« 私の聴いて来た音楽(ワールド・ミュージック編) | トップページ | 「消えゆく妻の記憶」という番組を観て »

2008年11月 3日 (月)

再び安楽死問題について考える

 先日新聞の片隅に載った小さな記事です。千葉県の亀田総合病院というところに入院している筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者さんが、病院側に安楽死を求める訴えを起こしました。これに対して病院の倫理委員会が審議を行なった結果、患者の訴えを聞くかどうかは病院だけの判断では決定出来ないとの結論を下したのだそうです。いや、結論を下したというより、世論に対して問題提起をしたという意味合いだったのだろうと思います。終末医療における安楽死の問題は、これまでも折りにふれて社会問題化して来たにもかかわらず、私たちの社会が充分に議論を尽さず、ずっと棚上げしたままで来てしまった問題のひとつです。誰もが関わる可能性のある切実な問題であるのに、これについて政治的な議論の場で取り上げられることがあまりに少ない。私もだいぶ前の記事でこの問題を一度取り上げたことがありますが、その時にもこれを宿題として積み残したままにしていました。実を言えば私自身の考え方は初めから決まっていたのです。若い頃から自殺というものに対して比較的寛容な考えを持っていた自分は、終末医療における安楽死というものについても容認したい気持ちを持っていたからです。ただ、そういう自分の気持ちを明確な言葉で表現出来るところまで考えを突き詰めていなかった。今回は自分にとって荷の重いこの問題について考えてみます。書きながら論点を明らかにして行きたい、そういう気持ちもあります。

 安楽死の問題について鋭い発言を続けている立岩真也さんという社会学者の方がいます。この人の本にALSの患者さんの手記を一冊にまとめたものがあります。安楽死の問題を考える時に、しばしばALSという病気が引き合いに出されることには理由があります。これは身体中の筋肉を動かす神経が冒され、最終的には四肢はもちろん眼球さえ自分の意思で動かせなくなるという病気で、現代の医学でもその原因はおろか治療法さえまったく見付かっていない、難病中の難病と言われている病気です。恐ろしいのは、身体の自由が利かなくなる一方で、思考や記憶などの知的な部分はまったく無傷で残されていることで、これによってALSの患者さんは、いわば外界から遮断されて自らの身体の中に閉じ込められてしまうという状況に陥るのです。(このことからこのような病気をロックトイン症候群と呼ぶこともあるそうです。) 現在ほど医学が発達していない時代であれば、ALSを発症しても完全にロックトインされる状態になる前に生命が費えてしまっていたものが、今では人工呼吸器や人工的な栄養の補給によって生きられる(生かされる)ことになった、このことによってこの病気を患う人は非常に過酷な運命を担わされることになった、そんな言い方も出来るのではないかと思います。亀田総合病院で安楽死を求めている患者さんも、今はわずかに動く右頬の動きでなんとか意思表示が出来るけれども(それを可能にする装置が開発されているのだと思います)、それさえも出来なくなってしまったらもう生きて行く意味が無い、そうなる前に安楽死をさせて欲しいと訴えているようです。

 以前に安楽死の問題を考えた時にも、立岩真也さんの文章は心に引っ掛かるものがありました。ALSの患者さんに取材した本を書く一方で、安楽死に対しては否定的な考えを一貫して表明している、その根拠はいったい何なのだろうと疑問に思ったのです。で、今回少し注意深く立岩さんの本を読んでみました。が、私にはこの人の心を駆動しているものが何なのか、どうしても分からなかったのです。一般論として、医療現場での安易な安楽死を認めることに反対する論拠というものがあります。例えば心身に障害がある人の立場を代表する団体が安楽死の合法化に反対するのは、この立法によって、社会的に弱い立場にある障害者の人たちが合法的に安楽死に導かれる(ナチスドイツのように)ことを防止するという意味があるのだと思います。人の生命の重さに軽重などない、とにかく生きていることだけで貴いのだ、そういう考え方は生活人として多くの人が共有している、いわば時代の通念となっているものです。しかし、だからと言って、社会学者という立場の人がこの素朴な時代の通念から、安楽死という微妙な問題を論ずるのはどうなんだろう。立岩さんの文章は、学者の文章というよりも悩める思想家の文章といった趣があって私は嫌いではないのですが、いつも結論として向かうところが「隔てなき生命の貴さ」という点に収斂されてしまう、そのことに違和感を持つのです。というのも、切実に安楽死を求めているALS患者の訴えと、安楽死が合法化されるのは困るという障害者の訴えがあるとして、このふたつは決して矛盾するものではなく、調停出来るものだろうと思うからです。

