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2008年10月26日 (日)

私の聴いて来た音楽(ワールド・ミュージック編)

 テレビも映画もほとんど見ない、最近は小説も漫画もほとんど読まないとくると、書きたいテーマも限られてしまうし、文章にも何と言うか、〈奥行き〉というものが無くなってしまうのを感じます。このことはブロガーとしての欠陥になるだけでなく、少なからず交友関係にも悪影響を与えています(「自己同一性」の話や「明るい自死」の話では、酒の席が盛り上がる訳もありませんから。笑)。世間一般的な意味で趣味は何かと尋ねられれば、これはもう音楽と答えるしかないのですが、これも人と共通の話題になりにくい音楽ばかりを聴いて来たので、人付き合いをよくすることには全く貢献していないのです。音楽の趣味がマニアックだという意味ではありません、マニアックな趣味なら、同好の士を見付けて薀蓄を語り合うのも楽しいものでしょう。私の聴いて来た音楽はジャンルもバラバラで、しかもただ好きなだけで薀蓄が深い訳でもありませんから、友達を作ることにも女性を口説くことにも役立ったためしが無い。そんな人間が音楽のことを書いても面白くも何ともありませんが、まあ、好きな音楽のタイトルを列挙しておくだけでも、インターネット検索でこの記事を探し当ててくれる変わった人もいるかも知れない、そう思って今回の記事を書くのです。まずは私がCDショップに行くと真っ先に向かうワールド・ミュージックのコーナーから始めます。

1.レディスミス・ブラック・マンバーゾ(Ladysmith Black Mambazo)

 南アフリカの男声コーラスグループです。もとは地元の教会などで歌っていたマイナーなグループだったのが、ポール・サイモンに〈発見〉されて、世界的な人気グループになりました。私も一時期すっかりはまってしまい、1年間くらい彼らの音楽だけを聴き続けたことがあります。数えてみたらCDを16枚も持っている。来日した時にはコンサートにも行きました。ちょうどネルソン・マンデラ氏が解放された翌日の公演で、コンサートはさながらお祭りのようでした。客席の後ろから現れて舞台に駆け上がった彼らに握手もしてもらったっけ。ほとんどがアカペラ(無伴奏)のコーラスなのですが、人間の声ってこんなに豊かな表現力を持っているんだと驚かされます。おすすめのアルバムを1枚挙げるなら、やっぱりポール・サイモンがプロデュースした『Shaka Zulu』でしょう。今ではアマゾンでも品切れのようですが、中古盤なら割と簡単に手に入るみたいです。

2.ドゥミサニ・マライレ&エファット・ムジュール
  (Dumisani Maraire / Ephat Mujuru)

 独裁政権下でアフリカの中でも最貧国のひとつと言われるジンバブエですが、もともとは豊かな自然に育まれた古い王国だったのだそうです。この国に古くから伝わる「ムビラ」という楽器があります。「親指ピアノ」と訳されることもある小さな素朴な楽器なのですが、その音色に魅せられてしまい、自分でも楽器を集めたことがありました(全然弾けないのですが)。インターネットで検索すると、日本人でこの楽器を習いにジンバブエまで行く人も多いらしい。たぶん日本人の心の琴線に触れるものがあるんだと思います。ドゥミサニ・マライレとエファット・ムジュールという二人のムビラ・マイスターが協演した『ショナ・スピリット(Shona Spirit)』というアルバムは、ムビラ音楽の最高傑作と言ってもいい作品です。何か不思議なグルーヴ感とヒーリング感覚が味わえます。伝統楽器ムビラのもっと呪術的な音に触れたいという方には、ステーラ・ランビサイ・チウェーシェの『KUMUSHA』もおすすめ。

3.ラヴィ・シャンカール(RAVI SHANKAR)

