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2008年8月17日 (日)

「死刑」についてざっくばらんに語ろう(2)

 今回もまた死刑制度の問題について考えてみます。すでに私はこのブログで、きっぱりと死刑に反対する立場を表明して来た訳ですが、いったんその立場をかなぐり捨てて、原点に帰って考え直してみたいと思い始めているのです。あらかじめどんな予断も結論も持たずに、個人的な感情論は抜きでこの問題に向き合ってみたい。その結果、自分が死刑制度賛成派に転向したとしても、それで何を失う訳でもありません。世間に知られた学者だとか評論家だとかいった人たちにとっては、なかなかそうはいかないと思いますが。私は自分のこのささやかなブログに、自身の思想の変遷を書き残しておきたいと思っているので、どんな立場の論陣を張ろうとしている訳でもないからです。

 前回の論点は、死刑制度の是非を論じる場合、道徳的な視点で考えるより、現実的な視点に立って考えた方がいいのではないかということでした。具体的に言うと、死刑制度には犯罪抑止効果があるのか無いのかという点に問題を絞って考えるということです。もしも死刑が明らかに凶悪犯罪の発生を抑制しているという事実が客観的に証明されたとすれば、死刑反対派の主張する論拠がどのようなものでもあっても、その事実を覆すような強力な論点は無いに違いない、この点はまず認めたいと思います。例えば、こういう想像をしてみます、日本で死刑が廃止された結果として、現在はだいたい年間に一千件あまり発生している殺人事件が二千件に増えたとします。このところ国内で死刑宣告を受ける殺人犯は年間に十数人程度です。ということは、その十数人の命と引き換えに一千人の命を救っているという計算になる。〈見せしめ〉の効果としてはとても効率的であるという結論になります。もしもそれが現実であるならば、私はそれでも死刑廃止論を唱える自信はありません。(たぶん若い頃の自分なら、殺人事件がいまの十倍になっても、死刑反対を貫いたでしょうが。笑) 逆に多くの死刑廃止国が事実として証明したように、死刑制度と殺人事件の発生にはっきりとした相関関係が無いことが分かれば、死刑存廃の問題は、そこで初めて現在我々が論じているような道徳的な問題に席を譲ることになるのだろうと思います。この場合には、私はもう一度死刑反対派に復帰する訳ですが、それは個人的な価値観の問題に過ぎないので、国民の八割が死刑に賛成している以上、やはり当面は死刑を存続させることに強い根拠をもってノーとは言えない。但し、もしも逆に死刑制度が殺人事件を誘発し、その発生件数を増やしていることが証明されれば、この場合にもやはり感情論抜きで、死刑は即刻廃止されるべきであるという結論になることは、死刑賛成派のあなたにも認めていただきたい気がします。

 いただいたコメントに、哲学者の永井均さんの議論を引いて、衝動的殺人であっても計画的殺人であっても、死刑が抑止効果として働くことは期待出来ないのではないかというご意見がありました。永井さんの議論は読んだことがありませんが、私も同じことを考えて書いたことがあります。これは殺人者の心理を推測した議論で、事実に基づく統計的な根拠がある訳ではありませんから、いくらもっともらしい議論でも、その正しさを証明出来るようなものではないということは分かっています。もう少し現実的なご意見として、もしも死刑の犯罪抑止効果を高めたいなら、①死刑の方法を絞首刑よりも苦痛の大きいものに代える、②死刑執行の事実を世間に隠さず公開する(公開処刑ということではないと思います)、というポイントを指摘されたコメントもいただきました。これは刑罰の威嚇効果という点では納得出来る考え方ですが、コメントへのコメントにもあったように、現代では容認されにくい考えだと思います。(私の死刑廃止論は、そのように道徳的な許容レベルがいちじるしく高く(狭く?)なってしまった時代に、どのように死刑に代わるものを求めるかという点にあります。) そう言えば、宮崎勤は獄中で薬物による死刑を要求していたそうですね。絞首刑は残酷な刑罰であるというのがその主張の根拠だったようです。彼の犯罪に同情する点は何もありませんが、自分が死刑囚である状況を想像すれば、この主張には共感出来るものがあります。作家のカミュはもっと大胆な提案をしています、それを飲めば九割がた死ぬけれども、一割は助かる可能性のある毒薬による死刑というものは考えられないかというのです。応報感情の強い日本人には、とても受け入れられない考え方ですね。

 なかなか現行の憲法の定める範囲で、また残酷さを嫌う現代人の道徳意識が許す範囲で、死刑の威嚇効果を高める方法を探るのは難しいような気がします。ひとつあり得るとすれば、死刑の適応範囲を広げることなら可能性があるでしょうか。最近は、殺した人数がひとりであっても、犯行の計画性や残虐性によっては死刑を言い渡される場合もあるようです。これは刑の厳罰化の流れに乗ったものとも言えますが、司法側としてみれば、死刑の威嚇効果を維持するためには仕方の無い選択肢なのかも知れません。人ひとり殺しただけでは決して死刑にならないということが通り相場になってしまっては、それが潜在的な殺人犯にとって犯行への通行手形になる可能性があるからです。ひとり殺しただけでも、死刑になる場合があるんだぞということを、たまには世間に見せつけておく必要がある。それでは殺した人数に関係無く、殺人犯はすべて死刑という原則にしたらどうでしょう? これなら死刑の犯罪抑止効果を高める効果がありそうだとも思えます。ただ、これも私のいつもの論点ですが、そうなると毎年千人からの犯罪者に死刑が言い渡されることになる。これは何度も繰り返し書いているのに、死刑賛成派のどなたからも回答をいただけない点です。あなたは殺人事件の(若干の)減少と引き換えに、年間千件の死刑を受け入れることが出来ますか? たぶん死刑賛成派の人のなかにも、これにイエスと答えられる人は少ないのではないかと思う。それにお隣りの中国の状況などを見れば、極端な数の死刑執行は、人心を荒廃させ社会を野蛮にするだけではないかという気もします。そういう社会では、逆に凶悪犯罪は増えるのではないだろうか。もしも「人ひとり殺せば必ず死刑」という社会で、国内の殺人事件が年間百件以下にまで激減するという可能性があれば、それはそれで検討すべき選択肢にはなると思いますが…

 この問題はいくらもっともらしい論拠を挙げても、相手を説得する決定的な議論にはならないと思います。むしろ議論はすでに煮詰まっているのだから、日本はこれに関する実験をしてみればいいではないかと私は考えます。例えば、期間を1年間限定で死刑制度を廃止してみたらどうでしょう。当然、代替刑としての終身刑の設置が前提となります。この期間に殺人を犯した人は、どんな凶悪な大量殺人でも死刑にはならない。そして1年後に結果を見て、殺人の件数が例年より減っているか同じくらいなら、死刑はそのまま廃止する、逆に増えていたら死刑を復活すると決めておくのです。どうでしょう、そんな法律が国会を通ったら、潜在的な殺人犯はどのような行動に出るだろう? これを機会に大量殺人や無差別殺人に走る人間がたくさん現れるだろうか? 私には想像出来ません。ただ、個人的な推測としては、おそらく凶悪犯罪の件数は大して変わらないのではないかという気がする。その理由はこういうことです、アメリカでは50州のうち14州が死刑を廃止していますから、死刑廃止州と死刑存置州が至るところで隣り合っている訳です。もしも潜在的な殺人犯が死刑が無いことを理由に殺人に走るという傾向があるなら、死刑廃止州には隣りの州からたくさんの殺人者が流入して来て、殺人事件が増えても不思議ではない。が、そんな話は聞いたことがありません。同じ国家で地域によって死刑存廃の制度が異なるということは、考えてみればずいぶん思い切った実験だと言えます。この例から考えても、おそらく我が国で(期間限定で)死刑廃止を試行したとしても、それが誘因となって殺人が増えることはあるまいと考えるのです。

 でも、たとえ死刑を廃止することで殺人事件が増えなくても、被害者遺族の気持ちはどうしてくれるんだ? そういう反論が出て来ることも分かっています。これについても私はそのロジックが欺瞞であることをたびたび指摘しています。もしも被害者感情ということを本当に考えるなら、すべての殺人者が死刑にならなければ不公平です。殺人事件が年間千件以上あって、死刑宣告数が十数件ということは、圧倒的多数の殺人被害者は、犯人を死刑にしてもらうという恩恵を受けられていないことを意味します。つまり、死刑は決して被害者感情を慰撫してなどいないのです。だから論点はまったく単純です、国内で年間に千件の死刑を執行することが不可能であるなら、死刑廃止の実験をして、もしも凶悪犯罪が増えないことが証明されれば(私はむしろ減るだろうと思っているのですが)、その時には恒久的な死刑廃止に向かえばいいのです。ここにはもう死刑存廃をめぐる神学論争など顔を出す余地がありません。――あれ? どんな予断も持たずに考えると言いながら、結局いつもの死刑廃止論に落ち着いてしまいましたね。やはりこの問題については、自分なりに30年以上も考え続けているので、なかなか自分自身を論破することも容易じゃありません。今回の議論の新しい着想は、死刑廃止に関してはまず実験的に試行してみたらどうだろうという一点です。しかも、これは裁判員制度の導入などとは時期をずらして行なう必要がある。そうでなければ、凶悪犯罪の増減ということに別の因子が加わることになるからです。本来ならば、死刑廃止の試行をして、その結果が出てから裁判員制度のようなものを検討すべきだった、というのも以前からの私の主張なのでした。

