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2008年6月29日 (日)

自動翻訳は世界平和に貢献するか?

 訪れる人もまれな、ワールドワイドウェブ上の孤島のようなこの私のページに、それでもたまに立ち寄ってくれるお客さまがいるのは、インターネット検索というサービスのおかげです。ブログの管理者用メニューには、訪問者がどのようなコトバで検索したのかを表示する機能もあって、それを見ていると面白いことに気付きます。最近は「死刑廃止」だとか「裁判員制度」といった検索語が多いのは分かるとして、もうひとつ別の興味深い発見がありました。それはこのブログを外国語で検索している方がいるということです。もう少し正確に言うと、日本語のページを中国語に翻訳しながら検索している中国語圏の方がいるらしい、ということなのです。で、その検索URLをたどってみると、なるほどグーグルの新しい機能に「複数言語で検索」というものがある。これは入力した検索語を検索対象の言語に翻訳した上で検索をかけて、さらに検索したページの言語をこちらの言語に翻訳した上で表示してくれるというものです。もちろん日本語と中国語だけではありません、世界の二十四もの言語のあいだで相互に翻訳可能なのです。これはすごいですね。何がすごいって、まだ自動翻訳というものの品質が実用化にはほど遠いのに、それを無償サービスに組み込んでしまうグーグル社の発想とそれを実現してしまう資金力がすごい。で、私もこの機能を使っていろいろ遊んでみました。

 グーグルのトップ画面から「言語ツール」を選び、中国語のページを対象に検索をかけてみます。どういう検索語を入れてみようかな? 北京オリンピックやチベット問題について調べても、あんまり面白くはない、もっと刺激的なキーワードと言えば…。試しに「反日」と入れてみたら、278万件のヒットがありました(わおっ!)。「靖国神社」だったら297万件、「A級戦犯」では114万件、「南京大虐殺」だと259万件…。(日本語のページを対象にしたって、これほどのヒット件数はありません。さすが13億の民を擁する大国です。) このグーグルの機能が心憎いのは、翻訳されたページのリンクをたどって別のページに行っても、翻訳モードが解除されずに、すべて日本語に翻訳して表示してくれるところです。例えば「反日」で検索すると、「おすすめ反日サイト」みたいなリンク集がいくつも見付かりますが、そこから気になるタイトルをクリックすると、その先のページも日本語で読むことが出来るのです。その日本語というのが、ほとんど何を言っているのか分からないほどひどい翻訳なのですが、それでも内容が内容ですから、しっかりと「反日の感情」だけはこちらに伝わって来る(笑)。なかには目をそむけずにはいられないような酷い戦時中の写真が掲載されているページもあります。渦巻く憎悪のなかをあちこちさまよい歩いていると、思考力も麻痺してしまって、頭がクラクラして来そう。見てはいけないものを覗き見てしまったような気分にもなります。

 不幸な戦争から六十年以上を経て、いまだに中国や韓国とのあいだに感情的なしこりが消えずに残っている原因のひとつとして、私は言語の違いによるコミュニケーション・ギャップというものが大きいのではないかと思っていました。インターネットの時代になって、情報は国境を越えて瞬時に行き来するようになったと言っても、やはり言葉の壁だけはどうしようもない訳で、この壁を打ち壊すためには外国語学習の機会を充実させるよりも、コンピュータによる自動翻訳の技術を進歩させることの方がずっと手っ取り早い、そんなふうに私は考えて来ました。しかし、グーグルでそのベータ版のようなものを見せられてしまうと、そんな自分の考えは甘かったのではないかと思えて来ます。むしろ戦後六十年を経て、日中、日韓関係がそれなりの慇懃さをもって互いを尊重するような大人の態度を見せている裏には、それぞれの国の民衆が言葉の壁によって遮断されているという安全弁が働いているとは考えられないだろうか。これがもしもテキストの自動翻訳や、さらに進んで音声の自動翻訳技術などというものが実用化されて、言葉の壁という堰が破れてしまったら、互いの根強い憎悪の念や嫌悪の情がどっと流れ込んで来る状況が現れる訳で、それがこれら近くて遠い国同士の友好関係にプラスに働くとはとても思えないのです。むろんそんななかにあっても、そうした感情的対立を乗り越えて、未来を切り拓いて行こうとするたくましい言葉もたくさん現れることでしょう。が、残念ながらそうした言葉は衆寡敵せずで、民衆の大きな感情の流れに飲み込まれて行ってしまうに違いない。そのことは現今の国内のインターネット空間を眺めてみれば、容易に想像が出来ることです。

