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2008年6月22日 (日)

日本人の死刑賛成論の根底にあるもの

 最近よくコメントをいただくSaitamanさんから面白いご指摘がありました。問題の根っこは死刑制度の是非ということなのですが、この問題を考える上で重要な視点を与えてくれる議論のように思えたので、今回はそれを取り上げます。私自身は死刑制度に反対する記事を一貫して書いていますし、たぶん三十年以上その立場は変わっていません。それなのにこういう視点でこの問題を考えたことは一度も無かったかも知れない、そんなふうに感じてとても面白く思ったのです。それは殺人事件への対応という問題を考える時に、身内を殺された遺族の立場ではなく、殺された本人の立場で考えてみるということです。Saitamanさんはこれを『カラマーゾフの兄弟』のイワンとアリョーシャの対話の場面を引いて、こういう言い方で表現されています、「死刑が廃止されて、Like_an_Arrowさんのいうところの道徳的に進化した社会が実現されたとして、それでよいのでしょうか。私ならイワンとともに、そんな社会への入場券は返したい気持ちなのです。」 もしかしたら、これは死刑廃止ということをどうしても容認出来ない多くの日本人のぎりぎりの気持ちを代弁する、最後の言葉なのではないだろうか? そう考えて非常に腑に落ちるものがあったのです。

 ここで引用されている小説の場面は、有名な『大審問官の詩劇』の導入部分に当たる箇所で(私もこれまでに何度この場面を読み返したことか)、イワンが謹んで入場券をお返しすると言ったのは、キリスト教の天国への入場券のことだったと思います。もしも天国において、「犯人が改悛して、遺族もそれを許して、美しい世界が実現した」としても、それが無垢な子供の涙を代償としたものなら、そんなものは要らないと無神論者のイワンは言うのです。すると敬虔なクリスチャンであるアリョーシャが、「兄さんはその涙をあがなうことが出来るたったひとりの存在を忘れている」と悲痛な叫びを上げる、それを聞いてイワンは大審問官の物語を語り始めるのでした。これをひとりの文学者の宗教的な信念の問題と片付けてしまえば、私たちにとってさほど切実な問題にはならないかも知れません。が、もしもこれを現実の犯罪とそれへの対応という問題に読み代えてみれば、それは決して私たちにも無関係なものではない。最近は「修復的司法」などといって、犯罪の加害者と被害者が実際に顔を合わせたり、話し合いを持ったりして、「謝罪と赦し」ということを実現して行くような試みも始められているようです。それは犯罪者の更生や被害者の心の傷を癒すためには有効なことかも知れません。しかし、こと殺人事件に関しては、そこから排除されている者がいる。つまり殺された被害者本人です。もしもこれが天国でのことであれば、殺された子供も一堂に会して、皆で手を取り合い、泣き合うことも出来るかも知れない。けれども死んだ者が生き返らないこの世界においては、そんな「謝罪と赦し」なんてことは、要するに欺瞞以外の何ものでもないのではないか。

 「修復的司法」という言葉でインターネット検索をしてみると、いろいろな方が興味深い考察をしているのが分かります。死刑制度への賛成・反対という議論が、えてして表面的な感情論で終ってしまうのとは対照的です。そういう意味でこれはこの問題を考える上でのひとつのキーワードだと感じました。気になる記事のひとつの例として、ある方のブログの中にこういう文章を見付けました(トラックバックさせていただきました)。「だが「修復的司法」は被害者にとっても、加害者への憎しみから救われるという効果もあるとされる一方で、問題点が指摘された新聞記事を読んだことがある。対面したときに、被害者や被害者遺族が善人を演じるプレッシャーに襲われ、加害者を赦してしまうということだ。そして許してしまうことは、被害者への裏切りとなってしまうと考える被害者遺族もいるそうだ。」 なるほど、こういったことは一般的な日本人の心性として、とても納得出来る気がします。むしろ哀しいくらい善良で優しい日本人の性質がよく現れているように感じ、読んでいて胸が痛くなりそうでした。よくアメリカなどでは、殺人犯と被害者遺族がワークショップなどを通じて、「謝罪と赦し」を実現して行くようなことも行なわれていると聞きます。それは確かに〈美しい〉ことだし、有益なものであるかも知れないけれど、キリスト教というバックボーンがあってこそ可能なことなのではないだろうかと考えてしまいます。天国も来世での復活も信じない日本人にとって、愛する者が生き返って来ないこの世界において、犯人と和解するなんてことは決して出来ないし、死んだ者の無念さを考えれば犯人に死刑を望まないなんてきれいごとも言えない。そういう文化的、宗教的背景を考えずに、死刑廃止などということを軽々しく口にすべきでもありません。