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コメント

>議論はすでに煮詰まっているのだから、日本はこれ(死刑)に関する実験をしてみればいいではないかと私は考えます。

との事ですが、この一時的死刑廃止実験は、明らかに死刑廃止論者寄りの実験ではないでしょうか。死刑賛成論者がこれに乗らなければならない必然性はないと思います。それに

>実験をして、もしも凶悪犯罪が増えないことが証明されれば(私はむしろ減るだろうと思っているのですが)

というのも、凶悪犯罪の増減は実験の結果を見るまでは分からないわけで、これは根拠の無い、死刑廃止論者寄りの見通しと言われても仕方がありません。そもそもこの実験はどれ位続ければいいのか定かではありません。

根本的な問題は死刑が凶悪犯罪の増減とどんな因果関係があるのかほとんど分かっていないということです。死刑の存在とは全然違う理由で凶悪犯罪が増えたり減ったりしているのだとすると、死刑廃止⇒凶悪犯罪減という結果が出たとしても、(またその逆に死刑廃止⇒凶悪犯罪増という結果が出たとしても)だから死刑はダメ・必要という結論にはならない事になります。

個人的には既に述べたように法や道徳を破る二種類の人間の考察からすれば、凶悪犯罪者は死刑があろうが無かろうが関係無く犯罪を犯すだろうと思います。しかしここから死刑廃止とはなりません。あっても無くても同じなら、あっても良いわけですから。

投稿: 法哲 | 2008年8月22日 (金) 17時24分

>Like_an_Arrowさんへ

死刑の抑止効果ということに議論を絞っていただいて、私自身、コメントも
したのですが、議論を続けるモチベーションがなくなってきたので、
死刑の抑止効果という問題では、このコメントで書き込みを終えるつもりです。

これまでの私の書き込みから推察されるように、私は個人主義的な立場から
死刑についてコメントしてきました。一方、Like_an_Arrowさんは、明らかに
功利主義(ただし功利の主体は社会)の立場に立っています。このことは、
死刑に関すること以外でも、いろいろな社会制度の提言をされているなかで、
Like_an_Arrowさんの姿勢は一貫していますね。
ですから、死刑の抑止効果の問題は、私としては、どうしても、力が入らなく
なってしまうのです。

最近の事件から例をとると、光市母子殺人事件における死刑判決の後で、
本村さん(原告)が、「社会にとっては2名の死者(殺害されば母子)が
(死刑によって)3名になるのは損失ですが...」と言っています(正確にどう言った
かは記憶があいまい)。本村さんは、当然、社会功利主義という立場も承知して
いるわけです。しかし「私(個人)」という立場からは死刑を求めました。
本村さん自身、死刑という問題と格闘されていて、最近出た本「なぜ君は絶望と
戦えたのか」の第11章「死刑との格闘」という章では、いつの間にか死刑存置派の
代表のように思われることに戸惑って、アメリカの刑務所に少年犯罪の死刑囚を
訪ねて話を聞くことをしています。

Like_an_Arrowさんがアメリカの州のことを書いていましたが、先ほど、
死刑存置廃止の州の分布を調べたら、大まかな言い方になりますが、
民主党の支持基盤に廃止州が多く、中西部の共和党の支持基盤に
存置州が多いような印象を受けました。社会民主主義的な観点で死刑の抑止効果を
云々しても、保守層には説得力がないのかなと思いました。

投稿: Saitaman | 2008年8月23日 (土) 21時02分

「個人主義的な立場」というものをもう少し具体的に説明してもらいたいです。これは確かに或る意味理解出来る立場ですから。(僕が考えている個人主義とは違うかも知れませんから何とも言えませんが。)

疑問としては個人主義的立場から社会的に意味のある主張を為しえるのか、ということ。死刑は社会制度な訳ですから。

投稿: 法哲 | 2008年8月24日 (日) 01時17分

法哲さん、いろいろと貴重なご意見をありがとうございます。

今回の記事は、これまで自分の中でいわばモノローグ的に進めて来た死刑制度に関する議論を、いただいたコメントを梃子に自分の中から解放して、開かれたダイアローグにしてみたいという試みでした。(1)の方ではその方向で考えを展開したのですが、(2)の方ではそれがまたいつもの自分の議論に戻ってしまったようです。

いただいたご意見でひとつだけ気になったのは、死刑廃止の実験に関する評価という点です。

> 凶悪犯罪の増減は実験の結果を見るまでは分からないわけで、これは根拠の無い、死刑廃止論者寄りの見通しと言われても仕方がありません。そもそもこの実験はどれ位続ければいいのか定かではありません。

確かに死刑を廃止するという意味では、死刑反対派寄りの実験であるかも知れません。もうひとつの方法として、死刑の宣告数・執行数をうんと増やすことによって殺人事件が減るかどうかを調べるという実験のやり方もあるからです。この場合には、一番分かりやすいのは、人ひとり殺した殺人犯はすべて死刑にするというものです(罪状が殺人ではなく傷害致死の場合はどうするかという問題は残りますが)。しかし、この実験は現代の世界的な趨勢からして実行不可能なものだと思うのですね。なんと言っても死刑廃止は世界的なトレンドですから。

「凶悪犯罪の増減は実験の結果を見るまでは分からない」というのが、逆に実験をしてみることの有効性を示しているとは考えられないでしょうか? 殺人事件の発生件数は、年度によって多少の高下はあるものの、10年くらいのスパンで見てみればかなり一定の範囲に収まっています。もしも都道府県別あるいは市区町村別に発生率を調べてみれば、そのグラフはほとんど根拠の無い偶然の乱高下を示すだけでしょう。しかし、1億2000万人が住むこの日本全体では、発生率の数字が非常に小さい殺人事件というものでも、統計的な分析の対象に充分載って来るのではないかと思うのです。もちろん、刑罰制度以外にも、影響する因子はたくさんある筈なので、その分の考慮はする必要がありますが。(例えば、失業率と犯罪発生率は、かなり明瞭な相関関係を示すようです。)

死刑廃止の実験をするメリットはふたつあります。ひとつめは、それによってもしも本当に凶悪犯罪の発生率が(有意に)減少するようなことがあれば、死刑を廃止することで社会の安全を増すことが出来るという点です。ふたつめは、もしも凶悪犯罪の発生率が(やはり有意に)増えたとすれば、その時には国内の死刑廃止論にも決定的に釘を刺すことが出来るし、国際世論に対してもはっきりと(我が国における)死刑の効能について主張をすることが出来るようになる点です。たぶん、先行する死刑廃止国の状況を見る限り、有意な変化は起こらないというのが一番可能性が高いような気もします。そうなれば、法哲さんのような〈消極的死刑存置論〉が一番現実的な選択肢になるのだと思います。

実験の試行期間ですが、明らかにはっきりした変化が現れれば、これは1年で充分でしょうし(それどころか、もしも死刑廃止直後に殺人事件が急増したりすれば、即刻実験を中止すべきでしょう)、もしも1年経っても有意な変化が見られないなら、実験を延長することもアリだと思います。このへんは、個人の価値観の問題というよりも、統計的な有意性という観点から判断するのが正しいのかなと思います。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年8月25日 (月) 01時17分

Saitamanさん、いろいろと貴重なご意見をありがとうございます。

いただいたご意見に個別にお答え出来ないまま時間が経ってしまいました。この記事へのコメントだけでなく、少し気になっている点について思いつくまま書いてみたいと思います。Saitamanさんのご意見を全体として拝見すると、死刑制度というものを社会正義という観点から論じていらっしゃるのだと思います。これは死刑問題の道徳的側面と私が呼ぶところのものです。今回の記事は、いったんは道徳的論議を棚に上げて、死刑の現実的意味(つまり犯罪抑止効果)に限って議論してみようというものでした。実は私にとっても、一番関心があるのは死刑というものの道徳的な側面なのです。こちらの視点からは、『私の死刑反対論(1)(2)』という文章で、すでに自分の意見を言い尽くしていると思っています。

> 補償だけではなく同害の報復ということも正義回復に含まれると私は考えます。

おそらく私も含めて、道徳的な面からの死刑反対派にとって、「同害報復」という言葉は一番受け入れにくいものではないかと思います。同じく〈報復の正義〉というものに疑義を呈している法哲さんとは違った意味で、もっと感情的というか生理的な面で国家による報復というものを受け入れられないのです。(それならむしろ被害者による仇討ちの方がマシだと思うほどなのです。) しかし、これは個人的な感じ方の問題です。例えば、光市事件の本村さんのような方の言葉の重みには、とても釣り合うようなものではない。Saitamanさんのコメントにあった本村さんの著書はぜひ読んでみたい気がします。

アメリカの州による死刑存廃の状況について、民主党の支持基盤に廃止州が多く、共和党の支持基盤に存置州が多いというのは、その通りなのだろうと思います。しかも私の記憶が間違っていなければ、共和党の支持基盤である中西部の州の方が殺人事件の発生率は高い傾向にあったと思います。またこれらの州では、人工中絶に反対し、同性愛に反対し、進化論を教えることにさえ反対する傾向が強かったのではないでしょうか。Saitamanさんは、日本の保守派はともかく、アメリカの保守派に親近感を感じるものがありますか? 私はブッシュ大統領の8年間で世界が失ったものは、取り返しがつかないほど大きかったと思っています。