 医療現場における安楽死の選択が、事件として明るみに出ることは日本ではごく稀です。しかし、誰にでも想像がつくことですが、安楽死をめぐる苦渋の選択は日本中の病院で日々行なわれていることであるに違いありません。問題は、法的な整備という面でも、また国民の意識という点でも、この問題に対する社会の共通合意というものが全く無く、個々の現場に判断が任されていることではないかと思います。1991年に神奈川県の東海大付属病院で、医師が末期癌の患者を安楽死させる事件が起きた時、起訴を受けた医師に下った判決は執行猶予付きの殺人罪でした。この時の判決文では、医師による安楽死の処置が是認されるための四つの条件が提示されました。①患者に耐え難い肉体的苦痛がある。②死が避けられず、死期が迫っている。③他に苦痛を緩和、除去するための方法が無い。④患者本人に安楽死を望む明確な意思表示がある。以上の四項目です。このガイドラインが医療の現場で今も有効であるのか私は知りません。しかし、たとえこれが不文律として定着していたとしても、先のALSの患者さんには適用出来ないことも明らかです。彼の苦しみは主に肉体的なものではなく精神的なものだし、医療機器の助けを借りてはいますが死期が迫っている訳ではないからです。この点、安楽死における先進国と言われるオランダの基準はもっとドラスティックです。オランダでは本人が耐え難い苦痛を感じていれば、それが肉体的なものであろうと精神的なものであろうと、安楽死のための要件になり得るからです。例えば身体の自由が利かなくなって、他人に排泄の世話まで受けるのは精神的に耐え難い、そうした理由で安楽死が認められる場合もあるそうです。また苦痛からの回復の見込みが無ければ、必ずしも死期が迫っている必要も無いようです。

 この問題を解く一番のポイントは、「本人の意思」ということだろうと考えます。自殺というものを法律で禁止出来ないことは、誰が考えても明らかなことです。死んだ本人に刑罰を科すことは不可能ですし、また自殺防止のために遺族に何らかの罰を与える(例えば財産を没収するなどして)ことも現代の常識としてあり得ない選択だからです。日本は毎年三万人以上の自殺者を出していて、先進国中随一の自殺大国という不名誉な称号を得ていますが、そのうちの半数近くが病気を苦にした自殺なのだそうです。例えばオランダで安楽死法が施行された前と後とで、病気を苦にした自殺がどのくらい減ったかという統計があれば知りたい気がします。オランダでは安楽死を法律で認める代わりに、それが許可される条件を厳密に規定しています。またそれが行なわれたことを当局に届け出る義務も明確に示しています。これは机上の思索家の楽観的過ぎる見方かも知れませんが、私は日本でも医療行為としての安楽死が認められれば、病気を苦に自殺する一万五千人のうち、相当数の人を救えるのではないかと考えているのです。とにかく安楽死というものに対する社会の態度を曖昧にして、これを闇の中に閉じ込めておくという態度が一番よくない。そして、いくら法律で禁止したところで、医師や家族による患者の苦痛を見兼ねての安楽死というものは根絶出来ないものである以上、どこかで社会的な合意点を見付けて、この国における安楽死法というものを定めて行かなければならないことは、時代の流れとしても避けられない趨勢であろうと思うのです。

 本人の意思を重視するということは、安楽死というものにも自己責任の原則を持ち込むことに他なりません。これによって医師や家族が責任を問われることは少なくなるにしても、そこにはまた別の難しい問題が現れて来る可能性があります。そのひとつは、自己責任による安楽死を合法化することによって、障害者や高齢者などの社会的弱者に対して、いわば「自発的に選び取る安楽死」という無言の圧力がかかることになるのではないかということです。この点が安楽死問題に対する私たちの最大の懸念ではないかと思います。ただ、そこには経済的なものも含めて現実的な個々の事情というものもあります。病気で寝たきりになって回復の見込みが無い人が、このまま入院を続ければ貯金が医療費にすべて消えて、家族に遺せる財産も無くなってしまうと悩んでいる。もちろんそんなことで悩まないで済むように、医療福祉の制度を充実させなければならないという議論の方が正論です。でも、それは理想論としてはあり得ても、いま現実に悩んでいる人に対しては何も解決にならない。他人に排泄の世話をされてまで生きるのは耐え難いという人がいるように、人にはそれぞれこれ以上生き続けたくないという個別の理由というものがある。それも含めての自己選択ではないかと私は考える訳です。「すべての生は隔てなく貴い」、しかしまた「すべての生には隔てなく死が訪れる」という事実も一方にある訳で、とにかくその時代の技術を駆使して可能な限り延命させることだけが選択肢として正しい訳ではないと思う。もちろん本人が望めばどんな場合にでも医療的な安楽死を認めるべきだなどと主張しているのではありません。そこにはその時代、その社会で合意することの出来る安楽死のための適切なガイドラインのようなものがなければならないと思います。大括りの是非論ではなく、そうした個別具体的な議論こそがこれからは求められるのではないかと考えるのです。