 死刑反対派らしからぬことを書いていますが(笑)、私は三十年来の持論を一瞬で捨ててしまうほど〈節操〉の無い人間なので、自分としては書いていることの矛盾は何も感じていません。重要なのは、自分の論陣を守ることではなく、この難しい問題をどう考え、解決を模索して行くかということですからね。ただ、それでも自分としては譲れない点がひとつあります。それは日本人のメンタリティや宗教観といったことを理由に、被害者と加害者のあいだの修復的な関係構築の可能性まですべて閉ざしてしまうべきではないだろうということです。このくらいの言い方なら、おそらくSaitamanさんのような方にも同意していただけるのではないかと思うのですが、どうでしょう。死刑廃止派の人がよく引き合いに出す事実として、殺人事件の被害者遺族の中にも、(数は少ないですが)死刑反対を唱える人たちがいるということがあります。キリスト教徒ではない日本人の中にもそういう人はいるのです。ところが、こういう人のもとには時に嫌がらせの手紙が寄せられたりするらしい。「肉親なのに死んだ者の無念を忘れたのか」という訳です。どう思います、そういう手紙を書く人のことを? 自分自身が被害者遺族であるにも関わらず、犯人を赦そうとする決意は、私はとても高潔なものだと感じるし、そういう人の書いた文章を読めば非常に感動する。それは欺瞞的なことでもなければ、死んだ者を裏切ることでもないと私は思っています。むしろ遺族がいつまでも犯人に対する憎悪で苦しんで、日常生活に復帰出来ずにいるとしたら、その方が死んだ者は浮かばれないかも知れない。

 先週秋葉原で起きた事件に呼応するかのように、今週宮崎勤を含む3人の死刑囚が刑を執行されました。鳩山法務大臣のコメントを新聞で読みました。「正義の実現のために粛々と執行させていただいております」というものです。嫌悪感で背筋が寒くなりました。最近よく目にする言葉に、「報復的正義」と「修復的正義」という言葉があります。しかし、いかなる意味においても、報復的な正義などというものはあり得ないというのが私の基本的な考えなのです。もちろん「報復的な修復」というものはあり得るし、それが死刑制度の正当性を支持するひとつの理由であることは認めます。すなわち、憎い犯人を死刑にしてもらうことで、ようやく無念を晴らして生活に復帰出来る被害者遺族もいるに違いないということです。(それでもそういう恩恵にあずかれるのは、殺人事件の被害者遺族の100人に1人であることは改めて指摘しておきます。) 死刑に対して賛成するか反対するかは別として、殺人事件の〈アフターフォロー〉には、犯人や遺族の心理的状況を考慮して、細心の対応が求められるのではないかと思います。そのためには、我が国でも「修復的司法」の分野でのさまざまな試みや研究がなされていくべきだというのが私の意見です。イワン・カラマーゾフに倣って、被害者と加害者が和解する世界への入場券をお断りするというのは、その可能性を閉じてしまうことに他ならない。これは未来を志向する態度とは言えないと思います。ドストエフスキーはアリョーシャに未来の希望を託したのであって、イワンにではありませんでした。小説の中でイワンが滅んで行くように、それは〈滅びの思想〉でしかないように私には思われます。

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コメント

私は正義については非常にシンプルな理解をしています。
まず、正義には3種類ある。

1.交換の正義
個人間や集団間において取引をする場合の交換方法や交換比率を合意し正当化する
ための規範です。簡単に言えば「100円の商品が欲しかったら100円を支払わなければ
ならない」というものです。
2.分配の正義。
集団で協働活動をした結果を集団のメンバーに分配するときのルールを合意し
正当化する規範です。
3.戦争の正義
集団間の闘争を正当化するための理念です。

上記1~3ともに人間だけではなく社会性のある動物に、進化の過程で備わったもの
だと思います。特に2と3は単に集団生活をするだけではなく、集団で一つの目的を
実現する能力を持った種(ライオン、狼、チンパンジーなど)に固有のものです。
それに対して交換の正義はもっと古く、それゆえ、より根源的な正義だと思います。

