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2008年12月 7日 (日)

裁判員候補に選ばれたあなたに

 今回もまた裁判員制度に反対する意見を書きます。この問題については、すでに私は書き過ぎるくらい書いて来ました。この上さらに何を書くことがあるのかと自問するところもあるのですが、インターネットで検索すれば、私と同じように多くのブロガーの方たちがこの制度への疑問や反対意見を書かれている。いまの日本では、大きな反政府デモだとか政治闘争のようなものがある訳ではありません。それでも国民はただおとなしく従順に為政者の命ずるところに従っている訳ではない。もしもインターネット世論というものに社会を変えて行く力があるものなら、自分も微力ながらその一翼を担いたいという気持ちがこの記事を書かせるのです。

 国民の中から30万人の裁判員候補者が選ばれたことで、とりあえず裁判員制度の問題は国民すべての問題ではなくなりました。と言うのも、この30万人というのは、来年1年間に需要が見込まれる裁判員の総数をカバーする目的で決められた数字で、今回の選から漏れた私たちは、少なくとも向こう1年間は裁判員になるという義務を免れたことになるからです(もしかしたら一部に追加の選出があるかも知れませんが)。1年間制度を試してみて、国民の不満があまりに大きければ、すぐに廃止ということも充分あり得ると思います。だとすれば、今回選ばれた30万人の人たちがこの制度とどう向き合って行くかが、裁判員制度の存廃を決めると言ってもいい訳です。もしも自分のところに通知書が来たら、私はこのブログで裁判員拒否の闘争記を(もちろん匿名で)書くつもりだった。残念ながらそのチャンスは巡って来ませんでした。で、せめて私は選ばれた30万人の人たちに向けて檄を飛ばしたいと思うのです。

 あなたが最高裁からの通知書を受け取ってから1週間が経ちましたね。おそらく最初の動揺が収まって、あなたの心のなかには裁判員になることへの自覚や決意が生まれているのかも知れません。ただ水を差すようで悪いのですが、あなたが裁判員になるまでには、まだまだ高いハードルが待ち受けていることを覚えておかなければなりません。と言うのも、あなたが裁判員として法廷に立つまでには、あなたが住んでいる地域の地方裁判所で裁判官の面接を受け、そこで合格しなければならないからです。なんでもひとつの事件に対して50人くらいの候補が選ばれ、そこから選考が行なわれるらしい。裁判員になるのはその中の6人ですから、単純に計算しても8倍以上の倍率です。これってずいぶん国民をバカにした話じゃありませんか? 辞退する人を計算に入れたとしても、裁判員に相応しい人間は国民のうちの二割くらいだろうという前提で制度設計がされている訳ですから。

 裁判員制度に反対する人は、裁判員が殺人事件の現場写真や凶器などを見せられて、心に傷を負う可能性があるということを主張します。が、私はそれ以前に、面接を受けて落とされた人がこうむる心の傷を心配します。考えてみてください、もしもこれが戦時中の徴兵制度であったなら、身体が弱いとか病気があるということで不合格になっても、それはその人の人間性が問われた訳ではありません。ところが、裁判員制度ではそうはいかない。やる気まんまんで裁判所に出掛けたのに、面接で振り落とされるってどういうことよ。自分には何か道徳的な欠陥があると見られたのでしょうか? それとも思想信条に著しい偏りがあるとでも? まさか知的な判断能力に問題ありと言うんじゃないだろうね? いずれにしても、そこでは何かしら人格に関わる評価が下されたことは間違いありません。私たちが今という時代を割りと気に入っているのは、経済格差や能力格差といったもので人が差別されることはあっても、まさか「人格格差」なんてもので人が差別されることは少なくとも公式にはほとんど無い、その程度の節度が今の時代にはあるからだと思います。小泉政権は格差社会を助長したと言われます。思い出してみれば、裁判員制度って小泉さんの時に法律が出来た制度でしたよね。おそるべし、構造改革。改革は深刻な格差社会を生み、格差社会はついに「人格格差」にまで行き着くか。

