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2008年8月31日 (日)

彼女の歌を母国語で聴ける幸せ

 大石吾郎さんがDJをしていたコッキーポップを毎日楽しみにしていた私が、初めて聴いた中島みゆきさんの歌は、デビュー曲の『アザミ嬢のララバイ』だったと思います。年譜を見れば1975年秋の発表ですから、もう33年も前のことになります。一世紀の三分の一にも当たる期間に亘って、中島みゆきさんは常に第一線のアーティストとして活躍して来ました、この息の長さにまず私は感嘆します。例えば演歌といったジャンルなら、彼女より活動期間の長い歌手もたくさんいると思います。しかし、自作の曲を歌うシンガー・ソングライターと呼ばれる人で、これだけ長いあいだ、これだけのクオリティで歌い続けている人は、世界中を見回してもそうはいないのではないだろうか。ビートルズが解散した後の1970年代は、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、多くのシンガー・ソングライターが雨後の筍のように輩出した時代でした。その多くは一世を風靡する名曲の1曲か2曲を残してポピュラー音楽の表舞台から姿を消して行きました。それはまさにその時代を彩るBGMのようなものだったと思います。ところが、最初のヒット曲になった『時代』から最近作の『一期一会』に至るまで、彼女は同時代をはるかに超えた場所で独自の世界を作り上げて来た。振り返ってみれば、そこにあるのは今日の社会や世相を映し出す優れた作品という域を超えて、もっとずっと普遍的なものに触れている作品群であるように思えるのです。いまこの時代において、これはほんとうに稀有なことではないだろうか?

 …なんて、中島みゆきさんに捧げるオマージュを書き始めてはみましたが、自分の好きな音楽についてこんな美辞麗句をいくら並び立てても虚しいだけですね。実を言えば、デビューした頃からの中島みゆきファンだったにもかかわらず、この二十年くらいのあいだ、彼女の作品を自分から積極的に聴くことは無かったのです。初期のアルバムはほとんど集めていましたし(まだLPレコードの時代です)、たぶん『寒水魚』(1982年)、『予感』(1983年)の頃まではリアルタイムに彼女の作品を追いかけていたと思います。ところがレコードからCDの時代に変わると、自分のコレクションにみゆきさんの新譜が付け加わることは無くなってしまった。なんとなく、『寒水魚』というアルバムで中島みゆきの作品はピークに達して、もう自分としてはこれ以上いいかなという思いを持ってしまったのです。みゆきさんと同じく1975年の秋にデビューしたシンガー・ソングライターの山崎ハコさんにぞっこん惚れ込んでいたこともあって、どこか人の心の弱さにつけ込むような感じのみゆきさんの歌より、近寄りがたい孤高の道をひとり歩いて行くようなハコさんの歌の方が、当時の自分の趣味に合ったという理由もあります。最近、ふとしたことで、CD時代になってからのみゆきさんの歌をまた聴き始めて、改めてその世界の豊饒であることに驚いているといった次第なのです。最近の作品のなかに初期の傑作を超えるものが無いなんて、まったく根拠の無い思い込みだった。彼女のファンからすれば何をいまさらという話であるに違いありません。

 彼女が天性のメロディ・メーカーであり、また豊かな表現力を持った歌い手であると同時に、優れた詩人でもあることは多くの人が認めているところだと思います。最近、活動中止を宣言したサザンオールスターズの桑田佳祐さんが、ロックンロールに日本語は似合わないと言っていたような記憶があります。で、サザンの初期の曲はほとんど日本語の意味というものを解体してしまって、まるで外国語の曲を聴くような印象を与えるよう工夫されていたのだと思います。おそらく彼はミュージシャンとして、自分が日本語の国に生まれたことを残念に思っていた時期があるのでしょう。中島みゆきさんはまるで反対ですね、彼女ほど日本語の詞を大事に扱い、言葉の美しさを損なわないように苦心している音楽家も少ないのではないだろうか(もうひとり挙げるとすれば小椋佳さんでしょうか)。確かにメロディが素晴らしくても、日本語の詞が陳腐だと、それなら歌詞の意味が分からない外国語で歌ってもらった方がいいと感じる曲もたくさんあります。でも、みゆきさんの曲を聴くと、ああ、やっぱり日本語っていいなと素直に思う。いや、むしろ中島みゆきという表現者に出会えた現代日本語の幸福、なんてことまで考えたりします。彼女の曲は外国のミュージシャンにも多く取り上げられています。その独特なメロディ・ラインには、特にアジア人の心に共通に響く何ものかがあるような気がします。でも、中島みゆき作品の魅力の半分は、そのコトバの凄さにあることを思うと、母国語で彼女の歌が聴けることをしみじみ幸せだと感じるのです。