さて、報復的な正義というものは上記1の交換の正義のサブタイプです。
a.商取引や友人間の貸し借りのようなものは、プラスの価値とプラスの価値の交換。
b.犯罪や事故の補償の場合は、マイナスの価値(被害)とプラスの価値(補償)の交換。
c.犯罪への罰の場合は、マイナスの価値(被害)とマイナス価値(罰)の交換。

死刑に限らず犯罪への罰、つまり報復的な正義というものは上記cに該当します。
もし罰というものが報復ではなく教育というのなら、そして「いかなる意味に
おいても、報復的な正義などというものはあり得ないと」というのなら、
交換の正義という社会の秩序を支える根本原理を突き崩すことになると思うのです。
私は、100万円盗んだら100万円を返す、あるいは100万円分の罰を受ける
ということが当然と思うのと同じように、人を1人殺したら原則的に(犯人の)1人の
命で購うべきだということに疑問を持ちません。

最後に一つ。刑罰を報復と教育とに対立して考えるのも誤りだと考えます。
報復としての刑を受けることによって、交換の正義を学習するという
効果もあるはずです。もちろんLike_an_Arrowなら、犯人が罪を悔いて
二度と罪を犯さないと誓うというような、道徳的な進化がなければ、
教育とは認めないでしょうが。

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Like_an_Arrowさんの「報復の正義は認めない」というのがどこから出てくるのか、
より原理的なことが書いてある文章を読んでみたいと思います。そうでないと
対症療法になってきりがないですから。一部分、読んだのですが、
「人格の同一性」や「責任」の考え方に見過ごすことができないところが
ありました。落ち着いて考える余裕がなくて考えがまとまってないので、
いつになるか分かりませんが、いずれ、投稿してみたいと思います。

投稿: Saitaman | 2008年6月23日 (月) 00時09分

鳩山法相の「殺される側にだって人権も人格もある。殺す側を責めるのは、殺された人々に対するぼうとく、侮辱でもある」という発言ほど、殺された者をぼうとく、侮辱した発言もあるまい。自分で殺しておいてよく言うよという感じだ。「ユダヤ人虐殺についてドイツ人を責めるのは、殺されたユダヤ人に対するぼうとく、侮辱である」と言っているのと同じだ。要するに殺してしまえばあとは殺す側の鳩山家が、殺された者の代弁までかってにできるのだとわめていてるのだ。戦前から多数の国民を犠牲にして、てめえだけ優雅な犯罪人生を楽しんできた鳩山家だから言えるとんでもない支離滅裂発言である。「国民など鳩山の都合でいくらでも殺してやるぞ。口封じしてからあとでオレがなんとでも言ってやるぜ。」という神に反逆する鳩山の傲慢さがよく表れている。

投稿: 紀子 | 2008年6月23日 (月) 15時20分

謹んで滅びたいから加害者も滅ぼしてほしい、と孫が殺された90歳のおじいさんがいたらどうしますか。。。?

投稿: とおいすがりん | 2008年6月28日 (土) 22時28分

Like_an_Arrowさん、おひさしぶりです。mori夫です。重量級テーマにも果敢に取り組んで発言されていますね。さすがでいらっしゃいます。私は仕事が忙しくて、自分のブログも、この1年ほど更新できずにおりました。

私事というか、いきなり余談ですが、1ヵ月ほど前、鼻の手術を受けた際に、全身麻酔なるものを生まれて初めて経験しました。手術は3時間ほどかかったにもかかわらず、眠りに落ちてから(意識がなくなってから)、意識を回復するまで、時間経過はほとんど認識できませんでした。「終わりましたよ」という声で目覚めたら、「え?もう終わったの?」という感じで、3時間が1~2分くらいにしか、感じられなかったのです。脳が活動停止状態になるので、こういうことになるのでしょうね。(自力呼吸もできなくなるので、酸素吸入器を喉につっこまれるのです。)

そして何を思ったかというと、もし死後に生まれ変わりというものがあるのなら、本人自覚としては、死んでから一瞬にして次の生命体で覚醒するだろうな、ということでした。(生まれ変わりまでの期間が、たとえ千年であろうとも1億年であろうとも。)

