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2009年1月25日 (日)

死刑廃止論の新しい地平へ

 辺見庸さんの新刊、『愛と痛み』を読みました。文学者の視点から書かれた死刑反対論です。私自身が頑固な死刑反対論者ということもあって、非常な共感をもって読むことが出来ました。むしろ最近こういう気骨ある死刑論に出会う機会が少なかったので、心の渇きが癒されたような気持ちにさえなったほどです。例えば学者やジャーナリストといった立場の人たちが死刑に反対する場合、冤罪の問題であるとか、制度そのものの違憲性といったことをあげつらうことが多いと思います。しかし、死刑が反対されるべき理由は、そんな周辺の部分にあるのではない。死刑とは戦争と同じく国家による殺人なのであり、あらゆる殺人が絶対的な悪として拒絶されるべき同じ理由で、我々は死刑制度を拒絶しなければならない。これがやはり死刑反対論の原点であろうと思います。自分もこれまで、いろいろさかしらな理由をかざして死刑廃止を訴えて来ましたが、それらのコトバはこの本に書かれた言葉の重さにわずかでも比肩出来るものだったろうか? 聞けば著者は癌や脳梗塞といった重い病気と闘いながら、こうした言葉を紡ぎ出しているのだそうです。

 この本のなかで述べられている日本という国の特殊性に関する意見に私も同意します。すなわち日本人は「個」が確立されておらず、集合的でとらえどころのない「世間」というものに道徳的な責任を預けてしまっているという意見です。だからほとんどの先進国が死刑制度を廃止していて、日本は国連からもEUからも死刑廃止に向かうよう勧告を受けているにもかかわらず、大多数の国民はその事実に恥ずかしさも怪しみも感じていないという驚くべき知的怠慢のなかにいる。まるでこの国は道徳の領域において、いまだに鎖国を続けているかのようです。そういう国民性を持った国で裁判員制度のようなものが始まることへの危機感も私は著者と共有しています。ただ、辺見さんの「捨て身の」とでも呼びたいような告発の文章を読みながら(それは著者自身を含めた私たちすべてに対する告発です)、私はまたこうした言説が、死刑を容認するこの国の世論に対してほとんど何も影響力を持ち得ないだろうとも思うのです。死刑賛成派の人たちは、この本では触れられていないひとつの単純な観念によって心に強迫を受けているのです。つまり、「もしも死刑が無かったら、殺人事件で殺された被害者の人権はどうなってしまうのだ?」という疑問です。この本のなかに、自分の娘を殺した男を養子として迎えたというフランス人の話が出て来ます。著者はそこに私たちの世間には欠けた光明を見ている。死刑賛成派にとってみれば、おそらくこれほど虫唾の走る話は無いでしょう。死刑に反対する人は誰でも、この点に対する想像力を失ってはならないと思います。

 これもすでに書いたことの繰り返しになりますが、もしも死刑存廃についての真に前向きな議論が成り立つとすれば、それは国民の八割が死刑に賛成しているというこの国特有の事情を出発点にしたものでなければならないと考えます。辺見さんは、個人の主体性を持たない世間というものを「鵺(ぬえ)」と呼んで切り捨てている。そこは違うのではないかというのが私の意見です。この本でも引用されているマザー・テレサの有名な言葉があります、「愛の反対は憎しみではなく無関心である」という言葉です。凶悪犯罪が起これば、この国の世論は犯人を死刑にしろという声で満たされる。それは無関心などというものでは到底ないでしょう。むしろ私の考えでは、日本人は道徳的なエネルギーにおいて過剰なのではないかと思う。日本人の犯罪被害者に寄り添う気持ちの強さは、おそらく先行して死刑を廃止した欧州各国とは比較にならないものではないかというのが私の仮説です。(だからこそ裁判員制度に対しては深い危惧を感じているのですが。) それを肯定的に捉えることから日本の死刑廃止論は出発しなければならないと思います。日本は先進国のなかでも、特に犯罪の発生率が低い国だという事実があります。殺人ばかりでなく犯罪全般について言えることですから、それは死刑の抑止効果によるものだとは考えられません。犯罪を憎む気持ちにおいて、日本人の精神的エネルギーは非常に高いボルテージを示している。このことは「個の確立」などという議論とは別次元の話です。