川口市の事件について、Saitamanさんが怒りよりも悲しみを感じるとおっしゃっていたことに強く共感しました。どう見ても一般的な家庭で起こった不幸な事件で、子供を持つ親としては他人事とは思えないところがある。でも、考えようによっては、すべての殺人事件というのは、殺された側にとってはもちろん、殺した側にとっても不幸な事件と言えるのではないだろうか? 例えば池田小事件や秋葉原事件のような凶悪犯罪に対しても、「怒りよりも悲しみを感じる」ことは出来ないものでしょうか? こんな言い方をすれば反撥を感じる方が多いのは分かっています。が、自分としてはそういう視点から犯罪や刑罰の問題を捉えなおしてみることも必要であるような気がしているのです。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年8月25日 (月) 01時20分

Like_an_Arrow さんと同様、結局死刑があろうが無かろうが、それだけの理由で凶悪犯罪が増えたり減ったりする事は無いと思う。それこそ例に挙げられたように失業率とか貧富の格差だとか隣近所の関係の希薄化とか、そんな事が関係しているのではないかと。(いや、個人的には実は特に凶悪犯罪などは或る一定の頻度で現れる人間社会の特性なのではないかとも思っているのだけれど。)

ただそうなると、やはり何度も書いたように死刑があろうが無かろうが構わないという結論に落ち着くような気がする。たまたま日本には死刑があるだけで。(そしてたまたまフランスなどには死刑が無いだけで)死刑廃止が世界的なトレンドなどと言った所で、それがトレンド(流行)である以上、いつか今度は死刑がトレンドになる可能性があるだけのことで、それは全然本質的な問題じゃない。

だからSaitamanさんじゃないけれど、死刑廃止を<積極的に>訴えるという事は個人主義的な見解であらざるをえないような気がする。趣味の問題と言うべきか。もちろん現実として日本に死刑が存在している以上、Like_an_Arrowさんのような死刑廃止派は単に趣味の問題にしていては決して死刑は廃止にならないわけだからこれを政治問題化していかなければならない。でもその議論はどうも苦しい。それというのも死刑賛成にしろ反対にしろ、理論と呼べるようなバックボーンがどう探しても見つからないのだから。少なくともその多くは僕の目から見ると牽強付会のこじつけだ。(しかし賛成派は別に理論など見つからなくとも、或いはその理論が廃止派に論破されようと痛くも痒くもない。死刑が存在するのが現実なのだから。これは廃止派にとっては限り無く不利な状況と言える。)

投稿: 法哲 | 2008年8月25日 (月) 02時47分

>Like_an_Arrowさんへ
>法哲さんへ

遅くなりました。ここ何日か、夜間は雷がゴロゴロしていて、パソコンの電源と
LANケーブルを外しっぱなしでした。今も雨ですが雷は聞こえません。

>法哲さんへ

- 個人主義的な立場

ごく常識的に社会全体の利益より個人の幸福を重視する立場です。
抽象的なので最近の事例で説明すると、今回のオリンピックで中国の
メダル獲得数は断トツでした。中国という国レベルでみればメダル数という利益は
高い水準にあったわけです。それには、統制国家という利点を生かしてスポーツに
適性のある子供を県レベル、省レベル、国家レベルで選抜/育成して優秀な選手を
作り上げたことがあります。スポーツの適性はあるけれども、本人は別の方面に
進みたい人、選抜の過程でふるい落とされた人など、個人の幸福を犠牲にされた人の
数は膨大になるはずです。スポーツなど、それに個人的な価値を置く人がやれば
十分だと思います。

「個人主義的立場から社会的に意味のある主張を為しえるのか」ですが、
個人主義も社会的な態度の一つですから、社会的に意味のある主張をなしうるのは
当然だと思います。それに個人主義は非個人主義(ぴたっとした言葉がないのですが
全体主義や社会主義や一部の民主主義)から抑圧されがちなので、自己防衛として
社会的な主張を行わざるを得ないという理由もあります。

投稿: Saitaman | 2008年8月30日 (土) 23時52分

>Like_an_Arrowさんへ

- 死刑と社会正義

言葉にこだわると「個人正義」と言いたいところです。
社会正義というと、何か個人から遊離した抽象的なものに思われるので。
理不尽な理由でぶん殴られたら、報復にぶん殴る。これを語感として
社会正義とは言いづらい。報復を権力機構に委ねた時点で社会正義と
言えなくもないですが。

- 同害報復

私の死刑反対論(1)の法哲さんへのコメントに書いたのですが、復讐という
行為がないと、現行の人類が、このような形で存在してないと思います。
空想ですが、ネアンデルタール人は復讐を知らない平和主義者で
現生人類に滅ぼされてしまったのかもしれません。

誤解がないように書きますが、復讐もエスカレートすると自分を滅ぼす可能性が
高まります。あくまで同害報復です。つい人間は「目には目を」とはいかず、
「目には命を」となってしまいがちです。

- 国家による報復

私は国家による報復などとは考えていません。国家に委託すると考えています。
だから基本は「あだ討ち」なわけです。でも個人的なあだ討ちなど、成功率が高いと
思いますか。あだ討ちの主体がか弱い子供だったらどうしますか。相手が組織暴力
だったら。それこそ返り討ちにあうのが関の山でしょう。それに天涯孤独な人が
被害者だったり、皆から嫌われている人が被害者だったら、そもそもあだ討ち志願者
も現れない。ですから、現状では国家が委託されてあだ討ちを行うのが確実で
合理的ではないでしょうか。

- 保守派に親近感

リベラル派の胡散臭さに比べれば、親近感があります。
「進歩的なリベラル」と「無知蒙昧な保守」というのは単純な2分法だと思います。
それに9.11同時多発テロが民主党の政権で起きていたとして、アフガン攻撃、
イラク攻撃がなかったとは限らない。事実、アフガン攻撃は民主党も賛成していた
はず。当時は国を挙げてテロとの戦いに邁進していました。
アメリカのような国柄で、自国の中枢部に大規模なテロ攻撃をされて、支援する国が
判明した場合、政権が民主/共和のどちらであれ、報復攻撃をしないほうが不思議
だと思います。ブッシュが非難されるとすれば、保守派だからではなく、
いくつかの重大なミス(初期戦力の投下量、間違った情報に踊らされてイラク攻撃
をしたこと)を犯したことににあると思います。

- 怒りよりも悲しみ

誤解のないように主語を確認しますが、私(Saitaman)が悲しみを感じたと
書いたのでなく、川口の犯人が、世界に対して怒りよりも悲しみを感じていた
ように思えたと、いうことです。怒りは爆発的なエネルギーになる。
池田小事件や秋葉原事件には、強い怒りを感じましたが、川口の女の子は
異質だと感じた次第です。

投稿: Saitaman | 2008年8月30日 (土) 23時54分

うーん、個人主義に関してSaitaman さんが言うほど簡単な問題ではないと思う。

>ごく常識的に社会全体の利益より個人の幸福を重視する立場です。

とあるけど、確かにこれだけ見れば誰もが賛成できるように見えるけど具体的な例を考えたら途端に困難に突き当ると思う。
つまり例えば死刑に関して言えば死刑がある方が個人的に幸福だと考えるSaitamanさんのような人と、死刑が廃止された方が個人的に幸福だと考えるLike_an_Arrowさんのような人との間では一体どんな調停が可能なのでしょうか。

Saitamanさんが言ってる個人主義というのはむしろ人間の基本的権利や言論の自由のようなものではないかな。僕は人はそれぞれ違う、様々な利害関係で衝突する個人という意味でこの言葉を使ってたんだけど。だから死刑の賛否も個人個人で違うものにならざるをえないという風に議論したのですけど。

投稿: 法哲 | 2008年8月31日 (日) 02時58分

>法哲さんへ

Like_an_Arrowさんが死刑の抑止効果という社会的な利益に議論を絞ったので、
個人的幸福より社会的な利益を優先するのはどうなのか、という異論を書いた
わけです。Like_an_Arrowさんの死刑制度廃止による個人的幸福というものは、
正直言って、今まで書かれたものからは分かりません。ただ分かるのは、
Like_an_Arrowさんは個人的幸福というような観点からは議論していなくて、
進化した現在の道徳のあり方からすると、死刑はあってはならない、というものだと
思います。

私の個人主義と法哲さんのとはどう違うのでしょう。基本的権利や言論の自由が
あるから個人が様々に衝突するのではないですか?

「(意見が)個人個人で違うものにならざるをえない」から、どうだというの
ですか?議論は意味がないということですか?

私は個人個人で違うからこそ議論する意味があると思う。自分が間違っている
ことを悟る場合もあるし、思いもよらない観点を教えられて自分の考えを
洗練する機会にもなる。利害の対立なら妥協点を探ることも必要だし、
論点の違いが究極的には「好み」のような感覚的なものなら、それを明らかに
することには意味がある。それに個人個人で違うと言ったって、その意見だって
少なからず他者の影響を受けて変化してきたわけですよね。

要するに個人主義を重視する社会は異なる意見が乱立するから議論が必要と
いうことです。

投稿: Saitaman | 2008年9月 3日 (水) 23時29分

>「(意見が)個人個人で違うものにならざるをえない」から、どうだというのですか?議論は意味がないということですか?

