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2008年7月21日 (月)

ベーシックインカムについて考える(2)

 今週、私のところにも「年金特別便」というのが届きました。これまでに何回か転職をして、過去に勤めた会社の中には今はもう無いところもあるので、ちゃんと記録が残っているか心配だったのですが、自分の記憶の限りでは記録に間違いはありませんでした。宙に浮いた年金記録というのは、ほんとうに由々しい問題で、私たち国民は行政の責任を徹底的に追及して行くべきだと思いますが、一方で公的年金の本質的な問題はそんなところにはないということにも我々は気付いている訳です。年金というのは、まさに大多数の国民にとって人生設計の根幹をなしていたものなのに、それが実は詐欺商法まがいの「ねずみ講」のようなものでしかなかった、そのことが一連の混乱のなかではっきりしたのだと思います。すでに年金の支給開始年齢は、政治家の勝手な判断で引き上げられてしまったし、支給金額はこれからもどんどん引き下げられて行くことが予想されます。何故そんなことになってしまったのかは、誰にでも明らかなことで、現役世代が退職世代を支えるというそもそものコンセプトが、少子高齢化および経済規模縮小の時代には合わないからです。先週から私はベーシックインカムという考え方について、いろいろ調べたり考えたりしているのですが、今日のように経済や社会が大きな転換点に差しかかっている時代には、これは実に魅力的な考え方のように思えます。とにかく、ベーシックインカムは、将来の世代にツケを回さないところがいい。それは単年度の予算の中で〈やりくり〉するものだからです。もしも「自立自助」ということが、今日ひとつの徳目として合意されたものであるならば、ひとつの世代が共謀して次の世代を食い物にするような年金制度こそ打破されねばならない。

 ベーシックインカムとは、国がすべての国民に(つまり年齢も収入も前科も問わず)基礎年金のようなものを支給するという制度です。その金額は、ひとりの人間が生きて行くのに最低限必要なくらいの額であるというのが基本の考え方になります。この制度を支える財源をどこから持って来るかについては前回の記事で少し検討しました。今回はそれを実現する上でのもうひとつの難しさについて考えてみたいと思います。それは「無条件での生活保障」ということに対する、私たち自身の心理的抵抗ということです。例えば私たちは、自分が死ぬまで受け取る年金のことについては何の疑問も抱きませんが、多くの貧しい人が生活保護費を受給していることには何か釈然としないものを感じているのではないかと思います。生活保護を受けているのは、国民年金を納めていない人たちであり、またおそらく過去にも納めて来なかった人たちでしょう。ところが、その彼らが受け取れる生活保護の月額が、国民年金で受け取れる月額より多いということを聞けば、それは釈然としない事実であることを通り越して、怒りのこみ上げて来るような事実にさえなります。こういう逆転現象を許していることは、今の行政の怠慢に他ならず、それは社会のモラル低下につながるものであるという意見を私は前に書きました。その考えには今も変わりありませんが、もう少し分析してみなければならないと思うのは、私たちが感じるこの〈不公平感〉の正体についてです。そこにはいろいろと複雑な要素が絡み合っていて、それを解きほぐして行くことが、ベーシックインカムを考察するための準備作業としてどうしても必要なことであるように思うのです。

 生活保護の受給者にもいろいろな種類の人がいて、なかには病気や障害などによって仕事を続けられず、収入が途絶えてしまったような人もいるでしょうし、また若い頃から放蕩の人生を送って来て、当然年金などは一度も納めたことがなく、年をとって生活困窮者になってしまったような人もいるでしょう。前者のような人を生活保護のような制度で支えて行くことが必要であることは認めるとして、後者のような人間を我々の血税で支える必要がどこにあるのか? そういう考えは多くの人に共通するものではないかと思います。だからこそ〈自立自助〉ということが、構造改革行政の基本コンセプトとして広く国民に受け入れられて来たのでしょう。ここで考えなければならないことは、それでは何故、社会的弱者と呼ばれる人たちへの公的支援については、私たちの心のなかでこれに抵抗する気持ちが(それほど)湧かないのかという点です。現在の日本では、心身に障害を持っている人に対しては〈障害年金〉というものが支給されています。その財源の約半分は国民の税金ですから、制度としては生活保護と似たところがあります。そして障害者の中にも経済的に自立している人はたくさんいるにもかかわらず、障害年金の支給額はその等級に応じて一律なのです。何故でしょう? それは障害を持っているにもかかわらず頑張っていることへのご褒美なのか? だから一般の納税者(その大半が健常者です)からも、この制度に不満の声は上がらないのでしょうか? 私がここで回りくどい言い方で説明しようとしているのは、要するにこういうことです。私たちは、自己の責任ではなく社会的弱者の立場に陥ってしまった人たちへの支援については、広い心でこれを認めるおおらかさを持っている。しかし、それは裏返してみれば、〈施す者〉と〈施される者〉という抜きがたい(心理的)関係だとも言えるのではないか。