 死刑に反対する意見を書けば、自分のような読者の少ないブロガーのところにも反論が寄せられて来ます。この議論は虚しいことに気付きました。いずれにしても日本は、そう遠くない未来に死刑を廃止する方向に向かわなければならない時代が来るでしょう。国民の意識の変化を通してではなく、国際社会からの圧力に抗することが出来なくなるというかたちで。(アメリカや韓国が完全な死刑廃止国になった場合のことを考えてみてください。) 私たちが目指さなければならないことは、それを日本人の道徳的なエネルギーによって主体的に成し遂げる道筋を見付け出すことだと思います。死刑に賛成だとか反対だとか、井の中の蛙のような議論で道徳的エネルギーを消耗している場合ではない。それを率先して考えることは、私たち死刑反対派の人間の義務であるとも言えます。今年から犯罪被害者が公判で意見陳述を出来る制度が始まりました。制度自体には私も賛成します、ただ裁判員制度と合わせた場合に、ますますこの国の世論が一方的に被害者に寄り添うことになるのは必至だろうと思うのです。このブログの以前の記事で、半世紀以上に亘って少年刑務所で受刑者の少年たちとの面接を続けていらっしゃる黒田久子さんの言葉を取り上げたことがありました。いま私たちが自覚的に努めなければならないことは、被害者に寄り添う気持ちのせめて何分の一かでも加害者に振り向けること、そのことによって私たち自身の道徳心を鍛え直して行くことだろうと思います。辺見さんのような鋭い告発の言葉では、死刑をめぐる国民感情の分裂がさらに深くなるだけだと怖れるのです。

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2009年1月18日 (日)

明るい福祉の時代を予見します

 前回の続きです。「福祉」をこれからの日本の基幹産業のひとつにしようなどと言うと、おそらく違和感を覚える人も多いのではないかと思います。例えばそこから破綻したコムスンのような、福祉を食い物にする悪徳企業といったものを連想する人もいるでしょう。実際問題として、この国では基本的に福祉とお金の相性が良くないのではないかという気がします。福祉というもののイメージは、私たちのなかでボランティアだとか慈善事業だとかに結び付いていて、お金儲けの手段としての福祉というものに基本的な拒絶反応を感じているようなところがあります。このことが福祉というものが健全な産業に成長するための阻害要因になっているのではないだろうか。今週読んだ新聞の読者投書欄に、福祉施設の職員として働く娘さんを持つ方からの訴えが載っていました。誇りとやりがいを感じて始めた仕事なのに、あまりの低賃金と激務に職場を去って行く若者が後を絶たないというのです。福祉の仕事が低賃金であるのは、いまの制度上この業界にお金が集まらない構造が出来上がっているからであり、福祉の仕事が激務であるのは、あまりの低賃金で人が辞めて行った後に、残された人にかかる負担が大きくなっているからでしょう。この悪循環を看過している政治の無策は、もっと糾弾されて然るべきものだと思います。

 日本の福祉政策を根本的に立て直して行くためには、ふたつの方向性で考えて行く必要があると思います。ひとつは福祉の仕事そのものの合理化や効率化をもっと進めること、もうひとつは福祉業界に流れ込むお金の総額をもっと増やすような仕組みを作ることです。私は以前書いた記事で介護保険制度というものの問題点を指摘したことがありました。この制度が始まった2000年以降、私たちサラリーマンは毎月介護保険料という名目で給与天引きをされている訳ですが、それで高齢者介護に携わる人の給料が上がったという話は聞きませんし、行政がそのような指導をしているという話も聞きません。だとすれば私たちが収めて来たお金はどこに消えてしまったのだろう? おそらくこの制度によって、介護サービスを提供する事業者の数は増えたのだろうし、介護ヘルパーという職業の人の数も増えたのだろうと思います。当然そのサービスを安い料金で受けることが出来る利用者の数も増えたのでしょう。そういう意味では福祉の裾野を広げることには役立って来たものと思われます。問題は、この制度によって高齢者福祉というものが民間の競争原理が働かない官製の事業になってしまったというところにあります。なにしろ介護支援を利用する人の負担額はたったの1割で、残りの9割は行政が負担する仕組みになってしまったのですから。これを福祉制度の充実と考えてはいけないと思います。介護保険制度が出来てとても助かったという利用者は、その陰でワーキングプアと呼ばれるような安い賃金で働く福祉労働者が大量生産されていることを忘れてはいけないと思う。

