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2009年2月22日 (日)

減価するポイントカードで売上倍増?

 今回は減価貨幣のことを考えていて思い付いたアイデアをひとつ。最近は街の電気屋さんに元気がなくて、代わって家電量販店と呼ばれる小売チェーンが売上を伸ばしています。こうした量販店の多くは、自店でのみ通用するポイントカードを発行して、客の囲い込みを図っています。私も財布のなかにはポイントカードを持っていますから、ポイントがたまることの嬉しさは知っています。購買価格の10パーセントくらいのポイントなので、大きな買い物をすると結構な額がたまる。ただ、どこの量販店でも同じようなポイントカードを発行していますから、それが他店との差別化につながっているかは疑問です。そこで家電量販店の社長さんに私からの提案。御社のポイント還元率を業界最高の20パーセントに設定してはどうでしょう? その代わりに発行したポイントは1日につき1パーセントずつ目減りさせるという仕組みを取り入れるのです。この方法ですと、発行後70日でポイントは半減し、1年後には2.5パーセント程度まで減価する計算になる。1万円で買い物をしたお客さんは2000円分のポイントを受け取り、そのまま2ヶ月あまりポイントを使わずにいれば1000円まで目減りして、1年後には50円ほどになってしまうということです。これを実現するためのコストは大してかかりません。ポイントカードの残高は本部のコンピュータで一括管理していますから、プログラムをちょっと修正するだけで済んでしまいます。

 顧客の気持ちになって想像してみましょう、こんなポイントカードがあったら、魅力的に感じない人はいるでしょうか? なにしろ一律20パーセントという値引き率です。ポイントが減価するという性質上、顧客の消費行動にも変化が現れる筈です。〈まとめ買い〉や〈ついで買い〉をして、なるべくポイント残高を残さないという買い方が選好されるでしょう。つまり客単価が上がる一方で、ポイント残高の繰り越し額は激減する。いまポイントカードを発行している企業は、顧客が貯めているポイントが隠れ債務となっていることが問題視されています。(なにしろ日本人は利子が付かないお金でさえ貯蓄をするのが大好きな国民性ですから。) この債務が減ることで、企業の財務体質が健全化するという効果も期待出来ます。さらに当然のことながら、減価するポイントカードには顧客の来店頻度を高める効果がある筈です。カードにたまっているポイントが日に日に目減りして行くことで、人は落ち着かない気分になる。これを持っている人は、次に買いたいものを意識して考える習慣が身につくのです。もちろんなかには、減価するポイントカードに馴染めないお客様もいるに違いありません。そういう方のためには従来の減価しない割引率10パーセントのカードも残しておくという選択肢があります。ひとりのお客様が両方のカードを持っていても問題ありません。賢い消費者は、うまく両方のカードを使い分けながら買いものをすることになるでしょう。それでまったく構わないのです、どちらにしてもあなたのお店で買いものをしてくれることに変わりはないのだから。この仕組みに顧客が慣れて来たら、1枚のカードに2種類のポイントを分けて貯められる、お得意さま仕様のゴールドカードを作ってもいいでしょう。

 この新しいタイプのカードを短期間に普及させるためには、どうしたらよいでしょう? これに対してもうまい方法があります。既存のカードを持っているお客様対象に優待キャンペーンを実施するのです。従来のポイントカードを新しいカードに切り替える際に、たまっていたポイントを2倍にして移行するという思い切ったキャンペーンです。これは期間限定のサービスであることを強調します。これで一気にカードの切り替えが進むと同時に、ポイントの消化も加速する。期間中の売上は倍増することでしょう。むろんその間の粗利は下がりますが、これは負債であるポイントを償却するためのコストだと考えてください。そうだ、言い忘れましたが、もうひとつシステムの改良が必要なところがありました。それはレジでのポイントの扱いについてです。2つ以上の商品を買われたお客様がポイントを使って支払われる場合に、レジに1回並ぶだけで、今回発生するポイントも最適に消化出来る仕組みをプログラムとして組み込むことです。具体的には、値段の高い商品から順にポイントの精算をして行き、最終的にお客様のポイント残高を最少にするようにシステムが計算するようにします。これもさほど難しい改造ではありません。実を言えば、この機能は現行の減価しないポイントカードに対しても組み込まれていて然るべきものなのです。今でもポイントをなるべく使い切りたい人は、レジで店員に面倒な指示をしたり、あるいは商品ごとにレジに並び直すといった手間をかけなければならないからです。特に減価するポイントカードでは、この機能は必須となります。