 今回、彼女のアルバムを集中的に聴いてみて、1990年代以降の曲には初期の曲とは違った特徴があるのではないかと感じました。まず全体的に曲の長さが長い。そしてひとつひとつの作品が、何というか演劇的な効果を狙って書かれていると感じさせるものが多い。と書いて気付きました、彼女が『夜会』と題されたコンサートを始めたのが1989年のことなんですね。私はビデオでしか観たことがないのですが、それはクラシックのオペラが総合芸術と呼ばれるのと同じ意味で、音楽と舞台の相乗効果を狙ったポピュラー音楽の総合芸術といったようなものを指向したものなのでしょう。そして自らが俳優でもあり歌手でもあるソングライター中島みゆきは、この舞台のために曲を書いているに違いない。これはクリエーターとしてのモチベーションを高く維持するためにとても有効な方法だし、またそれが多くのソングライターが陥ってしまうマンネリから彼女を救っているのではないかと思います。シェークスピアが不朽の名作を数多く残したのは、彼が書斎の人ではなく、自分の劇団を持つ座長で、実際の舞台のための脚本を書いていたことと大いに関係があります。よし、この場面ではこのセリフで観客を唸らせてやろう、そうたくらんでいた時のシェークスピアの脳の中では大量のドーパミンがドバドバ放出されていたに違いありません。これはクリエーターとしてとても幸福な状況だと言えます。彼女の場合もきっと同じですね。よく中島みゆきの歌は暗いなんて言う人がいますが、とんでもない、日本に1億2000万個ある脳のなかでも、彼女の脳ほどドーパミンをたっぷり浴びている脳はそうはあるまいと私は思っています。

 このところ自分が中島みゆきさんの歌に夢中になっているのは、CDではなくiPodで音楽を聴くことが多くなったためでもあります。(子供が小さいので、家ではじっくり音楽など聴いていられないのです。) 特に90年代以降の彼女のアルバムは、曲調も非常にバラエティーに富んでいて、正直に言って自分の好みではない曲も多い。これがiPodなら、自分の好きな曲だけを集めて、簡単に自分だけの中島みゆきワールドを作ることが出来る。これが楽しい。今回の記事を書いている目的は、この自分が作ったプレイリストを自慢するためでもあるのですが(笑)、確かにこの作業に没頭している時、私の脳味噌のなかでもドーパミンがチョロチョロと出ていた気がする。以前、このブログでテレサ・テンさんの中国語曲のベストを紹介したことがありました。当時は寝ても覚めてもテレサの曲が頭のなかを駆け巡っていて、自分の脳がテレサ脳になってしまった気がしましたが、今はそれがみゆき脳になった感じです。もしも興味のある方がいらっしゃいましたら、こちらの曲目紹介をどうぞ。

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2008年8月24日 (日)

北京オリンピック雑感

 スポーツは観るのもするのも好きじゃないということもあって、オリンピックにはあまり心を惹かれるものがありません。むしろこの開催期間中、世界中のナショナリスティックな感情価がふだんよりワンメーター上がるような気がして、憂鬱な気分になる。特にテレビの実況中継で、アナウンサーがヒステリックなまでに感情をあらわにして叫ぶのがどうにも耐えられません。実況中継のアナウンサーが公然と日本選手を応援することは、今に始まったことではないと思いますが(「前畑がんばれ!」の時代からそれはあった)、今日のような国際化した世界ではそれに違和感を感じる人も多いのではないかと思うのです。そういう意味では、例えば私には高校野球の方がずっと観戦しやすい。高校野球では、アナウンサーや解説者がどちらかのチームに肩入れして中継することは絶対に許されない訳です(たとえそのアナウンサーの母校が出場していたとしても)。ところが、もしもナショナリズムに反感を感じているアナウンサーがいて、オリンピックの中継で日本チームと相手チームを分け隔てなく扱ったとしたら、たぶんそんなアナウンサーは視聴者からのクレームであっという間に番組を降ろされてしまうに違いない。せめてどこかの放送局が(副音声でもいいから)そういうポリシーでの実況中継をしてくれたなら、自分のような人間にもオリンピックが楽しめるのではないかと思うのですが。

 半世紀前ならいざ知らず、最近のオリンピックで主催国自身がこれほど国内のナショナリズムの高揚に熱を入れている例は無かったのではないかと思います。壮麗な開会式は圧巻だったそうですが、後から演出の偽装ということが問題になったことをニュースで知りました。花火がコンピュータ・グラフィックだったというのはまあ許せるとしても、クライマックスで歌った少女の歌が〈口パク〉だったというのは、とてもイヤな感じが残りました。本人が歌った録音に口を合わせさせたというならまだ許容範囲、ところが歌のうまい別の少女の歌に、ルックスのいい別の少女が口を合わせたという事実が明るみに出されてしまっては、これはもう演出という以前の問題だと思う。だってそのふたりの少女は、たぶん一生消えない心の傷を負ってしまった訳でしょう。これは完璧さを求める演出家の問題ではないと思います、〈国威発揚〉のためにはひとりやふたりの少女の心など踏みにじってもいい、そう考える中国政府の問題です。さすがにこの事件には、中国国内でもたいへんな不評が巻き起こり、インターネット上のブログや掲示板では政府を批判するような発言が相次いだそうです。これに対して中国政府が取った行動は、こうした発言を検閲し、片っ端からそれを削除して回るということだったらしい。まったくいつの日かこの国にも普通選挙が行なわれる時代が来て、この〈がさつな〉政府が打倒または浄化されることはあるのだろうか?

