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2008年7月27日 (日)

ベーシックインカムについて考える(3)

 前々回はベーシックインカムというものの経済的な側面について、前回はその道徳的な側面について考えて来ました。BIを考えるシリーズ最終回の今回は、その理想的な側面について考えてみたいと思います。将来BIが実現した時代にタイムスリップしたつもりで、人が生きるための労働から解放された社会の夢を語ってみたいのです。むろん夢想家のたわごとに過ぎませんが、将来に明るい希望を持つことが難しい現代のような時代に、たとえ机上の理論だとしてもそういう考えがあることを知るのは、それだけでも意味のあることのように思えるからです。我々のような旧世代の人間にはもう無理だと思いますが、固定観念にとらわれない今の若い人たちの中からは、それを実行に移すプログラムを考え出す人が現れるかも知れない。

 すべての国民が等しく月に8万円のBIを受給する社会を考えてみましょう。別に8万円という金額に深い意味がある訳ではありません、これは現在の日本でまったく収入を持たない高齢の単身者が受け取る生活保護の金額をベースに考えています。つまり行政府が認めている、人が最低限の「健康で文化的な」生活を営むための金額、言い換えれば現政権が設定する〈生存権の評価額〉という訳です。(むしろ人間が最低限餓死しない程度の金額と言った方が正確であるように思われますね。) 実際には、BIが制度として確立した社会では、今とは税の体系が全く変わっている筈ですから、その時代にも8万円という金額が国民の生存権に見合うものであるかどうかは分かりません。現在の貨幣価値に換算して、その程度の基礎給付を誰もが受け取れる社会という意味に取ってください。(もしも消費税率が60パーセントになるなら、単純計算で、8万円×160÷105=12万2千円程度の給付額となる、そんなイメージです。)

 BIが生活保護とは大きく異なる点は、受給者の単位が世帯ではなく個人だという点にあります。このことは意外に重要なことだと思います。単身者の生活保護世帯が月に8万円を受給していると言っても、では夫婦世帯なら16万円が受給出来るかというと、そういう訳ではありません。インターネットで調べてみれば、収入の無い2人世帯では月に12万円程度の受給額が標準であるようです。これは常識的にも納得出来ることで、昔から「ひとり口は食えなくても、ふたり口は食える」と言われたように、世帯構成員が増えるほど、ひとり当たりに必要な生活費は逓減すると考えられるからです。BIの場合、受給額は明確に個人に属するものですから、共同生活は明らかに有利になります。これが何を意味するかは、すぐに想像がつきます。現在の非婚化、晩婚化の傾向に歯止めがかかるだろうということです。それだけではない、少子化の問題だって一挙に解決の方向に向かう。いや、解決どころか、極端な多子化へと反転することさえ予想されます。子供ひとり当たり8万円のBIが毎月親の口座に振り込まれるとすれば、子供を持つことの経済的な利点は小さくありません。夫婦と子供5人で、毎月の不労所得が56万円! そんなことになれば、それがこの国の平均的な家族構成ということになってしまうかも知れない。(笑)

 しかし、このへんは制度設計の匙加減でどうにでもなることです。例えば、子供が18歳になるまでは、成人の半額の4万円が養育者に支払われるというのではどうでしょう。この金額をうまく設定すれば、安定した一定の出生率(2.1くらい?)が実現することになるし、またそこを狙って未成年へのBI支給額は設定されるべきでしょう。国民の側から見れば、それは安心して子供を産み育てられる社会の実現という意味を持ちます。そもそも子供を産み育てることは、他のどんな経済活動よりも根底的な国家経済への貢献である筈ですから、それに携わる人(多くは親でしょう)に対して報酬があることは自然なことなのです。(いまの少子化問題の根本原因は簡単なことで、社会に新しい構成員を送り出すというこの最重要な仕事が、経済的にはまったく評価されていないという点に尽きます。) 私も小さな子供を持つひとりの親として、子供を育てることの喜びはまったく無償でも充分報われるものだと思っています。しかし、それは今の自分がそれなりに安定した収入を得ているからであって、これが明日の食費、今月の家賃にも事欠く身の上であってみれば、子供を慈しむような気持ちの余裕だって失せてしまうに違いない。最近よくニュースになる、実の親による子供の虐待といった問題の裏には、国民の生活の不安定さや経済格差の拡大といった社会問題が隠れているに違いないと思います。

 共同生活をすることの経済的な利点ということを考えるなら、BIは結婚や子育てを促進するばかりでなく、もっと多様な共同生活の形にも可能性を与えるのではないかという気がします。私は以前の記事で、生活保護家庭のための共同住宅を作ってはどうかという提案をしました。これは行政主導での政策として考えたものでしたが、もっと望ましいのは民間の自発的な取り組みとして、そうした試みがなされることだと思います。私は不思議に思うのですが、何故いま都会で暮らす生活保護世帯の人たちは、お互いの乏しい収入を持ち寄って、共同生活をするという可能性を探求してみないのだろう。そうすれば住居費だって食費だってもっと効率的に使えて、今よりずっと余裕のある暮らしが出来るだろうに。それを阻んでいる理由は明らかだと思います。現行の生活保護世帯は、行政の厳しい監視下に置かれています。まるで仮出所中の犯罪者のようなものです。彼らは監視を受けることで、不断に〈後ろめたさ〉の感情を植え付けられ、世間からひっそり隠れるように暮らしている。当然、生活保護世帯同士の横の連携なども持ちようが無いし、また仮に連携して共同生活などを始めようものなら、行政から厳しい罰を受けることになるでしょう(生活保護費の減額または停止という形で)。これは暗い陰湿な制度です。彼らは幸福になる権利をまるごと奪われているのです。しかし、これがBIになれば、それは万民の基本的権利ですから、後ろめたさの感情などとは無縁だし、BIだけで暮らす貧しい人たちが連帯することはむしろ当然のことになるだろうと思います。つまり、社会の中に新しい共同体が誕生するのです。