 減価するポイントカードを、競合に対する値引き競争のツールとのみ位置づけてはいけません。これを導入することの真の目的は、市場のパイを食い合うことではなく、需要を促進することで市場のパイそのものを拡大することにあるからです。とは言え、もしも御社のこのカードが成功すれば、競合も同じようなカードを作って対抗して来ることは当然でしょう。そこで御社は、いまのうちから次の戦略を練っておく必要があります。減価するポイントカードの価値をさらに高めるために、小売業としてのビジネスモデルの転換を図るのです。結局のところ、今回の世界的不況が自動車や家電などの耐久財メーカーを真っ先に直撃したのは、すでにこの分野では商品の供給が行き渡っており、新しい需要が生み出されにくい環境にあるからです。そういった状況のなかで、減価するポイントカードによって購買をせかされても、顧客はストレスを感じるだけかも知れません。しかし、本当に需要というものは家庭のなかで枯渇してしまったのでしょうか? よく見回せば、どこの家庭にも古くなったり故障したりして使われなくなった電気製品がひとつやふたつはある筈です。最近は故障した製品を修理して使うよりも、新製品に買い換えることを業界全体が奨励していますから、ひとつの製品を長く大事に使うというライフスタイルが廃れてしまった。ここにビジネスチャンスがあります。新しく買いたい商品が見付からなくても、修理またはオーバーホールして使いたいものは家の中にいくらでも見付かる訳ですから。メーカーに持ち込めば嫌な顔をされる修理品でも、御社のサービスカウンターでは快く引き受けてくれる。それを可能にするサービス部門の拡充を図ります。修理やオーバーホールのニーズは、家のなかの家電製品の数が増えるほど定常的に発生しますから、このサービスは減価するポイントカードとも相性の良いものである筈です。

 さらにアフターサービス部門が実力をたくわえたら、リサイクル事業にも乗り出しましょう。これもこれからの時代のニーズとして有望なものです。中古品を買い取り、オーバーホール後にリサイクル専門の店舗で販売する。これは一見、小売業としての自殺行為のように見えますが、そうではありません。これからは経済格差が前提の社会になりますから、リサイクル品を求める購買層が間違いなく拡大する。安い海外メーカーの新製品より、しっかりオーバーホールされた国内メーカーの製品の方が好ましいと思う消費者もいるでしょう。いまは彼らのニーズを満たすものが無いのです。(自動車に比較して、家電製品でのリサイクルが遅れているのは、業界としての怠慢に他なりません。) ここでもポイントカードが有効に活用出来ます。つまり中古品の買い取りに自社のポイントを使うという発想です。例えば減価しないポイントであるならば、現金より20パーセント上乗せで買い取る、減価するポイントなら50パーセント上乗せにする。お客様にとっては、ちょっと魅力的なサービスでしょう? これで顧客の消費ライフサイクルをまるごとカバー出来る仕組みが完成する。ここまで来れば、ポイントカードと言えども単なる販促ツールの域を脱しています。それは大量消費の時代が終わって、持続可能な社会に移行することが望まれている時代における、ひとつの提言とも言えるものです。もともと「減価する貨幣」というものは、経済の無限の拡大指向(恒常的なインフレ社会)に対するアンチテーゼとして考案されたものでした。減価するポイントカードの取り組みは、これを一企業が先取りするという画期的な意義を持つものなのです。

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2009年2月15日 (日)