ええ、究極的には。個人主義というのは突き詰めればそういうことになると思います。

>私は個人個人で違うからこそ議論する意味があると思う。自分が間違っていることを悟る場合もあるし、思いもよらない観点を教えられて自分の考えを洗練する機会にもなる。・・・・・

これらは全て正しいと思いますが、死刑賛成・反対のような究極的な意見の違いに対しては、何の慰めにもならない優等生的発言でしかないのは明らかではないでしょうか。

議論は必要でしょう。何らかの妥協点が見出せる問題なら尚更です。しかし死刑存廃について賛成派・反対派に一体如何なる「妥協点」があり得るのか僕には分かりません。

>Like_an_Arrowさんは個人的幸福というような観点からは議論していなくて、進化した現在の道徳のあり方からすると、死刑はあってはならない、というものだと思います。

確かに表面上はそういう議論をしていますけど、それはやはりLike_an_Arrowさんの個人的幸福と繋がっている事は明白だと思います。(心の中まで見通せるわけじゃないので何ともいえないところではあるけど、Saitamanさんの言う個人主義というのは基本的に正しいと思うので。死刑が廃止される事は反対派の人にとって個人的幸福に繋がるはずでしょう。)

投稿: 法哲 | 2008年9月 4日 (木) 16時28分

>法哲さんへ

>議論は意味がない?

法哲さんの、物事の見方で、私が気になった点があるので書いておきます。
法哲さんは世界をある時点の静止画像として見ていませんか?
つまり生成変化する相として見ていないように思えるのです。
たかが一個人(Saitaman)の死刑についての意見でさえ、新聞や本やネットで、
他人の意見を読んだり、もちろん自分自身で考えたりして、揺れ動いて、
次第に理解が深まってきたと思っています。他者の意見に説得された場合、
論拠に妥当性があると認めたからです。今の私に反論不能な死刑反対の
強力な論拠が提出されれば、もちろん私は死刑反対派になります。

>究極的な意見の違い?

究極的な意見の違いといったって、それは中間項がないという意味であり、
議論(説得する/される)が成り立たないという意味じゃないと思いますよ。

>妥協点

賛成派・反対派に一体如何なる妥協点があるかという問いですが、
反対派の中に、冤罪(無実の人を死刑で殺す)があるから死刑に反対という一派が
います。それなら衆人環視の中の犯罪については死刑を認めるとか、妥協点が
あるのではないですか。その他の反対/賛成する論拠についても、妥協点や解決策が
ないとは言い切れないですよ。
もちろん表面はともかく、結局は「ダメなものはだめ」vs「よいものはよい」という
子供のような議論なら、法哲さんの書いていることは当てはまります。

>個人的幸福

今のLike_an_Arrowさんが、死刑のない世界で暮らすことを幸福と感じるで
あろうことは否定しません。でも、それから「Like_an_Arrowさんの幸福観」が
「Like_an_Arrowの死刑廃止論」を生み出した(弱く言えば、条件付けた)と、
するのも論理の飛躍と思うのです。上のほうで述べたように、人の意見は
変化しますし、それは幸福観が変化したから(そういう場合もあるが)という
わけではないと思います。

投稿: Saitaman | 2008年9月 7日 (日) 01時37分

「死刑正当論」を紹介します。
以下のURLを見てください。

http://www1.odn.ne.jp/shikei-ron

投稿: 竹本護 | 2008年9月 7日 (日) 19時23分

>今の私に反論不能な死刑反対の強力な論拠が提出されれば、もちろん私は死刑反対派になります。

反論不能な死刑反対の論拠なんてあるわけが無いじゃないですか。もちろん反論不能な死刑賛成の論拠なんてのもあるわけがない。(Saitamanさん、ありますか?)それ故に、既に述べたように僕の定義による個人主義的な死刑賛成・反対しか究極的にはあり得ないと述べたわけです。

>究極的な意見の違いといったって、それは中間項がないという意味であり、議論(説得する/される)が成り立たないという意味じゃないと思いますよ。

議論は大いに結構です。それを否定しているわけではありません。しかしそもそも「反論不能な死刑反対(賛成)の論拠」なるものがない以上、死刑賛成派・反対派両者は結局議論によってそういう結論に辿り着いたわけではないと思うのです。そんな決定的な議論はありませんから。(どちらの陣営も自分達の議論こそ正しく、相手は間違っていると思い込んでいるのだろうけど。)そしてそういう両者間に一体どんな議論が可能なのか、結局自分の結論の方に議論を引き寄せるだけではないか、というのが僕の疑問です。

>反対派の中に、冤罪(無実の人を死刑で殺す)があるから死刑に反対という一派がいます。それなら衆人環視の中の犯罪については死刑を認めるとか、妥協点があるのではないですか。

これは妥協点ではなく、ただ単に反対派の議論に説得力が無かった為に取り下げざるをえなかっただけの例だと思います。冤罪の防止と死刑の賛否は別個に考えるべき問題です。

Like_an_Arrowさんの話については他人である僕らが議論してもしょうがない話なので止めておきましょう。

投稿: 法哲 | 2008年9月 8日 (月) 03時10分

法哲さんへ

>Like_an_Arrowさんの話については他人である僕らが議論してもしょうがない
話なので止めておきましょう。

了解です。

法哲さんと議論していると、何かかみ合わないと感じて、しかし、そのかみ合わなさ
を明らかにしたい気持ちもあります。理由を3つ考えました。

- 理由1
意見には、一方の極に、数学とか自然科学とか、個人の立場に無関係なものがある。
もう一方の極には、音楽の好みとか映画の好みとかの、個人に依存するものがある。
そして、その中間はグラデーションとして連続している。
社会的制度(今の場合は死刑)の意見に関して、相対的に、私のほうが法哲さんより、
「数学・自然科学」寄りにいるから、かみ合わないのかな、と思います。

- 理由2
理由1にも関係するのですが、私は、個人依存に思える、感情、幸福感、
価値観などを、必ずしも基底的なものとは思わないのです。
認知心理学の知見ですが、認知が感情よりも基底的なことがある。
とすれば一見、好悪などの感情的対立(死刑の残酷さがイヤだとか)を認知の層を
明らかにすることによって議論できるし、場合によっては真偽を決めることも
できると考えています。

- 理由3
前のコメントに書いたように私は自分が納得すれば意見を変えますし、変えて
きました。私と違って、法哲さんは確固とした不動の境地にいるのかもしれません。
だから「反論不能な死刑反対の論拠」なんて言葉を使うと、私は「その時点での」
という意味で使ったつもりが、法哲さんは「絶対的な・究極的な」のような
意味に受け取ってしまうのかもしれません。もちろん今の場合は、私の表現に
意味の限定が足りず正確でないのが原因ですが。(こういう場で意見を書くのも、
独りよがりの表現にならいための練習と思っています)。

投稿: Saitaman | 2008年9月10日 (水) 23時56分

>社会的制度(今の場合は死刑)の意見に関して、相対的に、私のほうが法哲さんより「数学・自然科学」寄りにいるから

というのがよく分かりません。死刑の是非がどういう意味で「数学・自然科学」的なのでしょうか。そんな客観的な誰もが納得できる方法があるというのなら是非教えて欲しいものですが。(Saitamanさんがそんな議論をしたとも思えません。どの辺りのことでしょうか?)

理由2で述べられている、死刑についての「基底的」な「認知」というのは一体なんでしょうか。これまでその様な話は無かったように思います。これも、もしあるとすれば是非知りたい。(もしその様な認知があったとしてもSaitamanさんの言うようには真偽が定まったりはしないと思うけど。)

>私と違って、法哲さんは確固とした不動の境地にいるのかもしれません。

いえ、まさか。しかしSaitamanさんの言う「数学・自然科学」的な「基底的認知」が明示されれば、僕も意見が変わるかもしれません。

投稿: 法哲 | 2008年9月12日 (金) 22時44分

法哲さんへ

推測で理由1~3を書いたのは、結局、法哲さんの個人主義というものが、
いまひとつ私には理解できていないからです。法哲さんが、
死刑廃止存置のような重要な問題を積極的に議論していくことを否定して
いるように思えて、どうしても引っかかって、その理由が知りたかったのです。
漠然と、趣味、立場、感覚などが個人個人で違うから、というような理解しか
私にはありません。

死刑制度に限らず、重要な社会的制度や社会的な決断(例:戦争を始めるか否か)が
ありますよね。これらのことを積極的に議論する意味はないのでしょうか。

ちなみに前にも書きましたが、私の個人主義(や自由主義)は、常識的、
古典的なもので、議論の重要性などはJ・S・ミルの「自由論」に書かれて
いる内容とほぼ同じものです。

この記事のコメントで、私が議論を続けている原動力は、法哲さんの個人主義が
どんなものか明らかにしたいことだけといってもいい。
ですから、法哲さんの個人主義というものを、もう一度、簡単に解説していただけ
ませんか?