 インターネットというものが普及して、誰もが自由に自分の意見を述べ、議論を戦わせることも出来るようになった訳ですが、それで何か建設的なものが生まれたかと言うと、私は懐疑的です。むしろ意見の対立は次第に溝を深くしていくばかりで、インターネットが生まれる前と比較しても、国民のあいだで何か難しい問題に合意または妥協が生まれる機会は少なくなっているのではないかと思います。はっきり言えることは、例えば憲法改正問題にしても、死刑廃止問題にしても、あるいは生命倫理の問題にしても、どっちつかずの曖昧な態度の人が少なくなり、誰もが旗幟鮮明になったということではないでしょうか。いや、自分の意見をはっきり持つことは悪いことではありませんが、相手の言葉に耳を傾け、それを自分の中で咀嚼した上で理路を尽して反論するという、議論の基本というものがほとんど成り立っていないように感じるのです(これは自戒もこめて言ってます)。国内のインターネット空間でさえそういった状況なのですから、これが敵対感情を持つニ国間であれば、どうなるかは推して知るべしです。グーグルの自動翻訳機能には、自分が書き込んだテキストを指定した外国語に翻訳する機能も備わっています。つまり2チャンネルのような掲示板に、どこの国の人でも自由に書き込みが出来る環境が実現している訳です。(翻訳の精度が低くて、いまのところ実用に耐えないというだけで。) おそらく世界最高のエリート技術者を集めたグーグル社は、そこに美しい理想の未来を見ているのだろうと思います。彼らに欠けているものは現実的な想像力です。彼らの技術で実際に実現されてしまうものが、あからさまな憎悪に満ちた悪夢のような世界であるかも知れないということへのイマジネーションです。

 自動翻訳によって言葉の壁が取り払われてしまった未来から振り返ってみれば、国内で右翼(ナショナリスト)と左翼(リベラリスト)がいじいじとした論戦を繰り広げていた頃のことを、なんて平和な時代だったのだろうと思い出すかも知れません。インターネットは、その匿名性の故に攻撃的で悪意に満ちたコトバの跋扈する空間のように言われますが、その見方は本質を突いたものではないように思います。例えば〈炎上〉したブログなどを見ると、たいていは「こんな書き方をすれば、そりゃ炎上するよな」と了解出来る場合がほとんどで、コトバは過激でもそこには平均的な日本人ならそれなりに共感可能なコメントの応酬があるに過ぎない。逆に言えば、そうした平均的な日本人の感性からはずれたコトバがバッシングに遭うので、国内のインターネット空間はそういう他者からの補正を受けて、実は非常に均一な意見だけが生き残る場になっているような気がします。何かにつけ悪者にされる2チャンネルだって、よくよく見れば仲間内の〈お作法〉が作り上げた一種の予定調和の世界でしょう。そこでは滅多に本質的な意見の対立というものは見られない。所詮ナショナリズムとリベラリズムの対立なんて、同じ国内の多少は〈現実家肌の人〉と多少は〈理想家肌の人〉の対立に過ぎない訳で、それを深刻な対立と捉えること自体が甘っちょろいことかも知れません。世界の情勢を見れば分かるとおり、本当に恐ろしいのは国家間あるいは民族間にあるナショナリズム同士の対立です。私自身は理想家肌の人間なので、言葉の壁が取り払われることで排他的なナショナリズムが克服されていくことを願うものですが、現実を見ればことはそう簡単ではあるまいとも思うのです。

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2008年6月22日 (日)