政府紙幣発行について考える

 このところマスコミで「政府紙幣」の話題が取り上げられる場面が多くなりました。私が政府貨幣の記事を最初に書いたのは、このブログを始めた2005年のことでした。先見の明があった訳ではなく、たまたまインターネットで「セイニアーリッジ政策」、つまり政府貨幣発行政策のことを知り、興味を持ったのがきっかけでした。その時の私の主張は、政府貨幣によって国の抱える莫大な借金をチャラにして、日本を〈きれいな身体〉にして次の世代に引き渡そうというものでした。今日の政府紙幣論議のポイントはこれとは違います。いま問題なのは、国が抱える借金ではなく、当面のこの不況をどう乗り越えるかということだからです。最近急に政府紙幣のことを言い出した人たちは、これによって積極的な財政投資を行なって、景気を刺激することを主張しています。例えばエコノミストの森永卓郎さんは、いつものあの楽観論の口調で、50兆円の政府紙幣を発行して、そのうち25兆円で国民全員に20万円ずつの定額給付金を配り、残りの25兆円で政府は民間企業の株を買うべしなんて主張をしている。麻生政権が実施しようとしている、ひとり当たり1、2万円程度の給付金では、焼け石に水だというのです。

 そんなうまい話があって良いものだろうか? 私たち国民がまず感じるのは、そういう疑問だと思います。私たちが毎日使っている紙幣、つまり日本銀行券は政府が勝手に発行したものではありません。政府とは(一応)独立した日本銀行という株式会社が、自らの持つ資産の裏付けの上に発行したものです。(その裏付け資産の大半は国の借金証書、すなわち国債です。) 確かにものの本を読めば、国家というものは本来、貨幣発行権を持つと書いてある。しかし、日本政府は少なくとも明治時代以降この特権を行使したことはありませんし、先進諸国の中でも政府が財政政策の一環として紙幣を発行している例などありません。もしも国が好き勝手に紙幣を刷って発行出来るなら、政治家なんてこんな楽な商売は無いし、1千兆円とも言われる国の借金だってまったく問題ではなくなってしまう。常識的に考えれば、とても承服出来るような政策ではないと思います。そこでこの政策を主張する人は、何か言い訳を考えなければならないことになります。例えばいまは百年に一度という未曾有の経済危機なので、通常は〈禁じ手〉と言われる政策でもためらうべきではないと言う人もいますし、現在の日本のように生産能力が余っているのに需要が足りなくて不況に陥っているような社会では(デフレ・ギャップが大きいという言い方をします)、政府紙幣を発行してもインフレや通貨不安に結び付く心配など無いと言う人もいます。

 私自身は、政府紙幣の発行には違和感を感じるものの、今のこの閉塞感を打ち破るためには、そのくらいのことを試してみることも充分アリなのではないかと考えています。但し、森永さんの主張するようなやり方、つまり国民に一律にお金を配る政策(いわゆるヘリコプター・マネー)には、金額の多寡に関係なく反対したい気がします。それはもともと不道徳なこの政策に対し、文句を言わせないための口止め料を払うようなものだからです。それはいわば財政の規律を破ることに対して、国民を共犯者に仕立るようなやり方です。(麻生政権の定額給付金のいかがわしさも、これと同じ構図を持っています。) 私はむしろ政府紙幣による大規模な財政出動を行なうならば、喫緊の課題である医療や福祉の立て直しや、最低賃金の引き上げといったことに使った方が、よほど国民にとっては納得が行くし、また有効需要の喚起にも効果があるのではないかと思います。さらに言えば、この禁断の政策を政府に許すに当たっては、厳格なルールを定めるべきだとも考えます。例えば政府紙幣の発行額は、前年の国内総生産(GDP)の正確に10パーセントとし、それよりも多くても少なくてもいけないものとする。(10パーセントが妥当かどうかは分かりません。ただこの政策はみみっちく小額でやっても意味が無いと言われます。森永さんの言うように50兆円程度の金額は必要だと思います。) そしてもうひとつ重要なルールとして、発行した政府紙幣の半分は、国債の償還または(同じことですが)新規国債発行の抑制に当てるものとします。このルールによって、政府紙幣をまるごと財政投資に当てることは出来なくなる。これは次の世代に対する現役世代の義務として、そうあるべきものだと考えるのです。