投稿: Saitaman | 2008年9月13日 (土) 22時58分

J・S・ミルの「自由論」は僕も読みました。実に明快な著作ですね。かなり好きな本です。でも一歩進んで、自由というものが互いに相争う場合についてはミルはほとんど何も考えていなかったようです。つまり「個人主義」というのは楽観的に放っておけば上手い具合に収斂するわけではないわけで、僕はこの言葉をミルの自由論の先の段階の用語として使っています。

僕は以前から死刑賛成・反対のどちらの陣営の見解も「理論」も、納得できるものではないと思ってきました。どちらも相当胡散臭い。結局、両者の思想的結論が先にあって、それを後から無理やり理由付けしたものだからではないかと疑っています。もし、死刑に関する議論がこの種の変装された政治闘争に過ぎないのなら、このような議論に意味など無い、とはっきり言わなければなりません。この意味に於ける「議論」は如何に自分の主張を実現するか、相手の主張を退けるかの技術なのですから、ここで「深まる」ものなど何もありません。

なんとなくはぐらかされたようなのでもう一度聞きたいのですが、Saitamanさんの言う「数学・自然科学」的な「基底的認知」の中身を説明してもらいたい。悪いですけどそんなものがあるとは僕には到底思えないので。

投稿: 法哲 | 2008年9月14日 (日) 20時08分

法哲さんへ

- 個人主義
J・S・ミルの「自由論」、とくに議論の重要性を述べた「2章 思想と言論の自由」
には、自由に議論を戦わせる重要性が記されていますが、上手い具合に収斂すると
いうような楽観的な内容ではなかったと思うのですが。
それはともかく、「ミルの自由論の先の段階」、つまり「自由というものが互いに
相争う場合」には、法哲さんの個人主義としては、どのような態度で臨むのが
よいのでしょうか。できたらお聞かせ願いたい。

- 思想的結論が先
死刑の議論において両者の思想的結論が先にある場合は認めます。
もちろん全てとは言いませんが。
でも思想的結論が先にあるような場合でも、その思想的前提の妥当性を議論する
ことはできないのでしょうか。

- 「数学・自然科学」的な「基底的認知」
私は「数学・自然科学」的な「基底的認知」なんて、つなげて書いてないです。
内容的には繰り返しになりますが、以下、説明します。

- 数学・自然科学的
結局、議論とは乱暴に言えば「これが正しい、それは間違っている」とかを
根拠を提示して戦っている場だと思うのです。その議論の中にも、一方の極に
数学・自然科学みたいに真理基準が比較的明快で客観性があるものがあって、
他方の極にそうでないものがある。社会的制度の議論は2つの極の中間にあると
思うわけです。つまり数学や自然科学とは同じではないが真偽を判定することは
できる。少なくとも、どちらがより妥当かは判定できると思うのです。
そうでなければ、社会科学や道徳哲学など成立しないのではありませんか。

- 基底的認知
基本概念をどのように認知しているかという意味です。基本概念とは「社会」
「正義」「人間」「政府」などなど、です。人は辞書的な意味より多くの意味を、
これらの言葉に与えていると思います。例えば、(日本)政府という言葉に、
ある人は町内会やマンション管理組合の大規模なものというように認知していて、
ある人は保護や面倒を見てくれる、ある種の親のようなものと認知している。
この場合、政府の行動に対する感情は、政府というものの認知に依存している。
つまり、より基底的であると言いたいわけです。この例で、どちらの認知が
より妥当性があるかという議論はできるのではないでしょうか。

投稿: Saitaman | 2008年9月16日 (火) 23時55分

すいません、ちょっとネットから離れていました。

確かにミルはあくまで議論を自由に行う権利(そしてまた意見の多様さ)の重要性を訴えているのであって、自由に議論した結果が上手くいくとは書いてませんね。しかし彼はしばしば真理というものを仮定した上で議論を進めてもいます。でもそれって特に政治的な見解に於いて可能なのか非常に疑問です。核燃料を使ってエネルギーを確保するのが正しいのか放棄するのが正しいのか、治水の為にダムを作るのが正しいのか、それともそれはただの時間とお金の無駄、自然破壊に過ぎないのか、こうした事については「真理」という言葉は敵対する勢力同士で違うし、時間が経てば分かるようになってくるというものでもない。死刑についても一体何が真理なのか僕には到底分かりません。

(ダムの例なら建設の是非は未来、しかも偶然性の高い天候に左右される。ダムの耐用期間の間、氾濫の類いが全然起こらなかったとしても、それをもって「ダムは無駄だったというのが真理だった」とは言えない。それは偶然真理だったことになっただけで。)

さて、僕の言う「個人主義」は「真理」などというものは政治的判断についてはおよそ全ての人が好きなように言う類いのものでしかない以上、(政治判断に於いて)「真理」などという嘘をつかない誠実な態度を採ることを選択すれば必然的な態度で、人間は「私はこう考える」という一種の趣味の表明が出来るだけで、その結果同じ考えの人たちを集めて政治をやるというステップを踏んだ瞬間、またしても敵対勢力との「真理」についての政治ゲームが始まってしまう。だから僕達は政治判断の「真理」については「個人」に留まるべきだろう、と思うのです。

>つまり数学や自然科学とは同じではないが真偽を判定することはできる。少なくとも、どちらがより妥当かは判定できると思うのです。

その「妥当」というのも或る特定の立場からの「妥当」であって、敵対する勢力にとってはそうでないことは明らかではないでしょうか。「数学や自然科学とは同じではないが」どころか、これが数学や自然科学と政治問題の明らかな違いでしょう。

>そうでなければ、社会科学や道徳哲学など成立しないのではありませんか。

むしろ数学や自然科学とは違うということがはっきりするとすれば、何がどう違うのか、その事が分かるだけでも社会科学や道徳哲学には意味があると僕は思いますが。

投稿: 法哲 | 2008年9月20日 (土) 03時50分

法哲さんへ

利害が対立しているグループ同士が正しさを戦わせている場合の欺瞞については
法哲さんの意見に賛同します。正しさなど言い立てずに、利害そのものを前面に
出して戦ったほうが、よほど潔い。

しかし、今回の死刑制度のことでも、私はそもそも論戦を利害対立グループ同士の
ものとは考えていませんでした。むしろ皆の利害が一致する運命共同体に関する
こととして、よりよいあり方を求めて議論しているつもりです。

社会体制全体から特定の制度のありかたまで、あるいは政治的な意思決定に
関しては、可能的に(死刑など)、現実的に(年金制度など)私に関わってくることと
して、私には、とても「個人に留まるべき」事柄とは思えません。
もし社会の雲行きが怪しくなって、自由を圧殺するような兆しが見えたら、
私は自由のよさを主張し、同志を増やす努力をすると思います(物理的暴力の
危険がある段階になったら自信ないですけど)。この手の議論では、個人的に
感銘を受けた本で、ハイエクという人の書いた「隷属への道」があります。
全体主義(ファシズムや共産主義)を攻撃した本で、イデオロギー的な内容ですが、
私は胡散臭さなど全く感じませんでした。

社会の「よりよいあり方」「よりよい意思決定」と思ったものが、正しかった
のか。それは法哲さんが言われるように、その時点では分からないと思います。
しかし、不確実な未来に向けて、何が正しいかを決定し、それに則って行動する
より他ないのではありませんか。地球温暖化は本当なのか、本当だとして、
どのように温暖化が進むのか、対策の効果は、....。環境問題と同時に
政治問題ですが、いや応なく個人は巻き込まれ、政治は決定し行動する必要が
あると思うのです。

社会制度や政治的意思決定の正しさは、何によって判定するかですが、
生存や生存の質という結果で判定するのだと思います。多分に実用主義的で、
進化論的で、総合的で、暫定的なものですが。北朝鮮と韓国のような分断国家は、
同一民族が同じ時期に異なる体制としてスタートしたわけですが、
現在の国民の生存の質の差からすれば、社会制度の「よさ」を判定できる例だと
思います。

強調しますが、政治的なことがらに関する態度そのものの良し悪しは決められない
と思います。多分に趣味の問題、生き方の問題です。今回の文章の大部分は、
私の趣味を書いたと思ってください。

投稿: Saitaman | 2008年9月24日 (水) 01時15分

>皆の利害が一致する運命共同体に関することとして、よりよいあり方を求めて議論しているつもりです。

それができれば理想的でしょうけど。こと死刑に関しては上手く行く見込みはなさそうに思います。

>しかし、不確実な未来に向けて、何が正しいかを決定し、それに則って行動するより他ないのではありませんか。

全くその通りですね。それこそ政治というものの存在理由なのでしょう。僕が鼻白むのは、そういう謙虚さを忘れて、「不確実な未来に向けて、しかしとにかくも前進する為に決定する」というのが政治であるということを忘れて、「自分達の思想が正しいのだから、その様に決定するのである」と考える連中です。政治の世界にあってはこんな傲慢な考え方がどれだけの栄枯盛衰を繰り返した事か。

Saitamanさんの見解は多分に進化論的と見ることが出来ます。確かに北朝鮮のようなことをやっていたら早晩人々は疲弊し、国家体制は崩壊するでしょう。しかし、だからその様な体制は続かない、とは言えてもだからその体制は「間違っている」とは言えないと思います。個人的にも酷い独裁国家だと思いますけど、それは僕らの側から見た政治的見解、「正しさ」に過ぎません。

話題を元に戻すと、死刑の存廃に進化論が何らかの答えを与えるとは僕は思いません。もし死刑が進化論的に存続したり、廃止になったとしても、だから死刑は正しかった、間違っていた、と言えるわけじゃない。進化論を持ってくるのなら死刑の存廃は自然の成り行きに過ぎないわけですからね。

投稿: 法哲 | 2008年9月25日 (木) 16時38分

法哲さんへ

おそらく「正しい」という言葉にこめている意味が、私と法哲さんでは異なって
いるだけで、現実の認識はそんなに違っていないのかもしれませんね。

私には超越的な真理というものの意味が分からないし、相対主義にも満足できない。
かといって不可知論にも留まりたくない。結局、有用性や整合性など、いわば
現実的な真理概念で満足しています。そして有用性を持ち出す以上、その基礎には
人間としての生物学的な条件があると思うのです。ミツバチに知性があったとして、
彼らに自由主義を勧めるのは「正しくない」が、(人間の)全体主義社会に自由主義を
勧めるのは(私の基準では)「正しい」ことになります。