 私がベーシックインカム(BI)というものを面白いと思うのは、この施す者、施される者の関係をいったんご破算にして、ゼロベースで考える視点を与えてくれるという点にあります。だってBIというのは、誰にでも無条件に支給されるものなんですから、それを受給している人を妬んだり、そこに優越感を感じたりするなんて面倒な心理的トラップからも我々は解放される訳です。そこには現行の生活保護制度のような、受給者のプライバシーにまで立ち入った厳しい審査などというものも必要なくなるし、生活保護や障害年金を受給する側が時として感じるかも知れない社会に対する負い目のようなものからも自由になれる。つまりそこで実現されるものは、人がこの世に生まれて来たことには、そのことだけで価値があるとする、古い宗教や道徳が理想としていたものと近いものではないかという気がするのです。いや、こんな書き方をすれば、また空想的な理想論だと言われてしまうかも知れません。しかし、BIの思想が現実的な効力を持っているのは、生産性の向上によって過去のどの時代よりも豊かになった現代のような時代においては、それが決して絵空事ではないかも知れないという点においてです。前回書いたことの繰り返しになりますが、BIの基本は供給能力の余剰によって需要不足になった社会において、その過剰分の富を潜在的な消費者にあらかじめ分配しておいて、マクロでの需給を均衡させるところにあります。それは特定の誰かからの施しではないのです。だから我々は、労働の結果ではないその所得を、誰に気兼ねすることもなく自由に使うことが出来る。もっと言えば、BIというものが社会制度として、またそれを受け入れる私たちの心構えとして確立しているような社会でなければ、産業のこれ以上の効率化は、需給のギャップをさらに増大させ、新しい貧困層を生み出して行くという現在の矛盾をさらに深刻化するものでしかないとも言えるのです。

 ここまで考えを進めて来れば、BIに対するもうひとつの反論に対しても簡単に答えることが出来るようになります。つまりBIなどというものが制度化されれば、人々は勤労に対する意欲を失い、日本の社会は怠け者の天国になってしまうのではないかという意見に対してです。これに対する回答は簡単で、人がBIだけで生活出来るほどに産業が効率化された社会においては、人はいくら怠けていても構わないということに尽きます。そんな社会が到来するのは、まだまだ先のことだと思いますが、その時代にはオートメーション化が極限まで進み、特に製造業においては働きたくても働き口がほとんど無くなる。(商品企画や設計開発といった一部のエリート向けの仕事は残るでしょう。) そんな時代でも、人々が経済に貢献する役割はあります。つまり支給されたBIを使ってオートメーション工場から産み出される製品を買う、消費者としての役割です。もちろんこれも重要な経済活動である訳で、良い製品を見極める目を持ったレベルの高い消費者が増えれば、それが生産側の質の向上にもつながることになる。ひいてはこの国の国際競争力を維持向上させることにもなるのです。現在のような経済が閉塞した時代では、特に若い人たちは未来に希望を見出すことが難しいし、これから生まれて来る子供たちにも明るい未来が待っているとは思えない状況がある。BIにはそんな時代の閉塞感に風穴を開ける可能性があると思います。理想的なかたちでBIが実現した未来の社会では、ひとりの赤ん坊がこの世に生まれて来ることは、現在とはまた違った意味で、社会にとって歓迎すべきこととなります。それは新しいひとりの〈消費者〉の誕生という意味を持つからです。

 さあ、どうでしょう、ベーシックインカムって結構良さそうじゃありませんか? もしもあなたが多少でもこの私の考えに賛同してくれるものなら、もう例の「働かざる者、食うべからず」などという古い道徳訓ともさよならです。そんな恫喝的な教訓は、食うことに精一杯で、働けなくなった老人を姥捨て山に捨てに行った古い時代の名残に過ぎません。もうひとつ蛇足として付け加えておくならば、BIが実現した世界でも〈勤労の貴さ〉は少しも傷つくことなく私たちの心のなかで生き続けるだろうと私は考えています。人間は、誰かの役に立ちたい、誰かから認められたいという欲求を本能として持っていますから、そのために勤勉であることを決して止めることはありません。ただ、それが金銭的な価値評価から比較的自由になるというだけのことです。これはBI推進派の人がよく言うセリフですが、BIというベースがあってこそ、人は本当に自分が価値あると信じられる仕事に邁進することが出来るのです。(自分もそんな時代に生まれて来たかったと思います。そしたら私はきっと毎日ブログの記事を書いて過ごしますね。笑) まとめればこういうことです、この半世紀のあいだ、私たちは労働が機械やロボットやコンピュータによって効率化されると、人間が職場から追い払われ、仕事と収入を失うというジレンマを味わって来ました。今日のワーキングプアの問題の根幹にも、この産業の急速な効率化という背景があるのです。これに対しては社会制度と、私たち自身の意識の根本的な変革をもって対応しなければならない。答えは共産主義にも無いし、新自由主義にも無いと思います。BIだけが正解かどうかは私には分かりませんが、ひとつの有力な答案であることは間違いないと考えるのです。

 今回はもっと楽しい話を書く予定だったのですが、少し堅苦しいモラルの話題に終始してしまいました。もう一度、次回もBIについて書きます。私たちが「働かざる者、食うべからず」という意識を卒業して、当たり前の権利としてBIを受け取れる時代が来たなら、いったいどのようなことが起こるのか、それを空想してみたいのです。次回こそ本当に楽しい話になりますので、ぜひもう一回だけお付き合いくださいね。(笑)

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