 裁判員制度に関する質問を受け付けるコールセンターには、連日電話がじゃんじゃんかかっているのだそうです。質問の大半は裁判員辞退に関することです。裁判員法では、思想信条による裁判員辞退を認めていません。「私はどうしても他人を裁きたくない」、そういった理由で候補者が辞退することを認めていないのです。でも、これって変じゃありませんか? 私は裁判所からの呼び出しを現代の赤紙のように感じているので、ついついこういう連想をしてしまいます。召集令状によって戦場に送り出される若者は、平和主義者だろうが臆病者だろうが銃を取って戦わざるを得ない。殺さなければ殺される、そういう状況に投げ込まれれば、誰でも闘争本能剥き出しの勇猛な兵士になるのです。これが戦争というものの基本的なメカニズムです。一方、裁判員になりたくないという者を無理矢理法廷に引っ張り出して、「さあ、裁け!」と言って尻を叩いたって、彼らに裁判員としての自覚など生まれる筈がない。いくら法律で「思想信条による辞退を認めない」と規程したって、そんなものは実行不可能な空文に過ぎません。現代の赤紙は、昔の赤紙と同じように非人道的であるばかりでなく、最初から制度としても破綻しているのです。

 この結果、もしも来年の5月21日に裁判員制度が始まるようなことになれば、裁判員のための6つの席には相当はっきりした傾向性を持った人たちが居並ぶことになると思います。今週の新聞の読者投書欄に、今回の通知書を受け取った81歳の男性からの投書が載っていました。タイトルは、『裁判員の通知、胸が躍る思い』というものです。その一節はこんな文章です、「81歳だが、断るつもりはない。悪いことをすれば罰を受けるのは当たり前だ。私なりの正義感で善悪を判断したい」。私はこの方の立派な人柄を疑うつもりはありません。ただ、もしも自分が裁判員になったとしても、このおじいさんとはあまり議論をしたくないというだけです。さらに自分が被告だったとしたら、この老人には絶対に裁かれたくないというだけだ。裁判員制度に疑問を感じている人は総じて辞退する方向で動き、裁判員になることに「胸躍る」人たちばかりが裁判員として残る。結果として日本の刑事裁判は今よりいっそう厳罰化が進むだろうと私は予測しています。むしろ突然こんな制度が作られた背景には、日本の厳罰主義が国際的な非難を浴びているなかで、その責任を国民に転嫁した上でさらに厳罰化を推し進めようとする政治的な意図があるのではないかと私は推測している。私はあなたにその片棒を担いで欲しくないのです。

 裁判員候補に選ばれた人のなかには、何故自分が人を裁かなければならないのか、そのことに疑問を感じて悩んでいる人も多いだろうと思います。この悩みこそ真っ当です。本来、人を裁くことに道徳的な悩みは必要無いのです。そのために法律というものがあり、私たちは法治国家に住んでおり、この国には専門の司法官がいるのだから。「私なりの正義感で善悪を判断したい」などと言う「モンスター裁判員」に、この国の司法を乗っ取らせてはいけない。いま私たちがなすべきことは、はっきりした自覚を持ってこの制度にノーを突きつけ、「良心的出頭拒否」を貫くことだけだと信じます。

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コメント

シンプルな問いがあります。そこまで裁判員制度を否定しておられるのに、どうして既存の裁判制度を否定されないのか?

「人は人を裁けるのか?」という最も根源的な哲学的な問いを出されているにも関わらず、法治国家という枠組みには何ら疑問を持たずにいるというのは「哲学者」としては中途半端ではないですか?そこが「巷間」ということなんでしょうか。裁判員制度の否定の為に「人は人を裁けるのか?(いや、裁けない)」と言っておいて、裁判官についてはそうは言わない。これは恣意的ではないですか。(裁判官は人間ではないから?)

どうやらLike_an_Arrowさんは所謂プロの裁定は大体に於いて一定であり、素人のそれはばらつくという点で優劣を決めておられるようですが、それなら逆に言うと裁定がばらつかなければ裁判員制度は十分支持出来るということにならざるを得ないのではないか。これでは裁判員制度に対する根本的な批判にはならないのではないですか。この制度が馴染んで人々の裁定のぶれが少なくなっていくのであれば、Like_an_Arrowさんの見解は単なる取り越し苦労ということになるのですから。(それともそうなったらそうなったで受け入れるのか?)