 マクロ的な大きなお金の流れで考えて見れば、介護保険のような行政による画一的な福祉政策は、福祉業界を痩せ細らすことにしかつながらないでしょう。日本の高齢者は、全体として見れば世界で一番裕福な人たちである筈です。この国の福祉政策で最優先に考えるべきことは、この人たちが喜んで〈身銭〉を切りたくなるような魅力的なサービスを、民間の事業者が開発することを助ける仕組みを作ることです。もしも介護保険が無ければ、在宅介護のために自己負担で家政婦さんを雇うしかなかった世帯が、安く利用出来る介護サービスに切り替えることになる。利用者からすればこんなありがたい制度は無いでしょうが、それは要するにこの業界全体に投下されるお金を絞ったことにしかならない。(どうなんでしょう、私はよく知らないけれども、介護保険制度が始まって以来、家政婦さんの業界は壊滅的な打撃をこうむったのではないでしょうか?) 貧しい人も裕福な人も一律の料金で同じレベルの福祉サービスを受けられる制度というのは、決して福祉の充実にはつながらない筈です。介護保険制度は3年に一度ずつ見直しをされて、これまでもその度に事業者や利用者のあいだに動揺と混乱をもたらして来ました。今年もまたその3年目の年に当たるのですね。今回はどんな改悪が行なわれることやら。

 福祉のような貧しい人たちのセーフティネットに深く関係する分野では、一度作ってしまった制度は簡単に元に戻せないという問題があります。だから制度の見直しには慎重であるべきなのですが、すでに定着してしまった介護保険制度をこのまま続けて行くことも、ますます少子高齢化が進む状況のなかでは不可能なことだと思います。私はブログの記事を書く時に、単なる政策批判だけではなく何かひとつでも前向きな提言を書くことを方針としています。で、今回この問題に対する私の提言は、次のようなものです。まずは福祉の現場で働く人たちの待遇改善ということを第一に考えて、そこを起点に制度設計の見直しを図って行く。例えばこの業界の最低賃金を、労働基準法で定めている最低賃金よりも高く設定します。出来れば時給2000円、それが無理と言うなら1500円くらいでどうでしょう。これなら1日に8時間働いて、月に20日間で24万円になります。とにかく現状のようにこの業界で働く人がどんどん辞めて行く状況を改善して、福祉に人を呼び戻さなければならない。そのための原資は定額給付金の2兆円を使って…と言いたいところですが、これでは福祉産業を自立させるためになりません。ここは利用者の負担額を上げるしかないでしょう、つまり日本人の1500兆円の個人資産を当てにする訳です。現在の1割負担を、(医療費の自己負担率に合わせて)3割負担にするくらいでどうだろう。その分、介護保険からの負担を減らすのではなく、従事者の賃金アップに使うのです。もちろんそのことで介護を受けることが出来なくなる貧しい世帯の人たちに対しては優遇措置を採ることも必要です。

 たぶん自分のような素人の考えることですから、実際の政策として取り上げようとすれば、そう簡単には行かない問題もたくさんあるのだろうと思います。でも、先入観なしに虚心坦懐に考えてみましょうよ。いまの日本は産業の高度化や経済のグローバル化で、慢性的に余剰の労働力を抱えている。一方、高齢化社会の到来でこれから福祉のサービスを受けなければならない人たちの数は急激に増加する。そして総じて日本の高齢者は豊かな個人資産を持っているという事実がある。この3つの条件が揃っていれば、どう考えてもこれからは「明るい福祉の時代」が到来すると予想して良さそうなものじゃないですか。ところが政治がそれを阻害しているのです。今年もしも政権交代が起こるものなら、新しい政府にはひとつ福祉というものを核にしてこの国の明るい未来を描いていただきたいものです。貧しい人や不幸な人を助けるのが福祉だという誤った観念を捨てることが出来さえすれば、それは全然難しいことではない筈なのです。

