« 15歳の凶行に思う | トップページ | 「死刑」についてざっくばらんに語ろう(2) »

2008年8月10日 (日)

「死刑」についてざっくばらんに語ろう(1)

 時間的にも精神的にも余裕が無くて、いただいたコメントにもご返事が出来ないまま時間が経ってしまいました。コメントは、ほぼ死刑制度に関する議論に集中しています。今回は、いただいたコメントにまとめてお答えするという意味も含めて、この問題についてもう一度考えてみたいと思います。死刑制度については、私は一貫してこれに反対する立場を表明して来ました。一方、時折いただくコメントは、ほとんど例外なく死刑賛成派(または是認派)の方からのものです。このブログで最初に書いた死刑反対論では、私は死刑賛成派の人たちを改宗(というか転向)させる意図を持っていました。振り返ってみれば、傲慢なことだったと思います。死刑賛否に関する対話が、単純に論理的な議論だけで済まないのは、これがそれを論じる人の個人的なアイデンティティを支えるものに結び付いているという点にあります。ナショナリズムに関する問題を始めとして、いま国民のあいだで議論されているテーマはだいたいがそうです。だからいくら議論を尽しても、決して合意に至ることは無いし、双方に徒労感だけが残ることになる。私自身にしても、これだけ頑固に死刑廃止論に傾いているのは、若い頃から読んだり考えたりして来たものの長い個人的歴史が背景にある訳で、それを忘れてただ自分の考えに固執するばかりでは意味のある対話になる筈もない。むしろ自分がそこにどんなふうにアイデンティティの支柱を求めているかを第三者的に認識した上で、ざっくばらんに書いた方が有意義な議論の展開になるかも知れません。

 まずは問題を整理しましょう。死刑に対して賛成するにせよ反対するにせよ、その論拠となるポイントは大きくふたつに分類されると思います。ひとつは道徳的な視点からの理由付けで、もうひとつは現実的な視点からの理由付けです。もう少し具体的に言うと、道徳的な視点というのは、「人を殺した罪は、自らの命を差し出すことでしか償えない」という考え方を是とするかどうかということです。「償い」ということが焦点になりますから、犯人が死刑になることで、被害者が「償われた」と感じるかどうか、つまり被害者感情ということがここでは重要になります。もうひとつの現実的な視点というのは、「死刑制度には殺人を未然に防ぐ犯罪抑止効果がある」という命題の当否ということです。こちらは価値観の問題ではなく事実の問題ですから、議論にも比較的簡単に決着がつくような気がしますが、実際にはそう簡単ではありません。これまでに死刑を廃止した国で、そのことで凶悪犯罪が増えたか減ったかを統計をとって見てみると、さほどはっきりした相関関係は無さそうだというのが結論のようです。犯罪の多寡はその国の経済状況その他によっても影響される筈ですから、死刑存廃との関連を独立して研究することは難しいでしょう。それにまたこの問題は、国によってまったく背景や条件が違うので、あまり他国の事例は参考にならないような気もします。さらにこれにプラスして、死刑制度の是非を論じる人が引き合いに出す論点として、「凶悪犯が出所して来た場合の再犯の問題」や、「誤審や冤罪があった場合の取り返しのつかなさの問題」というものもあります。これはどちらも妥協案としての「終身刑の導入」という議論につながるものです。以上が死刑制度をめぐる議論のだいたいの見取図と言っていいのではないかと思います。

 こうやって整理してみると、死刑制度の是非というのは全然複雑な問題ではありませんね。にもかかわらず、議論がいつも紛糾するのは、これが理論的に片付けられる問題ではなく、私たちの感情に訴える問題であるからという点は既に述べた通りです。紛糾する原因は、上で分類した「道徳的な視点」からの議論に陥ってしまうからだと思います。これはコメントされた方の文章からも窺われることで、この問題を論じようとするくらいの人なら誰でも自らの道徳的信念を明確に持っているようです(もちろん私も持っています)。いくつか引用させていただきます。

 「私は、100万円盗んだら100万円を返す、あるいは100万円分の罰を受けるということが当然と思うのと同じように、人を1人殺したら原則的に(犯人の)1人の命で購うべきだということに疑問を持ちません。」(Saitamanさん

 「こんにちは。私は死刑賛成派です。最大の理由は『死によってしか償えない罪がある』ということだ。」(清国さん

 「自分は死刑制度は賛成です。なぜかというと、残酷な殺人を犯した犯人は死して償うのが当然と思うからです。」(いのっち♂さん

 いずれも明瞭なご意見だと思います。しかし、これは論者の方の道徳観、または人生観から発せられている言葉ですから、これを取り上げて反論をしてもたぶん建設的な議論にはならないと思います。ところが、これに対して疑問を呈されるコメントを寄せられた方がいます。