 政府紙幣に関して、以上のようなことを漫然と考えていたら、さらに過激な考え方があることを知りました。丹羽春喜さんという経済学者の方の言葉にそれはあります。丹羽博士は筋金入りのケインズ主義者であり、ずっと以前から政府貨幣の必要性を訴え続けて来た方です。インターネットで見付けた文章から引用します。私にはたいへん衝撃的な内容だと思えるのですが…。『そのことは、在来の概念での国家財政バランスにおける黒字、赤字といったことが、無意味になるということでもある。これは、まさに、大事件である。それに代わって意味を持つようになるのは、マクロ経済的にデフレ・ギャップが発生しているのか、インフレ・ギャップが発生しているのかということである。すなわち、「真の意味でのマクロ有効需要政策」(いわゆる「国民経済予算制度」政策)を市場メカニズムと結合した「人智の及ぶ限り最善の経済システム」を実現しうる道筋へ、日本が全世界を導いて進むことができるようになるということである。』 私なりに翻訳するとこうなります、「技術が進歩して社会が総体的に豊かになった時代においては、国の財政が赤字だとか黒字だとかいうことは何も問題ではない。社会が豊かになったことが確かなら、国はその分の貨幣を増刷して、国民に豊かさを還元すべきである。」 そして日本は全世界に対して、その先導役であるべきだというのですね。これは気宇壮大なヴィジョンです。(自分流に)もっと噛みくだいて言えば、「働かなくても生きて行ける時代のための新しい経済原理」ということにもつながるような気がします。と書いて、ひとつのスローガンが心に浮かびました、「ベーシックインカムは政府紙幣で!」。そこまで言ったら、ちょっと飛躍し過ぎでしょうか(笑)。

 ところでこれは〈新時代の計画統制経済〉とでも呼べるようなものですから、もしもこれを目指すなら、政府や中央銀行とは独立した中立な査定機関が必要であるような気がします。例えば特定の国に属さない国際機関を作って、そこがある国の需給ギャップを客観的に査定し、許容される政府紙幣の発行額を勧告するといったイメージです。場合によっては、マイナスの査定が出されることもあるでしょう(ジンバブエのような国の場合には)。そうした第三者機関が存在したなら、確かに日本円が独歩高になっている現状からも、日本に対してはかなり大きなプラス査定が出て来そうな気がします。重要なことは、この政策は大きな政府だとか小さな政府といった議論とは別次元の話であるということです。丹羽さんの試算によると、ここ十数年のあいだに日本がデフレ・ギャップのために失った潜在的なGDPは、5000兆円にものぼるのだそうです。まあ、このあたりは学者によって異論もあろうかと思いますし、実際のところは計算で正しい値を求めることなど不可能であるに違いないと思います。だったらまず日本でこれを実験してみて、結果のデータを収集するところから始めるのも一案だと思う。その経験知を持たないあいだは、経済学者の論争だって神学論争の域を出ないものではないかという気がするのです。私自身は、需給ギャップを追加の貨幣で埋めるという発想よりも、貨幣自体の流通速度を高めることで需要そのものを喚起するというシルビオ・ゲゼルの思想により親しみを感じているのですが、政策としての実行のしやすさという点では、政府紙幣の方が勝っているのも確かです。もしも私が麻生さんだったら、この政策に起死回生のチャンスを賭けることに、ためらいは持たないと思うのですが…

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2009年2月 8日 (日)

ボツになったアフォリズム集(2)

  1. 刑罰の主たる目的を、「報復」、「抑止」、「教育」のいずれに置くかということは、その国の歴史や国民性と深く関わる問題であるに違いない。
     
  2. 世間を騒がす凶悪で非道な犯罪が行なわれた時、それは被害者にとってだけではなく、それを見聞きした我々ひとりひとりに試練を与えるものなのだと思う。我々は、この世で病気や障害や貧困といった試練に出会うように、犯罪という試練にも出会うのである。
     