 中国国内での世評と言えば、陸上の劉選手という人が捻挫だか何だかで棄権したことに対して、たいへんな批判が起こったのだそうです。日本も女子マラソンで期待の選手が棄権する事態がありました。怪我なら仕方ないよね、というのがふつうの反応だと思うのですが、中国では違うらしい。「逃げ劉」といったあだ名を付けられて、さんざんバッシングを受けているそうです。ナショナリズムという感情が恐ろしいのは、それが簡単に反転して自国の選手に対する攻撃や憎悪に変わってしまう点にあります。これは例えば戦争に向かおうとしている国で、徴兵を拒否した若者が〈非国民〉と呼ばれてバッシングを受けるのと同じ構造だと言っていいと思います。まあ、劉選手の場合は、もともと非常に人気のある有名選手で、コマーシャルへの出演料などで莫大な収入を得ている人だそうなので、それへのやっかみという面もあるのかも知れません。劉選手に限らず、中国ではスター選手の収入はみなすごいらしいですね。どこが共産主義の国なんだろうと思うくらい。今はプロ・スポーツ選手でもオリンピックに参加出来る時代ですし、日本でも人気のある選手はばんばんテレビ・コマーシャルに出ていますから、目くじらを立てるような話ではありません。私が子供の頃には、オリンピックは「アマチュア・スポーツの祭典」と呼ばれていました。やはり東京オリンピックの頃とは隔世の感があります。

 日本選手へのブーイングは、やはり抑えようもなく起こっていたようです。それに耐えて日本選手はけなげに頑張ったとも言えるし、まあ言語の違いがあるので、どんな口汚ない野次も日本選手にはストレートに届かないのが幸いだったとも言える。北京五輪でのブーイング対策については、以前にもこのブログで提言をしました。閉会式の今日まで、観客同士が衝突するといった事件は起こらなかったようですし、なんとか平穏に終ってくれるのではないかと思います。ただ、今回のオリンピックが両国の友好回復のきっかけになるといった期待は、やはり甘い夢だったようです。おそらく多くの日本人選手と日本からの応援団は、あらためて中国人の日本に対する根強い憎しみの感情を体感して帰国することになるのではないでしょうか。これも半分は歴史的な事実に由来するものですが、あとの半分は共産党政府によって政策的に植え付けられたものです。日本では大東亜戦争など遠い過去の歴史だと思っていますが、残念なことに中国はいまだに抗日戦争を戦っているのだとも言えます。これは独裁的な政治体制が、政府に対する国民の不満をそらすために仮想敵国を利用するという今の方針を変えない限り、日本サイドとしてはどうしようもない話です。一見華やかなオリンピックの成功は、この国の政府をいっそう傲慢にし、これまで以上に付き合いにくい国にするだけではないのか、そんな危惧を持つのです。

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2008年8月17日 (日)

「死刑」についてざっくばらんに語ろう(2)

 今回もまた死刑制度の問題について考えてみます。すでに私はこのブログで、きっぱりと死刑に反対する立場を表明して来た訳ですが、いったんその立場をかなぐり捨てて、原点に帰って考え直してみたいと思い始めているのです。あらかじめどんな予断も結論も持たずに、個人的な感情論は抜きでこの問題に向き合ってみたい。その結果、自分が死刑制度賛成派に転向したとしても、それで何を失う訳でもありません。世間に知られた学者だとか評論家だとかいった人たちにとっては、なかなかそうはいかないと思いますが。私は自分のこのささやかなブログに、自身の思想の変遷を書き残しておきたいと思っているので、どんな立場の論陣を張ろうとしている訳でもないからです。

 前回の論点は、死刑制度の是非を論じる場合、道徳的な視点で考えるより、現実的な視点に立って考えた方がいいのではないかということでした。具体的に言うと、死刑制度には犯罪抑止効果があるのか無いのかという点に問題を絞って考えるということです。もしも死刑が明らかに凶悪犯罪の発生を抑制しているという事実が客観的に証明されたとすれば、死刑反対派の主張する論拠がどのようなものでもあっても、その事実を覆すような強力な論点は無いに違いない、この点はまず認めたいと思います。例えば、こういう想像をしてみます、日本で死刑が廃止された結果として、現在はだいたい年間に一千件あまり発生している殺人事件が二千件に増えたとします。このところ国内で死刑宣告を受ける殺人犯は年間に十数人程度です。ということは、その十数人の命と引き換えに一千人の命を救っているという計算になる。〈見せしめ〉の効果としてはとても効率的であるという結論になります。もしもそれが現実であるならば、私はそれでも死刑廃止論を唱える自信はありません。(たぶん若い頃の自分なら、殺人事件がいまの十倍になっても、死刑反対を貫いたでしょうが。笑) 逆に多くの死刑廃止国が事実として証明したように、死刑制度と殺人事件の発生にはっきりとした相関関係が無いことが分かれば、死刑存廃の問題は、そこで初めて現在我々が論じているような道徳的な問題に席を譲ることになるのだろうと思います。この場合には、私はもう一度死刑反対派に復帰する訳ですが、それは個人的な価値観の問題に過ぎないので、国民の八割が死刑に賛成している以上、やはり当面は死刑を存続させることに強い根拠をもってノーとは言えない。但し、もしも逆に死刑制度が殺人事件を誘発し、その発生件数を増やしていることが証明されれば、この場合にもやはり感情論抜きで、死刑は即刻廃止されるべきであるという結論になることは、死刑賛成派のあなたにも認めていただきたい気がします。