 BIに反対する人たちの中には、BIによって基本的な生活が保障されれば、労働条件の悪い仕事には誰も就かなくなってしまい、社会の多くの機能が麻痺してしまうだろうと言う人がいます。これも制度設計の際に、具体的なケースを挙げながら、対策を練って行くべきことがらです。(そうした仕事は機械によって自動化を進める、あるいは行政の補助により高賃金を保障するといった対策が考えられます。) ただ、私がここで指摘したいことは、BIを導入することによって、高収入が保障されない仕事にも、人が積極的に取り組める基盤が出来るだろうという点です。高齢化が進むいまの日本で、慢性的に不足しているのは高齢者介護を始めとする福祉に携わる人たちの労働力です。どこかで聞いたことがあるのですが、福祉関係の仕事は、若い人たちのあいだでも人気のある職種のひとつで、そのための勉強をして資格を取る学生さんも多い。ところが実際に社会に出て、福祉施設で働いてみると、そのあまりの激務と低賃金で仕事が続けられず、職場を去って行く人が多いというのです。それが激務であるのは、低賃金で人が集まらず、少ない職員数で決められた仕事をこなさなければならないからという事情があるのでしょう。そうした悪循環が福祉の現場にはある訳です。特に人と触れあう仕事(介護士さん、看護士さん、保育士さんなど)は、むろん人によって向き不向きはあるにせよ、仕事の中でほんとうの充実感を得られる職業の代表格だと思います。そういう仕事が好きで、やり甲斐も感じているのに、あまりの低賃金と激務で泣く泣く職場を去らなければならない人たちがいる。社会にとってこれほどの損失があり得るでしょうか? もしもこれがBIによって生活のベースを保障された社会なら、そういう人たちを福祉の現場に呼び戻すことが出来るのです。

 またBIのある社会は、行政サービスにかかるコストが大幅に削減出来る社会でもあります。いまの年金問題にしても、それを国民が納得するところまでリカバリーするために、この先どれほどの税金が費やされるものか考えてみてください。また今後ますます増えるであろう生活保護世帯に対しては、その審査や支給のための事務、また継続的な監視といった仕事にもどれほどの行政コストが必要になることか(しかもそれは行政側の職員と国民の双方に多大な心理的ストレスを与えるものでもあります)。児童手当、奨学金、障害年金、介護保険、どれをとっても同じです。これら〈選別主義〉に基づく社会福祉政策は、公平さを追求すればするほど高い行政コストとなって跳ね返って来るようなものばかりです。それらをすべてBIに統合出来るとは言いませんが、すでにあまりに複雑になってしまった行政サービスの諸制度については、それらを整理統合して、なるべく選別や審査を行なわなくても済むような仕組みに持って行くべきだと思います。それにはBIというものが最良のお手本になるのではないでしょうか。社会がこの方向に進めば、当然行政はスリム化されることになります。これによって公務員の数は減らされ、職を失う人が増えるかも知れない。でも大丈夫、そのためにBIというものが用意されているのだから。

 またBIのある社会は、芸術や文化の面でも新しい才能がこれまで以上に開花する社会だろうと考えられます。私も若い頃は文学を志していた時期がありましたが、結局稼がなければならないという理由でサラリーマンになってしまった。別にサラリーマンが悪いと言うつもりはありませんが、もしも自分が食うに困らない境遇にあって、若い頃の夢を持ち続けていたら、今ごろはどうなっていただろうかなどと考えることはあります。持って生まれた才能というのはどうしようもないもので、才能の無い人間がいくら努力しても一流になることは難しいだろうと思いますが、逆に潜在的な才能を持った人間が、生活のための仕事に追われて一生その才能を開花させずに終ってしまう例は世間にいくらでもあるだろうと思います。BIで最低限の生活が保障される時代が来れば、世間には自称文学者だとか、自称音楽家だとか、自称哲学者なんて人が溢れるようになるかも知れない。それが好ましいことかどうかは別として、裾野が広くなるということは、山頂が高くなるということにつながるのは確かです。ヨーロッパでは中世ルネッサンスの時代に、多くの天才たちが活躍しましたが、彼らを支える富を持った階級が登場したからこそ、あの時代の隆盛はあったのだろうと思います。今の時代、莫大な富を持っている投資家や資産家は、過去の芸術品を買い集めることには熱心でも、新しい時代の芸術的才能を育てる事業には熱心ではありません。BIはこうした時代の中で、若い才能を応援する役割を果たすことになるのです。

