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2008年8月 3日 (日)

15歳の凶行に思う

 男女がセックスをした結果として子供が生まれて来るという事実を、あなたはいつ、どのようにして知りましたか? 性教育が小学校のカリキュラムにも取り入れられている現在では考えられないことだと思いますが、私がその事実を初めて知ったのは中学生になってから、たぶん13歳か14歳の頃ではなかったかと思います。ませた同級生が仲間を集めて、大事なことを教えてやると言って、その話をしたのです。そこにいた誰もそのことを知らなかったところを見ると、私だけが特別〈奥手〉という訳でもなかったようです。もう40年近くも昔のことなのに、その時に自分が考えたことは、今でもはっきり覚えています。こんなことを考えたのです。もしもこの〈生殖の秘密〉を知らずに育った思春期の男女が、ふたりだけで無人島に流されたとして、彼らがお互いに性的に惹かれ合っていたとしたら、ふたりはセックスを発見するだろうか? まだ精通も経験していなかった自分が出した結論は、よほどの偶然でもなければ、そんな妙ちくりんな行為にふたりがたどり着くことはあるまいというものでした。子供はまず知識として性行為というものの存在を知り、それを模倣するかたちで性行為を経験して行くに違いない。私はいまだにこの考え方の当否を知りませんが、文化人類学的な(?)見地からもなかなか面白いテーマではないかと思っています。で、これと似たもうひとつの面白い設問があります。もしもこの社会に犯罪に関する報道や記述が一切無かったとしたら、15歳の少年少女は自力で〈殺人〉を発見するだろうか?

 性に関する表現がかなりオープンになった現代でも、大抵の大人は子供の目からはそれを隠しておこうという考えを持っていると思います。しかし、こと殺人に関しては、そういう抑制心はまったく働いていないようです。殺人事件の件数は、例えば交通事故などと比べても非常に少なく、実際に私たちがそれを直接目撃する機会はとても少ないものです。ところがニュースの中でも、テレビドラマやゲームや漫画の中でも、殺人事件はまるで日常茶飯事であるかのように溢れています。小さな子供の目からそれらをすべて隠すことはとても不可能なことです。子供は大人のやることには何でも興味を持って真似をしたがるものですから、全国に1200万人以上もいる10代の子供の中からは、それを真似して実際に殺人を試してしまう子供も出て来る、私にはそれは全く当然のことのように思われるのです。15歳の子供が人を殺せば、我々はそれをさも一大事であるかのように受け取ります。いや、確かにそれは一大事なのですが、私たち大人のそれなりに成熟した道徳的な視点を通して見るから、それはさも恐ろしい、絶対にあってはならない事件のように見えるだけで、実際のところそれは単なる未熟な欲望の結果であったり、思春期特有の心理的な不安定さが引き起こしたものであるのが普通ではないかと思うのです。誤解を恐れずに言えば、それは度の過ぎたいたずらに過ぎなかったと言ってもいい。おそらく本当に深刻なのは、その行為の影響が周りの大人や世間に波紋となって広がり、それが本人にフィードバックされて戻って来てからのことです。

 先月川口市で起きた、15歳になる中学3年生の少女が起こした父親殺害事件は、一見どこにでもあるふつうの家庭で起こった悲劇という点で、世間を震撼させるものでした。ふだんから家族との間に不和があった訳でもなく(事件の前夜、彼女は父親と一緒に夕食のカレーライスを作ったのだそうです)、過去に非行歴や目立った問題行動があった訳でもない。思い当たる原因と言えば、試験の結果をめぐって父親から小言を言われたことくらい。そんな少女が、深夜父親の寝室に忍び込み、包丁で寝ている父親の胸を刺して殺してしまった。これに対して、マスメディアやインターネットにはいろいろなコメントが寄せられています。いったいどのような〈心の闇〉が15歳の少女のなかにあったのか、といったような常套句がどこでも語られます。しかし、私は思うのですが、少女の心の闇などという表現を使う人は、自分が15歳だった頃のことを忘れてしまって、彼女を自分とは別の種類の人間だと決めつけているだけなのではなかろうか。10代半ばの思春期というものが、いかに精神的な動乱期であり、危険に満ちた時代であるかということは、私たちは知識としても知っているし、また自らの経験としても(本当は)知っている筈です。親を殺したいと一度も思ったことがない10代の子供というのは、私が思うに、むしろ例外的に幸運な子供なのではないかという気さえする。もちろん多くの人は、たとえ心の中で人を殺したいと思っても、それを実行に移したりはしない。それを実行する人間としない人間の間には、精神的な病理であるとか、持って生まれた資質であるとか、何か本質的な違いがあるのだという考えを持つ人が多いことも知っています。だが、私はそのような考え方にはどうしても馴染めないのです。

