと思ったら、殺された被害者はふだんから妻子に暴力をふるうどうしようもないDV男だったことが判明した、そんな場合には逆に量刑が少し甘くなるのだろうか? 裁判では被告の情状をどう評価するかということが審理の重要なポイントになります。犯人の不幸な生い立ちが明らかになって、情状酌量で判決が軽くなる場合もあるでしょうし、逆に反省の様子が見られないとして重い刑を言い渡さなければならない場合もあるでしょう。それを話し合うことが裁判員の主要な任務になる筈です。が、「被害者遺族の情状」というものは、本来裁判の判決とは無関係であるべきものです。ここでは「被害者の感情に左右されずに裁判に臨む」というドイツの参審員の冷静さが求められるのだと思います。

 これも同じく今回の記事に載っていた情報です、最高裁のアンケート調査によると、刑罰の果たす役割は何かという質問に対して、国民の56パーセントの人が「悪いことへの報い(応報)」だと答えているのだそうです。続いて「犯罪を防止するもの」が31パーセント、「犯罪者を教育するもの」はわずか13パーセントだったらしい。足して100パーセントになりますから、三者択一の設問だったのでしょう。私はこの選択肢にある「応報」というコトバに引っ掛かりを感じます。応報と言えば、罰する主体は国家でも被害者でもなく、「天罰」に近いものとなってしまう。何故はっきり「報復」と言わないのか。これはアンケートを取った最高裁にも問題がある。こういうコトバを使うことで、刑罰を与える側の主体性と責任がぼやかされる訳です。まあ、その問題はともかく、このアンケート結果からも日本人の応報感情の強さというものがはっきりと窺われるように思います。もしも裁判員制度が始まったら、裁判員として参加する国民に対して、「被害者の感情に左右されずに裁判に臨む」ことの重要性がきちんと説明されるのでしょうか? おそらくされないだろうと思います。法務省が作成したパンフレットによれば、裁判員は自らの道徳感情に従って自由に意見を言っていいことになっている。言葉を換えて言えば、法廷を私的な報復の場にすることだって許される訳だ。それも含めて民意をトータルに刑事裁判に反映させるというのが裁判員制度のコンセプトだからです。しかし、被害者の訴えをどう判決に取り込んで行くかという問題は、それについてもいろいろな意見があっていいといった問題ではなく、この国の裁判の在り方をもっと深いところで規定する基本のルールであるべきものではないか。これに対する議論もコンセンサスも無いままに、国民の司法参加もへったくれもないだろうと私は思うのですが、残念ながらこんな私の意見に賛成してくれる人もほとんどいないようです。

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コメント

小林麻耶 は め撮 り悶 絶映 像【流 出動 画】


激.しく手マ.ンされ、あの猫なで声で喘.ぐ麻耶ちゃん。

http://mayakoikara-mayakoikara.blogspot.com/

それだけでイ.ケそうなのに、その後、ハ.メちゃってさらに喘.ぎまくりです。

http://mayakoikara-mayakoikara.blogspot.com/

投稿: 小林麻耶 は め撮 り悶 絶映 像【流 出動 画】 | 2009年2月 4日 (水) 12時19分

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