 またBIのある社会は、当然のことながら(と言っていいと思います)犯罪の少ない社会でしょう。最近は一見して動機の分からない不気味な犯罪が増えていますが、そんな犯罪の中にもおそらく共通していることは、犯人が何らかの意味で貧困問題を抱えていることではないかと思います。現在の貧しさだけが問題ではありません、将来に亘って経済的な基盤が不安定なことが問題なのです。日雇い派遣といった生き方が、どれほど不安とストレスに満ちたものであるか、誰だって想像出来るものではありませんか。人を凶行に向かわせる心理の背景には、社会から見捨てられ、自分自身をも見限ってしまった自暴自棄な人間の衝動がある、そんなことは心理学者でなくても想像がつきます。将来に亘る経済的な保障が、人間の心の平安にどれだけ役立つものか、それには個人差もあることでしょう。それでも、就職に失敗したり、事業に失敗したりしても、最後の命綱だけはしっかりと自分の手の届くところにあること、これは誰にとっても心強いことであるに違いない。むろん個人的な憎悪からの殺人や愉快犯のようなものを押し止めることは出来ないとしても、追い詰められての無差別殺人のようなものには、かなり有効な安全弁になるという気がする。死刑を廃止したり、逆に刑を厳罰化することが犯罪防止にどれだけ効果があるか、それはほとんど水掛け論の領域ですが、BIにはもっと現実的で確実な犯罪抑止効果があると私には思えるのです。

 こんなふうに考えを巡らして来ると、ベーシックインカムによる無条件の社会保障ということには、現代に特徴的な様々な問題に対する〈万能薬〉となる可能性が秘められているように感じられます。それほど素晴らしいアイデアだというよりも、むしろ豊かさを実現した社会が向かうべき当たり前の方向ということなのではないだろうか、どうもそんな気がしてなりません。なんだか難しいパズルの解答が見付かった時のような、すっきりした気分になる。そこまで言ったら、ちょっと思い入れが強過ぎることになるでしょうか? BIについては、今後も継続的に考えて行きたいと思います。ぜひあなたのお考えもお聞かせください。

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2008年7月21日 (月)

ベーシックインカムについて考える(2)

 今週、私のところにも「年金特別便」というのが届きました。これまでに何回か転職をして、過去に勤めた会社の中には今はもう無いところもあるので、ちゃんと記録が残っているか心配だったのですが、自分の記憶の限りでは記録に間違いはありませんでした。宙に浮いた年金記録というのは、ほんとうに由々しい問題で、私たち国民は行政の責任を徹底的に追及して行くべきだと思いますが、一方で公的年金の本質的な問題はそんなところにはないということにも我々は気付いている訳です。年金というのは、まさに大多数の国民にとって人生設計の根幹をなしていたものなのに、それが実は詐欺商法まがいの「ねずみ講」のようなものでしかなかった、そのことが一連の混乱のなかではっきりしたのだと思います。すでに年金の支給開始年齢は、政治家の勝手な判断で引き上げられてしまったし、支給金額はこれからもどんどん引き下げられて行くことが予想されます。何故そんなことになってしまったのかは、誰にでも明らかなことで、現役世代が退職世代を支えるというそもそものコンセプトが、少子高齢化および経済規模縮小の時代には合わないからです。先週から私はベーシックインカムという考え方について、いろいろ調べたり考えたりしているのですが、今日のように経済や社会が大きな転換点に差しかかっている時代には、これは実に魅力的な考え方のように思えます。とにかく、ベーシックインカムは、将来の世代にツケを回さないところがいい。それは単年度の予算の中で〈やりくり〉するものだからです。もしも「自立自助」ということが、今日ひとつの徳目として合意されたものであるならば、ひとつの世代が共謀して次の世代を食い物にするような年金制度こそ打破されねばならない。

 ベーシックインカムとは、国がすべての国民に(つまり年齢も収入も前科も問わず)基礎年金のようなものを支給するという制度です。その金額は、ひとりの人間が生きて行くのに最低限必要なくらいの額であるというのが基本の考え方になります。この制度を支える財源をどこから持って来るかについては前回の記事で少し検討しました。今回はそれを実現する上でのもうひとつの難しさについて考えてみたいと思います。それは「無条件での生活保障」ということに対する、私たち自身の心理的抵抗ということです。例えば私たちは、自分が死ぬまで受け取る年金のことについては何の疑問も抱きませんが、多くの貧しい人が生活保護費を受給していることには何か釈然としないものを感じているのではないかと思います。生活保護を受けているのは、国民年金を納めていない人たちであり、またおそらく過去にも納めて来なかった人たちでしょう。ところが、その彼らが受け取れる生活保護の月額が、国民年金で受け取れる月額より多いということを聞けば、それは釈然としない事実であることを通り越して、怒りのこみ上げて来るような事実にさえなります。こういう逆転現象を許していることは、今の行政の怠慢に他ならず、それは社会のモラル低下につながるものであるという意見を私は前に書きました。その考えには今も変わりありませんが、もう少し分析してみなければならないと思うのは、私たちが感じるこの〈不公平感〉の正体についてです。そこにはいろいろと複雑な要素が絡み合っていて、それを解きほぐして行くことが、ベーシックインカムを考察するための準備作業としてどうしても必要なことであるように思うのです。