日本人の死刑賛成論の根底にあるもの

 最近よくコメントをいただくSaitamanさんから面白いご指摘がありました。問題の根っこは死刑制度の是非ということなのですが、この問題を考える上で重要な視点を与えてくれる議論のように思えたので、今回はそれを取り上げます。私自身は死刑制度に反対する記事を一貫して書いていますし、たぶん三十年以上その立場は変わっていません。それなのにこういう視点でこの問題を考えたことは一度も無かったかも知れない、そんなふうに感じてとても面白く思ったのです。それは殺人事件への対応という問題を考える時に、身内を殺された遺族の立場ではなく、殺された本人の立場で考えてみるということです。Saitamanさんはこれを『カラマーゾフの兄弟』のイワンとアリョーシャの対話の場面を引いて、こういう言い方で表現されています、「死刑が廃止されて、Like_an_Arrowさんのいうところの道徳的に進化した社会が実現されたとして、それでよいのでしょうか。私ならイワンとともに、そんな社会への入場券は返したい気持ちなのです。」 もしかしたら、これは死刑廃止ということをどうしても容認出来ない多くの日本人のぎりぎりの気持ちを代弁する、最後の言葉なのではないだろうか? そう考えて非常に腑に落ちるものがあったのです。

 ここで引用されている小説の場面は、有名な『大審問官の詩劇』の導入部分に当たる箇所で(私もこれまでに何度この場面を読み返したことか)、イワンが謹んで入場券をお返しすると言ったのは、キリスト教の天国への入場券のことだったと思います。もしも天国において、「犯人が改悛して、遺族もそれを許して、美しい世界が実現した」としても、それが無垢な子供の涙を代償としたものなら、そんなものは要らないと無神論者のイワンは言うのです。すると敬虔なクリスチャンであるアリョーシャが、「兄さんはその涙をあがなうことが出来るたったひとりの存在を忘れている」と悲痛な叫びを上げる、それを聞いてイワンは大審問官の物語を語り始めるのでした。これをひとりの文学者の宗教的な信念の問題と片付けてしまえば、私たちにとってさほど切実な問題にはならないかも知れません。が、もしもこれを現実の犯罪とそれへの対応という問題に読み代えてみれば、それは決して私たちにも無関係なものではない。最近は「修復的司法」などといって、犯罪の加害者と被害者が実際に顔を合わせたり、話し合いを持ったりして、「謝罪と赦し」ということを実現して行くような試みも始められているようです。それは犯罪者の更生や被害者の心の傷を癒すためには有効なことかも知れません。しかし、こと殺人事件に関しては、そこから排除されている者がいる。つまり殺された被害者本人です。もしもこれが天国でのことであれば、殺された子供も一堂に会して、皆で手を取り合い、泣き合うことも出来るかも知れない。けれども死んだ者が生き返らないこの世界においては、そんな「謝罪と赦し」なんてことは、要するに欺瞞以外の何ものでもないのではないか。

 「修復的司法」という言葉でインターネット検索をしてみると、いろいろな方が興味深い考察をしているのが分かります。死刑制度への賛成・反対という議論が、えてして表面的な感情論で終ってしまうのとは対照的です。そういう意味でこれはこの問題を考える上でのひとつのキーワードだと感じました。気になる記事のひとつの例として、ある方のブログの中にこういう文章を見付けました(トラックバックさせていただきました)。「だが「修復的司法」は被害者にとっても、加害者への憎しみから救われるという効果もあるとされる一方で、問題点が指摘された新聞記事を読んだことがある。対面したときに、被害者や被害者遺族が善人を演じるプレッシャーに襲われ、加害者を赦してしまうということだ。そして許してしまうことは、被害者への裏切りとなってしまうと考える被害者遺族もいるそうだ。」 なるほど、こういったことは一般的な日本人の心性として、とても納得出来る気がします。むしろ哀しいくらい善良で優しい日本人の性質がよく現れているように感じ、読んでいて胸が痛くなりそうでした。よくアメリカなどでは、殺人犯と被害者遺族がワークショップなどを通じて、「謝罪と赦し」を実現して行くようなことも行なわれていると聞きます。それは確かに〈美しい〉ことだし、有益なものであるかも知れないけれど、キリスト教というバックボーンがあってこそ可能なことなのではないだろうかと考えてしまいます。天国も来世での復活も信じない日本人にとって、愛する者が生き返って来ないこの世界において、犯人と和解するなんてことは決して出来ないし、死んだ者の無念さを考えれば犯人に死刑を望まないなんてきれいごとも言えない。そういう文化的、宗教的背景を考えずに、死刑廃止などということを軽々しく口にすべきでもありません。