私は、前にも発言したとおり、「生まれ変わりはあり得ない」という説より、「あり得るかもしれない」という説のほうが、科学的にもうなずける説だと考える人間です。

10年以上前にスピリチュアリズムにはまって、本を読み漁っていた時期がありました。それらの本によると、魂は永遠不滅で、現世での修行をつみ、生まれ変わりを繰り返しながら、魂は霊格を高めていく(神性が高まっていく)ということでした。(でもいまではこういう思想から遠ざかっています。こういうものがあまりに一般化されてしまうと、精神的な貴族主義や選民思想の弊害を持つ集団が出てきます。オウム事件はその典型でした。霊格の低い人間は早く殺してやったほうが本人のためだ、みたいな。)

最近の朝日新聞のアンケート調査では、日本人で、「生まれ変わりを信じる」と答えた人が、7割くらいいました。テレビ番組の影響もあるし、質問の仕方によって、どうにでもなるから、あんまり真面目にとらえることはできないと思いますが、ただ「死んでしまえばすべてが無になる」と考えるニヒリストの日本人は、案外少ない気がします。

「天国」という思想も、「天国で再度生まれる」ということなので、魂の不滅説と同じだと思います。死刑制度の是非を考える場合、魂は不滅かどうかという問題をどうとらえるかで、意見もかなり違ってくるように思います。この問題は、人間は何のために生まれてくるのか、人間がこの宇宙に存在することにどういう意味があるのか、という哲学の最大の根本問題を考えずして、結論は出ないようにも思います。

「人間が存在する意味なんて無いよ。宇宙の偶然の産物にすぎないよ」という人も、ネット上の議論の世界ではかなり多いというのを実感していますが、そういう人は哲学には無縁の人ですね。(私は不幸なことに、この哲学の重い重い足かせというか鉄のかたまりに、中学のころから縛りつけられています。)

投稿: mori夫 | 2008年7月 6日 (日) 13時53分

mori夫さん、ほんとにお久し振りです。お元気そうで安心しました。

最近はRSSとかいう機能を使えば、気になるサイトの更新チェックが出来るそうですが、なにしろ新しい技術にはついていけない年齢なもので、たまにmori夫さんのページを覗いてみては、更新が無いので心配しておりました。ともあれご存命で何よりです。(笑)

私は全身麻酔の経験も無ければ、金縛りや体外離脱といった経験をしたことも無いので、〈生まれ変わり〉の疑似体験といった感覚を持ったことはありません。それに以前書いたように、生まれ変わりや来世といったものの存在は、証明することも反証することも不可能だと思っています。でも、実は生まれ変わりや来世というものを1パーセントだけは信じるようにしているんです。現代人には100パーセントの唯物論者や無神論者も多いと思いますが、それでも平気な人というのがmori夫さんのおっしゃるところの「哲学には無縁な人」なんだと思います。私にはどうしてもその1パーセントが必要なので、最近の記事の中でこれを「困った時の神頼み教」と名付けました。日本人にはとても分かりやすい信仰の形態ではないかと自分では思っているのですが。

死刑制度や裁判員制度に対しては、確かに積極果敢に意見を述べています。この話題について書くと、その他のテーマについて書いた時よりもアクセス数が伸びるんですね(笑)。まあ、そのために飽きもせずこの話題を取り上げている訳ではありませんが、最近の犯罪に対する世間挙げての憎悪の感情の高まりと、それと機を一にしたような裁判員制のスタートということに、心から恐ろしさを感じているんです。陪審制や参審制が欧米でうまく機能しているのは、やはりキリスト教の伝統があればこそだと思います。神も信じない、来世も信じない人に、現世での赦しなんてことは原理的にありえないじゃないですか。日本人の7割が生まれ変わりを信じていたって、それは宗教心といったものでは全然ないでしょう。

ぜひまたご意見をお聞かせください。って言うよりも、ご自身のブログを再開してくださいよ。全身麻酔と生まれ変わりの話なんて、ネタとしては最高じゃないですか。哲学病は治らない病気ですから、病状日記が終わるのは、それこそこの世を離れる時か、精神的な疾患(認知症や鬱病のような)に罹った時かのいずれかしかありません。ほんとにmori夫さんの身の上に何かあったのではないかと、私は心配していたのですよ。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年7月 7日 (月) 01時43分