 「清国さん、いのっち♂さんなどの死刑賛成論者に質問があるのですが、死刑によって殺人の罪が償われるというのはどういう意味でしょうか? 殺された人間が生き返ってこない以上、どんな意味でも〈償い〉ということは不可能なのではないでしょうか?」(法哲さん

 私はどちらかと言えば、この法哲さんのご意見に共感します。が、それとても気分的なものであることに違いはないと感じています。「どんな意味でも〈償い〉ということは不可能」だとする意見もまた、道徳的なひとつの主張であるに過ぎないからです。ついでながら、私の〈道徳的な視点からの〉主張は、「償いというものは犯人の主観的な問題としてはあり得る、刑罰はそれを助ける機能を果たすべきだ」というものです。ですから、例えば死刑囚が刑を執行されるまでのあいだに、その死刑という現実を直視することによって自分の罪を悟り、贖罪の心を持ちながら刑に臨んだというような実例があることを聞けば、死刑というものにもそれなりの意義はあるのだなと思ってしまう。だが、これは実は被害者のことを二重にないがしろにした考え方だとも言えます。犯人自身は死刑を前に贖罪の涙を流し(それは一種のカタルシスであるに違いありません)、満足して死に向かった。そこでは被害者遺族のやり場の無い気持ちなど省みられる余地は無い。死刑囚の遺した贖罪の文章や歌などが発表されて、それが世間の評価するところにでもなれば、被害者遺族は傷口の上に塩を塗られたように感じるかも知れません。実は私の道徳的主張はとてもラディカルなもので、殺人事件においては、被害者遺族も根本的に意識転換をすべきであるというものです。これは単なる人道的見地からの死刑廃止論などよりも、さらに反論を呼び起こすものだろうと思っています。

 いや、しかし、今回は自分の道徳的主張について書こうとしているのではありませんでした。要するに、道徳的な視点で論じる限り、議論はどんどん個人的な価値観の対立という方向に向かわざるを得ない。感情的対立の泥沼のなかに落ち込んで行くだけだろうということなのです。「そういう考え方もあるんだ」と受け止められる心の余裕があれば、対立する意見の中にも意味を見出すことが出来るのかも知れませんが、たとえそういうスタンスで議論に臨んでも、気がつけばズブズブの感情論のなかに自分も飲み込まれている、そういうことは多くの人が経験しているところだと思います。(なにしろ〈2ちゃんねる〉のような場所で鍛えられている私たち現代人は、相手を感情的に〈釣る〉ことに対してはとても高いリテラシーを持っていますから。笑) だからそこに落ち込まないためにも、私は議論を現実的な問題に限定した方がいいのではないかと思うのです。死刑存廃に関する最も基本的な現実問題というのは、死刑を廃止することで殺人などの凶悪犯罪が増えるのか減るのか、その一点にあると考えます。これは議論のしがいのある問題です。もしかしたら、各国の統計にも表れているように、死刑制度と凶悪犯罪の発生率には、有意な関係は無いという結論になるのかも知れない。だとすれば、終身刑を導入するコスト負担の面からも、八割が死刑賛成だという国民感情の面からも、法哲さんのような現状維持派が最もリーズナブルということになります。

 この点に関するこれまでの私の主張は、自殺願望のやけっぱちな凶悪犯罪が増えている現代では、死刑制度が犯罪を誘発している面が強いのではないかというものでした。つまり、死刑を廃止すれば、総数としての殺人事件は減るだろうという予想です。これに対する反論のコメントもいただいています。

 「でも、自殺願望があったとしても、死刑がないなら自分で自殺するだろうし、死刑があっても自分で自殺するか、死刑で自殺するでしょう(本人の意識では)。世間から罵声を浴びたいという犯人もいれば、あっさりと自殺して、謎解きを封印して、世間を欲求不満に陥れることを想像して喜ぶ犯人もいると思います。結局、死刑制度の有無と関係ないんじゃないですか?」(Saitamanさん