 死刑反対派らしからぬことを書いていますが(笑)、私は三十年来の持論を一瞬で捨ててしまうほど〈節操〉の無い人間なので、自分としては書いていることの矛盾は何も感じていません。重要なのは、自分の論陣を守ることではなく、この難しい問題をどう考え、解決を模索して行くかということですからね。ただ、それでも自分としては譲れない点がひとつあります。それは日本人のメンタリティや宗教観といったことを理由に、被害者と加害者のあいだの修復的な関係構築の可能性まですべて閉ざしてしまうべきではないだろうということです。このくらいの言い方なら、おそらくSaitamanさんのような方にも同意していただけるのではないかと思うのですが、どうでしょう。死刑廃止派の人がよく引き合いに出す事実として、殺人事件の被害者遺族の中にも、(数は少ないですが)死刑反対を唱える人たちがいるということがあります。キリスト教徒ではない日本人の中にもそういう人はいるのです。ところが、こういう人のもとには時に嫌がらせの手紙が寄せられたりするらしい。「肉親なのに死んだ者の無念を忘れたのか」という訳です。どう思います、そういう手紙を書く人のことを? 自分自身が被害者遺族であるにも関わらず、犯人を赦そうとする決意は、私はとても高潔なものだと感じるし、そういう人の書いた文章を読めば非常に感動する。それは欺瞞的なことでもなければ、死んだ者を裏切ることでもないと私は思っています。むしろ遺族がいつまでも犯人に対する憎悪で苦しんで、日常生活に復帰出来ずにいるとしたら、その方が死んだ者は浮かばれないかも知れない。

 先週秋葉原で起きた事件に呼応するかのように、今週宮崎勤を含む3人の死刑囚が刑を執行されました。鳩山法務大臣のコメントを新聞で読みました。「正義の実現のために粛々と執行させていただいております」というものです。嫌悪感で背筋が寒くなりました。最近よく目にする言葉に、「報復的正義」と「修復的正義」という言葉があります。しかし、いかなる意味においても、報復的な正義などというものはあり得ないというのが私の基本的な考えなのです。もちろん「報復的な修復」というものはあり得るし、それが死刑制度の正当性を支持するひとつの理由であることは認めます。すなわち、憎い犯人を死刑にしてもらうことで、ようやく無念を晴らして生活に復帰出来る被害者遺族もいるに違いないということです。(それでもそういう恩恵にあずかれるのは、殺人事件の被害者遺族の100人に1人であることは改めて指摘しておきます。) 死刑に対して賛成するか反対するかは別として、殺人事件の〈アフターフォロー〉には、犯人や遺族の心理的状況を考慮して、細心の対応が求められるのではないかと思います。そのためには、我が国でも「修復的司法」の分野でのさまざまな試みや研究がなされていくべきだというのが私の意見です。イワン・カラマーゾフに倣って、被害者と加害者が和解する世界への入場券をお断りするというのは、その可能性を閉じてしまうことに他ならない。これは未来を志向する態度とは言えないと思います。ドストエフスキーはアリョーシャに未来の希望を託したのであって、イワンにではありませんでした。小説の中でイワンが滅んで行くように、それは〈滅びの思想〉でしかないように私には思われます。

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2008年6月15日 (日)

