« 京都議定書、日本の採るべき道(改) | トップページ | 日本人の死刑賛成論の根底にあるもの »

2008年6月15日 (日)

無差別殺人事件と死刑制度

 このブログで何度も書いているとおり、私は以前からかなりはっきりとした死刑反対論者でした。単に人道的見地から、国家権力による殺人を許せないといった話ではなく、今日では死刑制度というものの存在そのものが日本人の道徳心を蝕んでおり、場合によっては凶悪犯罪を誘発する原因にもなっているのではないか、そういう考えを持っているのです。先週、秋葉原で起きた無差別殺人事件については、その背景に不安定な非正規雇用の問題があるとか、殺人をテーマにした残虐なテレビゲームの影響もあるとか、携帯サイトを利用した劇場型の犯罪と呼ぶべきものであるとか、いろいろと現代的な特徴を捉えた考察がなされているようです。むろんそうした外的な要因以外に、犯人の生い立ちや持って生まれた性格といった内的な要因があることも間違いありません。しかし、この事件が起こった理由を、そうした客観的な要因に分解して考えるのではなく、犯人の〈主観的な動機〉という点から考えてみると、実はこれは非常に単純な事件ではないかと思えるのです。要するにそれは犯人の世間に対する〈復讐〉だったということに尽きます。私はこのブログの以前の記事で、連続児童殺人犯の宅間守という人間について、その犯罪は世間に対する復讐であり、また他人の手を借りた自殺でもあったと書きました。その考えは今も変わりませんし、今回の事件もまったく同じ性格のものだと考えます。その時の文章から引用します。

 『最近国内を最も震撼させた殺人犯と言えば、間違いなく幼い児童八人の生命を次々と奪った宅間守という男だろう。我が国としては異例の早さで死刑を執行されたこの男の場合が、まさしくこのパターンに当てはまるのではないかと私は推測している。というのも、この男の場合には、明らかにその犯行は死刑制度を利用した自殺だと思われるからである。自分自身に対する不満を世間に対する不満に転嫁し、その〈おとしまえ〉を世間につけさせようとしている男にとって、無差別大量殺人はすべてを一挙に解決するうまい手である。それは自分を無視し、自分を不当に扱った世間に対する復讐と、そんな社会に間違って生まれて来た自分を一挙に抹消してしまうという願望を、同時に満たすものであるからだ。私はかなりの確度で確信しているのだが、もしも日本に死刑制度が無く、代りに終身刑の制度があれば、我が国の犯罪史に永久に名を残すことになった宅間守という殺人者は、おそらく生まれなかっただろうと思うのである。』

 先週の事件は、7年前のこの池田小の事件と同じ6月8日に起きました。これが犯人の意図したものだったのか、偶然の一致だったのかについては、現在までの報道では明らかにされていません。仮にその符合が偶然のものであったとしても、このふたつの事件、いや、ここ何年かのあいだに連続して起こった無差別殺人事件は、ひとつの同じ系譜として連なっているように思えます。2チャンネルのようなインターネット掲示板を見れば、宅間守という殺人犯を英雄視するような発言がいくつも見付かります。この男は公判のなかでも反省の色ひとつ見せず、それどころか傍聴していた遺族に対して聞くに堪えない嘲罵の言葉を投げつけさえしました。こうした事実がこの男を一種の象徴的な存在に、いわば「負のヒーロー」としての位置付けに祭り上げる結果になっているのです。こういうタイプの犯罪者(およびその信奉者)にとっては、マスコミや世間が上げる憎悪の声はなんら恐れるべきものではなく、むしろ彼らはそれを待ち望んでいると言った方が正しいでしょう。カミュの『異邦人』を読んだ方なら覚えている筈です、理由なき殺人を犯したムルソーは死刑の判決を受け、独房の中で刑場に引き出される日のことを夢見ます。「この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」 こうした倒錯したヒロイズムの感覚は、犯罪から遠い位置にいる私たちにも想像出来るものだと思います。そしてそれがある種の感受性を持った若者をいかに惹きつけるものであるかということも。