 これは秋葉原事件に関する記事に対するコメントとしていただいたご意見でした。確かに死刑が犯罪を誘発している理由として、「他人の手を借りた自殺」ということを挙げるのは、根拠としては弱いことは間違いありません。論壇雑誌の『世界』の最新号が死刑制度を特集しています。対談記事のなかに、最近は無差別殺人が増えているという印象があるが、それは殺人全体の一割程度に過ぎないという発言がありました。だとすれば、たとえ私の主張が正しくても、全体的な影響は大したことがないということになります。いや、むしろ死刑制度を廃止したら、無差別殺人は減ったけど、一般殺人が以前の何倍も増えたという結果になるかも知れない。死刑反対派としても、それはそれで構わないじゃないかとは言えません。また、死刑に代る制度としての終身刑についても、コメントをいただいています。これも現実的な視点からのご意見で、議論する価値のある考え方を提示していただいたと思います。

 「終身刑をつくると、終身刑目的の殺人が増えると思う。「人一人殺してやっと出所かよ、周囲の視線がこわい。ネットで住所さらされたし。ぶっちゃけ刑務所戻りたい。そうか! 3人以上殺せばほぼ確実に終身刑なんだったな、ずっと刑務所にいられるじゃないか。」ってありうると思いませんか?」(あいかさん

 大いにあり得るかも知れませんね。特に今のように社会格差が大きくなった時代には、刑務所にいることだってひとつの特権になり兼ねない。だから例えば終身刑に関する議論でも、単に理念的なことばかりではなく、現実問題として終身刑囚をどのように処遇するかということも併せて論じて行かなくてはならない。また、刑務所を運営する側の意見としては、今の仮出所のある懲役制度というものは、とても望ましいものであるという話を聞いたことがあります。仮出所があれば、囚人は(内心はともかく)模範囚を装うので秩序が保たれやすいというのです。仮出所どころか、絶対に出所する可能性の無い懲役囚が増えれば、心の荒れた彼らの扱いで刑務官の人たちはどれほどの苦労を強いられることか。これもまた具体的に考えるべき課題のひとつです。

 今回はいただいたコメントから思いつくままを書いているので、何も結論はありません。この問題については、賛成派も反対派も、いったんはその主張を棚に上げて、ゼロベースで考える方が有意義ではないかと思い、議論の取っかかりとなるポイントを思いつくままに挙げてみました。いま日本は、国連やヨーロッパ諸国から死刑廃止に向かうよう勧告を受けています。それだけの事実を見れば、我が国は人道的な面で世界の後進国のようにも感じられますが、事実として犯罪や殺人が西欧と比べても際立って少ない国だということがある訳で、死刑廃止国の仲間入りはしたが、殺人事件の件数が三倍になりましたというのでは本末転倒でしかない。そういう意味で、日本における死刑廃止論議は、アムネスティ流の絵に描いた人道主義とは一線を画したものでなければならないとも言える。少なくとも、日本より治安の悪い国々から死刑廃止勧告などを安易に受けたくはないということだけは言っておきたい気がします(って、私はほんとうに死刑廃止論者だったっけ? 笑)。ともあれ、せっかく盛り上がった議論ですから、皆さまからの再びのご意見をお待ちします。

|

« 15歳の凶行に思う | トップページ | 「死刑」についてざっくばらんに語ろう(2) »

コメント

死刑に犯罪抑止効果があるのかという点について。

これは哲学者の永井均氏の議論ですが、犯罪、ここでは殺人について、犯人には二つの態度がある、というものです。

第一に言わば突発的に、衝動的にやってしまった殺人。ここでは法、特に死刑の存在は少なくとも犯罪行為の間は忘れられています。
第二に、計画殺人のように法・死刑の存在を考慮した上での殺人。

現実はこの二つのタイプの様々な割合の混合でしょうが、どちらにしても法はこうした犯罪者には最初から無力なわけです。(第一の型の犯罪者は、一時的に法や道徳を忘れてしまっただけなので、後になって道徳や法を受け入れて反省する余地がありますが)

これが自分が感じる法の犯罪抑止効果についての疑問の論点です。是非死刑賛成論者の人の意見が欲しいところ。

(永井氏は道徳について言ったのですが、そのまま法の犯罪抑止効果についても流用できるものです。)

投稿: 法哲 | 2008年8月11日 (月) 15時09分

■感情論か

私の死刑賛成の理由は、感情論とか抑止効果というよりは、社会秩序の維持、
そのための重要な基礎である正義の実現といったことが理由なんですけどね。
Like_an_Arrowさんの議論の流れの指示に従うため、これ以上は書きません。