 ご存知、インド音楽の大御所です。シタールという楽器の音色も好きで、さすがにこちらは楽器を集めはしませんが、お気に入りのCDは何枚かあります。ビートルズ時代のジョージ・ハリスンが、シタールを学ぶためにインドのラヴィ・シャンカールを訪ねたという話は有名です。その後ふたりの交友は終生続いたようで、1997年にはそのジョージ・ハリスンのプロデュースで『チャント・オブ・インディア(CHANTS OF INDIA)』というアルバムを出しています。これが素晴らしいのです。ラヴィ・シャンカールの音楽も、ついにここまで清澄で平明なものになったか、なんて言い方をすると偉そうですが、肩肘張らずに聴けるのに実に奥が深い。特に最後から2曲目の『Prebhujee』という曲は出色だと思います。あともう1枚、ミニマル音楽の作曲家フィリップ・グラスとの共作『パッセージズ(Passages)』というアルバムも捨て難いですね。こちらはふたりの巨匠が作曲、編曲、演奏でコラボレートした作品集で、ジャンルの違いを超えた傑作になっています。

4.『Call of the Valley』

 インド音楽の有名な演奏家3人が協演した名作アルバム。と言っても、私はインド音楽に詳しい訳ではなく、たまたま聴いて愛聴盤になったのがこの1枚というだけなので、傑作という以上に語るべき薀蓄はありません。インターネット情報によれば、「シャントゥールの名人シヴ・クマール・シャルマ、インドの人間国宝でバンスリ(フルート)の名人ハリプラサッド・チャウラシア、ギタールのブシャン・カブラ」が参加しているとのことです。シャントゥールというのは、ハンマーダルシマーとも呼ばれるピアノの祖先のような楽器ですね。バンスリというのはインド特有の竹のフルート。ギタールというのはその音色から小型のシタールのようなものではないかと思います。とにかくその3つの楽器の音色が複雑に絡まり合い、曲の素晴らしさとも相俟って深い音楽体験をさせてくれる。気持ちを落ち着け、精神を統一させたい時に聴くのはこのアルバムと決めています。

5.マールタ・シェベスチェーン(MARTA SEBESTYEN)

 ハンガリーの国民的な歌手だそうです。日本ではあまり知られていないと思いますが、映画『イングリッシュ・ペイシェント』の主題歌を歌った人と言えば、思い当たる人もいるかも(私は思い当たりません。笑)。一度聴いたら忘れられないような独特な魅力のある声を持った女性シンガーです。この人にも一時期はまったことがあって、CDも何枚か持っています。ムジカーシュというグループにボーカリストとして参加しているアルバムも多いのですが、私はソロ・アルバムの方が好き。特にその中でも1枚を選ぶとすれば、『Apocrypha』という1992年発表のアルバムを。タイトルのApocryphaというのは、聖書などの「外典」や「偽典」を意味する言葉だそうで(インターネット情報)、このアルバムも宗教的な(しかもあまり敬虔とは言えないような)雰囲気に包まれています。こういう音楽を聴いてしまうと、最近の洋楽なんて聴いていられない気分になって来る。ぜひ深夜ひとりで部屋の電気を消して聴いて欲しいアルバムです。

6.マドレデウス(Madredeus)

 こちらはポルトガルのリスボンを拠点に活動するグループ。ポルトガルの伝統音楽と言って思い浮かぶのはファドですが、彼らはファドをベースに様々な音楽の要素をミックスさせて独自の音楽を創り出している人たちです(これもインターネット情報)。日本でマドレデウスを有名にしたのは、テレビCMにも使われた『O Pastor(邦題は『海と旋律』)』という曲で、私もこの曲を聴いてCD屋に走ったのを覚えています。ボーカルも素晴らしいのですが、ウィキペディアによればリードボーカルのテレーザ・サルゲイロは、ナイトクラブでファドを歌っていたところをスカウトされた人なのだそうです。彼女の歌の表現力は、やはりそういうバックボーンがあってこそなんですね。アルバムを1枚選ぶとすれば、やはりあの名曲が入った『EXISTIR(邦題は代表曲と同じ『海と旋律』)』を採りたい(すべてのアルバムを聴いている訳ではないので、これがベストとは言いませんが)。アルバム全体としても素晴らしい出来栄えです。

7.フェイ・ウォン(Faye Wong、王菲)