私の死刑存廃の議論の基礎には進化論がある。道徳も進化の過程で進化したのは
間違いないと思います。道徳のなかでも交換の正義(負の価値の交換なら報復)は
重要な役割を果たしていると思います。進化論からは「正しい/間違い」が言えない。
これは論理的に正しい。いわゆる自然主義的誤謬。「である」から「であるべき」は
導けない。でもこれは半分の真理だと思います。「である」に反して「であるべき」
を主張するのは不幸の始まりと思えるのです。かといって「である」とおりに
「あるべきだ」と主張しているわけではありません。両者の乖離の度合いが甚だしい
場合を言っています。具体例では:
・我が子を殺した犯人でさえも許さなければならない。
・個人の利益を考えずに全体に奉仕しなければならない。
・戦ってはならない。暴力に対して無抵抗でなければならない。国家レベルなら
非武装中立の無抵抗主義。
・私有財産は許さない。
などなど。

人間性(種としての生物学的傾向)に反することは「正しくない」というのは、
一般的な有用性は事後的にしか判定できないことに対して、予防的な有用性と
言えると思います。

投稿: Saitaman | 2008年9月26日 (金) 23時33分

>有用性や整合性など、いわば現実的な真理概念で満足しています。

「真」・「正しさ」を「有用性」や「整合性」に還元した所で問題は解決しないんじゃないんですか。その「有用性」や「整合性」は<何に>とっての有用性であり、整合性なのか。これが相対主義から逃れられているわけでないのは明らかです。

Saitamanさんにとっては有用性の基準は「人間としての生物学的な条件」から導かれるのだそうですが、しかし死刑についてはどんなに生物学的考察を進めてみてもはっきりした事は言えないんじゃないんでしょうか。それともSaitamanさんには何か生物学的に死刑は「正しい」と言える確たる証拠があるのでしょうか?

>「である」から「であるべき」は導けない。でもこれは半分の真理だと思います。「である」に反して「であるべき」を主張するのは不幸の始まりと思えるのです。かといって「である」とおりに「あるべきだ」と主張しているわけではありません。両者の乖離の度合いが甚だしい場合を言っています。

この辺りが良く理解できませんでした。具体例で挙げられているのは自然主義的誤謬の例ではないですよね。無抵抗主義とかは全然自然ではないですし・・・・

投稿: 法哲 | 2008年9月27日 (土) 19時53分

法哲さんへ

一連の自分の考えを整理してみると、結局、私のしたいことは自然権の擁護
なんです。そして自然権を正当化する根拠は進化的なものだということです。
少なくとも絶滅せずに生き残った種の性質は有用であり「正しい」。
(「有用である」ことを「正しい」と、定義しているので同語反復なのですが)
私はこれを相対主義とは思いません。なぜなら相対主義とは歴史相対主義とか
文化相対主義とか、ある特定の人間(集団)の観点からしか正しさを決められない、
というものですが、自然権が主張する権利は人間性において共通だと思うから
です。

話を死刑に戻しますと、死刑廃止は報復権(私は自然権に含まれると思っているの
ですが)を侵すので正しくない。ということは、制度としての死刑にこだわっている
わけではなく、(私の頭では考え付きませんが)報復権に抵触しない制度(合理的な
あだ討ち制度など)でもよいわけです。

「自然主義的誤謬」について書いた部分は、法哲さんのコメントを誤読してました
ので取り消します。改めて私の考えを書きますと、私は進化論を自然科学の一分野に
留まるものとは考えていません。なぜなら人間の歴史も進化の一部と考えられるし
現在の人類も現在進行中の進化過程にあるからです。物理学みたいな学問なら
別ですが、観察対象に自分自身(人間)を含む場合、事実の問題と価値の問題を
きっぱり分けることはできないと思います。

投稿: Saitaman | 2008年9月30日 (火) 20時39分

そもそも僕には「自然権」なるものが怪しい概念に思われます。「権利」という、法体系が存在して初めて可能なものを自然の中に見出すという事は土台不可能な話ではないですか?ですから、

>死刑廃止は報復権(私は自然権に含まれると思っているのですが)を侵すので正しくない。

というのはこじつけに思えます。ただ単に社会生活を営む(特に人間やそれに近い類人猿、サル等)種では人間が「報復」と呼ぶ行為を行う、ということが言えるだけで、それを報復「権(利)」とまで呼ぶとしたら、これこそ自然主義的誤謬の典型ではないでしょうか。(ムーアが言った「自然主義的誤謬」は色々解釈が分かれているようで、ここではヒュームの「である」から「であるべき」は導けないというほどの意味で使います。)

>自然権が主張する権利は人間性において共通

などと言った所で、生物学者なら納得も出来ましょうが、利害対立関係にある各集団を納得させられるはずもありません。

>観察対象に自分自身(人間)を含む場合、事実の問題と価値の問題をきっぱり分けることはできないと思います。

これは僕も同感です。が、そこから僕とSaitamanさんが導き出す答えは対照的です。Saitamanさんは価値の問題を事実の問題に擦り寄らせようとしているように見える。(でもそれでは死刑が正当化できるはずも無い。報復「権」などというのは「である」から「であるべき」への跳躍の最たるもの。)でも僕は事実と価値をきっぱり分けることが出来ないからこそ、胡散臭い正当化をせずに、これは政治的問題として簡単に白黒付けられない事を自覚するべきだと思うのです。(それが僕の死刑消極的賛成に繋がるわけです。)

投稿: 法哲 | 2008年10月 2日 (木) 14時10分

法哲さんへ

>自然権について

自然権は法体系が存在して初めて可能なものなんですか?
名前からすると法哲さんは「法」に詳しい人のようですが、
私には信じられません。
自然権とは人間の自然の性向から来るものではないのですか。

目の前にナイフを持った男が私を殺そうとしているとして、
私は自分の命を守る行為を正当なものと思うだろうし、そうする権利が
あると思うはずです。たとえ明確に言語化しないにしても。
また不当に拘束されたらなら自由になる努力をするでしょう。
こんなときに、どう法体系が関係するのですか?

>自然主義的誤謬

私は自然主義的誤謬を持ち出して「である」と「であるべき」を別の世界に
分け置くということが正しくないと思うのです。
「である」に関係なく、無から「であるべき」を生み出せないと思います。
「であるべき」というのも人間の生物学的条件や歴史や慣習などの「である」の
積み重ねの上に築かれていると思うのです。

>...生物学者なら納得も出来ましょうが、利害対立関係にある各集団を納得させ
られるはずもありません。

これは意味が分かりませんでした。自然権が人間共通だから利害対立を調停
できると書いたつもりはありません。逆に、生物として求めるものが共通だから
その資源をめぐって利害対立する(実際にそうなっている)と思います。

>価値の問題を事実の問題

これについてのは上の「自然主義的誤謬」のところに私の考えを述べました。
私としては「擦り寄らせよう」というより「事実を重視する」と表現したい
ところです。

>利害対立と政治的問題

結局、死刑論議ではどんな利害を争っているんでしょう。
私を含め、ほとんどの人は当事者でもないのに。
ただのイデオロギー対立とも思えない。
私としては、やはり人(被害者、犯人)の生死に関わるので放っておけないし、
合意形成の努力が必要だと思うのです。簡単に白黒付けられない事なら徹底的に
議論すればよいと、私自身は思います。

---------------------------

議論の内容に関することではないのですが...。

Like_an_Arrowさんのブログで法哲さんと何度もやりとりをするうちに、
他人の敷地で勝手に騒いでいるようで、少々、心苦しくなってきました。
他の人のコメントが多ければ、そう感じないのかもしれませんが。
思い過ごしかもしれませんが、Like_an_Arrowさんからコメントがなかったり、
最近の記事の内容が議論を呼ぶようなものでなくなったのも、そのせいかと
思っています。また、私自身、この場ではLike_an_Arrowさんの新しい記事を
追いたい気持ちもあります。

また議論の内容も、全部ではないにしろ、言葉の使い方のすれ違いの穴埋めや、
「趣味の違い」の議論しているようなことが多くなってきたと感じています。
法哲さんがよければ、この記事での議論を打ち切るか、あるいは、続きはメールに
よるやりとりにしませんか。このコメントのメール欄にアドレスを記入しました。

投稿: Saitaman | 2008年10月 3日 (金) 01時02分

メールアドレスがアクセスできない。
コメント欄に「ウェブ上には掲載しません」と
なってましたね。

アドレスは、

saitaman_in_japan@yahoo.co.jp

です。

投稿: Saitaman | 2008年10月 3日 (金) 01時11分

>目の前にナイフを持った男が私を殺そうとしているとして、私は自分の命を守る行為を正当なものと思うだろうし、そうする権利があると思うはずです。たとえ明確に言語化しないにしても。

Saitamanさんがおっしゃっているのは「本能」とか「動物的反応」と呼ぶべきものでしょう。これは正しいとか権利があるとかいう以前の問題で、これが再三「人間性に共通」という事で表現されていることなのでしょう。でもこうした反応は別に「正しい」からでも「権利がある」からでもなく、敵が攻撃してきた時には人は思考する間もなく自分の生命を守る為にそのように行動するというだけのことで、Saitamanさんはこうした行動とそれの法律への翻訳を混同しているのだと思います。確かに「防御本能」を法的に正当化したのが「正当防衛」なのです。ところがこういう翻訳は既存の法体系が「正当防衛」というものを作ったからこそ初めて可能になるのです。