こんにちは。私は死刑賛成派です。

最大の理由は『死によってしか償えない罪がある』ということだ。

例えば、終身刑にしたら罪を償える、ということを証明するのは不可能である。

そして、『被害者遺族の意見』で、死刑になったり、ならなかったりするのは、司法の自殺である。

例えば、裁判官が刑の重さを決めることを否定してしまうことにつながる。

死刑囚に対して、『罪を自覚させ、反省させる』ように教育するのは当然のことである。

しかし、世の中には『教えられてもわからぬものがいる』という現実がある。

この場合には、宅間のように『反省もせず、死刑になっていく』のである。

ここで、死刑廃止派のいうように『終身刑』を導入したとして、
宅間は反省すると自信を持っていえる人間がどれほどいるのか?
皆無であろう。

だから、終身刑論議も意味がないのである。

また、『死刑存置』の理由は、犯罪抑止効果だけではない。
なぜか?

万引きであれ、強盗であれ、『懲役刑』は犯罪抑止効果になっていないのだ。

だから、犯罪抑止効果がないから、という理由は『刑罰全廃論』に、つまり、刑罰と刑務所をなくせという結論に必然的に結びつくのである。
これは、愚劣である。

補足に対して、『死刑執行官』のことなんかは、十分に考えた。

生き物の命を奪う職業がある。あれは、残酷ではないのか?
むごいと思えば、菜食主義になるものだ、ただし、菜食主義は偽善である。

野菜だって、生きているのだ。
その命を奪うから『生命への畏敬』が生ずる。

『被害者の命の尊さ』を惜しむ・いとおしむからこそ、『死によってしか償えない罪がある』として、死刑を求めるのである。

人間の命を奪うのが残酷なら、知能の高いイルカや鯨の命を惜しむのも道理である。
いや、『牛・豚』といった人間に食べられるための家畜の『生命』を奪うのも、残酷・無残である。

ここで、問いたい。
1)人間の命を奪うのが残酷というのなら、
『中絶』という胎児の命を奪うことは残酷ではないのか、早産であっても生きられるほどに成長しているんだ。

2)死刑が残酷なら、
動物の命を『食べるため』とはいえ、奪うことは残酷ではないのか?
捨てられた犬・猫といったペットを『炭酸ガス』で苦しませて殺すことは、残忍ではないのか?


人間が生きている限り、ほかの生き物や人間の命を奪うしかない、という現実をどう見るのか、考えるのか?

なお、『人間を死刑にしない、しかし、食べるために家畜は殺す』なんてのは、偽善の極地だろう。違うのか?

投稿: 清国 | 2008年7月 7日 (月) 23時04分

はじめまして、私は死刑に賛成です。

他に書いている記事も読みまして少しだけ考えを書いてみます。

死刑を目的に殺人を犯した人の例として、宅間をあげていましたね。

私は自分の知り合いに、死刑がないなら嫌いなやつみんな殺してやるのにという人がいます。一人だけ。

しかし実際は死刑によって殺人が減るわけではないそうなので、一人の意見なんて参考にもならないと思います。

「宅間はただの特殊な人間だった」と考えなかった理由が知りたいです。

あと、死刑反対の理由に、殺人を認めることになるからとおっしゃていましたが、終身刑をつくっては結局同じことではないのでしょうか。

☆私が死刑に賛成する理由を書きます

死刑がない場合、

終身刑つくらなければ、いつか出所する。また被害者がでる可能性が高い。性犯罪者なんていや

終身刑をつくると、終身刑目的の殺人が増えると思う。

「人一人殺してやっと出所かよ、周囲の視線がこわい。ネットで住所さらされたし。ぶっちゃけ刑務所戻りたい。そうか!3人以上殺せばほぼ確実に終身刑なんだったな、ずっと刑務所にいられるじゃないか。」

ってありえると思いませんか?