 テレサ・テンの中国語曲に惚れ込んでいることは既にこのブログで書きましたが、中国語圏で彼女に続く歌い手といえば、やはりこの人ではないかと思います。フェイ・ウォンはテレサの名曲をカバーしたアルバムも出していて、そのアルバムの製作中にテレサが急逝するという事件があり、彼女は台湾での葬儀にも駆けつけています。北京で生まれた彼女は、テレサ・テンの歌を聴きながら育ち、テレサに憧れて歌手を志したのだそうです。そのフェイ・ウォンの1枚、というか1曲を選ぶとすれば、中島みゆきの『ルージュ』をカバーした『容易受傷的女人』を挙げたいと思います。これはフェイ・ウォンを一躍スターダムに押し上げた曲で、〈歴史的名唱〉と言っても過言ではない作品です(『Coming Home』というアルバムの収録曲です)。中国語の意味は分からないけれど、とにかく切なくて、聴いていて胸が苦しくなるほど。最近はアジア圏でも音楽の流行り廃りが速いので、もうフェイ・ウォンなんて若い人は聴かないのかも知れません。でもやはり歴史に残したい歌手だと思います。

8.ミー・タム(My Tam)

 ベトナムを代表する女性シンガーのひとりだそうです。ベトナムの伝統音楽ではなく、ポップス系のミュージシャンに分類される人だと思います。たまたま友人から教えられて、『YESTERDAY & NOW』というアルバムをiPodに入れて聴いているのですが、その抜群の歌唱力と曲の良さでいっぺんにファンになってしまいました。歌として聴くと、中国語も美しい響きを持つ言語だけれども、ベトナム語というのも柔らかくて気持ちのいい響きの言語なんですね。曲の英語タイトルからすると、甘いラブソングが多いみたい。1970年代に思春期を過ごした自分としては、ベトナムと言うとどうしても戦争のイメージがあって、若い世代の中からこんな表現をする人も現れて来たんだ、そんなことを思って感慨にひたってしまうのです。ミー・タムの他のアルバムも手に入れたいと思っているのですが、CDショップにも無ければ、アマゾンやiTunesストアでも取り扱っていないんですね。どなたかCDの入手方法をご存知の方がいらっしゃったら、教えていただけると助かります。

9.スマトラ島バタク族の歌

 インドネシアのスマトラ島の原住民であるバタク族は、昔から首狩り族として恐れられていた民族なんだそうです。しかしまた、彼らは非常に美しいメロディの民謡を数多く持つことでも知られていました。私は若い頃からその代表的な民謡である「シンシンソ」という曲が好きで、レコードを探していた時代がありました。だから1990年代になって、ビクターの「WORLD SOUNDS」シリーズで『シンシンソ』が発売された時は嬉しかったです。このアルバムには、シンシンソを含むバタク族の民謡が、2組のミュージシャンによる演奏で収録されています。素晴らしいのは、プロの歌手でもない、日本人駐在員の方のお抱え運転手だったというハスギアンという人の歌声です。今ではもうこの人の消息も不明だということですが、こうした録音が残ったことだけでも幸運なことだったと思わなければなりません。シンシンソは『船歌』というタイトルでテレサ・テンも歌っています。

10.日本国内のワールド・ミュージック

 ワールド・ミュージックというジャンルに含めるべきか分かりませんが、日本にもトラディショナルなベースを持って活躍している注目のミュージシャンがいます。「TINGARA」は沖縄音楽を現代風に洗練させた楽曲で人気のグループ。もしもエンヤが好きだという人なら、間違いなくはまると思います。どのアルバムも完成度が高いのですが、もし1枚選ぶなら『さきよだ』を。「OKI」はアイヌ音楽の伝統楽器トンコリを復刻して、それを基本にトラディッショナル曲やオリジナル曲を聴かせてくれる人。おすすめは『KAMUY KOR NUPURPE』というアルバム。もうひと組、これはたぶんCDを入手することは難しいと思いますが、「もも」というグループを最後に紹介しておきます。たまたま野外ライブの演奏に出会って、その場で自主制作盤のCDを買いました。インターネットで探しても情報はほとんど無いと思います。いまはもう活動はされていないのかな。パーカッション、カリンバ、三味線などの伝統楽器に乗せて歌う嵯峨美雅子さんの温かいボーカルが素敵です。『光るいのちの歌』というのがライブアルバムのタイトル。どなたか近況をご存知の方がいらっしゃったら教えていただけますか?