 死刑というものがまずいのは、こうした倒錯したヒロイズムに正当化の口実を与え、この「負の英雄伝説」を完成させてしまうところにあります。池田小事件について、私は「死刑制度を利用した自殺」という表現を使いましたが、こうも同じような事件が連続するのを見ると、そうした言い方ではまったく充分ではなかったと感じます。こうした犯罪者の多くは、おそらく自殺願望を心に秘めている人たちでしょう。が、彼らはまた自分が死ぬためには世間の猛り狂った憎悪を一身に浴びる必要があるとも感じている人たちなのです。これまでの人生で、仕事がうまく行かず、異性からも嫌われ、世間からは疎まれて来た(と思っている)彼らは、この失敗の人生を誰かに償わせなければならないと感じている。今回の事件を起こした加藤智大という男は、「殺すのは誰でもよかった」という無差別殺人犯の常套句を口にしています。そう、彼らにとっては殺す相手が必要だった訳ではなく、その結果として自分に向けられる世間からの注目が必要だったのです(「夢…ワイドショー独占」)。取り調べのなかでこの男は殺人を悔いるような供述を始めていると言います。これは彼がおそらく宅間に憧れ、宅間になり切れなかったことを意味しているのだと思います。ネットの掲示板には、きっとそのことを揶揄するような書き込みがなされるに違いありません。そしてその読者の中からは、「俺だったら最後まで世間を敵に回してやり抜くことが出来る」と考える愚か者が必ず出て来るのです。

 現行の法制度のもとで宅間や加藤のような男が死刑になることは当然のことだし、私はそれに異を唱えるものではありません。(私は制度としての死刑には反対しますが、個々の死刑判決に反対する者ではないからです。) しかし、宅間という男の死刑をあれほど早く執行してしまった司法の判断は、はっきり言って間違いだったと思っています。それは彼をアンチヒーローの殉教者に仕立ててしまっただけでした。その伝説を完成させたものは、この男の行く手に待っていた絞首台だったのです。だからこそそこから第二、第三の宅間が登場して来ることになったのだと私は思っています。こんな私の考え方は、おそらく多くの人の共感を得られるものではないでしょう。もしかしたら、こんな考えに囚われている私自身、こうしたアンチヒーローのメンタリティをいくぶんかは共有しているのかも知れません(それは大いにあり得ることです)。しかし、たとえこうした犯罪者に感情移入する人間が千人にひとり、いや、一万人にひとりしかいなかったとしても、日本の人口全体から割り出せば、そこには一万人の小宅間が存在することになる。一万人の犯罪予備軍と呼べるかも知れません。一般人の感情として理解出来ないから、そんな脅威は存在しないということには絶対ならないと考えます。

 現在のようにマスコミが犯罪報道に熱を入れ、世間の犯罪に対する憎しみの感情を煽れば煽るほど、こうした不可解な動機無き殺人事件が起こる危険性は増すだけだと私は思っています。何故なら、そうした犯罪に向かう可能性のある人間は、想像のなかで人々の憎悪を一身に浴び、それを養分として妄想を膨らましているに相違ないから。死刑への恐怖が犯罪に対する抑止力になるなどというのは、私たち幸福な一般人のぬるい考えであって、破滅と憎悪と死を希求する人間にとって、それは心を痺れさせる甘い蜜でしかないという気がするのです。少年法が改正され、これから法の厳罰化はさらに進む見通しです。そして来年には裁判員制度というものが始まろうとしている。これがまた凶悪犯罪を誘発する要因になるに違いない。考えてもみてください、世間から憎まれることを欲し、その世間に唾を吐きかけてやりたいと考えている人間にとって、何も知らずのこのこと法廷に集まって来た〈善良な市民〉と相対するなんて、こんなおいしい場面が他に考えられるだろうか。私は死刑制度が廃止されたからといって、こうした凶悪犯罪がすべて無くなるだろうなどとは言いません。が、法の厳罰化、裁判員制度の導入、死刑判決の増加といった一連の流れのなかでは、まず確実に凶悪犯罪は増え続けるだろうと予想するのです。

|

« 京都議定書、日本の採るべき道(改) | トップページ | 日本人の死刑賛成論の根底にあるもの »