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2009年1月12日 (月)

正月の炊き出し風景に思う

 この正月、都内の公園に子供を連れて遊びに行ったら、炊き出しの風景に出会いました。マスコミの報道ですっかり有名になった日比谷公園の「年越し派遣村」ではありません。もっと小さなありふれた公園なのですが、おそらく百人以上の人が集まっていたと思います。きっと同じような光景は、この年末年始に都内だけでなく全国各地で見られたのではないでしょうか。労働市場の流動性が際立って乏しいという、我が国特有の事情があるなかで、非正規雇用というものだけを促進した政府の罪は、それだけで政権を交代させられるに十分なほど重いと思います。が、一方で、このような国を挙げての危機のなかで、多くのNPO団体やボランティアの人たちが当たり前のように行動を起こして、政府の失策をリカバーしている。派遣村でインタビューを受けていた失業者の方は、久し振りに人の心の温かさにふれてもう一度頑張ってみようという気持ちになりましたと答えていました。ことの深刻さに心が重くなる一方で、そこにひと筋の希望の光を見たような気がしたのは私だけではなかったと思います。

 日比谷公園の派遣村に限って言えば、これは世間の目を意識したかなり露骨な政治的イベントだったのだろうと思います。霞ヶ関の官庁街のすぐ隣り、厚生労働省の目と鼻の先で炊き出しをやるというのは、なかなか洒落が利いている。活動の中心となったのは、ホームレスの支援などで有名なNPO団体を率いる湯浅誠さんという人だったようです。よくマスコミにも登場するので、名前だけは知っていました。今回のことで興味を覚えて、図書館で湯浅さんの本を一冊借りて来て読んでみました。私は何につけ感心しやすいたちの人間ですが、それにしてもこの人の文章からは強い感銘を受けました。まだ若い人だけれど、鋭い批評精神と行動力を合わせ持った人なのですね。文章もいい。こういう人が現れて、またその周りに共鳴する人たちが集まって、ひとつの社会運動を形成して行く、それはとても健全なことではないかと思いました。インターネットでいろいろな人の意見を拾ってみると、今回の派遣村の活動にはある種の違和感を感じるという人も多いようです。もしもこれを単純に人道的な観点からだけ見れば、そこには不純な動機が隠されているように見えるのかも知れません。でも、これは単なる慈善活動などではないのですね。はっきりとした政治的意図を持ったデモンストレーションだった訳です。そういうものとして見れば、これはほとんど完璧に企画され実行されたプロのお仕事だったようにも見える。おそらく公園の使用許可だってあらかじめ取ってあったのでしょう、官憲とぶつかる場面もありませんでしたし、テント村が満杯になると厚労省の講堂を開放させるなんていうウルトラCもやってのけている。まったく大したものです。

 湯浅さんの本には、いま日本で貧困を生み出しているのは政治であるという明確な主張がこめられています。(私が読んだのは『貧困襲来』という本です。) 私もその考えには100パーセント賛成なのですが、現在の財政状況とこれからの経済状況を前提に考えると、単に行政が社会のセーフティネットを充実させるといった方向性だけではとても追いつかないのではないかとも思います。現代の貧困には、構造的にふたつの根本的な原因があるのではないかと私は考えています。ひとつは日本を含む先進国の通貨と、成長しつつある途上国の通貨のあいだにある著しい貨幣価値の不均衡です。日本では家を持たない単身者が月に10万円で生活することはほとんど不可能ですが、これが中国なら同じ金額で10人の工員さんを雇うことが出来る訳です。正社員と派遣社員であっても、同じ仕事には同一の賃金を支払うというのが労働に関する基本的なルールです。しかし、たとえ国内の労働法制の改正でそれが実現したとしても、国際間に残る激烈な賃金格差はどうしようもない。世界のどこかに「1万円で1ヶ月働きます」という労働者がいる限り、国内の労働者に仕事が回って来ないのは当然です。もうひとつは産業の高度化にともなって、単純な肉体労働や事務作業というものが必要とされなくなって来ているということです。工業ロボットにしてもコンピュータにしても、その本質は人間の労働力に取って代わる目的のものです。合理化や効率化と言えば聞こえはいいが、要するに仕事の現場から人間を排除するために導入されたものです。労働力のグローバル化と産業の高度化、このふたつが今後も進展する限り、国内の労働力過剰は解消される見通しが立ちません。