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2008年10月19日 (日)

音楽を記憶する脳

 歳をとったせいでしょうか、最近はどうも新しいものに対する興味が減った気がします。本を読むのも、このブログのネタを探すために図書館には通っているけれど、小説というものはほとんど読まなくなったし、音楽に関しても昔からのお気に入りのアルバムは毎日聴いているけれど、新譜を探しにCDショップに行くことはほとんど無くなってしまった。特に音楽に関しては、若い頃から注目のアーティストが出す新譜を息をひそめるようにして待ちわびていた自分としては、そうしたワクワクする期待感を持てなくなったことは寂しい限りです。これはひとつには自分の好きなアーティストたちが活動のピークを過ぎて、新作をあまり出さなくなったことがありますし(レナード・コーエンやエンヤの新作が出れば、すぐにでもCD屋さんに飛んで行くのですが)、もうひとつには新作が出てもそれをじっくり聴き込んで、自分の心に刻みつけるという作業が面倒になったということもあるようです。

 映画や小説といったジャンルの作品ならば、初めて接した時の感動がたぶん一番大きいでしょうし、よほど気に入った作品でもなければ繰り返し観たり読んだりはしないのが一般的でしょう。ところが音楽に関してはそうではないような気がします。例えば好きなアーティストのコンサートに行って、初演の新曲が演奏されてもあまり気持ちが乗れないのに、自分の知っている曲が演奏されると一気にテンションが上がる、そういうことは多くの人が経験しているのではないかと思います。私の場合も、一回聴いただけでひとつの曲に惚れ込んでしまうということはほとんど無くて、やはり何度も聴き込んだ結果として、お気に入りの曲やアーティストが決まって来ている。いま自分のiPodに入っている曲は、古いものではもう40年近くも繰り返し聴き込んで、ふるいにかけられて最後に残った曲たちである訳です。これは考えてみれば面白いことだと思います。デジタル化された音楽自体は変わらない訳ですから、何と言うか、自分の脳の方がその音楽を受け入れるように変形する訳ですね。これは比喩的な意味で言っているのではなくて、新しいひとつの曲に馴染むということは、本当にその曲に合わせてニューロンやシナプスの結線が変わるのだと思います。もちろんそれでも馴染める曲とそうでない曲がある訳で、音楽の好みというのは、その曲に自分自身の脳のかたちがしっくり合うかどうかで決まるものと言ってもいいのではないでしょうか。

 いまの時代は人間の精神活動もすべて脳の働きで説明出来るとする考え方が優勢なので、音楽の記憶を含めたすべての記憶も脳の中に物理的な痕跡として残っていると考えるのが現代人の常識であるようです。人間の記憶の世界は、視覚的なものや聴覚的なものから、言語的なものや情緒的なものまで、実に多岐にわたる広大なものですから、その記憶を保存するメカニズムも非常に複雑なものであろうと想像されます。(私の読み齧っただけの知識でも、現代の脳科学は記憶の本質には迫り切れていないようです。) よく脳科学の入門書には、「おばあさんニューロン」なるものが登場します。私たちが自分のおばあさんの顔を見分けられるのは、特定のニューロン(群)におばあさんの特徴が記録されていて、それを記憶の抽斗から取り出すように引っ張り出して来られるからだとする説です。しかし「記憶の抽斗」というこの素朴な仮説は、今日ではあまり支持されないもののようです。むしろ記憶というものは特定のニューロンが個別に担っているものではなくて、脳の広い範囲のニューロンがネットワークを形成して少しずつ分散して記録しているものだとする説の方が有力らしい。(この立場をコネクショニズムと呼びます。) よく私たちは人間の脳をコンピュータに喩えることがありますが、記憶のメカニズムという点では、脳はコンピュータの記憶装置とは異なった仕組みで作動しているもののようです。