 生活保護の受給者にもいろいろな種類の人がいて、なかには病気や障害などによって仕事を続けられず、収入が途絶えてしまったような人もいるでしょうし、また若い頃から放蕩の人生を送って来て、当然年金などは一度も納めたことがなく、年をとって生活困窮者になってしまったような人もいるでしょう。前者のような人を生活保護のような制度で支えて行くことが必要であることは認めるとして、後者のような人間を我々の血税で支える必要がどこにあるのか? そういう考えは多くの人に共通するものではないかと思います。だからこそ〈自立自助〉ということが、構造改革行政の基本コンセプトとして広く国民に受け入れられて来たのでしょう。ここで考えなければならないことは、それでは何故、社会的弱者と呼ばれる人たちへの公的支援については、私たちの心のなかでこれに抵抗する気持ちが(それほど)湧かないのかという点です。現在の日本では、心身に障害を持っている人に対しては〈障害年金〉というものが支給されています。その財源の約半分は国民の税金ですから、制度としては生活保護と似たところがあります。そして障害者の中にも経済的に自立している人はたくさんいるにもかかわらず、障害年金の支給額はその等級に応じて一律なのです。何故でしょう? それは障害を持っているにもかかわらず頑張っていることへのご褒美なのか? だから一般の納税者(その大半が健常者です)からも、この制度に不満の声は上がらないのでしょうか? 私がここで回りくどい言い方で説明しようとしているのは、要するにこういうことです。私たちは、自己の責任ではなく社会的弱者の立場に陥ってしまった人たちへの支援については、広い心でこれを認めるおおらかさを持っている。しかし、それは裏返してみれば、〈施す者〉と〈施される者〉という抜きがたい(心理的)関係だとも言えるのではないか。

 私がベーシックインカム(BI)というものを面白いと思うのは、この施す者、施される者の関係をいったんご破算にして、ゼロベースで考える視点を与えてくれるという点にあります。だってBIというのは、誰にでも無条件に支給されるものなんですから、それを受給している人を妬んだり、そこに優越感を感じたりするなんて面倒な心理的トラップからも我々は解放される訳です。そこには現行の生活保護制度のような、受給者のプライバシーにまで立ち入った厳しい審査などというものも必要なくなるし、生活保護や障害年金を受給する側が時として感じるかも知れない社会に対する負い目のようなものからも自由になれる。つまりそこで実現されるものは、人がこの世に生まれて来たことには、そのことだけで価値があるとする、古い宗教や道徳が理想としていたものと近いものではないかという気がするのです。いや、こんな書き方をすれば、また空想的な理想論だと言われてしまうかも知れません。しかし、BIの思想が現実的な効力を持っているのは、生産性の向上によって過去のどの時代よりも豊かになった現代のような時代においては、それが決して絵空事ではないかも知れないという点においてです。前回書いたことの繰り返しになりますが、BIの基本は供給能力の余剰によって需要不足になった社会において、その過剰分の富を潜在的な消費者にあらかじめ分配しておいて、マクロでの需給を均衡させるところにあります。それは特定の誰かからの施しではないのです。だから我々は、労働の結果ではないその所得を、誰に気兼ねすることもなく自由に使うことが出来る。もっと言えば、BIというものが社会制度として、またそれを受け入れる私たちの心構えとして確立しているような社会でなければ、産業のこれ以上の効率化は、需給のギャップをさらに増大させ、新しい貧困層を生み出して行くという現在の矛盾をさらに深刻化するものでしかないとも言えるのです。

 ここまで考えを進めて来れば、BIに対するもうひとつの反論に対しても簡単に答えることが出来るようになります。つまりBIなどというものが制度化されれば、人々は勤労に対する意欲を失い、日本の社会は怠け者の天国になってしまうのではないかという意見に対してです。これに対する回答は簡単で、人がBIだけで生活出来るほどに産業が効率化された社会においては、人はいくら怠けていても構わないということに尽きます。そんな社会が到来するのは、まだまだ先のことだと思いますが、その時代にはオートメーション化が極限まで進み、特に製造業においては働きたくても働き口がほとんど無くなる。(商品企画や設計開発といった一部のエリート向けの仕事は残るでしょう。) そんな時代でも、人々が経済に貢献する役割はあります。つまり支給されたBIを使ってオートメーション工場から産み出される製品を買う、消費者としての役割です。もちろんこれも重要な経済活動である訳で、良い製品を見極める目を持ったレベルの高い消費者が増えれば、それが生産側の質の向上にもつながることになる。ひいてはこの国の国際競争力を維持向上させることにもなるのです。現在のような経済が閉塞した時代では、特に若い人たちは未来に希望を見出すことが難しいし、これから生まれて来る子供たちにも明るい未来が待っているとは思えない状況がある。BIにはそんな時代の閉塞感に風穴を開ける可能性があると思います。理想的なかたちでBIが実現した未来の社会では、ひとりの赤ん坊がこの世に生まれて来ることは、現在とはまた違った意味で、社会にとって歓迎すべきこととなります。それは新しいひとりの〈消費者〉の誕生という意味を持つからです。