 いただいたコメントに、哲学者の永井均さんの議論を引いて、衝動的殺人であっても計画的殺人であっても、死刑が抑止効果として働くことは期待出来ないのではないかというご意見がありました。永井さんの議論は読んだことがありませんが、私も同じことを考えて書いたことがあります。これは殺人者の心理を推測した議論で、事実に基づく統計的な根拠がある訳ではありませんから、いくらもっともらしい議論でも、その正しさを証明出来るようなものではないということは分かっています。もう少し現実的なご意見として、もしも死刑の犯罪抑止効果を高めたいなら、①死刑の方法を絞首刑よりも苦痛の大きいものに代える、②死刑執行の事実を世間に隠さず公開する(公開処刑ということではないと思います)、というポイントを指摘されたコメントもいただきました。これは刑罰の威嚇効果という点では納得出来る考え方ですが、コメントへのコメントにもあったように、現代では容認されにくい考えだと思います。(私の死刑廃止論は、そのように道徳的な許容レベルがいちじるしく高く(狭く?)なってしまった時代に、どのように死刑に代わるものを求めるかという点にあります。) そう言えば、宮崎勤は獄中で薬物による死刑を要求していたそうですね。絞首刑は残酷な刑罰であるというのがその主張の根拠だったようです。彼の犯罪に同情する点は何もありませんが、自分が死刑囚である状況を想像すれば、この主張には共感出来るものがあります。作家のカミュはもっと大胆な提案をしています、それを飲めば九割がた死ぬけれども、一割は助かる可能性のある毒薬による死刑というものは考えられないかというのです。応報感情の強い日本人には、とても受け入れられない考え方ですね。

 なかなか現行の憲法の定める範囲で、また残酷さを嫌う現代人の道徳意識が許す範囲で、死刑の威嚇効果を高める方法を探るのは難しいような気がします。ひとつあり得るとすれば、死刑の適応範囲を広げることなら可能性があるでしょうか。最近は、殺した人数がひとりであっても、犯行の計画性や残虐性によっては死刑を言い渡される場合もあるようです。これは刑の厳罰化の流れに乗ったものとも言えますが、司法側としてみれば、死刑の威嚇効果を維持するためには仕方の無い選択肢なのかも知れません。人ひとり殺しただけでは決して死刑にならないということが通り相場になってしまっては、それが潜在的な殺人犯にとって犯行への通行手形になる可能性があるからです。ひとり殺しただけでも、死刑になる場合があるんだぞということを、たまには世間に見せつけておく必要がある。それでは殺した人数に関係無く、殺人犯はすべて死刑という原則にしたらどうでしょう? これなら死刑の犯罪抑止効果を高める効果がありそうだとも思えます。ただ、これも私のいつもの論点ですが、そうなると毎年千人からの犯罪者に死刑が言い渡されることになる。これは何度も繰り返し書いているのに、死刑賛成派のどなたからも回答をいただけない点です。あなたは殺人事件の(若干の)減少と引き換えに、年間千件の死刑を受け入れることが出来ますか? たぶん死刑賛成派の人のなかにも、これにイエスと答えられる人は少ないのではないかと思う。それにお隣りの中国の状況などを見れば、極端な数の死刑執行は、人心を荒廃させ社会を野蛮にするだけではないかという気もします。そういう社会では、逆に凶悪犯罪は増えるのではないだろうか。もしも「人ひとり殺せば必ず死刑」という社会で、国内の殺人事件が年間百件以下にまで激減するという可能性があれば、それはそれで検討すべき選択肢にはなると思いますが…

 この問題はいくらもっともらしい論拠を挙げても、相手を説得する決定的な議論にはならないと思います。むしろ議論はすでに煮詰まっているのだから、日本はこれに関する実験をしてみればいいではないかと私は考えます。例えば、期間を1年間限定で死刑制度を廃止してみたらどうでしょう。当然、代替刑としての終身刑の設置が前提となります。この期間に殺人を犯した人は、どんな凶悪な大量殺人でも死刑にはならない。そして1年後に結果を見て、殺人の件数が例年より減っているか同じくらいなら、死刑はそのまま廃止する、逆に増えていたら死刑を復活すると決めておくのです。どうでしょう、そんな法律が国会を通ったら、潜在的な殺人犯はどのような行動に出るだろう? これを機会に大量殺人や無差別殺人に走る人間がたくさん現れるだろうか? 私には想像出来ません。ただ、個人的な推測としては、おそらく凶悪犯罪の件数は大して変わらないのではないかという気がする。その理由はこういうことです、アメリカでは50州のうち14州が死刑を廃止していますから、死刑廃止州と死刑存置州が至るところで隣り合っている訳です。もしも潜在的な殺人犯が死刑が無いことを理由に殺人に走るという傾向があるなら、死刑廃止州には隣りの州からたくさんの殺人者が流入して来て、殺人事件が増えても不思議ではない。が、そんな話は聞いたことがありません。同じ国家で地域によって死刑存廃の制度が異なるということは、考えてみればずいぶん思い切った実験だと言えます。この例から考えても、おそらく我が国で(期間限定で)死刑廃止を試行したとしても、それが誘因となって殺人が増えることはあるまいと考えるのです。