 例えば語学を勉強して外国語が話せるようになったとか、子供が補助輪なしで自転車に乗れるようになったとか、そうしたことも脳の特定の部位が進歩した結果というより、脳を構成するネットワークが組み替えられたことの結果として起こることではないだろうか、そう考えた方が常識的にも納得出来るものがあります。試験のために覚えた英単語は、試験が終わればすぐに忘れられてしまうかも知れません。しかし、いったん話せるようになった外国語、乗れるようになった自転車を、脳は簡単には忘れないでしょう。そういう学習は試験勉強とは違って、何かが脳全体として変化したという実感を伴うものではないでしょうか。もっと言えば、それを学ぶ前と後で、自分にとって世界が変わったと感じられるような体験と言ってもいいと思います。これはひとつの音楽を好きになるという体験でも同じだと思うのです。映画や小説と違って、音楽を本当に好きになるためには自分自身を作り変えなければならない。だからそれは結構しんどいことだし、そうやって獲得されたお気に入りの音楽は一生の財産にもなり得る。確かアインシュタインが、「あなたにとって〈死〉とは何ですか?」と訊ねられて、「モーツァルトを聴けなくなること」と答えたというエピソードがあったと思います。アインシュタインの脳の中には、難しい物理学の理論とともにモーツァルトの曲の数々が刻み込まれていたんですね。死によってこの財産を失うのが惜しいという気持ちは、平凡な音楽ファンの私にも実感として分かります。

 最初の話題に戻って、最近は新しい音楽を聴くことが少なくなったという話ですが、これはやはり年齢のせいで若い頃よりも脳の柔軟性・可塑性が低下したということがひとつあると思います。今回の記事を書きながら、思い付いたアイデアがあります。自分が中学生の頃のこと、音楽に関してひとつ鮮烈な体験をしたことがありました。試験勉強で夜遅くまで起きていた自分は、疲れて机の上に突っ伏して眠ってしまったのです。その時FMラジオから流れて来た曲に眠っている自分の心が反応して、気が付くと感動で滂沱の涙が流れていた。そんな経験は後にも先にもその時が初めてだったので、驚いたのを覚えています。(その時流れていたのはドン・マクリーンの『ヴィンセント』という曲でした。今でも私の財産目録の大事な1曲です。) つまり、眠っていても音楽を受け入れる脳の部分は機能していたのですね。そういうことであるならば、これを新しい曲を自分の脳に覚え込ませるために応用出来るのではないか。むかし睡眠学習器という怪しげな機械がありましたが、自分にとって新しい音楽を眠っているあいだずっとBGMのように流し続けてみたらどうだろう。1週間くらい毎晩それを続ければ、その音楽が好きになるかどうかは別にして、聴き慣れたものにはなるのではないでしょうか。ということで実験を始めてみることにしました。実験のやり方とその結果については、この記事のコメントでまたご報告したいと思います。

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2008年10月12日 (日)

政権交代に期待します

 麻生首相はタイミングを逸したと思います。首相就任後、間髪を入れずに解散に持ち込めば、今よりずっと有利な条件で衆院選を戦えたでしょう。美味しくはないが鮮度だけは良い果物を売ろうとするなら、買い手に考えるいとまを与えずに叩き売るのが商売のコツというものです。麻生政権への支持率を見ても明らかなとおり、状況は刻一刻と厳しさを増している。麻生さんの国会での答弁を聞いていると、この人のもとではもう二度と自民党にチャンスは巡って来まいと思えてしまいます。野党の質問を真っ向から受け止めない皮肉な口調の答弁、感情がすぐに表情に出てしまう余裕の無さ、そうしたものが一国の首相としてふさわしいかどうか。安倍さんも福田さんも、一国の首長としての器量は持たなかったかも知れませんが、少なくとも安倍さんには誠実な人柄というものがあったし、福田さんには(首相就任当初は)中庸を取るバランス感覚があった。ところが麻生さんには一体何があるというのでしょう? 国民はいまじっくりと品定めをしているところだと思いますが、私にはこの人が国民に人気があるという前評判がどうしても信じられないのです。少し前に二世議員を廃止しようという記事をこのブログに書きました。出て来る人、出て来る人、すべて世襲議員で、しかもどんどん小粒になって行く。まあ、一刻も早く自民党に政権を下りて欲しい自分としては、文句のつけようがない展開とも言えますが。

