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2008年11月 9日 (日)

「消えゆく妻の記憶」という番組を観て

 今週の月曜日に放映されたこの番組については、すでに多くのブログでも話題に取り上げられています。私もこの番組を観てとても強い印象を受けました。芸能界きってのおしどり夫婦と言われていた長門裕之さん、南田洋子さんの生活を取材したドキュメンタリーです。最近テレビでも見かけなくなった南田さんは、三年ほど前から認知症を患い、夫である長門さんの献身的な介護を受けていたのです。カメラはそのおふたりの自宅での日常生活を赤裸々に映し出していました。私たちは認知症という病気が比較的ありふれたものであることを知っていますし、テレビでこの病気を患った高齢者が介護を受ける様子なども割と見慣れていると思います。それでも今回の番組にはとても強く胸に迫るものがありました。それは病気と闘う夫婦の姿が感動的だというだけではなく、私たちの知っていたあの知的で美しい南田洋子さんの変わり果ててしまった姿が、あまりにも痛々しく心を刺激するものであったからです。老人ホームで介護を受けるお年寄りの映像を見ても、ここまで心を動かされることは少ない。それはその人の過去の生活史を私たちが知らないからだと思います。認知症の患者を抱える家族にとって、この病気は何よりも残酷な家族史の断絶として現れます。一緒に暮らしていながら、愛する者が自分の手の届かないどこかに連れ去られてしまう。私自身はそうした経験が無かったので、その苦しみは想像の範囲を出ないものでした。この番組は視聴者に認知症の家族を持つことの擬似体験をさせてくれるものだったと思います。

 若い頃から洋子には苦労をかけどおしだった、今はその贖罪の日々だと語る長門裕之さんの南田さんに対するまなざしは、あくまで冷静でしかも揺るぎない愛情をたたえたものでした。おそらく半世紀も苦楽をともにして来た夫婦だからこそ、あそこまで自然体で妻の介護に打ち込めるのだろう、そんなことも考えさせられ、少し羨ましいような気持ちにもなりました。ふつうなら世間から隠しておきたいと思う老いの現実を、テレビカメラの前で公開するという決断の背景には、自身の生きざまをそのまま映像の世界にさらけ出して来た長門さんの役者魂といったものがあったのだろうと思います。しかし、それはまた同じような苦しみを抱えている多くの人たちにも勇気を与えるものでした。いや、勇気を与えるだけではない、そこには認知症の家族を介護する上での重要なヒントも示されていたように思います。それはこの病気を恥ずべきものとして隠すのではなく、むしろ第三者の目にさらしてしまうことで自分の心の負担を軽くするという発想の大切さです。世間では介護に疲れ果てた末の殺人事件といった痛ましいニュースもよく耳にします。夫婦にしろ親子にしろ、閉ざされた家という空間の中でたったひとりで認知症の家族の世話をするきつさは誰にでも想像が出来るものです。行政が提供する介護サービスを利用することも含めて、その苦しみを外に向けて発信することは介護者としての基本的な心得になるのでしょう。このドキュメンタリーによって長門さんは、番組スタッフも、いやテレビの前で固唾を飲む私たち視聴者をも、ご夫婦に声援を送る仲間に引き入れてしまった。彼は私たちに勇気を与えてくれただけでなく、ご自身もそこから勇気を得ているに違いないのです。

 また私はこの番組を観ながら、自分自身が認知症を発症した場合の心得といったものも考えてしまいました。私は専門家ではないので分かりませんが、病気の進行度合いということは別にして、南田さんは認知症患者としてはとても品のいい、ある意味では扱いやすい患者さんなのではないかと感じました。そしてこれはやはり彼女の長年に亘る女優としての自己陶冶がものを言っているのではないか、そんなことを思ったのです。番組のなかでも紹介されていましたが、彼女の女優としての最後の演技は、昨年公開された映画でのものでした。奇しくもそれは認知症を患った老女の役だったのです。番組を観た人は、おそらく現実の彼女自身がすでに病気に冒されていた時期の、この大女優の最後の演技を深く心に刻んだ筈です。番組のなかで南田さんが、仕事に出かける長門さんを元気だった頃のような柔和な表情で見送る場面がありました。私はこれを見て涙をこらえることが出来ませんでした。女優としての輝かしい過去を持つ彼女は、きっと自身に忍び寄る病気をはっきりと自覚していたに違いありません。そしてそれに怯え、苦しみながらも、これに毅然として立ち向かおうと決意したに違いないと思います。(そうでなければ、最後にあんな役どころを引き受ける筈がないでしょう?) この先、しっかりした治療を受けて、彼女が奇跡的に女優として復帰した時のことを私は想像します。その時彼女は、こんな番組を撮ることを企画した夫を許すだろうか? きっと許す訳がないと思います。それは新たな夫婦喧嘩のタネになるに違いない。しかし、私はこの番組が女優南田洋子の経歴を汚すものだなどとは決して思わない、むしろその反対です。そのことは一視聴者の正直な感想として、ここに証言しておきたいと思います。

 最近読んだオランダの安楽死に関する本の中で、認知症になることの屈辱に耐えられずに安楽死を選ぶ人の話が出ていました。本人によるその決断を私は100パーセント尊重したいと思う者ですが、またもうひとつ突き抜けた境地に立ってみれば、幸福で美しい認知症への向かい方というのも一方にはあるのではないかという気がするのです。いま私は太田正博さんという人の書かれた本を読んでいます。太田さんは若年性アルツハイマー病と闘いながら、「認知症を明るく生きる」というコンセプトで活動を続けている方です。以前確かテレビでも太田さんの話を聴いたことがあるような気がします。彼もまたこの病気に苦しむ多くの人たちに勇気を与えながら、自らもそのことで勇気をもらっている、そういう生き方のコツをつかんだ人なのだと思います。本の表紙を飾る太田さんの笑顔は、本当に明るくて屈託のないものです。歌うことが好きで、児童福祉の世界で長く働いて来られた太田さんは、もともと明るい楽天的な方だったのではないかと想像します。自分のような根が暗くて怒りっぽい人間は、認知症になったらきっと意地の悪い、扱いにくい老人になってしまうに違いない、そう考えると不安になる部分もあります。だから、もしも自分がこの病気にかかるなら、他のことはすべて忘れてしまっても構わないから、とにかく明るくて可愛いボケ老人になろう、その一点だけを紙にも書いて記銘するようにしよう。そしてそれ以外の哲学的な悩みなんか全部捨ててしまえ。そのくらいのことなら、もしかしたら自分にも出来るかも知れない(甘いかも知れないけど)。そんなふうに考えれば、認知症だって怖れるに足らずです。どうです、あなたもそんな気がして来ませんか?

(追記です。私はこれまでこのブログで「認知症」という言葉を使わず、「痴呆症」という言葉で統一して来ました。痴呆症という呼称につきまとう侮蔑的なニュアンスが気にならないではありませんでしたが、一方で認知症という造語が字義として不的確であることに耐えられなかったからです。「認知障害」とか「認知不全症」とでも言うならともかく、「認知症」ってどうなんだろう。今回あえてこの言葉を使ったのは、南田洋子さんのご様子を拝見していて、とても痴呆症という病名は使えなかったということだけで他意はありません。この病気については、相応しい呼び名が出来るまでは、これからも両方の言葉を使い分けて行きたいと思います。)

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