『裁判員制度、再考』を読みましたが、まずもって問題なのはこのコンピューターの誤りはどうやって指摘したらよいのか?という点。これは宗教的な絶対的な神をコンピューターにしただけです。Like_an_Arrowさんの想定ではこのコンピューターは絶対間違いを犯さないんでしょう。これなら三審制も再審請求というのも無くなる。確かにコンピューターの計算自体は間違いが無いでしょうけど、裁判の為の証拠を集めるのは人間です。ここに恣意、或いは人間のミスが入れば、三審制も再審も無い以上(もしそういうものが必要ならこの裁判コンピューターそのものの信用性は人間と変わらない事になる)、この決定は覆りません。多分このSF世界では「冤罪」という概念はなくなるんでしょう。コンピューターが仮に完璧でも人間が不完全であるのなら、そして事実そうである以上、コンピューター裁判は単なる悪夢ですね。人間というものの不完全さをコンピューターの計算の完全さにすり替えただけですから。

裁判員より裁判官を信頼するのは相対的なものだとのことですが、どうも説得力が無い。「人は人を裁けるのか?」という最もシビアな問いから逃げているだけのように見えます。この問いに「裁けない」と答えるのならそれは裁判員だけではなく、裁判官にも向けられなければならないはずです。

Like_an_Arrowさんの意見はどうも面倒事は裁判官に任せておけばよい、という態度に見えて仕方ありません。だから裁判官が人を裁くことについては何も言わないのではないか。他のサイトではどうなのか知りませんが裁判員制度に反対する以上、「人が人を裁くこと」に対する反対の確固たる議論がなければならないのではないでしょうか?でもそういうことを言っている人は寡聞にして聞きません。「面倒事は裁判官に」という理由以外で何かあるのでしたら是非お聞きしたい。(別にこの理由が悪いということではありません。いや、むしろ十分な理由とすら言える。でもこれだと裁判員制度反対の説得力はぐっと落ちてしまう。)

投稿: 法哲 | 2008年12月 8日 (月) 15時21分

法哲さん、こんにちは。

私も法哲さんにシンプルな問いがあります。法哲さんは私の文章に対して一貫して「説得力が無い」ということをおっしゃっている。説得力が無く、反論したいだけの文章にどうして法哲さんはいつもお付き合いくださり、長いコメントまで書いてくださるのでしょう? たぶんいくら議論しても、法哲さんの求めるものはここには無いと思うのですが…

「人が人を裁けるか?」ということに対する根本的な議論は、自分としてはすでに記事に考えをまとめているつもりです。特に自分にとって重要なのは下記の記事です。まあ、これを読んでいただいても、法哲さんを説得したり共感を持っていただくことは、ほとんど不可能だと思いますけど…

『罪と罰の問題に関する一考察(1)(2)』
http://philosopher.cocolog-nifty.com/essay/2006/10/post_36de.html
http://philosopher.cocolog-nifty.com/essay/2006/10/post_8db8.html

投稿: Like_an_Arrow | 2008年12月11日 (木) 06時38分

>説得力が無く、反論したいだけの文章

どうやらLike_an_Arrowさんには僕の見解は単なる反論の為の反論と映っているようで残念です。もちろんそうではなく、あくまで哲学的に本質を問い詰めたいだけです。

お答え頂きたいのは裁判員制度を否定なさるのなら裁判制度そのものを否定しなければならないのではないか、という点。(別の言い方をすれば、既存の裁判制度を認めるのに裁判員制度を否定するのは筋が通らないではないか)しかしLike_an_Arrowさんは裁判制度そのものを否定しているわけではないのでしょう。だとすると「人は人を裁けるのか?」という問いに対して裁判員についてはノーと言い、職業裁判官についてはイエスと答えている事にならざるを得ないのではないか。これは全く中途半端で単に「自分は人を裁きたくない(が、職業裁判官は必要だ)」と言っているだけではないかと。これでは裁判員制度反対の根拠は薄い。