 小沢一郎さんという政治家は嫌いだし、もともと民主党を支持している訳でもありませんが、今回だけはぜひとも民主党に政権を取っていただきたい、そう本気で思います。追い詰められた自民党は、いまだに「民主党には政権担当能力が無い」なんてことを馬鹿のひとつ覚えのように言っています。しかし、ここ2年間の政治的空白を見ても、当の自民党自身がとっくに政権担当能力を失ってしまっていることは明らかではないですか。いまの自民党政権で次々に噴出して来る問題、年金記録改竄の問題も、霞ヶ関埋蔵金という問題も、また天下りや官製談合といった問題も、その根っこにあるのは政治思想の正統性というようなことではなく、あまりに長い年月に亘って一党独裁が続いたことに必然的に伴う政治組織と官僚組織の腐敗ということに他ならないと思います。だから次の選挙ではどちらの党の政策がより現実的であるとか、成長と福祉のどちらを優先するかといったことが争点なのでは全然なくて、とにかく政権を一回ひっくり返してみること、そのこと自体が重要なのだと思う。もともと民主党というのは、自民党の派閥抗争によって分離独立した政党であって、自民党と政策理念上の本質的な対立がある訳ではありません。これがアメリカの共和党と民主党という話なら、宗教的、倫理的なバックボーンがまるで異なっているので、政策においても互いに相容れない深刻な対立があります。が、自民党と民主党とでは、自分のようなリベラル派にとって政策や理念を比べてどちらかを選択することには意味が無い。それでも今回私が民主党を応援したいのは、政権交代の既成事実を作って、これまで既得権の上にあぐらをかいて、この国を腐敗させて来た層に揺さぶりをかけたいという理由以外にはありません。きっと多くの有権者は、同じように感じているに違いないと思います。

 日本でもこれから本格的な二大政党の時代が来るのかも知れない、そう予測する人は多いと思います。しかし、それは欧米諸国でよく見られる二大政党制というのとはちょっと違います。背景にある政治思想や当面の政策においてもあまり目立った違いの無いふたつの政党が、政権を争うことに何の意味があるのか、もしかしたら外国からはそういった目で見られる場合もあるかも知れません。しかし、私はここにこの国の国民が政治的に成熟して来た証を見ることも出来るように思うのです。古くから日本人のメンタリティのなかには、「判官びいき」というものがあると言われて来ました。判官というのは九郎判官義経のことですね。日本人は源義経のように正義感があって、しかも勢力関係では弱い立場にある人をどうしても応援せずにはいられない。これさえあれば、政治思想がどうこうなんて関係無く、健全な二大政党制を維持して行くためには充分であるような気がします。つまり、どの政党に〈義〉があるかを感じ取るアンテナを鋭くして、あとはその時点で劣勢にある方の政党に投票するという行動パターンが一般化すれば、常に政権交代の可能性のある二大政党制が自然に実現してしまう。日本の有権者には無党派層が多いと言われます。これも悪く取れば日本人の政治的な定見の無さということになるのでしょうが、前向きに捉えれば特定の政治思想にとらわれない融通無碍な立場を保っていると言えないこともない。とにかくこういう国民を抱えた国の政権与党は大変です。政権にいるというだけで次の選挙では不利になる訳だし、ひとりの大臣の失言だけで大量の浮動票が逃げて行ってしまうことにもなる。このことは政治の世界に良い意味での緊張感をもたらさずにはいません。