 さあ、どうでしょう、ベーシックインカムって結構良さそうじゃありませんか? もしもあなたが多少でもこの私の考えに賛同してくれるものなら、もう例の「働かざる者、食うべからず」などという古い道徳訓ともさよならです。そんな恫喝的な教訓は、食うことに精一杯で、働けなくなった老人を姥捨て山に捨てに行った古い時代の名残に過ぎません。もうひとつ蛇足として付け加えておくならば、BIが実現した世界でも〈勤労の貴さ〉は少しも傷つくことなく私たちの心のなかで生き続けるだろうと私は考えています。人間は、誰かの役に立ちたい、誰かから認められたいという欲求を本能として持っていますから、そのために勤勉であることを決して止めることはありません。ただ、それが金銭的な価値評価から比較的自由になるというだけのことです。これはBI推進派の人がよく言うセリフですが、BIというベースがあってこそ、人は本当に自分が価値あると信じられる仕事に邁進することが出来るのです。(自分もそんな時代に生まれて来たかったと思います。そしたら私はきっと毎日ブログの記事を書いて過ごしますね。笑) まとめればこういうことです、この半世紀のあいだ、私たちは労働が機械やロボットやコンピュータによって効率化されると、人間が職場から追い払われ、仕事と収入を失うというジレンマを味わって来ました。今日のワーキングプアの問題の根幹にも、この産業の急速な効率化という背景があるのです。これに対しては社会制度と、私たち自身の意識の根本的な変革をもって対応しなければならない。答えは共産主義にも無いし、新自由主義にも無いと思います。BIだけが正解かどうかは私には分かりませんが、ひとつの有力な答案であることは間違いないと考えるのです。

 今回はもっと楽しい話を書く予定だったのですが、少し堅苦しいモラルの話題に終始してしまいました。もう一度、次回もBIについて書きます。私たちが「働かざる者、食うべからず」という意識を卒業して、当たり前の権利としてBIを受け取れる時代が来たなら、いったいどのようなことが起こるのか、それを空想してみたいのです。次回こそ本当に楽しい話になりますので、ぜひもう一回だけお付き合いくださいね。(笑)

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2008年7月13日 (日)

ベーシックインカムについて考える(1)

 ゲゼル研究会のメーリングリストで「ベーシックインカム」という言葉を初めて知りました。日本ではまだ聞き慣れない言葉ですが、ここ十年くらいのあいだに欧米を中心に広まって来た考え方で、これを研究する本もたくさん出版されているそうです。考え方自体はとても単純なことで、基本的な生活を支えるために必要な収入(ベーシックインカム)を、国がすべての国民に一律に支給するというものです。現在の生活保護制度は、受給資格を得るために非常に厳しい審査がありますが、ベーシックインカムにはそうした審査はありません。すべての人が年齢や収入などに関係無く、一律の金額を支給されるというものだからです。人が最低限の生活を支えるに足る金額であるというのが、「ベーシック」と名付けられた所以だろうと思います。もしもこれが実現されれば、現行の生活保護や失業保険のような制度もすべてそこに統合出来るし、公的年金制度だって、(過渡的な措置は必要になると思いますが)最終的には廃止出来る。消えた年金記録の問題なんて、もう大した問題では無くなるのです。何よりも、この制度を導入することの意義は、憲法25条に記された『すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』という条文が、名だけではなく実をともなって実現されるという点にあるかも知れません。

 シルビオ・ゲゼルが考案した「減価する貨幣」というコンセプトから、私はずいぶんインスピレーションを受けて、このブログ上でいろいろなアイデアや意見を書いて来ました。ネタとしてはこの「ベーシックインカム」も面白そうですね。その言葉の響きからだけでも、いろいろな考えが頭に浮かんで来る。自分のような経済にうとい素人にも分かりやすい考え方だし、それが実現した社会を考えることは楽しい想像ですから、とにかくこれを肯定的に捉えてみるという視点で考察してみたい気がします。それにこれは自分が子供の頃からずっと夢見て来たものでもあるんですね。つまり「働かなくても生きて行ける社会」というものです(笑)。以前にも書いたことですが、技術の進歩や生産性の向上によって、需要に比べて供給が慢性的に過剰になってしまった社会では、「働かざるもの食うべからず」という昔ながらの道徳律さえ常識ではなくなってしまう可能性があります。そんなふうに明るい(?)未来というものを空想している自分にとって、ベーシックインカムはむしろ歴史の流れの当然の帰結だとさえ言える気がするのです。また今日の日本のような、全体的に過去のどんな時代よりも豊かになったにもかかわらず、一方で安定した職に就けないワーキングプアという階層が大量に産み出され、経済の循環が目詰まりを起こしているような社会では、国が政策によって国民の購買力を下支えするというのは、とても理に適ったことであるように思えます。少なくとも公共事業などに予算をバラまくよりは、ずっと経済を健全化することにつながるのではないだろうか。