 でも、たとえ死刑を廃止することで殺人事件が増えなくても、被害者遺族の気持ちはどうしてくれるんだ? そういう反論が出て来ることも分かっています。これについても私はそのロジックが欺瞞であることをたびたび指摘しています。もしも被害者感情ということを本当に考えるなら、すべての殺人者が死刑にならなければ不公平です。殺人事件が年間千件以上あって、死刑宣告数が十数件ということは、圧倒的多数の殺人被害者は、犯人を死刑にしてもらうという恩恵を受けられていないことを意味します。つまり、死刑は決して被害者感情を慰撫してなどいないのです。だから論点はまったく単純です、国内で年間に千件の死刑を執行することが不可能であるなら、死刑廃止の実験をして、もしも凶悪犯罪が増えないことが証明されれば(私はむしろ減るだろうと思っているのですが)、その時には恒久的な死刑廃止に向かえばいいのです。ここにはもう死刑存廃をめぐる神学論争など顔を出す余地がありません。――あれ? どんな予断も持たずに考えると言いながら、結局いつもの死刑廃止論に落ち着いてしまいましたね。やはりこの問題については、自分なりに30年以上も考え続けているので、なかなか自分自身を論破することも容易じゃありません。今回の議論の新しい着想は、死刑廃止に関してはまず実験的に試行してみたらどうだろうという一点です。しかも、これは裁判員制度の導入などとは時期をずらして行なう必要がある。そうでなければ、凶悪犯罪の増減ということに別の因子が加わることになるからです。本来ならば、死刑廃止の試行をして、その結果が出てから裁判員制度のようなものを検討すべきだった、というのも以前からの私の主張なのでした。

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2008年8月10日 (日)

「死刑」についてざっくばらんに語ろう(1)

 時間的にも精神的にも余裕が無くて、いただいたコメントにもご返事が出来ないまま時間が経ってしまいました。コメントは、ほぼ死刑制度に関する議論に集中しています。今回は、いただいたコメントにまとめてお答えするという意味も含めて、この問題についてもう一度考えてみたいと思います。死刑制度については、私は一貫してこれに反対する立場を表明して来ました。一方、時折いただくコメントは、ほとんど例外なく死刑賛成派(または是認派)の方からのものです。このブログで最初に書いた死刑反対論では、私は死刑賛成派の人たちを改宗(というか転向)させる意図を持っていました。振り返ってみれば、傲慢なことだったと思います。死刑賛否に関する対話が、単純に論理的な議論だけで済まないのは、これがそれを論じる人の個人的なアイデンティティを支えるものに結び付いているという点にあります。ナショナリズムに関する問題を始めとして、いま国民のあいだで議論されているテーマはだいたいがそうです。だからいくら議論を尽しても、決して合意に至ることは無いし、双方に徒労感だけが残ることになる。私自身にしても、これだけ頑固に死刑廃止論に傾いているのは、若い頃から読んだり考えたりして来たものの長い個人的歴史が背景にある訳で、それを忘れてただ自分の考えに固執するばかりでは意味のある対話になる筈もない。むしろ自分がそこにどんなふうにアイデンティティの支柱を求めているかを第三者的に認識した上で、ざっくばらんに書いた方が有意義な議論の展開になるかも知れません。

 まずは問題を整理しましょう。死刑に対して賛成するにせよ反対するにせよ、その論拠となるポイントは大きくふたつに分類されると思います。ひとつは道徳的な視点からの理由付けで、もうひとつは現実的な視点からの理由付けです。もう少し具体的に言うと、道徳的な視点というのは、「人を殺した罪は、自らの命を差し出すことでしか償えない」という考え方を是とするかどうかということです。「償い」ということが焦点になりますから、犯人が死刑になることで、被害者が「償われた」と感じるかどうか、つまり被害者感情ということがここでは重要になります。もうひとつの現実的な視点というのは、「死刑制度には殺人を未然に防ぐ犯罪抑止効果がある」という命題の当否ということです。こちらは価値観の問題ではなく事実の問題ですから、議論にも比較的簡単に決着がつくような気がしますが、実際にはそう簡単ではありません。これまでに死刑を廃止した国で、そのことで凶悪犯罪が増えたか減ったかを統計をとって見てみると、さほどはっきりした相関関係は無さそうだというのが結論のようです。犯罪の多寡はその国の経済状況その他によっても影響される筈ですから、死刑存廃との関連を独立して研究することは難しいでしょう。それにまたこの問題は、国によってまったく背景や条件が違うので、あまり他国の事例は参考にならないような気もします。さらにこれにプラスして、死刑制度の是非を論じる人が引き合いに出す論点として、「凶悪犯が出所して来た場合の再犯の問題」や、「誤審や冤罪があった場合の取り返しのつかなさの問題」というものもあります。これはどちらも妥協案としての「終身刑の導入」という議論につながるものです。以上が死刑制度をめぐる議論のだいたいの見取図と言っていいのではないかと思います。

 こうやって整理してみると、死刑制度の是非というのは全然複雑な問題ではありませんね。にもかかわらず、議論がいつも紛糾するのは、これが理論的に片付けられる問題ではなく、私たちの感情に訴える問題であるからという点は既に述べた通りです。紛糾する原因は、上で分類した「道徳的な視点」からの議論に陥ってしまうからだと思います。これはコメントされた方の文章からも窺われることで、この問題を論じようとするくらいの人なら誰でも自らの道徳的信念を明確に持っているようです(もちろん私も持っています)。いくつか引用させていただきます。