■死刑の犯罪抑止効果

あまり議論に上らないようなのですが、死刑の執行方法と、そのことの人々への
周知徹底が犯罪抑止効果に大きく関係するのではないでしょうか。現在のように
比較的「ひっそり」と苦痛なく行われる死刑という知識を人々が持っている場合と、
極端な例ですが、一寸刻みに時間をかけて苦痛を与えて死に至らしめる、それも、
公開でという場合とでは、死刑の犯罪抑止効果はかなり違ってくると思うのです。
死刑の犯罪抑止効果が減少する方向に死刑の執行方法が変化してきたのではないか
という視点も必要かと思います。

■法哲さんのコメントへのコメント

第一の場合(衝動殺人)
そう簡単に抑止効果がないと言えるのか、私自身は自信がないです。
衝動の発現の仕方への社会的なもの(例えば死刑の知識)の影響を考慮する必要が
あるかもしれないので。一時的に野獣になっちゃった、とうようなことでも
ないのかなと。

第二の場合(計画殺人)
第一の場合と比べて、こっちは抑止効果が高いような気がします。計画殺人する
くらいなら理性的なのでしょう。そうなら、これから自分が行う殺人が完全犯罪で
終わるという自惚れ屋ばかりとは考えられません。もちろん成功の確率が高いと
考えるから計画を実行するのですが、ある種の賭けであることも自覚しているで
しょう。そうなら失敗した場合の不利益についての知識は抑止効果に影響すると
思います。

投稿: Saitaman | 2008年8月14日 (木) 23時32分

>Saitamanさん
「社会秩序の維持、そのための重要な基礎である正義の実現」の為には法の犯罪抑止効果の検討というのは重要な課題ではないのですか?犯罪が抑止されないのなら社会秩序の維持はできないでしょうから。

「■死刑の犯罪抑止効果」のSaitamanさんの見解は公開処刑と拷問を推奨しているということでしょうか?到底現実的とは思えませんが。

「■法哲さんのコメントへのコメント」では誤解が生じているようです。僕が言っているのは既に殺人を犯してしまった人について第一のタイプ(衝動殺人)第二のタイプ(計画殺人)と分けたのです。当然、衝動殺人の場合に法や道徳に犯罪抑止効果があるわけはないのです。何と言っても人を殺してしまった後では抑止効果も何もありません。

計画殺人では尚更です。法というものを考慮した上で法を犯すのですから。そもそも抑止効果というのはそうした計画そのものを断念させるものでなければならないでしょう。Saitamanさんは「失敗した場合の不利益についての知識は抑止効果に影響すると思います。」と書いていますが、その理性的犯罪者が計画が成功した場合の利益の方が大きいと考えたのならやはり抑止にはなりません。

投稿: 法哲 | 2008年8月15日 (金) 14時48分

>法哲さんへ

■抑止効果
「犯罪抑止効果の検討」は重要でないとは書いてません。重要だと思います。
私の論の力点は、犯罪抑止よりも既に起こってしまった犯罪に対する罰(正義の回復)
のほうにあったので、重要でないと思われたのかもしれません。

■公開処刑と拷問
推奨しているわけではありません。ただし、現状の日本の死刑制度を前提にする
だけでよいのかという観点を指摘してみたかったのです。例えば、死刑についての
教育とか、死刑執行の報道とか、抑止効果という点からは改善する余地はあると
思います。

■永井均の議論
私の勘違いでした。「犯人には二つの態度がある...」と書いてあるので、
既に既に殺人を犯した場合なのですね。ここで、法哲さんが永井均の議論を
出した理由が分からなくなりました。犯罪抑止効果について議論しているの
ですから、対象は未だ犯罪を起こす前の人々ですよね。
殺人を犯したような人間は、殺人を犯す以前に法がどうあろうと道徳がどうあろうと
、必然的に殺人を犯す、ということなんですか?

投稿: Saitaman | 2008年8月19日 (火) 23時19分

少し遅れましたが。

>私の論の力点は、犯罪抑止よりも既に起こってしまった犯罪に対する罰(正義の回復)のほうにあった

これは既に疑義を呈したのですが、既に起こってしまった犯罪に対する本質的な正義の回復ということの意味が問題です。物を盗られたとか壊されたということなら、場合によっては賠償によって埋め合わせることが出来るかも知れませんが、特に殺人に於いてそれに値する(正義の回復)などということが本当に可能なのでしょうか?