 手厚い福祉で知られる北欧の国々のように、日本ももっと社会の富の再分配が進んで、セーフティネットの網の目からこぼれ落ちる人が出ないような社会になればいいと思います。ただ、そんな社会が実現したとしても、すべての人が自分の能力に応じたやりがいのある職業に就けるようになる訳ではありません。限りなく無人に近い工場が生産する製品を、生活保護を受ける大多数の国民が消費する社会が、はたして幸福なものと言えるだろうか。仕事を通じて社会に貢献し、その対価として賃金を受け取ることが人間らしい生き方の基本条件だとすれば、生活保護のようなセーフティネットを整備することだけが政治の役割でもないと思います。もちろん職業訓練や教育によって、国内の労働力を新しい産業に向けて再構築すること、それも重要な政策であることは間違いありません。しかし、すべての労働者が高度な熟練工や技術者になれる筈はありませんし、パソコンなどの電子機器に熟達出来る訳でもありません。どうしたってそこには供給可能な労働力を前提とした国内産業の再構成というものが必要になるだろうと考えられるのです。これからの社会のあり方を考えた時、方向性はほとんどひとつしか無いと私は思います。すなわち少子高齢化の社会を支える「福祉」を国の大きな産業に育てるという方向です。高齢者介護を中心とする福祉の仕事は、機械化の難しい労働集約型の職業分野であり、しかも海外への労働力の移転で空洞化する心配の無い分野でもあります。これをいわば〈第四次産業〉と位置付けて、産業構造の大変革を行なうのです。

 これを実現するために、政府が行なうべきこと、また民間で行なえることはたくさんあります。例えば生活保護制度を現在のように現金支給によるものではなく、物資と労働力の提供によるサービス主体のものに変えて行く。そうすればそこには新たな雇用が発生しますし、今後とも増え続けるであろう生活保護予算の削減にもつながるでしょう。例えば民間のNPO団体による失業者やホームレスの支援にしても、一時の緊急避難的なもので終わらせるのではなく、失業者の人たちの労働力を取り込むかたちで組織化して、持続可能な仕組みを作ってしまう。今回の派遣村のような試みが惜しいと思うのは、そこにはあくまでサービスを提供する側とサービスを受ける側、施す者と施される者という二分法が厳存していて、せっかく働き盛りの男たちが集まっているのに、彼らの労働力がまったく活かされていないことです。NPO職員やボランティアがすべての差配を取り仕切ってしまえば、それは永続的な仕組みにはならないでしょうが、例えばホームレスの人たちが自ら運営する仕組みを作ってしまえば、今回の不況のような時にも自分たち自身で生活を防衛する体制が出来ることになる(むろん場所や支援物資の提供は必要になる訳ですが)。今日の社会には常態としてホームレスの人たちがいる以上、行政も協力してそういう仕組みを作ることはむしろ当然のことではないかとさえ思います。

 このコンセプトは高齢者福祉の分野にも応用出来ます。例えば老人ホーム。今後も増え続ける高齢者のことを考えると、老人ホームもそこで働く介護者の数も絶望的なほど不足することが目に見えています。一部では外国の若い人たちを介護者として受け入れる試みもあるようですが、自分たちの親の世代を自分たちで面倒見られない社会の方がどうかしている。ここは発想を転換して、老人ホームに入居する高齢者の労働力を活用する仕組みを作ってしまったらどうだろう。今は高齢者と言っても元気な人たちが多い訳ですから、入居者が一部の仕事を受け持って、専門スタッフの仕事量を軽減させればいい。もちろんそこでの仕事にも少ないながら賃金が支給される。それは入居する人にとっての生きがいにもなるでしょう。要するに、介護する側と介護される側という垣根を取っ払って、人のお世話が出来るあいだは当たり前のようにお世話をし、人のお世話を受けなければならなくなったら当たり前のようにお世話を受ける、そういうルールで施設を運営すればいいのではないか。重要なのは、これは昔からの当たり前な社会ルールそのものだという点です。今日の経済至上主義は、人と人のつながりの部分まで金銭で測る習慣をすっかり定着させてしまいました。介護にしろ育児にしろ、これまで経済的な価値観では見捨てられて来た部分にこそ、ほんとうに大事な価値があるのかも知れない。私が夢に見る〈第四次産業〉はそこに照準を合わせます。そこに従事する人は、社会を新しい価値観に導く先発隊になるのです。