 事件に関係の無い一傍観者が書けば、偽善的にしか聞こえないでしょうが、私はこの少女の将来のことを思うと本当に胸が痛くなる。むろん彼女が犯した罪を弁護するつもりはないし、大人の分別の無い15歳の犯行であっても、一生をかけて罪を償わなければならないことは当然だと思います。ただ私が痛ましいと思うのは、犯罪というものを汚れたものとしてクリーンルームの外に押し出すような考え方が主流であるこの時代において、彼女が帰って行く場所がどこにも無いかも知れないということなのです。これはいつもの私の論点になりますが、今日の社会では国家権力だけでなく、一般の国民までもが犯罪に対しては非常に厳しい態度を見せています。その厳しさも、昔の頑固親父の厳しさではない、異質なものを自分の視界に入らないように切って捨てる非情さという意味での厳しさです。それが大きな世論の流れになり、統計的に見て少年犯罪が増えている訳では決してないのに、少年法が改正され、10代の子供にも厳罰化の方針が適用されて行く。社会がどんどん複雑化し、子供が成熟することがますます難しくなっている時代に、話はまるであべこべではないか。道徳的に成熟した社会が向かわなければならないのは、犯罪に対する罰則を重くすることではありません、そのアフターフォローを制度や仕組みとして確立し、また私たち国民としてもこれに向き合う心構えを鍛えて行くことこそ必要であろうと考えるのです。

 『HAPPY NEWS』という本にも取り上げられていた黒田久子さんは、今年105歳になったおばあさんで、もう50年以上も篤志面接委員という仕事をボランティアで続けて来られた方です。篤志面接委員(通称トクメンというそうです)というのは、少年刑務所で受刑者の少年少女たちと面接し、彼らの精神的な更生や社会復帰を手助けする仕事なのだそうです。半世紀以上のあいだに、3000人もの受刑者に面接を行ない、彼らの心の支えになって来た、いわば犯罪に対するアフターフォローのプロフェッショナルです。その黒田さんの言葉を伝えてくれているホームページがありました。味わいのある言葉がたくさんあって、こんな私の文章などよりもぜひそちらをご覧になって欲しいのですが、その中にこんな一節がありました。時の法務大臣に宛てて書いた手紙のことについて語った時の言葉だそうです。「性犯罪はね、病気や言うたん。病気やからね、医療施設をこしらえてくださいて書いといたん。」 決して受刑者を甘やかすようなことを言う訳ではないのです、犯した罪は罪やからきちんと反省して償ってもらわなあかん、でもね、まだ子供の年頃で罪に染まってしまった彼らに、ただただ精神論で向き合っても駄目なんや。医療施設も社会復帰のための訓練施設も、また傷ついた家族を物心両面で支える制度も、すべてが協力して子供たちの更生を助けて行かなくてはならない。そしてそれにも増して大切なのは、私たちひとりひとりが彼らをこの社会の一員として再び受け入れる心の準備をすることであるに違いない。黒田さんのような篤志面接委員は、全国に2000人近くもいらっしゃるのだそうです。その多くは高齢者の方々だということです。私たちはこの難しい仕事を、彼らだけに任せておいてはいけないと思うのです。

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コメント

■セックス

孤島の男女といえば「青い珊瑚礁」という映画がありましたね。
ブルック・シールズが主演の。あれは何かの事実に基づいたものだったのかな?
私自身の経験では性欲そのものは、精通以前のかなり幼いころからありました。
もちろん最終的な形を目指すというものではなく、裸を見て興奮するとかですが。
学習によらず性行為(性交)が可能かは、面白いテーマですが実験するわけには
いかない。人間以外の動物(近縁の霊長類を含めて)で可能なら、可能なのかも
しれないですね。とにかくエネルギー(性欲)はある。そのエネルギーが具体的な
形をとれるかが問題。異性に近づきたい、異性の裸が見たい、異性の身体で
射精したい、となると穴の数は限られているので、試行錯誤で成功(性交)する
かもしれない。あと、全く違う観点ですが、夢精のときの夢の内容が、
教育的な機能を果たすかもしれない。