 もうひとつ安楽死に自己決定原理を持ち込むことによって、はっきりと認識されることになる問題は、自分自身でそれを選び取ることの出来ない人たちの問題です。例えばそれはまだ幼い子供であったり、痴呆症に陥ってしまった老人であったり、知的な障害を持っている人であったりします。回復する見込みのない重い病の床につき、苦痛にあえぎつつも、「死にたい」というそのひと言さえ発することの出来ない人たちがいる。この場合こそ私たちの社会は、私たち自身の責任として安楽死という選択肢を引き受けなくてはならないのだろうか? これは正解のない難しい問題です。現実に苦しみ悶えている人を前にして、「生命の貴さ」なんてお題目を唱えることは出来ない。もしも自分で選び取る安楽死のことを「尊厳死」という名前で呼び、第三者の決定に委ねられる「安楽死」と区別するならば、尊厳死に関するルールを作ることは人間の領域の問題だけれども、安楽死に関するルールを定めることは神様の領域の問題ではないかとさえ思われます。が、この難しい問題を宗教に委ねる訳には行かないし、私たちはその判断を現場の医師や家族に押し付ける訳にも行かないと思う。この問題に対する解決案が私にある訳ではありませんが、ひとつだけ言えることがあります。それは第三者の決定による安楽死に何かしらのルールがあり得るとするならば、それは生き残る人間の気持ちの問題では決してなく、安楽死させられる本人の主観的な苦しみや喜びの問題である他はあるまいということです。それを私たちは素朴な思い込みによって外見から判断出来ると考えてはいけない。病気が進行したALS患者のように、想像を絶する激烈な内面的苦痛を抱えていても、それを表情にすら出せない人もいるのです。今日、緩和医療によって終末期の肉体的苦痛はかなり有効に軽減出来るようになりました。一方、現代の医学でも患者の精神的な苦痛を測る術はほとんど進歩していない。私は現代の脳科学や神経科学の一分野として、「苦痛の生理学」といったものが早急に確立されなければならないというようなことを考えています。

|

« 私の聴いて来た音楽(ワールド・ミュージック編) | トップページ | 「消えゆく妻の記憶」という番組を観て »

コメント

難しい問題ですね…
想像してもわからない。
脳波測定で死にたいのか生きたいのかなんてわからないし…

投稿: もん | 2008年12月10日 (水) 14時21分

はじめまして
私は安楽死というものに対して肯定的な意見を持っています。
この問題は非常に難しく、特に普通な方はおそらく否定される意見だと思います。
日本では、安楽死を自殺と考える方が多く、また自分とはかけ離れた問題として感じているように私は思います。
誰も身近には感じたくないのかもしれませんね…

投稿: 蛍 | 2011年11月 4日 (金) 19時45分

安楽死を社会制度から考えると面白い(不謹慎かな)です。
ゆるーい規制での安楽死を国がみとめたならどうなるか。
それまで国民は突き詰めれば「死の恐怖」から逃れるために生き、必死に働き、子孫を増やしてきた。それが結果的に国体維持機能の原動力となっていた。
そのエンジン・心臓の動きを自主的に止めても良い、なんて国体推進者は決して言える訳もない。
しかし、安楽死(穏やかな自殺、家族に負担をかけない死)を望む国民は潜在数を入れたら膨大な率になるだろう。
保険会社とか医療機関とか生臭いのは置いといて、生命の摂理として「時が来たら死ぬ」希望を国家・社会が認めなくなったのは確かでしょう。
「死ぬべき時が来たら死ぬ」
思想の発展を望みます。

※自分で書いてて、あぶねえ考え方だなあとつくづく思います。
こんな考えを時の権力者に利用されたらたまったもんじゃない。「自律」の規範の無い人間に安楽死は猛毒でしかありませんね。

投稿: ロシナンテ | 2011年11月16日 (水) 11時26分

スペース失礼します。

Change.orgにて安楽死に関する署名活動を行っています。賛同いただける方はご署名お願いします。

http://goo.gl/epuQJ

投稿: 匿名 | 2013年7月19日 (金) 02時04分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/43003297

この記事へのトラックバック一覧です: 再び安楽死問題について考える:

« 私の聴いて来た音楽(ワールド・ミュージック編) | トップページ | 「消えゆく妻の記憶」という番組を観て »