  3. 日本のように治安が良く、犯罪が少ない国に向かって、画一的な世界の基準で死刑廃止を迫る国連や西欧連合の主張は、捕鯨禁止をヒステリックに叫ぶ環境団体の主張と選ぶところはない。
     
  4. 頑固な死刑反対論者であっても、裁判員になった以上自分の思想信条をいったん棚上げして、現行の法制度を認めた上で、すなわち死刑という選択肢もあり得ることを承認した上で、裁判員として出廷することを求められているのだろうか? だとすれば、そこに私が参加するどういう意味があるというのだ?
     
  5. 模擬裁判では、被害者遺族の意見陳述が裁判員の判断にそれほど大きく影響しないことが確かめられたと言う。しかし、模擬裁判で検証するのに、こんなに相応しくないテーマも他にはあるまい。
     
  6. 犯罪被害者の心を救うためには、応報感情を満たしてやることしか選択肢が無いのか? それは長い目で見れば、被害者の心に精神的後遺症を残すだけではないのか?
     
  7. 修復的司法というものの技術を考案すること。これに関して私はひとつのアイデアを持っている。それぞれ別々の殺人事件の加害者と被害者が(つまり互いに相手を取り替えて)話し合いを持つというものだ。自分の肉親を殺した本人に相対して、自分がどのような役どころを演じればいいのか、それを知っている人がいるなら教えて欲しいものだ。
     
  8. 今週の報道から。障害のある息子を殺した父親に裁判官が言った言葉。あなたの子供が障害を持って生まれたことにも意味があるし、あなたがこの先罪を償いながら生きて行くことにも意味がある。この言葉は無条件に私の心を打つ。が、それはまたこの事件が被害者遺族がいない事件だからこそ言える言葉だとも思う。
     
  9. 自分には社会的な良識があり、刑事裁判で被告人を正しく裁くことが出来ると信じている善良な人々に、私は心底嫌悪を覚える。「モンスター裁判員」。
     
  10. ワーキングプアやニートと言えば、私たちはそこにマイナスのイメージしか見ようとしないが、過度な物質的豊かさを求めない、そういう賢い生き方を選択している若者たちも生まれ始めているようだ。基本的な生活が保証されてさえいれば、人間はなんと少ないもので満足出来ることか。こういう考え方をこれからの時代の通念として広めて行くことは、持続可能な社会を作るためにも必要不可欠なことだと思う。
     
  11. 若い男女が出会う。まず気になるのは相手の経済力だ。社会の互助的な仕組みが機能していた昔の日本なら、貧しくても幸福な家庭というロールモデルを目指すことも出来ただろう。が、今日の社会はそういうものを許さない。今の日本には貧乏人の住む場所が無いのだ。非婚化の原因は単純なところにある。
     
  12. 労働のモラルは既に高いレベルに到達している。最近の企業の不祥事を見ると、それには疑問があると見る人もいるだろうが、内部告発によってこれまでは隠されていた企業の不祥事が明るみに出されるようになったのも、私は労働のモラルが進化した証拠だと見る。むしろこれから私たちが学ばなければならないことは、「消費のモラル」をどう高めて行くかではないか。
     
  13. 景気の悪化で企業の内定取り消しということが問題になっている。CSRなどというコトバが流行しているのに反比例して、企業倫理は地に堕ちている。こんな時代の就職戦線を勝ち抜くためには、学生は当然「内定かけもち」で行くしかないだろう。いくつかの企業から内定をもらっておいて、1社を除いて卒業時にドタキャンする訳だ。そのことを社会倫理にもとる行為だと非難する根拠を、いまの産業界は持っていない。
     
  14. とにかくお金に換算出来る労働だけが価値のある労働だという偏った認識を変えなければならない。そしてお金に換算出来ない労働を交換出来る、お金に代わる媒介物が必要なのだ。地域通貨の目指すべき目標はここにある。
     
  15. 幸いなことに、1万円のキャビアは100円の納豆よりも100倍美味しい訳ではない。
     
  16. 炊き出し風景を見ての感想。意地の悪い見方をすれば、以前からホームレスだった人にとっては、とても過ごしやすい年末年始だったのではないだろうか?
     