参照に、と言われた『罪と罰の問題に関する一考察(1)(2)』をよく読んでみましたが、ここでは「道徳的に人を裁くことは出来ない」と書いているだけで(これについては僕も様々な留保を付けつつも共感できるのです)実際の裁判については何も書いてありません。或いはLike_an_Arrowさんが「人は人を裁けるのか?」と問う時は常に道徳的な意味で言われているということなのかもしれませんが。しかし道徳的に人を裁けないという事と実際に裁判員として法的に犯罪を裁くのとは全然別の事でしょう。Like_an_Arrowさんは裁判制度そのものを否定しているわけではない以上、法的な意味で「人が人を裁く」ことを容認されているわけです。それならどうして裁判員制度<だけ>を否定できるのでしょうか?

それからこれは哲学的な問いですが、『罪と罰の問題に関する一考察(1)』で、永井均的な魂の議論をされていますが、ここに大きな疑義があります。なるほど、魂の観点を重視すれば環境や資質と切り離して「この私(性)」を考える事が出来るのは確かです。ところがその<魂>はこの“僕の”魂であって、法廷に立たされた犯罪者の<魂>とは全く別個なものなのです。だとすればその犯罪者の肉体と生育環境で<この私>が生じてきたなどという事は事の本質上、あり得ないことです。もし<私>がその犯罪者の肉体と生育環境で育ったのなら、その犯罪者は私なのです。(この辺りややこしいですが言いたい事が分かるでしょうか?)

永井氏の本にも「自分の隣に座っている子が<私>だったら」という空想が語られるのですが、しかしそのように今想像しているということは、取りも直さず、その隣に座っている子供は<私>ではない、ということなのです。もちろん私が今持っている肉体・環境は偶然のものに過ぎませんが、しかしこの偶然は決定的なものです。

「あの犯罪者の魂は、この私の魂と入れ替えになっていたかも知れない」

なるほど確かに。でも、今、現実にそうではない。これほど決定的なことはないではないですか?だとしたらLike_an_Arrowさんの言うようには犯罪者を断罪できないわけではないということになりませんか?私の魂と犯罪者の魂が違うものである以上は。この論考には他にも気になった事がありますが、あまりに長くなるので。

P.S.
哲学的批判を単なる批判の為の批判だと考えて欲しくないのです。どちらが正しいか、間違っているかなんて事を重視するのは政治討論です。疑義がある点については率直に述べて問題点を明らかにするのが哲学的議論だと僕は思っています。「お前の疑義はこういう点で間違っている」ということをご自身にも僕にも明らかにしていただければと思います。もうウンザリされているかも知れませんが。


投稿: 法哲 | 2008年12月11日 (木) 21時14分

既にブログを更新されているわけで僕のコメントを読んでいないということは無いと思います。まだ考えを纏めておられないのか、或いはもういい加減ウンザリする奴だと思ってコメントを返すのは止めたという事なのかも知れません。

後者の場合にはこちらももう書き込まない事に致します。がしかし、やはり問いには答えてもらいたいという気持ちもあるのです。

他の裁判員制度反対の人々にも問いたいのですが、彼らはどうしてこの制度に反対なのでしょうか?もし「人は人を裁けない(裁くべきでない)」という理由であるならばどうして既存の裁判官は裁いてよいのか?僕には裁判員制度に反対している人はこの問題について深く考えているようには見えないし、ただ「面倒事に関わりたくない」という以上の理由を彼らの態度から見つける事は出来ません。もちろんそれが悪いというのではないのです。それならそれで正直にそう言うべきであろう、と。どんなにもっともらしい理由をつけて裁判員制度を否定したって、司法制度の存在を認めている時点で「人が人を裁く」という事実を認めているわけです。ならば裁判員が被告を裁いてはいけないどんな理由があるというのでしょうか?