死刑を廃止して終身刑だけつくろうなんて考えが甘いと思う。

以上です。

投稿: あいか | 2008年7月22日 (火) 00時10分

 自分は死刑制度は賛成です。
 なぜかというと、残酷な殺人を犯した犯人は死して償うのが当然と思うからです。

 私が死刑廃止論者に対して望むのは犯罪の増減、手を汚さないとかそういったことではなく、どうして死して償うという犯人の罰を無視できるか?という問いの答えを出して欲しいのです。
その答えが出ない限り、どういう意見を聞いても(ここの記事にも納得できる部分はありましたが)死刑廃止論には賛成できません。
 これは感情論で言っているのではありません。(どちらかというと私は殺人がおころうがどうでもいいと思うようなタイプです。)

 とはいっても、もしある条件付きなら自分は死刑は廃止して、終身刑を導入すべきだと考えます。その条件とは、終身刑の犯人に肉体的苦痛を与えることです。
 これなら、罰としては十分ですし、確実に犯罪抑止になります。

投稿: いのっち♂ | 2008年8月 4日 (月) 05時01分

清国さん、いのっち♂さんなどの死刑賛成論者に質問があるのですが、死刑によって殺人の罪が償われるというのはどういう意味でしょうか?殺された人間が生き返ってこない以上、どんな意味でも<償い>ということは不可能なのではないでしょうか?

僕は現状維持派ですから「消極的死刑賛成論者」と言えますが、どうも「積極的死刑賛成論者」の意見には緻密な議論が欠けているように感じます。(同様に積極的死刑反対論者の議論も余り説得的なものがありません)

それから死刑が殺人を抑止しているというのは、どんなデータを取れば明らかになるのでしょうか。死刑廃止国で目立って殺人が増えたというデータがない以上、死刑が殺人を抑止しているなどと言うのは人々の空想の産物ではないでしょうか。

逆に死刑を廃止した事で、殺人が抑止されているというデータがあるのでしょうか。これも明らかになっていないように思います。(どうなんでしょうか)

結局、死刑があろうとなかろうと殺人事件の発生率が変化しないのなら、死刑そのものもあっても無くてもどちらでもよい、その国民の趣味・気分的なものになるのではないでしょうか。

投稿: 法哲 | 2008年8月 5日 (火) 14時27分

程度が低いと一笑に付されるかもしれませんが、一筆啓上させていただきます。

貴方様の死刑廃止についてのお考えは実に深い内容をもつものと認識いたします。また、そこまでいかないにしても、死刑存置を主張される方にも同様のものを感じます。

けれども、なぜか、このような優れた両陣営の意見にはピンとこないものが残るのです。それは何故だろうと改めて考えてみますと、

 <言及できないことに言及しているのではないか>、

という理解を得るに至りました。思慮深い貴方様であってもこの問題についてどうするのがよくどうするのが悪いかは言及することは不可能で、そこまで至らない、たとえば死刑存置派の方は言うまでもございません。

わたくしは、この問題は当の本人同士でしか、何がよく何が悪いかさえ言えないことのように思います。死者はもうこの世にいない以上本人にはなりえないからそれさえ言えないだろう、は違うと思います。生存中の者=遺族が自己のこととして考えるのです。遺族が被害者自身のことを考慮することはできません。推測でしかありません。ですからこの推測を理由に考えることもできないと見なければなりません。

ただ、私たちが評するのではなく、事柄が客観的に評価し、周りのわたくしたちよりも現存する当事者がむしろ認めている意識があります。それは、

<何ら正当化すべき理由もないのに他人の生命を奪った者は自らの生命を奪われても文句は言えない。>

です。この観念は最低限の客観的な基準となるもののように思います。つまり、自己のではない身内の生命を奪われた者と、加害者である本人の問題としてむしろぶん投げることです。結果がどうなっても他者が評価すべきことではないのです。たとえば、仮に被害者の当時の感情が原因で加害者の生命を奪う結果になって、どれだけ以後被害者が後悔の念にかられようとも、それだって当事者である遺族が背負うべきこととして理解するのです。だから、死刑は止めるべきであったなどと本人以外の者が言及すべきことでもないのです。

私たちは、ただただ変な方向に行かないことを祈り監視し、見守ることしかできない。そのことが実は積極的な意味においても最善なのではないでしょうか。

最後ですが、あなた様の無意識的意識が、死刑だけでなく刑罰一般を国家や社会が国家や社会の立場で悪をもたらした行為者の責めを問うという構図を、なんらかの意味で前提にしてはいないでしょうか。一つお考えになってみてはいただけませんか。現在、制度はそうなってますが、刑罰も本来的には被害をこうむった者が加害者の責めを問うものであるとした場合、貴方様のお考えにも何か変化が起こりそうな予感をわたくしは感じます。

投稿: kentarou11177 | 2016年10月 9日 (日) 21時21分

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