 ベーシックインカム(以下BIと略します)には、素人が考えても重大な問題がふたつあります。ひとつはそれを実現するための財源をどうするかということです。もうひとつはそれが実現した場合に、日本の社会は怠け者のパラダイスになってしまうのではないかということです。つまり経済的な問題と道徳的な問題と言い換えてもいいでしょう。インターネットで、BIに反対する人の意見を拾ってみると、だいたいがこのふたつの問題を根拠にしているように見えます。逆に言えば、このふたつがクリア出来れば、BIには政策としての実現性が見えて来るということでもありますね。今回はとりあえず、このふたつのうち経済的な問題の方を考えてみたいと思います。当然、国が実施する政策ですから、財源は税金ということになる訳ですが、BIを提唱する論者の中にも、財源を所得税に求めようとする人、法人税に求めようとする人、消費税に求めようとする人といったふうに立場が分かれているようです。現在の日本で生活保護の金額がだいたい月に8万円程度、もしもこれを1億2千万人の国民全員に支給するとなると、年間に必要な予算は115兆円にもなってしまいます。これは国の税収の2倍から3倍の金額です。もうこれだけでもとても現実的な話ではないという気分になって来ます。しかし、BIの議論が面白いのは、この一見無理そうなことを思考実験でシミュレーションしてみると、いろいろと思いがけない変革の可能性が見えて来るところにあります。今ふうの言葉で言えば、〈パラダイム・シフト〉とでもいうのでしょうか。

 仮に個人の所得税にBIの財源を求めた場合を考えてみましょう。試算によれば、個人の総所得額の約50パーセントを所得税に回せば、BIのための115兆円の財源がカバー出来るのだそうです。この場合、年金や失業保険などの控除は無くなるとしても、地方税はやはり引かれますし、健康保険や介護保険もそのまま残るでしょうから、私たちサラリーマンの手取り給与は本当に少なくなる。その代り、4人家族なら月に32万円のBIが国から支給される訳です。安月給の自分にとってはおいしい話ですが、これだと仕事を辞める人が大量発生しそうですね(私も真っ先に辞める側のひとりです)。結局、国内の就労人口が大幅に減るので国の税収も激減し、BIの財源どころではなくなる。国内の産業もガタガタに崩壊するでしょう。とても現実的な方策だとは言えない気がします。では法人税をBIの財源とするアイデアはどうでしょう。昨年度の国の税収のうち、法人税が占めるのは15兆円程度ですが、これに115兆円を積み増すとすると、やはり日本の産業は壊滅ですね。ただ、企業の側から見ると、国民には国からBIが支給されているのだから、社員への給与水準をうんと低くすることで財務のバランスをとるという逃げ道はあるかも知れません(実際こういう観点からBIに賛同する産業界の意見もあるようです)。この場合にも、おそらく多くの企業では退職者続出で、事業の継続が困難になるのではないか(なにせ安月給で働かなくても、BIがあるのだから)。こう考えると、やはりBIというのは夢物語に過ぎないように思えて来ます。

 それでは消費税をBIの財源に当てるプランならどうでしょう。現在の消費税率が5パーセントで、消費税の税収が約10兆円ですから、1パーセントにつき2兆円。つまり消費税を60パーセント(!)にまで引き上げれば、BIの財源が確保出来る計算になります。消費税率のアップは、企業や個人の生産活動に与える影響も比較的小さいと考えられますので(ほんとうか?)、先のふたつのプランよりは実現性がありそうな気がします。BIで基礎的な生活が保障されると言っても、消費税60パーセントでは、別の収入を持っていなければ生活はかなり苦しい。ですからBI導入による離職の傾向に歯止めをかけるという意味でも、バランスのいい方法かも知れません。ただ、こちらの場合には、例えば現在単身者で生活保護を受けているような人が犠牲になるおそれがあります。月の収入は8万円で変わらず、消費税だけが60パーセントになれば、生活が成り立たなくなるからです。こういった貧困層には、だからBIとは別に生活保護のようなものが必要になるでしょう(何のためのBIか、という批判が出ますね)。それでも、そのために必要となる予算は、現行の生活保護予算よりも(たぶん)はるかに少ないものだと予想されますから、制度自体にとって致命的なものではないでしょう。おそらくBIの実現ということを本気で考えるなら、財源は消費税に求めるのが正解だと思います。

 結局、この政策の本質がどこにあるかと言えば、富裕層から貧困層への富の移転ということに尽きます。これはBIに賛成するにせよ、反対するにせよ、認識しておくべきことがらです。もしもひとり当たり月に8万円のBIが支給されたとしても、5億円の豪邸を3億円の消費税を払って買わなければならない富裕層にとっては、何の足しにもならないからです。おそらく一定以上の高額な消費財(高級住宅や高級車など)の市場は、相当落ち込むだろうと予想されます。私の個人的な見解としては、消費税をBIの財源に当てるのであれば、消費税率に逆進性を持たせることを検討すべきだという気がします。まあ、このへんはよくよく考えた結果ではないので、いろいろな方のご意見を伺いたいところです。BIというコンセプトの根本は、社会格差の是正だとか、貧困層の救済だとかいう点にではなく、あくまで生産性が向上した社会で生まれた供給過剰のギャップを、社会の構成員に公平に還元するというところにあるという点を押さえておく必要があります。これもこれから考えるべきテーマですが、現代のような時代では、その国の生産性のレベルや産業構造などによって、最適な「ベーシックインカム率」のようなものを計算する式があり得るのではないかという気がします。世界の多くの国では、まだBI率はマイナスでしょうが、日本や西欧諸国などでは、すでにプラスに振れているかも知れない(すなわち産業が効率化されたが故に失業率が上がっているような国々では)。BIを論じるに当たっては、最初からに国民全員に8万円ずつを配るなどという乱暴な議論ではなく、理論的に導かれたBI率で計算された金額をベースに、財源やその分配方法も充分検討しながら、具体的な政策論として議論をして行くことが必要だろうというのが今回の私の結論です。ということで、BIの経済的な側面に対する考察はこのへんにして、次回はもっと楽しい、BIの道徳的側面についての考察に移りたいと思います。(笑)