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2009年1月 4日 (日)

日本再生は小選挙区討論会から

 オバマ氏を次期大統領として擁するアメリカという国が羨ましいのは、すべての国民(有権者)が参加して、たったひとりの自分たちのリーダーを選び出す仕組みが確立されているということです。長い選挙期間を通じて大統領候補の人間性や政治的主張がすべてオープンにされる、その内容は海外ニュースを通じて日本にも伝わって来て、例えば私たちは自分が住む小選挙区の立候補者よりもオバマ氏の人となりの方をよく知っていたりする。日本の総理大臣というのは、政権党の派閥力学によって選ばれるだけの存在で、国民の選任を経て一国の首長になっている訳ではありません。これは制度の違いで仕方の無いこととは言え、これだけ国民の信頼を裏切る総理大臣ばかりが続くと、日本でも国民が直接リーダーを選べる仕組み(首相公選)が取り入れられないものかと思ってしまいます。

 この正月休み、今年は政治の年になるなあとぼんやり考えながら、自分が来るべき衆院選にあまり関心を持っていないことに気付きました。我が選挙区の候補者殿は、大体いつも同じ顔ぶれで、落選する人も同じなら、当選する人も国会ではほとんど存在感が無く、ふだん何をやっているのかも分からない。私の予測では、今年の衆院選は自民党対民主党という二大政党の対決にはならず、新たに旗揚げした新党やら離党した無所属候補やらが入り乱れたグチャグチャな選挙になります。もはやどこの党の所属候補かが問題ではなく、候補者本人の人間性や政治的主張で選ぶしか選択肢が無くなる。と考えて、ふと思い付きました、そうだ、私たちの選挙区でも有力候補者を一堂に集めて公開討論会をやればいいんだ、オバマとクリントンがやったみたいな。選挙と言えばやかましいだけの宣伝カーが候補者の名前を連呼し、ふだんは肉声を聞いたこともない候補者が街頭演説でがなり立てる、そういう選挙運動には我々はもううんざりしている訳です。しかし、これが地元の公会堂を借り切って、数千人の市民を前にライバル候補同士が議論を戦わせるのだったら、これはけっこう興味の持てるイベントになりそうです。もちろんその時の様子はインターネットに動画として公開され、当日会場に来られなかった人も見られるようにする。一ヶ月の選挙期間中に最低でも二回は討論会を開催したいところです。どんな街頭演説や公約ビラよりも、これは有権者にとって有益な情報源になりそうです。

 せっかく小選挙区制度というもので、地元候補と私たち有権者の距離が近くなったのだから、出来れば自分たちが誇れる代表を選びたいじゃないですか。そして我が町から出た議員さんには、国会でもばりばり発言をして頭角を現して行ってもらいたいじゃないですか。公約ではいくらでもきれいごとが書けるし、どの候補者もほとんど同じようなことしか言っていないけれども、これがやらせ無しの公開討論会ということになれば、その人の実力のほども見えて来ようというものです。少なくともどのくらい〈弁の立つ〉人であるかはすぐに分かる。いくら素晴らしい公約を掲げていても、弁の立たない人は政治家として失格ですから、そこを見極められるだけでも意味があります。各選挙区の討論会開催者(地元のボランティアかNPO団体でしょう)にとっては、討論を盛り上げることの出来る司会者を探して引っ張って来ることも重要です。いまテレビの政治討論会で、政治家のホンネを引き出せる司会者と言えば、ほとんど田原総一朗さんの独壇場ではないかという気がします。でも田原さんももうお歳だし、この人が引退したら日本の政治の風景もずいぶんさびしいものになるだろうと思います。小選挙区討論会は、田原氏の後継者を育てるためにもなるのです。ある選挙区で無名の司会者が白熱した議論を演出して話題になる。その人は多くの選挙区から引っ張りだこになり、やがて全国区で名前が知られるようになる。そういう人が多く登場して来ることは、これからの政治を面白くし、健全に発展させるためにも欠かせない要素だと思います。