 「私は、100万円盗んだら100万円を返す、あるいは100万円分の罰を受けるということが当然と思うのと同じように、人を1人殺したら原則的に(犯人の)1人の命で購うべきだということに疑問を持ちません。」(Saitamanさん

 「こんにちは。私は死刑賛成派です。最大の理由は『死によってしか償えない罪がある』ということだ。」(清国さん

 「自分は死刑制度は賛成です。なぜかというと、残酷な殺人を犯した犯人は死して償うのが当然と思うからです。」(いのっち♂さん

 いずれも明瞭なご意見だと思います。しかし、これは論者の方の道徳観、または人生観から発せられている言葉ですから、これを取り上げて反論をしてもたぶん建設的な議論にはならないと思います。ところが、これに対して疑問を呈されるコメントを寄せられた方がいます。

 「清国さん、いのっち♂さんなどの死刑賛成論者に質問があるのですが、死刑によって殺人の罪が償われるというのはどういう意味でしょうか? 殺された人間が生き返ってこない以上、どんな意味でも〈償い〉ということは不可能なのではないでしょうか?」(法哲さん

 私はどちらかと言えば、この法哲さんのご意見に共感します。が、それとても気分的なものであることに違いはないと感じています。「どんな意味でも〈償い〉ということは不可能」だとする意見もまた、道徳的なひとつの主張であるに過ぎないからです。ついでながら、私の〈道徳的な視点からの〉主張は、「償いというものは犯人の主観的な問題としてはあり得る、刑罰はそれを助ける機能を果たすべきだ」というものです。ですから、例えば死刑囚が刑を執行されるまでのあいだに、その死刑という現実を直視することによって自分の罪を悟り、贖罪の心を持ちながら刑に臨んだというような実例があることを聞けば、死刑というものにもそれなりの意義はあるのだなと思ってしまう。だが、これは実は被害者のことを二重にないがしろにした考え方だとも言えます。犯人自身は死刑を前に贖罪の涙を流し(それは一種のカタルシスであるに違いありません)、満足して死に向かった。そこでは被害者遺族のやり場の無い気持ちなど省みられる余地は無い。死刑囚の遺した贖罪の文章や歌などが発表されて、それが世間の評価するところにでもなれば、被害者遺族は傷口の上に塩を塗られたように感じるかも知れません。実は私の道徳的主張はとてもラディカルなもので、殺人事件においては、被害者遺族も根本的に意識転換をすべきであるというものです。これは単なる人道的見地からの死刑廃止論などよりも、さらに反論を呼び起こすものだろうと思っています。

 いや、しかし、今回は自分の道徳的主張について書こうとしているのではありませんでした。要するに、道徳的な視点で論じる限り、議論はどんどん個人的な価値観の対立という方向に向かわざるを得ない。感情的対立の泥沼のなかに落ち込んで行くだけだろうということなのです。「そういう考え方もあるんだ」と受け止められる心の余裕があれば、対立する意見の中にも意味を見出すことが出来るのかも知れませんが、たとえそういうスタンスで議論に臨んでも、気がつけばズブズブの感情論のなかに自分も飲み込まれている、そういうことは多くの人が経験しているところだと思います。(なにしろ〈2ちゃんねる〉のような場所で鍛えられている私たち現代人は、相手を感情的に〈釣る〉ことに対してはとても高いリテラシーを持っていますから。笑) だからそこに落ち込まないためにも、私は議論を現実的な問題に限定した方がいいのではないかと思うのです。死刑存廃に関する最も基本的な現実問題というのは、死刑を廃止することで殺人などの凶悪犯罪が増えるのか減るのか、その一点にあると考えます。これは議論のしがいのある問題です。もしかしたら、各国の統計にも表れているように、死刑制度と凶悪犯罪の発生率には、有意な関係は無いという結論になるのかも知れない。だとすれば、終身刑を導入するコスト負担の面からも、八割が死刑賛成だという国民感情の面からも、法哲さんのような現状維持派が最もリーズナブルということになります。

 この点に関するこれまでの私の主張は、自殺願望のやけっぱちな凶悪犯罪が増えている現代では、死刑制度が犯罪を誘発している面が強いのではないかというものでした。つまり、死刑を廃止すれば、総数としての殺人事件は減るだろうという予想です。これに対する反論のコメントもいただいています。

 「でも、自殺願望があったとしても、死刑がないなら自分で自殺するだろうし、死刑があっても自分で自殺するか、死刑で自殺するでしょう(本人の意識では)。世間から罵声を浴びたいという犯人もいれば、あっさりと自殺して、謎解きを封印して、世間を欲求不満に陥れることを想像して喜ぶ犯人もいると思います。結局、死刑制度の有無と関係ないんじゃないですか?」(Saitamanさん

 これは秋葉原事件に関する記事に対するコメントとしていただいたご意見でした。確かに死刑が犯罪を誘発している理由として、「他人の手を借りた自殺」ということを挙げるのは、根拠としては弱いことは間違いありません。論壇雑誌の『世界』の最新号が死刑制度を特集しています。対談記事のなかに、最近は無差別殺人が増えているという印象があるが、それは殺人全体の一割程度に過ぎないという発言がありました。だとすれば、たとえ私の主張が正しくても、全体的な影響は大したことがないということになります。いや、むしろ死刑制度を廃止したら、無差別殺人は減ったけど、一般殺人が以前の何倍も増えたという結果になるかも知れない。死刑反対派としても、それはそれで構わないじゃないかとは言えません。また、死刑に代る制度としての終身刑についても、コメントをいただいています。これも現実的な視点からのご意見で、議論する価値のある考え方を提示していただいたと思います。