「人は人を裁けない」という宗教的(或いは政治思想的)信念を持っている人は現実の裁判制度を見て見ぬふりをしているとしか言い様がありません。(或いは自分が人を裁かなければそれでよいのだ、と考えているのか。ならばこの人は他人が人を裁いても何も言えないということでしかない。これでは他人に向かって言っても何の力も持ち得ない。)もちろん、だから裁判制度そのものを否定せよ、と過激な事を言っているのではなく、既存の裁判制度を認めている以上、何か綺麗事を言って裁判員制度を否定するのは誠実ではない、という程度のことなのです。

(もちろん「厄介事に関わりたくない」という理由で裁判員制度に反対するのなら、著しく説得力がなくなるのは確かですが、思想めいた嘘を弄するよりはずっと誠実でしょう。)

それから最後に一つだけ。『罪と罰の問題に関する一考察(1)(2)』についてですが、既に指摘させてもらった通り、「「人が人を裁けるか?」ということに対する根本的な議論」が行われていると言っても、あくまで”道徳的な”意味で「裁けない」という結論であって、法的な問題に属する裁判員制度についての反対の理由にはならないと思うのですが、どうなのでしょうか?

投稿: 法哲 | 2008年12月25日 (木) 17時24分

法哲さん、こんにちは。

コメントは読ませていただいていますし、うんざりしている訳でもありませんが、どうにも徒労感が先に立ってしまって、ご返事をする気力も失せてしまうのです。お答えしようにも、これまで何度も書いて来たことを繰り返すしかないからです。

>「人は人を裁けない(裁くべきではない)」という理由であるならばどうして既存の裁判官は裁いてよいのか?

繰り返します。私の基本的な考え方はこうです。人を裁くのは人ではなく、法律である。すなわち裁判官や裁判員の個人的な道徳心によって裁くことはあってはならず、定められた法律によってのみ人は裁かれなければならない。それが法治国家の基本的な原則である。裁判官とは、正式な手続きを経て国から法律の執行官としての資格を与えられている者のことであって、彼らは道徳的に人より優れているから人を裁けるのではない。もちろん裁判官とて人間だから、裁判の中に私情が入り込むこともあるだろうし、判断ミスを犯すこともあるだろう。だから理論的に考えれば、理想の裁判というものは、人間の判断によるものではなく、コンピュータの判定によるものになるだろう。以上。

私が法哲さんのコメントを読んでうんざりするのは(あ、やっぱりうんざりしてるんだ?)、法哲さんが裁判員制度反対論や死刑廃止論に対して、説得力のある根拠を示した文章を読んだことがないとおっしゃりながら、それでは法哲さんご自身が説得力ある反論をなし得ているかというと、私にはそうは思われないからです。私もブログに割ける時間が限られているので、あまり余分なところにリソースをかけたくないのです。こう見えても私は熱い心を持ったブロガーです。どうか私の心に火をつけるようなコメントをください。例えば私が『裁判員候補に選ばれたあなたに』で取り上げた81歳のご老人の新聞投書には、私の心をメラメラと燃やすものがあるのです。何故ならこの方の文章そのものが熱い心をもって迫って来るから。そういうご意見なら私はいつでも大歓迎です。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年12月27日 (土) 17時16分

もちろんLike_an_Arrowさんは僕と違って暇ではないことは重々承知です。どうかそちらのペースでお返事をいただければ幸いです。(どうもせっかちにお返事を催促した形になって失礼しました)

>人を裁くのは人ではなく、法律である。

これは一見、法治主義の理想を語ったものに見えますが、実情はどうでしょう?そもそも法律というのは人間社会の秩序を守る為に人間が作った人間の為の約束事ではないですか?それなのにそこから人間そのものを切取るなどというのは本末転倒もいい所ではないですか?そもそも何をしてはいけないか(窃盗、傷害、殺人)は人間が決める事です。

仮にLike_an_Arrowさんの言う、法をコンピューターで完全制御する社会が成り立ったとしましょう。しかしそのコンピューターに各種パラメーターをプログラムするのは人間そのものに他ならないではないですか?そこで、
「どうしてこのパラメーターをプログラムするのか?」
という問いが立てられざるを得ないではないですか?そしてそれは元を正せば