無差別殺人事件と死刑制度

 このブログで何度も書いているとおり、私は以前からかなりはっきりとした死刑反対論者でした。単に人道的見地から、国家権力による殺人を許せないといった話ではなく、今日では死刑制度というものの存在そのものが日本人の道徳心を蝕んでおり、場合によっては凶悪犯罪を誘発する原因にもなっているのではないか、そういう考えを持っているのです。先週、秋葉原で起きた無差別殺人事件については、その背景に不安定な非正規雇用の問題があるとか、殺人をテーマにした残虐なテレビゲームの影響もあるとか、携帯サイトを利用した劇場型の犯罪と呼ぶべきものであるとか、いろいろと現代的な特徴を捉えた考察がなされているようです。むろんそうした外的な要因以外に、犯人の生い立ちや持って生まれた性格といった内的な要因があることも間違いありません。しかし、この事件が起こった理由を、そうした客観的な要因に分解して考えるのではなく、犯人の〈主観的な動機〉という点から考えてみると、実はこれは非常に単純な事件ではないかと思えるのです。要するにそれは犯人の世間に対する〈復讐〉だったということに尽きます。私はこのブログの以前の記事で、連続児童殺人犯の宅間守という人間について、その犯罪は世間に対する復讐であり、また他人の手を借りた自殺でもあったと書きました。その考えは今も変わりませんし、今回の事件もまったく同じ性格のものだと考えます。その時の文章から引用します。

 『最近国内を最も震撼させた殺人犯と言えば、間違いなく幼い児童八人の生命を次々と奪った宅間守という男だろう。我が国としては異例の早さで死刑を執行されたこの男の場合が、まさしくこのパターンに当てはまるのではないかと私は推測している。というのも、この男の場合には、明らかにその犯行は死刑制度を利用した自殺だと思われるからである。自分自身に対する不満を世間に対する不満に転嫁し、その〈おとしまえ〉を世間につけさせようとしている男にとって、無差別大量殺人はすべてを一挙に解決するうまい手である。それは自分を無視し、自分を不当に扱った世間に対する復讐と、そんな社会に間違って生まれて来た自分を一挙に抹消してしまうという願望を、同時に満たすものであるからだ。私はかなりの確度で確信しているのだが、もしも日本に死刑制度が無く、代りに終身刑の制度があれば、我が国の犯罪史に永久に名を残すことになった宅間守という殺人者は、おそらく生まれなかっただろうと思うのである。』

 先週の事件は、7年前のこの池田小の事件と同じ6月8日に起きました。これが犯人の意図したものだったのか、偶然の一致だったのかについては、現在までの報道では明らかにされていません。仮にその符合が偶然のものであったとしても、このふたつの事件、いや、ここ何年かのあいだに連続して起こった無差別殺人事件は、ひとつの同じ系譜として連なっているように思えます。2チャンネルのようなインターネット掲示板を見れば、宅間守という殺人犯を英雄視するような発言がいくつも見付かります。この男は公判のなかでも反省の色ひとつ見せず、それどころか傍聴していた遺族に対して聞くに堪えない嘲罵の言葉を投げつけさえしました。こうした事実がこの男を一種の象徴的な存在に、いわば「負のヒーロー」としての位置付けに祭り上げる結果になっているのです。こういうタイプの犯罪者(およびその信奉者)にとっては、マスコミや世間が上げる憎悪の声はなんら恐れるべきものではなく、むしろ彼らはそれを待ち望んでいると言った方が正しいでしょう。カミュの『異邦人』を読んだ方なら覚えている筈です、理由なき殺人を犯したムルソーは死刑の判決を受け、独房の中で刑場に引き出される日のことを夢見ます。「この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」 こうした倒錯したヒロイズムの感覚は、犯罪から遠い位置にいる私たちにも想像出来るものだと思います。そしてそれがある種の感受性を持った若者をいかに惹きつけるものであるかということも。