これは人間以外の動物の生態を見れば一目瞭然です。そこにあるのは基本的に弱肉強食であって、「正当」だとか「権利」などという概念は不要です。またそんな事を言い立ててみたところで何もなりません。(もっとも動物達は人間のような言語を持っていないので「言い立て」たりなど最初からしないのです。)

そもそもSaitamanさんは自然主義的誤謬を「誤謬」だとは全然考えておられないようです。確かに自然的本能が人間を動かす大きな要因である事は間違いありません。でも本能は本能でしょう。動物的本能からは社会保障制度など逆立ちしたって出て来ません。死刑だって人間の本能から出てくるなどというのは全く信じられません。本能という事なら私刑(リンチ)でいいじゃないですか。「死刑制度の存廃」などという抽象的な問題なら尚更です。こうした問題を人間的・生物的条件で解決できると思うのは余りに楽観的だと思います。

>結局、死刑論議ではどんな利害を争っているんでしょう。

これは既に書きましたが例えばLike_an_Arrowさんにとっては死刑の無い世界が心地よく、それが実現されればそれが彼の利なのです。そしてSaitamanさんにとっては死刑によって社会の秩序が維持される世界が心地よく、それが今実現していて、更に維持されつづける事がSaitamanさんにとっての利なのですから、ここに利害闘争があることは明白です。

>他人の敷地で勝手に騒いでいるようで

そうかも知れません。Like_an_Arrowさんが「迷惑だ。止めて欲しい」と言われるのならすぐにも止める事にしましょう。と言ってもただ単に罵詈雑言の応酬をしているわけではないし、最低限のマナーは守っているつもりですが。

投稿: 法哲 | 2008年10月 3日 (金) 21時04分

法哲さんへ

法律や制度というものを歴史や進化を基礎にしないで、どのように成立するのか、
私は理解できないんです。古代の哲学者が独力で頭から捻りだしたわけでは
ないですよね。あるいはモーセの十戒みたいに、ある日突然与えられたわけでも。
「であるべき」という言葉の使い方も、進化の過程で(つまり生存の必要から)
徐々に意味が形成されて来たのではないでしょうか。

動物本能から社会保障制度などできない。それはそうですが、動物本能がなければ
社会保障制度もできないのではないですか。人間などの社会性生物の特性である
他の個体との協力や優しさがなくて、どうして社会保障制度が成立するのでしょう。
死刑制度だって私刑(リンチ)が徐々に洗練されてきたのだと思います。現在の目から
見れば両者は異なるとしても、過程としては連続していると思います。

---

>Like_an_Arrowさんが「迷惑だ。止めて欲しい」と言われるのならすぐにも
止める事にしましょう。

了解しました。

投稿: Saitaman | 2008年10月 4日 (土) 00時54分

直接の言及が無いので、「本能」と「正当・権利」の峻別についての僕の議論がどれだけ理解されたかわかりませんが、要はSaitamanさんが

「目の前にナイフを持った男が私を殺そうとしているとして、私は自分の命を守る行為を正当なものと思うだろうし、そうする権利があると思うはずです。」

と言う時、Saitamanさんは徹頭徹尾、現代の法体系の中でお話をされています。ですから最初から「正当」「権利」という概念を使ってしまって不思議に思っていないのです。よくよく考えてみてもらえば分かると思いますが、僕らの直接の祖先たちもその中にいた弱肉強食の世界でこれはあり得ないことなのです。(サバンナのガゼルがライオンやチーターに向って自身の生存の権利を主張する所などは滑稽もいい所でしょう。これは人間の戯画漫画でしかあり得ません。)

Saitamanさんは(ヒュームの言う意味で解された)自然主義的誤謬を「誤謬」だと考えていない以上、僕の議論は暖簾に腕押しかもしれません。でも一応もう一度だけ。

>法律や制度というものを歴史や進化を基礎にしないで、どのように成立するのか

とのことですが、法律や制度の確立にはおっしゃるように特有の歴史がありますし、更に人間という生物種そのものにも生物進化の長い長い歴史があった事はその通りです。

しかし。歴史や進化“そのもの”が正しいと言えるのではない、と言うことは承知して頂けるでしょう。そもそも「進化」という語がミスリーディングで、これは「適応」と呼ぶべきです。Saitamanさんの考え方はややもすると悪名高い社会ダーウィニズムに接近するように見えます。ナチスが下等と見なした人々、知的障害者・身体障害者の断種といったことを正当化したのも動物の世界の「進化」を人間界に粗雑に(或いはわざと粗雑に)適用した結果です。もちろんSaitamanさんはそんな事は考えていないでしょうが、余りに純情素朴に進化論や生物的条件を人間社会に当てはめようとなさっていないでしょうか?

>(法律や社会制度が)古代の哲学者が独力で頭から捻りだしたわけではないですよね。あるいはモーセの十戒みたいに、ある日突然与えられたわけでも。

もちろん。でも何億年も前から法律や社会制度が存在していたわけでもないでしょう?そして長い時間をかけて多くの人間の頭脳が不完全ながらも捻り出したのが今の法律や社会制度なわけです。でもこれは明らかに動物の世界の秩序とは違います。良くも悪くも人間は他の動物達とは違う存在です。やろうと思えば他の種を絶滅させる事だって出来る力を持っているのです。だとしたら簡単に人間の「生物的条件」を持ってきても上手く解決できない問題がある(しかも大量に)ことは明白ではないですか。

投稿: 法哲 | 2008年10月 4日 (土) 17時30分

法哲さんへ

>そして長い時間をかけて多くの人間の頭脳が不完全ながらも捻り出したのが
今の法律や社会制度なわけです。

私が否定したいのは上のようの考え方なんです。最初、個人主義云々を言っていた
ころは、そんなに考え方は違わないのかと思っていましたが、決定的に違うことが
分かりました。

社会制度は自然に進化したものですよ。法律だって各時代の慣習や常識が
蓄積し、それを明文化したものに過ぎないでしょう。たとえ人間の頭脳で
捻り出したとしても、慣習や常識に反したら機能しないですよ。
もし機能したとしたら、それは法律ではなく命令でしょう。
人間の頭脳で社会制度が作られたと考えることは、比喩的に言えば、
人間の頭脳で自然環境を作り出したと思うことと同じだと思います。

歴史や進化そのものが正しいかどうかではなく、歴史や進化のなかの
ある生き方は正しく(適応的)で別の生き方はそうではないと言っている
つもりです。だから歴史に関して、日本がアメリカと戦ったほうがよかったのか、
悪かったのかなんて論じることが可能なのです。
そして現在だって、適応、つまり生き残ることの方策をめぐって、どうすれば
よいかを悩んでいるのではないですか。温暖化問題しかり、核問題しかりです。

ナチスの社会ダーウィニズムなど、全く進化論を理解していない証拠です。
人類は協力や思いやりなどの行動を高度に進化させたおかげで、人間以外の動物には
考えられないほどの大規模な社会を作り上げたのですから。それに個体や文化の
多様性は進化的に有利です。ゲルマン民族純血主義なんて、進化論的に見たら
幻想そのものです。

投稿: Saitaman | 2008年10月 4日 (土) 23時42分

「ナイフを持った男が襲い掛かってきた時、それを制しようとするのは「動物的本能」であって、「正当防衛」・「権利」といった概念はそれを法制度の側から翻訳したものである」という僕の議論を何故か全く無視されていらっしゃるのが非常に残念です。自分が間違っていたと思うからもう触れて欲しくなくて話題を避けているのか、或いはそもそも僕の議論は問題にも値しない間違いだと思うからノーコメントなのか。

>歴史や進化そのものが正しいかどうかではなく、歴史や進化のなかのある生き方は正しく(適応的)で別の生き方はそうではないと言っているつもりです。

もうSaitamanさんは既に適応的=正しい=価値があるとしてしまって、事実=価値を前提しているので、こちらとしてはどうしようもありません。少なくとも進化論を支持する誠実な科学者はこのような短絡はやっていないと思います。

現代にまで種を残した人間を含めた生物達はただ単に周りの状況に適応して生き残ったというだけです。それは別に良い事でも悪い事でもありません。この進化論の基本を良く肝に銘じておかないとすぐに社会ダーウィニズムに堕してしまいます。何故なら事実=価値=正しいのこの等号は簡単に逆転してしまって、「戦争で勝利して敵を殲滅した方が正しい」になってしまうからです。でもこれも本当の進化論的見方をすればただ単に「一方が数が多く、強い武器を持ち、良い作戦をとったので相手を殲滅した」という事実でしかないからです。

何故かSaitamanさんは人間の「生物的条件」が必ず良い意味で利用されるという無根拠な前提を持って話をされているように見えます。(これも事実=価値=正しいという見方から生まれています)ナチスの蛮行だって、事実としてあった事なのに「幻想そのもの」という一言で終わらせてしまっています。世界で戦争が引きも切らないこともまた人間の「生物的条件」からではないですか?だとしたらどうして人間の「生物的条件」が全ての問題を解決に導くと考えられるのでしょう?