(2009年6月14日の追記です。この記事の中ではBIの財源として消費税を考えていますが、それよりもずっと現実的でスマートなアイデアを見付けました。これについては、『社会信用論と自由経済思想(1)(2) 』を参照してみてください。)

(2010年3月28日の追記です。ベーシックインカムの財源問題について、さらに進化したアイデアを思い付きました。ここでは政府通貨にも減価貨幣にも、もはや頼る必要はありません。詳しくは、『ベーシックインカムの財源問題について』、『ベーシックインカムは企業からの人頭税で』をご覧ください。)

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2008年7月 6日 (日)

「翻訳支援機能付きHTML」という発想

 前回に引き続いてコンピュータによる自動翻訳の話です。グーグルでの翻訳結果があまりにひどいので、一体どんな翻訳ロジックを採用しているのか興味を持ちました。調べてみたらグーグルの「よくある質問」のページにちゃんとカラクリが書いてありました。一読してびっくり。そのまま引用します、「今日市場に出回っている自動翻訳システムのほとんどは、規則ベースで開発されており、語彙や文法の定義など多くの作業を必要とします。Google の翻訳システムの手法は異なり、ターゲットとなる言語で記述された単一言語のテキストと、人間が翻訳した他言語のサンプル翻訳テキストを対にしたものを大量にコンピュータに入れます。そしてこれらのテキストに統計的学習手法を適用して、翻訳モデルを構築しています。Google のリサーチ評価では、この手法が優れた結果をもたらすことが判明しています。」 おおっ、これってひょっとして、「サールの中国語の部屋」そのものじゃないですか! ジョン・サールという哲学者のことをご存知ない方は、インターネットで検索していただくとして、私がこの解説を読んで理解したと思ったのはこういうことです。グーグルの自動翻訳は、24もの言語(中国語の繁体字と簡体字をひとつと見なせば23になります)を相互に翻訳するという画期的なものですが、実はグーグルの翻訳ソフト開発チームには、これらの外国語に精通した人間なんてひとりもいないに違いない。いや、それどころか、この〈統計的翻訳手法〉というものの優秀さをアピールすることで、グーグルの技術者たちは、「俺たちは自分が全く知らない言語についてだって翻訳プログラムを作ることが出来るんだぜ」と豪語しているのです。

 これはいかにもグーグルらしい発想だと感心させられると同時に、私のような文科系バリバリの人間には、まったく自然言語というものを舐めたふざけた発想だとも感じさせられるのです。では、その統計的翻訳とやらの実力のほどを見せてもらおうじゃないか。このブログの先週の記事を試しにグーグルの翻訳ページで英語に訳させてみました。冒頭部分はこんなふうになりました。

 原文 『訪れる人もまれな、ワールドワイドウェブ上の孤島のようなこの私のページに、それでもたまに立ち寄ってくれるお客さまがいるのは、インターネット検索というサービスのおかげです。』

 グーグル英語訳 『Visitors are rare, the World Wide Web on the island I like this page, but occasionally you stop by the customers, the Internet search service, thanks.』

 全然ダメじゃん(笑)。ベータ版だとしても、一般公開するレベルの自動翻訳ではありませんね。これでは中国語を訳させても、意味の通る日本語にならなかったのも肯けます。ほんとうにグーグルの翻訳プログラムは、構文というものをまったく解析しないのね。インターネットで調べてみると、「統計翻訳」というのはグーグルの発明ではなく、他でも研究されているもののようです。しかし、このサンプルを見る限り、この方式をいくら洗練させても限界があるんじゃないかという気がします。いや、今回もう一度自動翻訳の話題を取り上げたのは、グーグル翻訳のレベルの低さをあげつらうことが目的ではありません。おそらく「統計翻訳」などという発想が生まれて来た背景には、自然言語における構文解析や意味解析というものが、コンピュータにとっては本当に苦手なのだという事実があるのだと思います。しかし、この難問を避けては、実用に耐える自動翻訳の実現は難しいのではないか。であるならば、とりあえず人間がコンピュータの翻訳をサポートするという方向も併せて考えた方が現実的であるように思います。日本には古来、漢文をレ点や返り点を付けて読み下すという伝統がありました。それと同じような感覚で、日本語の文章をコンピュータに理解しやすく加工するための記号を考案して、これをテキストの中に埋め込むという発想はどうでしょう。日本語でブログを書いている私たちにしてみても、そのひと手間をかけることで自分の文章が読みやすい外国語に翻訳されるのなら、手間のかけがいもあるというものです。

 私は自動翻訳の専門家ではありませんから、以下のアイデアが実用性のあるものか、あるいは似たような発想がすでにあるものなのか、分かりません。よく考え抜かれたものではないジャストアイデアだということをお断りした上で、今回私が考えた記述法のサンプルを示してみたいと思います。日本語の文章の中に(あるいはどんな言語で書かれた文章でも構いません)、「レ点」や「返り点」のようなものを埋め込む訳ですが、ここでは仮にこの記号を“【】”という括弧でくくって表現するものとしましょう。先の翻訳例を見ても分かるとおり、私たちが翻訳プログラムに教えてあげたいことの主要なポイントは、文章の中の単語や文節の〈係り受け〉と、個々の単語の意味の2点だと思います。場合によっては、もしも英語に訳すなら、ここはこの単語を使って欲しいという筆者からの要望もあるかも知れません。

