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2009年1月25日 (日)

死刑廃止論の新しい地平へ

 辺見庸さんの新刊、『愛と痛み』を読みました。文学者の視点から書かれた死刑反対論です。私自身が頑固な死刑反対論者ということもあって、非常な共感をもって読むことが出来ました。むしろ最近こういう気骨ある死刑論に出会う機会が少なかったので、心の渇きが癒されたような気持ちにさえなったほどです。例えば学者やジャーナリストといった立場の人たちが死刑に反対する場合、冤罪の問題であるとか、制度そのものの違憲性といったことをあげつらうことが多いと思います。しかし、死刑が反対されるべき理由は、そんな周辺の部分にあるのではない。死刑とは戦争と同じく国家による殺人なのであり、あらゆる殺人が絶対的な悪として拒絶されるべき同じ理由で、我々は死刑制度を拒絶しなければならない。これがやはり死刑反対論の原点であろうと思います。自分もこれまで、いろいろさかしらな理由をかざして死刑廃止を訴えて来ましたが、それらのコトバはこの本に書かれた言葉の重さにわずかでも比肩出来るものだったろうか? 聞けば著者は癌や脳梗塞といった重い病気と闘いながら、こうした言葉を紡ぎ出しているのだそうです。

 この本のなかで述べられている日本という国の特殊性に関する意見に私も同意します。すなわち日本人は「個」が確立されておらず、集合的でとらえどころのない「世間」というものに道徳的な責任を預けてしまっているという意見です。だからほとんどの先進国が死刑制度を廃止していて、日本は国連からもEUからも死刑廃止に向かうよう勧告を受けているにもかかわらず、大多数の国民はその事実に恥ずかしさも怪しみも感じていないという驚くべき知的怠慢のなかにいる。まるでこの国は道徳の領域において、いまだに鎖国を続けているかのようです。そういう国民性を持った国で裁判員制度のようなものが始まることへの危機感も私は著者と共有しています。ただ、辺見さんの「捨て身の」とでも呼びたいような告発の文章を読みながら(それは著者自身を含めた私たちすべてに対する告発です)、私はまたこうした言説が、死刑を容認するこの国の世論に対してほとんど何も影響力を持ち得ないだろうとも思うのです。死刑賛成派の人たちは、この本では触れられていないひとつの単純な観念によって心に強迫を受けているのです。つまり、「もしも死刑が無かったら、殺人事件で殺された被害者の人権はどうなってしまうのだ?」という疑問です。この本のなかに、自分の娘を殺した男を養子として迎えたというフランス人の話が出て来ます。著者はそこに私たちの世間には欠けた光明を見ている。死刑賛成派にとってみれば、おそらくこれほど虫唾の走る話は無いでしょう。死刑に反対する人は誰でも、この点に対する想像力を失ってはならないと思います。

 これもすでに書いたことの繰り返しになりますが、もしも死刑存廃についての真に前向きな議論が成り立つとすれば、それは国民の八割が死刑に賛成しているというこの国特有の事情を出発点にしたものでなければならないと考えます。辺見さんは、個人の主体性を持たない世間というものを「鵺(ぬえ)」と呼んで切り捨てている。そこは違うのではないかというのが私の意見です。この本でも引用されているマザー・テレサの有名な言葉があります、「愛の反対は憎しみではなく無関心である」という言葉です。凶悪犯罪が起これば、この国の世論は犯人を死刑にしろという声で満たされる。それは無関心などというものでは到底ないでしょう。むしろ私の考えでは、日本人は道徳的なエネルギーにおいて過剰なのではないかと思う。日本人の犯罪被害者に寄り添う気持ちの強さは、おそらく先行して死刑を廃止した欧州各国とは比較にならないものではないかというのが私の仮説です。(だからこそ裁判員制度に対しては深い危惧を感じているのですが。) それを肯定的に捉えることから日本の死刑廃止論は出発しなければならないと思います。日本は先進国のなかでも、特に犯罪の発生率が低い国だという事実があります。殺人ばかりでなく犯罪全般について言えることですから、それは死刑の抑止効果によるものだとは考えられません。犯罪を憎む気持ちにおいて、日本人の精神的エネルギーは非常に高いボルテージを示している。このことは「個の確立」などという議論とは別次元の話です。

 死刑に反対する意見を書けば、自分のような読者の少ないブロガーのところにも反論が寄せられて来ます。この議論は虚しいことに気付きました。いずれにしても日本は、そう遠くない未来に死刑を廃止する方向に向かわなければならない時代が来るでしょう。国民の意識の変化を通してではなく、国際社会からの圧力に抗することが出来なくなるというかたちで。(アメリカや韓国が完全な死刑廃止国になった場合のことを考えてみてください。) 私たちが目指さなければならないことは、それを日本人の道徳的なエネルギーによって主体的に成し遂げる道筋を見付け出すことだと思います。死刑に賛成だとか反対だとか、井の中の蛙のような議論で道徳的エネルギーを消耗している場合ではない。それを率先して考えることは、私たち死刑反対派の人間の義務であるとも言えます。今年から犯罪被害者が公判で意見陳述を出来る制度が始まりました。制度自体には私も賛成します、ただ裁判員制度と合わせた場合に、ますますこの国の世論が一方的に被害者に寄り添うことになるのは必至だろうと思うのです。このブログの以前の記事で、半世紀以上に亘って少年刑務所で受刑者の少年たちとの面接を続けていらっしゃる黒田久子さんの言葉を取り上げたことがありました。いま私たちが自覚的に努めなければならないことは、被害者に寄り添う気持ちのせめて何分の一かでも加害者に振り向けること、そのことによって私たち自身の道徳心を鍛え直して行くことだろうと思います。辺見さんのような鋭い告発の言葉では、死刑をめぐる国民感情の分裂がさらに深くなるだけだと怖れるのです。

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