 死刑というものがまずいのは、こうした倒錯したヒロイズムに正当化の口実を与え、この「負の英雄伝説」を完成させてしまうところにあります。池田小事件について、私は「死刑制度を利用した自殺」という表現を使いましたが、こうも同じような事件が連続するのを見ると、そうした言い方ではまったく充分ではなかったと感じます。こうした犯罪者の多くは、おそらく自殺願望を心に秘めている人たちでしょう。が、彼らはまた自分が死ぬためには世間の猛り狂った憎悪を一身に浴びる必要があるとも感じている人たちなのです。これまでの人生で、仕事がうまく行かず、異性からも嫌われ、世間からは疎まれて来た(と思っている)彼らは、この失敗の人生を誰かに償わせなければならないと感じている。今回の事件を起こした加藤智大という男は、「殺すのは誰でもよかった」という無差別殺人犯の常套句を口にしています。そう、彼らにとっては殺す相手が必要だった訳ではなく、その結果として自分に向けられる世間からの注目が必要だったのです(「夢…ワイドショー独占」)。取り調べのなかでこの男は殺人を悔いるような供述を始めていると言います。これは彼がおそらく宅間に憧れ、宅間になり切れなかったことを意味しているのだと思います。ネットの掲示板には、きっとそのことを揶揄するような書き込みがなされるに違いありません。そしてその読者の中からは、「俺だったら最後まで世間を敵に回してやり抜くことが出来る」と考える愚か者が必ず出て来るのです。

 現行の法制度のもとで宅間や加藤のような男が死刑になることは当然のことだし、私はそれに異を唱えるものではありません。(私は制度としての死刑には反対しますが、個々の死刑判決に反対する者ではないからです。) しかし、宅間という男の死刑をあれほど早く執行してしまった司法の判断は、はっきり言って間違いだったと思っています。それは彼をアンチヒーローの殉教者に仕立ててしまっただけでした。その伝説を完成させたものは、この男の行く手に待っていた絞首台だったのです。だからこそそこから第二、第三の宅間が登場して来ることになったのだと私は思っています。こんな私の考え方は、おそらく多くの人の共感を得られるものではないでしょう。もしかしたら、こんな考えに囚われている私自身、こうしたアンチヒーローのメンタリティをいくぶんかは共有しているのかも知れません(それは大いにあり得ることです)。しかし、たとえこうした犯罪者に感情移入する人間が千人にひとり、いや、一万人にひとりしかいなかったとしても、日本の人口全体から割り出せば、そこには一万人の小宅間が存在することになる。一万人の犯罪予備軍と呼べるかも知れません。一般人の感情として理解出来ないから、そんな脅威は存在しないということには絶対ならないと考えます。

 現在のようにマスコミが犯罪報道に熱を入れ、世間の犯罪に対する憎しみの感情を煽れば煽るほど、こうした不可解な動機無き殺人事件が起こる危険性は増すだけだと私は思っています。何故なら、そうした犯罪に向かう可能性のある人間は、想像のなかで人々の憎悪を一身に浴び、それを養分として妄想を膨らましているに相違ないから。死刑への恐怖が犯罪に対する抑止力になるなどというのは、私たち幸福な一般人のぬるい考えであって、破滅と憎悪と死を希求する人間にとって、それは心を痺れさせる甘い蜜でしかないという気がするのです。少年法が改正され、これから法の厳罰化はさらに進む見通しです。そして来年には裁判員制度というものが始まろうとしている。これがまた凶悪犯罪を誘発する要因になるに違いない。考えてもみてください、世間から憎まれることを欲し、その世間に唾を吐きかけてやりたいと考えている人間にとって、何も知らずのこのこと法廷に集まって来た〈善良な市民〉と相対するなんて、こんなおいしい場面が他に考えられるだろうか。私は死刑制度が廃止されたからといって、こうした凶悪犯罪がすべて無くなるだろうなどとは言いません。が、法の厳罰化、裁判員制度の導入、死刑判決の増加といった一連の流れのなかでは、まず確実に凶悪犯罪は増え続けるだろうと予想するのです。

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2008年6月 8日 (日)

京都議定書、日本の採るべき道(改)