■翻訳支援用の記号一覧

【/言語略号】 言語の指定(日本語なら【/ja】、英語なら【/en】)
【=.テキスト】 類義語(翻訳時の参考としての)
【+.テキスト】 翻訳時に補完したい単語・文節・文章
【/言語略号.テキスト】 言語指定付きの指定訳語
【】 単語や文節の区切り(任意、間違えやすいところに)
【n(】テキスト【)n】 ひとまとまりの翻訳の単位(数式等で使う括弧と同じ)
テキストA【n>】【>n】テキストB 文章や文節の係り受け関係(テキストA→テキストB)

 いくつか使用例を挙げます。コンピュータの翻訳プログラムの気持ちになって読んでみてください。

■翻訳支援記号の使用例

巷間【=.ちまたの =.市井の】哲学者
2チャンネル【+.(日本最大のインターネット掲示板)】
【+.私はあなたを】愛してるよ
【1(】福澤諭吉【)1】【/en.Yukichi Hukuzawa】
竹島【/ko.独島 /en.Liancourt Rocks】
市議会【】議員
太った【1>】丸い眼鏡の【>1】男
【>1】それなんだ、私が言いたかったのは【1>】。

 先ほどのサンプル文章を加工するとしたら、こんな感じでしょうか。

 【/ja】【1(】【2(】訪れる人もまれな【)2】【3>】、【>3】【4(】ワールドワイドウェブ上の孤島【)4】のような【)1】【5>】【>5】【6(】この私のページ【)6】に、それでも【7(】たまに立ち寄ってくれる【)7】【8>】【>8】お客さま【/en.guests】がいるのは、インターネット検索というサービスのおかげ【=.結果】です。

 まあ、人間が見て分かりやすい表記ではありませんね。〈文章の係り受け〉については、主語と述語、形容詞と名詞、動詞と目的語、等のパターンについて記号を分けた方がいいのかも知れません。あるいはそのへんは翻訳プログラムのインテリジェンスに任せるとして、意味の単位をくくる括弧だけにした方が、記号を書き込む側としては手間がかからないので現実的でしょうか。さて、今回のアイデアにはもうひとつセールスポイントがあって、それはこの翻訳補助記号をインターネットのページ記述言語であるHTMLの書式に合わせてしまうというものです。私はHTMLを書いたことが無いので詳しくは知りませんでしたが、「HTML入門」といったページを見ると、プログラム言語にふつう付きもののコメントの書式があることが分かります。具体的に言うと、“<!--”と“-->”という記号の間に書かれたテキストは、プログラマーのコメントとして扱われるのです。これを拝借します。翻訳補助記号として、“<!--tr”と“-->”という書式を採用することにします(trはtranslateの略です)。これをHTMLのテキストの中に埋め込めば、ブラウザでの表示上は何も影響が出ません。これに対応した翻訳ソフトにとってのみ意味を持つので、現行のHTMLと互換性が保証されているところがミソです。(どういう訳かココログのHTMLエディタでは、コメント書式を書き込んでも保存されないようですが…)

 ですから今回の記事で使った“【”と“】”という記号は、“<!--tr”と“-->”とに置き換えられることになります。いちおう考案者の特権として、これを「trタグ」と名付けましょう。前述の文例を正式なtrタグで書き直すと、以下のようになります。

 <!--tr /ja --><!--tr 1( --><!--tr 2( -->訪れる人もまれな<!--tr )2 --><!--tr 3> -->、<!--tr >3 --><!--tr 4( -->ワールドワイドウェブ上の孤島<!--tr )4 -->のような<!--tr )1 --><!--tr 5> --><!--tr >5 --><!--tr 6( -->この私のページ<!--tr )6 -->に、それでも<!--tr 7( -->たまに立ち寄ってくれる<!--tr )7 --><!--tr 8> --><!--tr >8 -->お客さま<!--tr /en.guests -->がいるのは、インターネット検索というサービスのおかげ<!--tr =.結果 -->です。

 え、面倒くさくてやってられないですって? 確かにこうした記号をいちいちキーボードから入力するなんてやってられませんよね。しかし、この書式が標準になれば、当然これに対応した高機能なHTMLエディタが開発される筈ですから心配は要りません。現在でもHTMLをコードで入力する人なんてほとんどいないでしょう。もちろんこれは日本語だけではなく、どんな言語にだって適用出来ますし、これを利用した翻訳技術が進歩すれば、センスのいいtrタグを書き込める人が、これからの時代では翻訳家と呼ばれることになるかも知れません。翻訳ソフトも進化して、優秀な翻訳家とのコラボレーションによって〈名訳〉というものだって生まれて来るに違いない。<!--tr >1 -->どうでしょう、グーグルに先を越されないうちに、日本のベンチャー精神あふれるソフトウェア会社がこれに取り組んでみては<!--tr 1> -->。

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