>犯罪抑止効果について議論しているのですから、対象は未だ犯罪を起こす前の人々ですよね。

しかし未だ犯罪を起こす前の人物に対して、どうして(例えば死刑の存在によって)犯罪抑止効果が発揮されたかどうかを知る事が出来るでしょうか?それができるのは人間の心を全て見通す神の目が必要になるのではないですか。

未だ犯罪を犯していない人は僕達の議論には最初から登場する理由がないはずです。だから僕は既に犯罪を犯した人の法や道徳に対する態度を述べたわけです。

投稿: 法哲 | 2008年8月21日 (木) 01時51分

法哲さんへ

- 正義の回復について
正義の回復は必ずしも現状の回復ととらえていないので、死刑による正義の回復
ということには意味があると思っています。つまり、補償だけではなく
同害の報復ということも正義回復に含まれると私は考えます。

- 人間の心を全て見通す?
法哲さんはある現象の過程がホワイトボックスとして認識できないなら、
因果性を認めないという立場なのでしょうか。私は統計的に適切に処理されて
いれば因果性を認めてもいいと思うのです。きわめて常識的な立場ですが。
さっき、夜のニュースで野菜の摂取量と喉頭がんの発生率の因果関係をやって
ました。統計対象の個々人の生理過程を知らなくても、疫学的調査が可能で
あるように、心の中を知らなくても行動結果を統計的に処理して、社会現象の
因果性(例えば犯罪抑止効果)を云々するのは意味があると思うのですが。
繁華街に防犯カメラを設置したら、繁華街の犯罪が半分になった。
この場合、防犯カメラは繁華街の犯罪の抑止になったと言ってはまずいので
しょうか。(問題にしていることが違うのかな?議論がかみ合ってないと
思いつつ、この項を、書きました)

投稿: Saitaman | 2008年8月23日 (土) 23時28分

恐らく「正義の回復」というのはややミスリーディングなのでしょう。死刑が執行される事は「正義が為された」と(死刑賛成論者側からは)言われるべき状況ではないでしょうか。なんとなく僕からすると胡散臭い物言いですが。

もっともSaitaman さんは「同害の報復」という言葉を使われているのでこっちの方が「正義」のような或る意味、相対的な概念に惑わされずに済むような気がします。結局死刑は復讐なのか?復讐はどう正当化されるのか?これが問題の本質かも知れません。

もう一つ、Saitaman さんの疑問で問題が明確になりました。「犯罪抑止効果」というものには外的なものと内的なものがあって、自分が問題にしていたのは内的なものであった、と。外的というのは観察して分かること、内的というのは心理的なことというほどの意味です。Saitaman さんの言う通り、「繁華街に防犯カメラを設置したら、繁華街の犯罪が半分になった」のなら、これは外的な意味で「犯罪抑止効果」があったわけです。Like_an_Arrowさんの方もこちらで考えてますよね。ちょっと的を外しました。

投稿: 法哲 | 2008年8月24日 (日) 01時10分

>法哲さんへ

- 復讐について

以前書いたように私の正義観(のうちの交換の正義)はシンプルで古典的です。
天秤の両側が釣り合っていれば正義、そうでなければ不正義です。
補償で釣り合わなければ、報復で釣り合わせるほかはないと考えます。
だから死刑は復讐です。

「復讐はどう正当化されるのか?」ですが、法理論はともかく、生物として人間が
そうなっているから、としか考えられません。
仮に復讐ということがなかったら悪行を行う個人や集団はますます栄え、
復讐をしない寛容な個人や集団は、食い物にされて生存競争から脱落してしまう。
だから、復讐の正当化としては、生存への意志だからとしか、答えられません。

- 内的な「犯罪抑止効果」の検証

全体の議論から外れるのですが、ちょっとこだわってみたいので...。
倫理的、現実的な問題は度外視してください。
殺人を犯した人以外の全員に、アンケートというか尋問を行います。
質問は、

1.あなたは人を殺そうと思ったか、あるいは殺しかけたことがありますか?
2.上記1でYesの場合、死刑が怖くて犯行を思いとどまりましたか?

とします。返答は精巧な嘘発見器をつけて行います。
このアンケート結果を集計して抑止効果を云々できると思うのですが。
こだわったのは言語は公共的なものだから、言語化できることは、
内面といえども不可視ではないと思ったからです。特に、瞬間瞬間の
内面の動きではなく、「殺しを止めよう」というような総括的な判断の
ようなものは言語化しやすいのかと。

投稿: Saitaman | 2008年8月30日 (土) 23時49分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/42130764

この記事へのトラックバック一覧です: 「死刑」についてざっくばらんに語ろう(1):

« 15歳の凶行に思う | トップページ | 「死刑」についてざっくばらんに語ろう(2) »