 もしも小選挙区討論会が軌道に乗り、有権者の政治に対する参加意識が高まったら、それを選挙が終わった後も持続させる仕組みも必要です。ここでもインターネットを活用しましょう。私たちが送り出した人が国会でどのような活躍をしているか、それを監視出来る仕組みを作るのです。よく競馬中継では、出走馬一頭ずつに専用のカメラが用意されていて、優勝馬や人気馬が最後の直線でどのような動きをしたか、リプレイで見られるようになっています。このアイデアを頂戴しましょう。国会に定点カメラを設置して、議員席の様子をリアルタイムで配信する。すべての議員数分は必要無いとしても、ひとつのカメラで3人ずつくらいを捉えて、漏れが無いようにします。もちろん質問と答弁はアップで映して、各チャンネルとも2画面構成で見られるようにするのです。これで我が町の議員さんが居眠りをしているところも、下品な野次を飛ばしているところも、すべて見られるようになる訳です(指向性の高いマイクを設置することも必要ですね)。討論会と違って、長い国会中継をずっと見続けるのは苦痛ですから、面白いハイライトシーンだけを誰でも自由に編集して、動画サイトに公開出来るようにしましょう。きっと「今週の居眠り議員」だとか「今国会の傑作野次ベストテン」なんていう特集サイトも出来るでしょうね。これは選ばれた議員に対しても、緊張感を与えずにはおきません。もしも前向きな議員さんなら、自分の発言部分だけを編集して、自身のブログサイトに掲載したっていいのです。

 さらに私の空想は続きます(お正月なので許されよ)。小選挙区討論会や国会定点カメラによって、ひとりひとりの議員(および議員候補)の政治的主張や国会での活動に簡単にアクセス出来るようになれば、自分の選挙区以外の候補者を応援したくなる機会も増えることでしょう。このニーズに応えるために、ふるさと納税ならぬ「ふるさと投票」制度というものも導入します。これは有権者が自分の選挙区への投票とは別に、全国の好きな選挙区の候補者に一票を投じられるという制度です。これで何が良くなるかと言うと、一般に有権者の関心があまり高くない分野に対して強い政治的意欲を持っている候補者を掬い上げることが出来るのです。例えば障害者福祉ということを最大の公約に掲げても、選挙区ではあまり票には結び付かないでしょうが、もしかしたら全国からはたくさんの票が寄せられるかも知れない。もちろんふるさと投票の票を地元票と同じ重さにカウントすることはバランスが悪いので、こちらは十票で一票分くらいに数えた方がいいでしょう。それでもこの制度があれば、有権者の投票意欲が増すことは間違いないと思います。私は以前の記事で、比例区に代わる「専門区」というものを提案したことがありますが、それに近い効果が生まれる可能性があるのです。(開票の際にはまず地元票が開いて、それから全国のふるさと票が順次加算されて来るので、意外な逆転劇などもあって楽しめそうです。)

 どうでしょう、これならば現行の選挙制度をそれほど大きく変えなくても実現出来そうじゃないですか。毎回このブログでも愚痴っているように、とにかくいまの政治家には魅力が無さ過ぎる。現実に魅力が無いのと同時に、魅力を伝える仕組みが無いのです。もしも全国各地の小選挙区討論会を勝ち抜いて抜擢された政治家ばかりが集まれば、日本の政治も本当に変わるような気がしませんか。そうなれば親の七光だけで当選してしまう二世議員だってかなり選別出来るし(実力のある人なら残ればいいのです)、政治家を目指そうという有為の若者だって増えるに違いない。日本からもオバマ氏に対抗出来るほどの政治家が現れるかも知れません。(いや、現れてくれなければ困ります。) とりあえず地元の討論会なら、どこかの選挙区が率先して実行すれば話題になること間違いありません。私自身は行動力のない一介の空想家なので、自分でそれを始めることは出来ませんが、あなたが呼びかけてあなたの選挙区でまず始めてみることは難しくないような気がします。

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