■殺人

上記のセックス問題と、殺人の問題を同列に扱うためには、報道が一切無ければ云々
というのは、公平を欠くのでは?なぜなら、普通、人は人を殺さないものだ、
ということも日常的な生活を通じて学習しているからです。もし殺人が日常化して
いるならニュースにもならないでしょう。それはさておき、殺人報道がなければ、
人は自力で殺人を発見するか。おそらくYesだと思います。もちろんコピーキャト
犯罪はなくなる。人間に、ということは動物に攻撃衝動(感情的には怒り)がある
限り、殺人はあるでしょう。これについては面白い具体例があります。
旧社会主義国(北朝鮮では現在も?)では、共産主義国の資本主義に対する優位を
示すため、平等で搾取のない社会主義には犯罪はありえないという建前を
とっていました。基本的に報道もされなかったはずです。昔、日教組の委員長
だったか、北朝鮮に行って、かの国は犯罪がないと感激していたことが思い出され
ます。もちろん現実は違いました。貧窮や怒りが限度を越せば、体制の違いに
関わり無く平等に殺人は行われるのでしょう。

■川口の父親刺殺事件

同じ県内で起きた事件ということもあり、興味を持っています。もちろん命の
軽さという点は、最近の事件と共通するものがあるのですが、この事件には、
なにか特別なものを感じるのです。大まかにしか言えないのですが、最近の事件には
基本的に「怒り」があるのに、この事件には怒りはなく「悲しみ」のにおいがする。

最初の一報を聞いたとき、近親相姦の関係にあった父親を殺したのかと想像しま
した。次の報道(夢で云々)を聞いたとき、精神病に近い状態なのかと思いました。
現在の報道は「生きていくのに疲れた」というものです。これが本当とすると、
無理心中としても、非常に稀なケースでしょう。唐突ですが、この事件を聞いて、
オウム真理教の幹部の村井秀夫を思い出しました。サリン事件のかなり前だったと
思いますが、彼が「悲しみに満ちたこの世界を丸ごと消滅させてしまいたい」と
言っていたのが妙に記憶に残っています。

最後に、「親を殺したいと一度も思ったことがない10代の子供というのは、
私が思うに、むしろ例外的に幸運な子供なのではないかという気さえする。」という
部分を読んで、正直、私は驚きました。もちろん、私は親をうっとうしいと思った
ことはあるし、反抗したこともあります。しかし殺したいとは想像もしません
でした。私は幸福な子供だったのでしょうか?(普通の子供だと思っていますが)。
Like_an_Arrowさんが、そう思う根拠を提示して頂きたい。有意な統計的データとは
言いません。少なくとも、何人かの近い関係にある人たちの意見を聞いたという
形でもかまいません。他のコメントへの返答は任意ですが、この部分の返答は
頂きたい。もちろん強制はしませんが。

投稿: Saitaman | 2008年8月 8日 (金) 21時21分

Like_an_Arrowさんじゃないけど。重要なのは殺したいと思ったかどうかではなく、実際に殺人に至ったかどうかの違いだと思う。そして殺人に至る過程は、個々のケースで劣悪な家庭環境で育ったか、それとも大人の分別がつかない子供の後先考えない衝動的殺人かで受ける印象は変わってくると思う。川口のケースは後者のような気もするが実際のところは分からない。

「人を殺したい」と思っているだけでは罪にはならず、実際に殺した人は法の裁きを受けるという簡単な話だと思うんだけどなあ。だから別に十代の子供が一度は「親を殺したい」と思ったかどうかなんでどうでもいい話だろう。親を殺したいと思った子供が、実際どれだけ親を殺したかなんて統計を取ったって無駄だ。「殺したい」と思っただけの子供なんて最初から問題外だもの。(最近はネットで殺人予告をして捕まる人がたくさんいるけど、あれだって実際に人を殺した場合とじゃ雲泥の差になるわけで)

投稿: 法哲 | 2008年8月 8日 (金) 23時49分

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