 もともと私は政党政治というものに不信感を持っていました。特に今日のような複雑な社会では、すべての領域で政治的な価値観が一致するなんてことはある筈がありませんから、政党に所属する議員や候補者は自分の信念を曲げざるを得ない場面も多いに違いありません。例えば私は護憲派の人間なので、所属政党はどうあれ憲法を守ってくれる人を選びたい。しかし、小沢さんがどうしても改憲にこだわって党議拘束をかけて来るようなことがあればどうしようもない。私はこれからの政治政党(特に民主党)に注文したいのですが、これからの政党はなるべく緩やかな政策の集合体であって欲しい、そして可能な限り党議拘束という手段に訴えないで欲しいと思います。例えばこのご時勢に憲法問題ではっきりした方針を打ち出すことは、自民党も民主党も恐くて出来ない筈です。それは党を分裂させてしまうからです。でも、考えようによっては、憲法問題といったものは、これはどちらかと言えば宗教問題に近いもので、議論をしても神学論争に陥ってしまうだけの問題です。むしろ日本は信仰の自由を保障している国なのだから、同じ党に護憲派と改憲派が同居していても一向構わないと考えればいい。社民党や共産党のようなマイナー政党が、護憲というコアな部分で勝負するのは全然構いませんが、政権を担う意思のある大政党が護憲または改憲で党議拘束をかけるなんてことは愚かだと思います。これは憲法問題に限りません、靖国問題や教科書問題や皇室典範問題でも同じ、要するにナショナリスティックな感情に訴える部分の問題は、党の綱領からはずしてしまえばいいだけの話です。

 そうは言っても、政党としてのアイデンティティはやはり必要でしょう。いまの民主党が自民党に対抗する軸をひとつ持つとすれば、それは社会格差の是正や経済政策をどうするかといった問題に対する考え方の違いということよりも、もっとずっと根本的な問題、すなわちこれからの時代にアメリカへの距離の取り方をどうするかという点だと思います。私は自民党という政党を、戦後50年以上に亘って続いて来たアメリカの傀儡政権だと捉えていますから、ここで政権が替わることの意味はまさにそこにあると考える訳です。もしも60年安保、70年安保の時に政権が替わっていたら、おそらく日本は恐ろしい政治的経済的混乱の中に投げ込まれていたでしょうし、今日の繁栄も無かったかも知れない。しかし、あの頃に比べて社会も政治も成熟した今なら、もっと穏やかで現実的なやり方で、「アメリカの属国」という立場からの脱皮が可能になるのではないか。それは具体的には日米安保条約をどう見直すかということであり、また経済的には米ドル一辺倒の外貨準備政策をどう変えて行くかということです。今はちょうど、金融崩壊でアメリカの国力が急降下している時ですから、ここで自民党の一党支配が終わるというのはまさにグッドタイミングだと言えます。この大きな変革から見れば、小泉前首相(ちょっと恥ずかしい引退劇を演じましたね)が主導した構造改革なんて、まったくのまやかしでしかなかったことが明らかになるでしょう。なにしろそれは、崩壊したアメリカ金融主義への迎合でしかなかった訳ですから。

 蛇足をひとつ。これも今回有権者の多くが感じたことだと思いますが、民主党の冒頭質問に立った長妻昭さんは実に頼もしいと感じました。この人が追及しなければ、年金問題だってここまで大きな問題にはならなかった訳でしょう。もしも年金改革が成功すれば(それは絶対に成功させなければなりませんが)、これからの高齢化社会を救ったのはまさに長妻さんだったことになる。この人はとにかくコトバが理路整然としていて、分かりやすいところがいい。「日本は強くあらねばなりません」などと時代錯誤のセリフを吐いて自己陶酔している首相とは好対照です。長妻さんはもちろん二世議員などではありません、もともとは新聞記者から政治の世界に入った人だったそうです。以前読んで感心した長妻さんへのインタビュー記事があるのでリンクを張っておきます。コネも地盤も無く政治の世界に飛び込むのはよほど勇気が要ると思いますが、それを決断させたのは同じ立場の先輩である菅直人さんの次の言葉だったそうです。「いや、コネがない人ほどいい政治家になれる。コネがない、親戚も何も関係なければ、しがらみがないから、本当に政治のことが考えられる」。いいよねえ。麻生さんだって別に悪い人間じゃないと思うけど、やっぱり次の日本のリーダーにはこういう人たちになって欲しいよね。

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