コメント

Like_an_Arrowは自説に引きずられ過ぎのように見えます。
世間を恨んだ無差別犯罪の犯人が自殺願望がある場合もあるでしょう。
もちろんそうじゃない場合もある。捕まる可能性のない条件で爆弾などに
よって無差別犯罪を行うこともあり得るでしょう。
まあ今は、無差別犯罪の犯人が自殺願望があるとしましょう。
しかし、それと死刑制度とは関係ないと思います。

実際、この前のバージニア工科大学銃乱射事件や以前のコロンバイン高校
銃乱射事件では犯人は犯行後に自殺しています。
私は両事件が発生した州の、死刑に関する法律はどうなっているのかは
知りません。でも、自殺願望があったとして、死刑がないなら自分で自殺する
だろうし、死刑があっても自分で自殺するか、死刑で自殺するでしょう(本人の
意識では)。

世間から悪罵を浴びたいという犯人もいれば、あっさり自殺して、
謎解きを封印して、世間を欲求不満に陥れることを想像して
喜ぶ犯人もいると思います。

結局、死刑制度の有無と関係ないんじゃないですか?

投稿: Saitaman | 2008年6月15日 (日) 23時53分

Saitamanさん、こんにちは。

そうでしょうか? 死刑制度と凶悪犯罪の多発は本当に関係無いと言えるでしょうか?

私はどうしても関係あるように思えてならず、そのことを言葉を尽くして書いているのです。証拠があって書いている訳ではないので、この問題について議論しても結論は出ないだろうと思います。

アメリカで無差別殺人犯が自殺してしまうのに、日本ではあっさり逮捕されてしまうことが多いのは、私の想像では凶器の違いによるものではないかと思います。銃なら自分の頭を撃ち抜くことは簡単ですが、ナイフではそうはいかない。単純過ぎる理由付けですか?

投稿: Like_an_Arrow | 2008年6月22日 (日) 22時31分

はじめまして。興味深く読ませてもらいました。自分は積極的死刑賛成派でも積極的死刑廃止論者でもなくて、現実派、現状維持派といった感じで、「今、死刑が存在する以上、死刑が(正当に、即ち冤罪ではなく)行われる事に異存はない」という立場です。

死刑賛成にしろ反対にしろ、どうもあまり説得的な議論を聞いた事がありません。Like_an_Arrowさんの議論も例えば死刑賛成論者の理由がおぼつかないものであるという議論は納得しましたが、翻って積極的な死刑反対の理由となると「なるほど、その通り」と膝を打つ議論ではありませんでした。

気になったのですが、「自分の愛する人が殺されたら犯人は自分で殺す」とか、「自分は裁判員に選ばれたら拒否する」等といった発現はどれ位本気で、どれ位冗談で書かれているのでしょうか。冗談にしろ本気にしろ、本当の問題を回避しているだけのように見えます。

それから
>(私は制度としての死刑には反対しますが、個々の死刑判決に反対する者ではないからです。)
などということは一体可能なのでしょうか。前件と後件が真っ向から対立しているのに。これもまた本気か冗談か分かりません。これでは死刑制度に気分的に反対しているだけ、と受け取られかねないと思うのですが。


投稿: 法哲 | 2008年7月28日 (月) 14時55分

うーん、ちょっと違うような・・・
宅間は政治犯ですし、宅間を支持している人も政治的な意味で支持しているんでしょう
金持ち側の人間を殺害することで、平等で平和な国を作る・・・
つまり226事件や血盟団事件と同列の出来事であり、国を変えようとする若者たちの愛国心からくるものだと思いますよ

投稿: | 2008年9月 6日 (土) 01時19分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/41536978

この記事へのトラックバック一覧です: 無差別殺人事件と死刑制度:

« 京都議定書、日本の採るべき道(改) | トップページ | 日本人の死刑賛成論の根底にあるもの »