 内田樹さんの少し前のブログに、地球温暖化と二酸化炭素の排出量の間には科学的に証明された因果関係がある訳ではないという記事が載りました。一部にそういう学説があるのは知っていましたし、地球の気象というのは非常に複雑な多くの要因が集まった結果ですから、研究者は自説に有利なデータだけを集めれば、どんな仮説だって尤もらしい論文に仕立てられるのだろうと思っていました。ただ自分としては、ふだんから最悪を想定して心の準備をしておくというのが人生航路上の信条なので、こういう問題で楽観論を唱える人には警戒心があるのです。(内田さんの文章は、例によってとてもお気楽なもので、寒冷化よりは温暖化の方がよろしいんではないだろうかなんて書いています。) ところが、これも私が愛読している「経済コラムマガジン」の最近の記事に同じ問題が取り上げられていて、こちらはとても納得感のあるものでした。文芸春秋に載った丸山茂徳さんという大学教授の方の文章を紹介したものです。簡単に言えば、最近の地球の温暖化は人間の排出するCO2の影響などではなく、地球を覆う雲の量の変化によって引き起こされているというのです。つまり雲が減れば地上に到達する太陽光が増えるので地表の温度は上がる、地球の表面はほぼ50パーセントが雲に覆われているのですが、それが1パーセント減少すれば、平均気温が1度上昇するという計算なのだそうです。これは素人にも納得しやすい理屈ですね。人工衛生から地球を見れば、雲に覆われた部分は白く光って見えます、つまりそれは太陽光が地表に届かず反射されているということですから。

 丸山教授の論文の要旨は(って本文を読んだ訳ではないのですが)、地球を覆う雲の増減は人為的な影響によるものではなく、地球の磁場の変化とそれに伴う宇宙線の飛来量の増減に影響されるものであって、観測の結果によればこれからの地球は温暖化ではなく、むしろ寒冷化に向かうのだそうです。一方人間が化石燃料を燃やすことで発生するCO2は、温暖化の要因とはなり得るけれども、それは年間に0.004~0.005度の上昇を引き起こす程度でしかなく、ほとんど無視出来るものなのだそうです。確かにインターネットでいろいろな情報に当たってみると、人間社会の排出するCO2が地球温暖化の主犯だという意見には、どうも胡散臭いものがあるように感じられます。そもそも人間社会の1年間のCO2排出量は65億トン程度なのに対して、生物界全体が排出するCO2の量は1000億トン近くもあるというのです。(これは私には意外でした。人工的なCO2排出量の方が自然界のCO2排出量よりずっと多いように漠然と思い込んでいたからです。) それでも大気中の二酸化炭素濃度がほぼ一定に保たれているのは、植物が光合成を行なっているのと、海や大地がCO2を吸収してバランスを保っているからなのだそうです。地球はそれくらいダイナミックなメカニズムの中で動いている訳です。確かに人間の文明が地球全体の気象に与える影響はゼロではないでしょうが、人間の力ではどうにも出来ない地磁気の減少や宇宙線の増加の影響の方がはるかに大きい。そういうスケールで見れば、やはり人間なんてちっぽけな存在に過ぎない訳で、たかだか人間社会のCO2排出量を6パーセントだか8パーセントだか減らしたところで、地球にとっては痛くも痒くもない。

 考えてみれば、人間ばかりでなくあらゆる動物は呼吸によってCO2を吐き出しながら生きているのですから、CO2の排出を〈悪〉と決めつける思想は、要するに〈死の思想〉です。(ちなみにひとりの人間は1日に1キログラムのCO2を吐き出しているそうですから、地球上の60億人の人間が〈生物として〉吐き出すCO2の量は年間に20億トン以上になります。) もともとCO2は人間にとって有害物質でもなければ環境汚染物質でもありません。それがいつの間にか、「環境問題≒地球温暖化問題≒CO2排出問題」という方程式が出来上がってしまった。しかし、常識的に考えれば、いま一番緊急を要する環境問題は、温暖化の本当の原因かどうかも分からないCO2排出問題ではなく、急成長する中国のような国が苦しんでいるホンモノの環境汚染の問題であり、それによる健康被害と生態系破壊という問題でしょう。むしろCO2規制に人々の関心を向けさせることは、本当に必要な環境対策から目をそらせるという意味で、間違った方向であると言えると思う。おそらく環境先進国を目指す日本では、これから空気中に放出される二酸化炭素を固定させる技術の開発なんてことに研究予算が割かれるのでしょう。ですが、もしもこれからの地球が温暖化ではなく寒冷化に向かうのだとすれば、そんな技術は無用であるばかりか有害でさえあります。そんなところに予算をつけるくらいなら、過去に苦しい公害と戦って来た日本の技術を活かして、中国のあらゆる工場の排水口と煙突に浄化装置をどんどん取り付けてしまった方がなんぼかマシか知れない。