投稿: 法哲 | 2008年10月 5日 (日) 23時27分

法哲さんへ

- ナイフを持った男の例

>「動物的本能」であって、「正当防衛」・「権利」といった概念はそれを法制度の側から
翻訳したものである」

ということは本質的には同じなのではないですか。翻訳なんだから。
法哲さんの考える社会制度の考え方は私とは大きく違います。法哲さんは
社会制度(法体系も含む)は人間が作ったという考えですね。
人間が作ったとすれば、法体系もある種のシステムですから設計するわけですが
その際、全体を見渡し部分を決めるようなプロセスになります。いわゆる
トップダウンで作成してゆくことになります。
私は法体系は慣習から出来上がってゆくと考えているので、「正当防衛」などは
いわば部品として先に存在していて、後から整理され体系付けられると考えて
います。だから、法体系の配下に組み込まれようが、単独で存在しようが、
「正当防衛」の本質には変わりないと考えるのです。一方、法哲さん式の法体系では、
全体なくして部分としての意味づけはありえない。

- 事実=価値=正しい

それこそ過度の一般化というものです。法哲さんだって事実、例えば現存する
社会制度なり自然環境が無価値だとは考えないでしょう。ただの事実などと
いうのは自分がその中で主体的に生きていない場合(例えば火星に水があるかなど)
です。もちろん現存するものが全部問題がないなんてありえません。
問題がある(マイナスの価値がある)から社会制度の改良や自然環境の保全などを
するわけでしょう。私が否定したいのは、そういった改良が理性によって
フリーハンドで可能だという考え方です。社会や自然のような複雑系に属するものは
完全には理解できない。ほんの一部を理解しているというのが事実でしょう。
ならば、それに対する改良は慎重でなければならない。

死刑制度に関していえば、存置から廃止にした場合の社会全体に対する影響も
計りがたいものがあります。例えば、価値観の微妙な変化が生じるかもしれ
ません(正義より命が大切とか、命の大切さにしても被害者の命より今生きている
犯人の命が大切、などなど)。だから死刑廃止に反対というより、反対にせよ
賛成にせよ、徹底的に議論をして論点を明確にして公開する必要があるのです。
そこで初めて制度を変更できる条件が整う。後は民主的な手続きで決めればよい。
だから「個人的趣味の問題に留まる」という態度は、選挙で棄権するのと同じと
私には見えるのです。

投稿: Saitaman | 2008年10月 7日 (火) 00時35分

もちろん法体系は僕らの生活慣習を土台にしています。それは当然の話です。

>「正当防衛」などはいわば部品として先に存在していて、後から整理され体系付けられると考えています。

重要なのはその「後から整理され体系付けられる」の方だと申しているのです。法が成立する以前の本能としての「防衛」は人間以外の動物だってやってることですから。法が無い状態では第三者のジャッジマンはいらないのです。(だからSaitamanさんの考えで行くと、私刑(リンチ)でいいということになってしまう。)

Saitamanさんはどうやら捜査機関や検事、裁判官を無視して議論を展開しているのではないですか?これが単なる本能としての「自己防衛」と法体系の中で語られる「正当防衛」の決定的な違いです。第三者に「正当防衛」ということを法的に認めてもらわなければこの概念に意味はありません。

>法哲さんだって事実、例えば現存する社会制度なり自然環境が無価値だとは考えないでしょう。

民主主義国家の社会制度については大部分の「人間」については価値がある、と言えるでしょう。でもこれは「人間が」「人間にとって」価値がある、と言っているだけのことだということをお忘れなく。(他の種についてはこの限りではない)しかもその人間達も様々なグループに分かれて互いの相違する価値観を持って争っているのですから。自然環境について言えば台風とか竜巻はどうなのでしょう。人間がどう思うかなんて関係無いことじゃないですか。台風なら深刻な水不足の時にはしばしば恵みになることだってある。人間次第のご都合主義を「価値」と呼ぶのはいささか傲慢ですね。

Saitamanさんは論争の少ない(最低限の生活を守る福祉制度などの)社会制度についてかなり大雑把に見て言っているのであって、特に死刑の存廃についてはこの限りではありません。

>だから死刑廃止に反対というより、反対にせよ賛成にせよ、徹底的に議論をして論点を明確にして公開する必要があるのです。そこで初めて制度を変更できる条件が整う。後は民主的な手続きで決めればよい。

これは賛成ですね。でもSaitamanさんのこれまでの見解は人間の「生物学的条件」からこうした事は決められるべきというものではなかったのですか?

>「個人的趣味の問題に留まる」という態度は、選挙で棄権するのと同じと私には見えるのです。

既に再三書きましたが、僕は死刑賛成派の議論にも反対派の議論にも納得させられませんでした。どちらの議論もそれぞれの党派的な信条を述べたものに過ぎないと思います。もちろんそれが悪いわけではありません。でも僕はそういう欺瞞行為はとても出来ない。「どちらがいいのか分からない」と思うのなら正直にそう言うしかない。もちろん僕はもう一歩進めて「どちらがいいのか決められないのが正しいのだ」と言いたい所ですが、まあ、こんな事を言っても党派的な人々から見れば「コウモリみたいな奴」と言われて端から相手にされない(だけでなく攻撃される)わけで、僕としては政治闘争に巻き込まれたくない以上、「個人的趣味の問題に留まる」と書いたのです。


投稿: 法哲 | 2008年10月10日 (金) 16時33分

法哲さんへ

- 正当防衛など

例えば、為政者の気まぐれで正当防衛などを全く考慮しない法体系が作成され
施行されたとします。そんな社会でも私は自分の身に危険が及んだ場合、
正当防衛に相当する行為に出ると思います。法的には不当になるんだろうけど、
というか、あらゆる法体系を無視して行為すると思う。それは防衛本能に基づく
ものですが、正当だという意識もある。繰り返しますが、その場合の正当性は
法体系とは無関係だと思います。

- 価値について

私は最初から価値は有用性だと書いてきたはずです。人間の、あるいは一部の人間の
価値だけが「価値がある」などとは書いてません。ただ、深層には共有するものも
あるし(全生物は生存を価値があるとしている)、表層には対立するものもある(趣味
の相違など)ということは強調したいところです。

- 生物学的条件

生物学的条件そのものが複雑なので議論が必要なのです。簡単な例では人間は社会的
生物です。社会全体の繁栄に個人の繁栄も依存していますが、社会の繁栄に自分を
犠牲にしたくはない。典型的な葛藤状態です。死刑の場合でも正義を優先するか、
人命を優先するか、葛藤状態にあります。幸か不幸か人間には自由意志がある。
葛藤状態にあるときに、それを解消する努力をするのが人間の性だと思うのですが。

- 欺瞞行為?

法哲さんはどの地点から世界を眺めているのでしょう。私は真理というものは
暫定的なものだし、それで満足すべきものと考えています。物理学の真理だって
そうだし、歴史学の真理だってそうです。究極の真理みたいな立場から見れば、
全てが欺瞞になってしまうのでは?

投稿: Saitaman | 2008年10月14日 (火) 00時14分

>それは防衛本能に基づくものですが、正当だという意識もある。

ですからその「正当」という意識は法によって実効力のあるものにされなければ意味がありません。正当だという意識があるだけでよいのなら、泥棒だって殺人犯だって「自分のやっている事は正当だ」という意識を持って強盗や殺人を犯してもよいことになってしまうのですから。

>私は最初から価値は有用性だと書いてきたはずです。
その「有用性」が誰にとっての有用性なのかが問題です。特に死刑の「有用性」は誰にとっての有用性ですか?少なくとも死刑反対派の有用性でない事は明らかです。本当に有用性という概念は曲者です。利害対立がある人々の間でもその抽象性で橋渡しをしてしまえるのですから。

>欺瞞行為
もちろん死刑賛成の人も反対の人も自分が正しいと思って自分の立場を主張しておられるのですから、そこには何の欺瞞行為もありません。でも僕はその両者の議論は結論ありきの後から取って付けたようなものに見えるし、説得力も無いと思う。それ故に僕は死刑について「これが正しい」と言うようなことを自分が言って他人を説得しようなどとしたらそれは明らかな欺瞞だと思うので、自分は出来ない、という意味で書きました。決して他の人について(特に自分の主張の正しさを全く疑っていない人々について)書いたのではありません。誤解を招く書き方ではありました。失礼。

投稿: 法哲 | 2008年10月14日 (火) 10時51分

死刑を廃止しようが存続させようが、殺人並びに凶悪犯罪は数を減らすことはないですよ。
なぜか・・・
もし仮に死刑執行された人間が絞首刑から生還して、曰わく「もう二度とこんな目に会いたくない」と思えば更正出来た、いやされたとなる。本人による抑止力成立。
しかしこんなのは経験者しか出来ないですから、未経験者は一度死刑執行される必要性がある(生還するかは別として)
犯罪の抑止力になるかとよく争うが、そんなことはハッキリ言って別問題ですよ。誰もそんな計算して犯罪してる訳ではない。気に食わないヤツは殺せ!万引きして顔見られたから消せ!金欲しいから殺しても奪え!まさに死刑を廃止しても犯罪者が一般人を身勝手な欲望で相手方を死刑執行してしまうのです。法に則らずに・・。
こういうものは見逃すのですね!! 途上国も先進国も関係ない! 人を平気で殺す民族性が有る限り死刑執行はつきまとうのです。これが人間の宿命なのでしょうね!殺人をしようと言う欲望と本能が全人類から払拭されて欲しいです!
そうすれば死刑など自然消滅するハズです。必ず!!

投稿: Amazon | 2011年5月14日 (土) 16時21分

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