 「終身刑をつくると、終身刑目的の殺人が増えると思う。「人一人殺してやっと出所かよ、周囲の視線がこわい。ネットで住所さらされたし。ぶっちゃけ刑務所戻りたい。そうか! 3人以上殺せばほぼ確実に終身刑なんだったな、ずっと刑務所にいられるじゃないか。」ってありうると思いませんか?」(あいかさん

 大いにあり得るかも知れませんね。特に今のように社会格差が大きくなった時代には、刑務所にいることだってひとつの特権になり兼ねない。だから例えば終身刑に関する議論でも、単に理念的なことばかりではなく、現実問題として終身刑囚をどのように処遇するかということも併せて論じて行かなくてはならない。また、刑務所を運営する側の意見としては、今の仮出所のある懲役制度というものは、とても望ましいものであるという話を聞いたことがあります。仮出所があれば、囚人は(内心はともかく)模範囚を装うので秩序が保たれやすいというのです。仮出所どころか、絶対に出所する可能性の無い懲役囚が増えれば、心の荒れた彼らの扱いで刑務官の人たちはどれほどの苦労を強いられることか。これもまた具体的に考えるべき課題のひとつです。

 今回はいただいたコメントから思いつくままを書いているので、何も結論はありません。この問題については、賛成派も反対派も、いったんはその主張を棚に上げて、ゼロベースで考える方が有意義ではないかと思い、議論の取っかかりとなるポイントを思いつくままに挙げてみました。いま日本は、国連やヨーロッパ諸国から死刑廃止に向かうよう勧告を受けています。それだけの事実を見れば、我が国は人道的な面で世界の後進国のようにも感じられますが、事実として犯罪や殺人が西欧と比べても際立って少ない国だということがある訳で、死刑廃止国の仲間入りはしたが、殺人事件の件数が三倍になりましたというのでは本末転倒でしかない。そういう意味で、日本における死刑廃止論議は、アムネスティ流の絵に描いた人道主義とは一線を画したものでなければならないとも言える。少なくとも、日本より治安の悪い国々から死刑廃止勧告などを安易に受けたくはないということだけは言っておきたい気がします(って、私はほんとうに死刑廃止論者だったっけ? 笑)。ともあれ、せっかく盛り上がった議論ですから、皆さまからの再びのご意見をお待ちします。

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2008年8月 3日 (日)

15歳の凶行に思う

 男女がセックスをした結果として子供が生まれて来るという事実を、あなたはいつ、どのようにして知りましたか? 性教育が小学校のカリキュラムにも取り入れられている現在では考えられないことだと思いますが、私がその事実を初めて知ったのは中学生になってから、たぶん13歳か14歳の頃ではなかったかと思います。ませた同級生が仲間を集めて、大事なことを教えてやると言って、その話をしたのです。そこにいた誰もそのことを知らなかったところを見ると、私だけが特別〈奥手〉という訳でもなかったようです。もう40年近くも昔のことなのに、その時に自分が考えたことは、今でもはっきり覚えています。こんなことを考えたのです。もしもこの〈生殖の秘密〉を知らずに育った思春期の男女が、ふたりだけで無人島に流されたとして、彼らがお互いに性的に惹かれ合っていたとしたら、ふたりはセックスを発見するだろうか? まだ精通も経験していなかった自分が出した結論は、よほどの偶然でもなければ、そんな妙ちくりんな行為にふたりがたどり着くことはあるまいというものでした。子供はまず知識として性行為というものの存在を知り、それを模倣するかたちで性行為を経験して行くに違いない。私はいまだにこの考え方の当否を知りませんが、文化人類学的な(?)見地からもなかなか面白いテーマではないかと思っています。で、これと似たもうひとつの面白い設問があります。もしもこの社会に犯罪に関する報道や記述が一切無かったとしたら、15歳の少年少女は自力で〈殺人〉を発見するだろうか?

 性に関する表現がかなりオープンになった現代でも、大抵の大人は子供の目からはそれを隠しておこうという考えを持っていると思います。しかし、こと殺人に関しては、そういう抑制心はまったく働いていないようです。殺人事件の件数は、例えば交通事故などと比べても非常に少なく、実際に私たちがそれを直接目撃する機会はとても少ないものです。ところがニュースの中でも、テレビドラマやゲームや漫画の中でも、殺人事件はまるで日常茶飯事であるかのように溢れています。小さな子供の目からそれらをすべて隠すことはとても不可能なことです。子供は大人のやることには何でも興味を持って真似をしたがるものですから、全国に1200万人以上もいる10代の子供の中からは、それを真似して実際に殺人を試してしまう子供も出て来る、私にはそれは全く当然のことのように思われるのです。15歳の子供が人を殺せば、我々はそれをさも一大事であるかのように受け取ります。いや、確かにそれは一大事なのですが、私たち大人のそれなりに成熟した道徳的な視点を通して見るから、それはさも恐ろしい、絶対にあってはならない事件のように見えるだけで、実際のところそれは単なる未熟な欲望の結果であったり、思春期特有の心理的な不安定さが引き起こしたものであるのが普通ではないかと思うのです。誤解を恐れずに言えば、それは度の過ぎたいたずらに過ぎなかったと言ってもいい。おそらく本当に深刻なのは、その行為の影響が周りの大人や世間に波紋となって広がり、それが本人にフィードバックされて戻って来てからのことです。