「そもそも何故この案件が犯罪であるのか?犯罪というものが成り立つ条件とは?」
「故意と過失をどうやって判断するのか?」
「一体この犯罪には何年の懲役が、執行猶予は一体どれだけにするべきなのか?」

といった人間達の間で問題になる事柄が残っているということです。まさかLike_an_Arrowさんはこうした問題までコンピュ-ターが自動的に解決してくれるとでも言うのでしょうか?Like_an_Arrowさんはここまで考え抜いて、かつその解決策まで用意しておいた上で

>理想の裁判というものは、人間の判断によるものではなく、コンピュータの判定によるものになるだろう。

と書かれているのでしょうか?僕には到底そうは見えませんが。僕にはSF的マザーコンピューターの法統治の空想など、現実逃避以外の何者でもないと思います。上の議論からもその決定的な欠陥は明らかだと思いますし。

Like_an_Arrowさんは何故かコンピューターに対して異常に高い信頼を置いているように見えます。コンピューターは何でも叶えてくれる魔法の箱ではない事くらいは僕の指摘を待つまでも無く知っておられるでしょうが、コンピューターというのは“人間の”道具以上でも以下でもないという事を再確認されるのは重要な事と思います。それが優れた道具である事は認めますが。

>『裁判員候補に選ばれたあなたに』で取り上げた81歳のご老人
について言うと、こういう人とは単に感情のぶつけ合いになるだけの結果に終わると思います。それは多分僕のような屁理屈屋と議論するよりよほどストレスの発散になるでしょうけど、自分の議論について真剣に検討し、反省せずに済むという点で何の実りも無いものになってしまうでしょう。

ネット右翼などについても感じる事ですが僕には「心に火をつけるようなコメント」などというものは真摯な議論にとって不毛以外の何者でもない、少なくともLike_an_Arrowさんはそのような馬鹿げたものに心躍らされるべきではないと思いますし、そのような浅はかな人でもないと僕は思っています。(だってそうでしょう?浅はかで粗雑な主張、それに対する浅はかな反射神経だけの反論、怒号、憤慨・・・・・)

投稿: 法哲 | 2008年12月28日 (日) 18時02分

法哲さん、こんにちは。

お互いの平行線を少しでも近付けられるところが見付かればよいのですが、どうも難しいように感じます。実を言うと、私は法哲さんコメントからは、いつも揚げ足取りをされているような感じしか受けないのです。論理的に言ってここがおかしいといったご返事を差し上げればいいのでしょうけど、それももう無意味な気がしてしまって…

例えば法治主義に関する法哲さんのコメントは、一体何を言わんとしているのでしょう? 「人を裁くのは道徳ではなく法律である」という私の考えに対する反論なのでしょうか。裁判官も裁判員も、人間が作った約束事に過ぎない法律なんてものにとらわれずに、もっと自分の道徳感情に正直になって被告を裁くべきだ、そうおっしゃっているのかな? だったら分かりやすくそう書けばいいのに。

コンピュータによる裁判というアイデアが奇抜で、これに対しては法哲さんだけでなく、大抵の人が反撥を感じるであろうことは自分でも承知しています。私もプログラマーから出発して、30年近くもコンピュータで飯を食っている人間ですから、「コンピューターに対して異常に高い信頼を置いている」なんてことはないのですよ。コンピュータ裁判官のもっと具体的な仕様については、いつかまたきちんと書きたいと思っています。

それから「ネット右翼」に対する非常に強い嫌悪感を表明されていますが、これもどうなんだろうなあ。インターネットの空間には、確かに人の感情を害することだけを目的としたコトバがあふれているのも確かだけど、私が「心に火をつける」と言ったのはそういう意味ではまったくありません。例の81歳のご老人の投書には、少なくとも私に新しいブログ記事を書かせるだけのパワーがあった。それが共感であれ反撥であれ、自分の心の中に何かを目覚めさせてくれるようなコトバだけが私にとっては貴重なんです。単純な話、私は法哲さんからもそういうコトバが聞きたいというだけのことなんですよ。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年12月30日 (火) 02時48分