  17. 日本にもとうとう金持ちのための城塞都市というものが出来始めたらしい。これを思い切り笑いのめしてやれるような、貧乏人のための幸福で活気ある町を私は作ってみたい。
     
  18. 今日我々が税金を支払うことを当然だと思っているくらい、ベーシックインカムを受けることは当然だと思うような社会を作らなければならない。与えられるものはすべて労働の対価であるか、あるいは富める者からの施しであると考えるのは、生きるための物資が不足していた時代、生きるためには他人を蹴落とさなければならなかった時代の思想である。
     
  19. 日本の年金が制度として崩壊してしまった以上、これに代るものが必要なのは自明の理である。ベーシックインカム以外にこれに取って代わることが出来るものの候補があるだろうか?
     
  20. 最近は共産党に入党する若者が増えているそうだ。『資本論』もよく売れているらしい。搾取・被搾取の構造を打ち壊すために、21世紀にも階級闘争と革命が必要だと言うのだろうか? 問題は階級の対立にあるのではなく、貨幣の流通速度をコントロールする技術にあるというシルビオ・ゲゼルの思想は、いまだに目新しいものである。
     
  21. 最近は不祥事を起こして議員を辞める政治家も多いが、そんな候補者を選んでしまった地元の選挙民は、自分たちの鑑識眼の無さを恥じるべきだろう。実際には選挙が終わってしまえば、もう地元の代議士と有権者の関係はそこで切れてしまい、その人を選んだ責任などという意識などこれっぽっちも持ち続けることはない。そして次にその人が私たちの前に現れて来るのは、次回の選挙の時という訳である。
     
  22. 日本人の伝統的なメンタリティの面から見直してみれば、日本のリベラル派というのは政治思想としての左翼というよりも、単なる判官贔屓の国民性を代表しているだけのものかも知れない。もしもそういうメンタリティを日本のリベラル層が持っているなら、彼らの支持政党は常に振り子のように揺れ動く可能性がある。
     
  23. 政治の究極の目標とは、ひとりひとりの国民が「いい時代に生まれ合わせた」と感じられるような社会を作り出すことにある。
     
  24. 海賊が出没する海域への海上自衛隊の派遣が問題になっている。これが問題となる理由は、日本の自衛隊が持つ装備が、専守防衛を旨とする軍隊にはまったく役立たずのものでしかないという点にある。例えば敵を死傷させることなく、ただ相手の戦闘能力だけを奪ってしまうような武器というものを考えてみよう。自衛隊に必要なのは、そういう種類の武器である。日本はそうしたものの開発に軍事予算を集中投下してはどうか。そしてこの「人道兵器」を日本は世界中に輸出すればいい。もしもその分野の技術で世界をリード出来れば、日本は再びものづくりで食っていけるようになる。
     
  25. 日本がいまの平和ボケから抜け出すにためには、完全な非武装中立国家になってしまうのも一手である。そうなれば、政治には常に緊張感が張りつめ、抜け目の無い外交戦略を強いられるようになる。これこそ今の政治に欠けているものではないか。
     
  26. 今の時代、問題なのは権力による専横よりも、それを許してしまう市民の無関心だろう。
     
  27. 残虐な拷問による死刑を楽しんでいた歴史上の暴君たちは、人間があまりにあっけなく死んでしまうことに物足りなさを覚えたに違いない。
     
  28. セデーション。現代はきめこまかなサービスの時代なのだから、死に方も自分で選べるようになることは少しも不思議ではない。そんな時代が来たなら、人の最期を自然死に任せていた時代がなんと野蛮に見えることだろう。
     