 昨年はIPCCとアル・ゴアさんがノーベル平和賞を受賞し、今年は京都議定書の実施年に入って、気がつけばもう誰もCO2悪玉説に異を唱えられないような国際世論が出来上がってしまいました。今年1月の記事でも、私は京都議定書の問題を取り上げました。その時はまだCO2悪玉説を頭から信じていたので、今回の記事はそれを否定することになるのですが、読み返してみるとひとつだけ正しい着眼点があります。それは京都議定書というものが、欧州連合が中心となって日本を落としいれるために仕組んだ、大掛かりな国際的詐欺ではなかったかということです。もしもCO2削減を本当に目指すなら、絶対に組み込んではならないCO2排出権の売買という逃げ道が、京都議定書には盛り込まれました。欧州連合は1990年比で8パーセントのCO2削減を約束しましたが、それは今後EUに加盟する途上国と合算すれば、自然に達成出来る数字だという目算が立っていたからこそその提案をしたのです。アメリカは無理だと分かって早々に離脱しました。日本だけがまったく達成の見込みの無い6パーセントという数字を押し付けられたのです。しかも会議の開催地は京都で、日本は議長国として絶対に後には引けないというところまでお膳立てをされてしまっていた。すでに日本は世界中でCO2の排出権を買い漁っています。以前読んだ新聞記事では、このまま行けば京都議定書の査定が終わる2012年までに、日本はCO2排出権購入のために2兆円から5兆円の出費を強いられるだろうと書いてありました。それだけのカネが動くなら、先進国の政治家たちは結束して、国際詐欺団にだって変身するということです。

 とにかく日本は冷静になって、CO2の排出権購入など今すぐにストップさせるべきです(冷静じゃないのはお前の方だろうですって? そうか、すみません。笑)。だってCO2が地球温暖化の真犯人ではないなら、京都議定書そのものが無効になる筈のものではありませんか。むろん「国際詐欺」だなんていう表現は、ブログ記事を面白くしたいからそう言ってみただけのことで、今回の記事ではそこを強調したい訳ではありません(ごめんなさい。って謝ってばっか)。日本の科学界は政治的な色合い抜きに、総力を挙げてCO2と地球温暖化の間には有意な関係が無いことを徹底的に証明すべきだと思います。そして政治的決断としては、排出権購入のための予算は、むしろ中国に対する環境汚染対策費として使い(これは隣国としての親切心でも、中国に恩を売るためでもない、環境問題はめぐりめぐって自分に跳ね返って来るという考えからです)、予算の一部はCO2固定化研究のためではなく、丸山教授のような研究者をバックアップするために使うことにする。なにしろこれは2兆円から5兆円の国益(国損?)がかかった研究なのです。そして洞爺湖サミットまでには無理でしょうが、日本の政治家は京都議定書からの離脱(さらに進んでその廃案まで)を、いかに国際世論を敵に回さないかたちで実現するか、知恵を働かせることです。どうでしょう、出来るでしょうか? どうも私の場合、〈定見〉というものを持たない人間なので、毎回コロコロ言うことが変わってしまって申し訳ありません。ただ、前々回よりは前回、前回よりは今回の方が正論に近付いているつもりで本人書いてますので、主張の一貫しない点は大目に見てくださるようお願いする次第です。京都議定書に関するあなたのご意見をお待ちします。

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