>私は法哲さんコメントからは、いつも揚げ足取りをされているような感じしか受けないのです。論理的に言ってここがおかしいといったご返事を差し上げればいいのでしょうけど、それももう無意味な気がしてしまって…

もし僕の意見に<論理的に>おかしい部分があるのなら是非具体的に指摘してもらいたい。(でもどうやらLike_an_Arrowさんは乗り気じゃなさそうだけど)あくまで<論理的欠陥>についてのご指摘を受けたいのであって、思想信条的におかしい、と思われている点については僕としてはどうにもなりませんが。

>裁判官も裁判員も、人間が作った約束事に過ぎない法律なんてものにとらわれずに、もっと自分の道徳感情に正直になって被告を裁くべきだ、そうおっしゃっているのかな?

残念ながら大変な誤解をされてしまっているようです。特に「人間が作った約束事に過ぎない法律なんてものにとらわれずに」という表現に深い誤解が現れています。

繰り返しますが、法は人間が作ったものです。何を犯罪と見なすかは特定の人間社会の緩やかな合意に基づくものだということをお忘れになっていないでしょうか。何のための法律か。それはあくまで人間の生活の方が先で法はその秩序を保つためのものです。それならどうして法律を人間から切り離すなどということが可能でしょうか?Like_an_Arrowさんは法律至上主義とでも言えそうなほど、法に間違いは無いとお思いになっているのでしょうか?(例えば離婚後300日以内で生まれた子供の父親は戸籍上、前の父親になる、という規定に関して変えるべきだとの声が挙がっています。これを変えようというのはあくまで法律は人間の生活の為にあるということをはっきりと示しているのではないですか。)

さらには法の実際の適用・執行は人間が行うものである以上、法律が完全に人間を律するというLike_an_Arrowさんの考える(SF的法律コンピューターの提案に典型的に見られる)『法治主義』は理想的・空想的・完璧主義的過ぎて、現実に則していない、ということです。どうやらLike_an_Arrowさんはコンピューターにではなく、法というものに異常に高い信頼性を置いているというのが実情のようです。

法律をコンピューターで完全制御するなどという話は法律が完璧なものでなければ到底不可能な話です。しかし法は不完全な人間が創った不完全な人間の為のものである以上、不完全なものに留まらざるを得ないはずではないでしょうか。そうであればこその三審制ではないですか?

これに関連して、もし法律コンピューターへの入力の際の有罪の証拠に問題があったとしたらどうなのでしょうか。(コンピューターへの入力は人間が行わざるを得ないわけですから)Like_an_Arrowさんの想定ではこのコンピューター裁判に於いて冤罪は不可能になってしまうのではないですか?再審が可能だというのなら法律コンピューター導入にはどんな意味があるのですか?結局は人間達が重要な問題を解決・決定しなければならないのは明らかではないですか。

>コンピュータ裁判官のもっと具体的な仕様については、いつかまたきちんと書きたいと思っています。

と書かれているのでそうした事にも当然答えを用意しているのでしょう。しかし僕の指摘は技術論などではなく、根本的な問題です。前のコメントでも

「そもそも何故この案件が犯罪であるのか?犯罪というものが成り立つ条件とは?」
「故意と過失をどうやって判断するのか?」
「一体この犯罪には何年の懲役が、執行猶予は一体どれだけにするべきなのか?」

という事はコンピューターではなく、人間が解決するしかない難問である、と書いたのですがそれにはお答え頂けず、単なる「揚げ足取り」だと思われているのは大変残念です。

「例の81歳のご老人」について僕は全く議論が必要な人物とは思いません。そこまで自分の正しさを信じられるというのは幸福な事です。こういう単純な正義感を持つ人々に「火を付けられる」ということは明らかに単純な正義感の意趣返しでしかないと僕は思う。僕としてはこういう頭に血が昇っている人と同じ土台に立って泥試合をする事はおよそネット上で行われている罵倒合戦と何ら変わらないと言わざるを得ません。冷静な議論など不可能でしょう。それをLike_an_Arrowさんが望んでいるとは信じたくはありませんね。


投稿: 法哲 | 2008年12月30日 (火) 17時01分

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