 先月川口市で起きた、15歳になる中学3年生の少女が起こした父親殺害事件は、一見どこにでもあるふつうの家庭で起こった悲劇という点で、世間を震撼させるものでした。ふだんから家族との間に不和があった訳でもなく(事件の前夜、彼女は父親と一緒に夕食のカレーライスを作ったのだそうです)、過去に非行歴や目立った問題行動があった訳でもない。思い当たる原因と言えば、試験の結果をめぐって父親から小言を言われたことくらい。そんな少女が、深夜父親の寝室に忍び込み、包丁で寝ている父親の胸を刺して殺してしまった。これに対して、マスメディアやインターネットにはいろいろなコメントが寄せられています。いったいどのような〈心の闇〉が15歳の少女のなかにあったのか、といったような常套句がどこでも語られます。しかし、私は思うのですが、少女の心の闇などという表現を使う人は、自分が15歳だった頃のことを忘れてしまって、彼女を自分とは別の種類の人間だと決めつけているだけなのではなかろうか。10代半ばの思春期というものが、いかに精神的な動乱期であり、危険に満ちた時代であるかということは、私たちは知識としても知っているし、また自らの経験としても(本当は)知っている筈です。親を殺したいと一度も思ったことがない10代の子供というのは、私が思うに、むしろ例外的に幸運な子供なのではないかという気さえする。もちろん多くの人は、たとえ心の中で人を殺したいと思っても、それを実行に移したりはしない。それを実行する人間としない人間の間には、精神的な病理であるとか、持って生まれた資質であるとか、何か本質的な違いがあるのだという考えを持つ人が多いことも知っています。だが、私はそのような考え方にはどうしても馴染めないのです。

 事件に関係の無い一傍観者が書けば、偽善的にしか聞こえないでしょうが、私はこの少女の将来のことを思うと本当に胸が痛くなる。むろん彼女が犯した罪を弁護するつもりはないし、大人の分別の無い15歳の犯行であっても、一生をかけて罪を償わなければならないことは当然だと思います。ただ私が痛ましいと思うのは、犯罪というものを汚れたものとしてクリーンルームの外に押し出すような考え方が主流であるこの時代において、彼女が帰って行く場所がどこにも無いかも知れないということなのです。これはいつもの私の論点になりますが、今日の社会では国家権力だけでなく、一般の国民までもが犯罪に対しては非常に厳しい態度を見せています。その厳しさも、昔の頑固親父の厳しさではない、異質なものを自分の視界に入らないように切って捨てる非情さという意味での厳しさです。それが大きな世論の流れになり、統計的に見て少年犯罪が増えている訳では決してないのに、少年法が改正され、10代の子供にも厳罰化の方針が適用されて行く。社会がどんどん複雑化し、子供が成熟することがますます難しくなっている時代に、話はまるであべこべではないか。道徳的に成熟した社会が向かわなければならないのは、犯罪に対する罰則を重くすることではありません、そのアフターフォローを制度や仕組みとして確立し、また私たち国民としてもこれに向き合う心構えを鍛えて行くことこそ必要であろうと考えるのです。

 『HAPPY NEWS』という本にも取り上げられていた黒田久子さんは、今年105歳になったおばあさんで、もう50年以上も篤志面接委員という仕事をボランティアで続けて来られた方です。篤志面接委員(通称トクメンというそうです)というのは、少年刑務所で受刑者の少年少女たちと面接し、彼らの精神的な更生や社会復帰を手助けする仕事なのだそうです。半世紀以上のあいだに、3000人もの受刑者に面接を行ない、彼らの心の支えになって来た、いわば犯罪に対するアフターフォローのプロフェッショナルです。その黒田さんの言葉を伝えてくれているホームページがありました。味わいのある言葉がたくさんあって、こんな私の文章などよりもぜひそちらをご覧になって欲しいのですが、その中にこんな一節がありました。時の法務大臣に宛てて書いた手紙のことについて語った時の言葉だそうです。「性犯罪はね、病気や言うたん。病気やからね、医療施設をこしらえてくださいて書いといたん。」 決して受刑者を甘やかすようなことを言う訳ではないのです、犯した罪は罪やからきちんと反省して償ってもらわなあかん、でもね、まだ子供の年頃で罪に染まってしまった彼らに、ただただ精神論で向き合っても駄目なんや。医療施設も社会復帰のための訓練施設も、また傷ついた家族を物心両面で支える制度も、すべてが協力して子供たちの更生を助けて行かなくてはならない。そしてそれにも増して大切なのは、私たちひとりひとりが彼らをこの社会の一員として再び受け入れる心の準備をすることであるに違いない。黒田さんのような篤志面接委員は、全国に2000人近くもいらっしゃるのだそうです。その多くは高齢者の方々だということです。私たちはこの難しい仕事を、彼らだけに任せておいてはいけないと思うのです。

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