  29. 遺される者に自分の断末魔の苦悶を長時間見せつけること、あるいは医者に安楽死をさせてやってくれと頼み込まざるを得ないような立場に追い込むこと、それは死んで行く者の作法として立派なものとは言えまい。
     
  30. 死は死んで行く者にとってはなんら倫理的な事柄ではないが、遺された者には倫理的な意味を残す。
     

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2009年2月 1日 (日)

裁判への被害者の参加をめぐって

 前回、「一方的に被害者に寄り添うこの国の世論」ということについて書いたら、ちょうどいいタイミングで今週の新聞に裁判への被害者参加の問題が取り上げられていました。朝日新聞の朝刊に連載されている『人を裁く』という記事です。法と裁きの問題を考える上で、本質に触れる重要なポイントだと思いますので、この記事をネタにもう一度この問題を取り上げます。今回の記事に私が興味を持ったのは、日本では始まったばかりの裁判への被害者参加制度について、先行する海外の事例が紹介されていたからです。世論が死刑制度や厳罰化の流れを支持している日本で、被害者参加制度と裁判員制度とがほぼ同時期にスタートすることに私は危惧の念を抱いている訳ですが(それは偶然の一致ではなく、権力側の意図によるものではないのか)、これは多少の論点の違いはあっても、欧米各国でも共通に抱えている問題のように見えます。

 象徴的なのはアメリカの事例です。87年にメリーランド州で起きた殺人事件の裁判で、被害者遺族の証言に対して連邦最高裁は次のように述べ、「違憲」の判断を下したと言います。「被害者がどれほど素晴らしい人だったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪とは何の関係もない。陪審員を過度に刺激し、証拠に基づいた判断から遠ざけるだけだ」。ところがその4年後の91年に、連邦最高裁は別の事件でこれとは正反対の判断を下します。これも記事から引用します、「遺族の意見陳述について『被害者が一人のかけがえのない人間だったことを示すためのものだ』と述べて、違憲の判断を事実上、修正した。遺族が伝えた内容は罪の重さを決定する要素となる、との判断だった」。なるほど、面白いですね。何が面白いかって、つまり陪審制の長い歴史を持つアメリカでも、こんな基本的なことにすらコンセンサスが出来ていなかった、という点がです。つい最近も、アメリカでは殺された被害者の生涯をつづったビデオを、法廷で映すことの是非をめぐって、裁判で争われていたのだそうです。考えてみれば当たり前のことですが、日本人に限らずどこの国の人だって、愛する家族が殺されれば、犯人には極刑を望む筈です。死刑のある国なら死刑を、死刑のない国なら終身刑または無期刑を。被害者遺族がそれを法廷で訴える権利も、自由主義の社会では当然認められるべきだと思います。ただ問題は、訴える相手がプロの裁判官だけではなく、陪審員や裁判員といった素人さんたちである場合です。

 記事のなかでさらに面白く感じたのはドイツの事例です。ドイツでは市民から選ばれた参審員が裁判に参加しますが、被害者が裁判に参加する割合は25パーセント程度にとどまるのだそうです。「ドイツの参審員は立候補や推薦で選ばれ、4~5年の任期制。被害者の感情に左右されずに裁判に臨むという考えが参審員に定着しており、被害者の側も『参加してもしなくても変わらない』と参加を控えるのだという。」 記事はドイツで最近あった殺人事件の裁判について伝えています。そこには被害者の父親ら5人の遺族が参加して、被告や証人に対して長々と質問を続けたために、7回の開廷予定が12回に延びてしまったのだそうです。「判決は遺族が希望した終身刑にはならず、懲役9年にとどまった。」 これはドイツの参審員が冷静だったというより、遺族のプレゼンテーションの仕方がまずかったのかも知れません。一方フランスでは、裁判に遺族が参加することの方が当たり前のようです。渡仏していた娘さんを殺された日本人のご夫婦は、「現地の弁護士から『遺族が出ないと、娘を大切にしていないと参審員に見られ、裁判で不利になる可能性がある』と説かれ」、パリ重罪院での裁判に臨んだのだそうです。判決の結果については、「夫妻は軽すぎると感じたものの、『参審員にあれだけ真剣に考えてもらった結果だから』と納得できたという。」 こういう話を聞くと、なるほど市民の司法参加にもそれなりのメリットがあるのだなと感じさせられます。(但しそれはドイツもフランスも、すでに死刑を廃止した国だという前提条件があればこその話です。死刑のある国では、そもそも参審制(裁判員制もその一種)というものを採用すること自体があり得ない話だからです。)

 今回はあまり自分の意見を披瀝するつもりの記事ではないのですが、ひとつだけこれだけは書いておきたいことがあります。被害者遺族の意見陳述をどの程度まで量刑に反映させるべきかという点についてです。この点に関しては、私は単純に87年のアメリカ最高裁の判断を支持したい気がします。すなわち、「被害者がどれほど素晴らしい人だったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪とは何の関係もない」という割り切った考え方です。これは別に道徳的な問題として判断すべきことがらではなく、論理的に考えてそうでなければ矛盾が起こるという話です。これは逆のパターンを考えてみればすぐに分かります、被害者の遺族が切々と訴えれば、私たちは心を動かされるに違いない、では、殺された人がまったく係累の無い単身者で、法廷でその人の死を嘆く人がひとりもいなかった場合、犯人の罪は少しでも軽くなるのだろうか? あるいは出廷した遺族にどういう訳か一向に悲しみの様子が見られないと思ったら、殺された被害者はふだんから妻子に暴力をふるうどうしようもないDV男だったことが判明した、そんな場合には逆に量刑が少し甘くなるのだろうか? 裁判では被告の情状をどう評価するかということが審理の重要なポイントになります。犯人の不幸な生い立ちが明らかになって、情状酌量で判決が軽くなる場合もあるでしょうし、逆に反省の様子が見られないとして重い刑を言い渡さなければならない場合もあるでしょう。それを話し合うことが裁判員の主要な任務になる筈です。が、「被害者遺族の情状」というものは、本来裁判の判決とは無関係であるべきものです。ここでは「被害者の感情に左右されずに裁判に臨む」というドイツの参審員の冷静さが求められるのだと思います。

 これも同じく今回の記事に載っていた情報です、最高裁のアンケート調査によると、刑罰の果たす役割は何かという質問に対して、国民の56パーセントの人が「悪いことへの報い(応報)」だと答えているのだそうです。続いて「犯罪を防止するもの」が31パーセント、「犯罪者を教育するもの」はわずか13パーセントだったらしい。足して100パーセントになりますから、三者択一の設問だったのでしょう。私はこの選択肢にある「応報」というコトバに引っ掛かりを感じます。応報と言えば、罰する主体は国家でも被害者でもなく、「天罰」に近いものとなってしまう。何故はっきり「報復」と言わないのか。これはアンケートを取った最高裁にも問題がある。こういうコトバを使うことで、刑罰を与える側の主体性と責任がぼやかされる訳です。まあ、その問題はともかく、このアンケート結果からも日本人の応報感情の強さというものがはっきりと窺われるように思います。もしも裁判員制度が始まったら、裁判員として参加する国民に対して、「被害者の感情に左右されずに裁判に臨む」ことの重要性がきちんと説明されるのでしょうか? おそらくされないだろうと思います。法務省が作成したパンフレットによれば、裁判員は自らの道徳感情に従って自由に意見を言っていいことになっている。言葉を換えて言えば、法廷を私的な報復の場にすることだって許される訳だ。それも含めて民意をトータルに刑事裁判に反映させるというのが裁判員制度のコンセプトだからです。しかし、被害者の訴えをどう判決に取り込んで行くかという問題は、それについてもいろいろな意見があっていいといった問題ではなく、この国の裁判の在り方をもっと深いところで規定する基本のルールであるべきものではないか。これに対する議論もコンセンサスも無いままに、国民の司法参加もへったくれもないだろうと私は思うのですが、残念ながらこんな私の意見に賛成してくれる人もほとんどいないようです。

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