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2008年5月 6日 (火)

道徳進化が行き着く果ての無神論(3)

(前回の記事はこちら

 リチャード・ドーキンスが、『神は妄想である』の中で攻撃の対象にしているのは、合理主義に背を向けた原理主義的な宗教ばかりではありません。自身では信仰を持っていないのに、宗教に対しては宥和的な考えを持っている「もの分かりのいい現代人」に対しても容赦は無いのです。それがこの本が、自分のような無宗教の人間にとっても刺激的である所以です。例えば、こんな言い方があります、「科学には科学の真理があり、宗教には宗教の真理がある。両者はそれぞれカテゴリーが違うのだから、このふたつの真理は互いに矛盾するものでも対立するものでもない」。こういうコトバは一見とても受け入れられやすいものですし、ふとしたはずみで自分でも口にしてしまいそうなものです。

 科学と宗教には互いに不可侵であるべき固有の領域がある、という考え方は、この本の中で紹介されている略語でNOMA(Nonoverlapping Magisteria=重複することのない教導権)と呼ぶのだそうです。便利ですね、こういう略語を頭の中に入れておけば、論争のさなかにも、ああこれはノーマの話だなとひと括りに出来る。あるいはこれに近い考え方に、〈不可知論〉というものがあります。こちらは文字通り、神や創造主といったものの存在については、我々は(原理的に)何も言うことが出来ないという立場のことです。これらに対するドーキンス博士の見解は、全くごまかしのない単純明快なものです。『神が存在するかしないか、それは科学的な疑問である。いつの日か私たちはその答えを知ることができるかもしれず、当面は、その蓋然性についてかなり強い主張をおこなうことができる。』(P.76) もしもこの本のエッセンスをひと言で表すとすれば、この文章に要約されているように思います。ある程度の科学的な知識を持っていて、宗教的なものにも未練を残している私たち現代人にとって、ノーマや不可知論は手っ取り早い解決方法であるに違いありません。が、それは知的に不誠実な方法だと著者は言うのです。

 前回の記事でも触れたように、人間には時に宗教的なものに救いを求めようとする本性があることは、事実として認めざるを得ないように思います。しかし、このことと、「神の存在問題」は当然別に扱わなければなりません。そしてもしもドーキンス流の考え方に従うならば、後者の問題を不問にして、信仰の問題に何かしらの解決を与えることは出来ないのです。もっとはっきり言えば、宗教に対して我々が選択出来る態度は、次の三つのうちのひとつでしかありえない。①合理的な精神に従って宗教を捨てるか、②宗教を守るために合理主義を諦めるか、③あるいは合理的精神にも受け入れられる宗教というものの可能性を探るか、その三つです。いや、ドーキンスさんの問い掛けは、「科学か宗教か」の二者択一でしかあり得ないような激しいもので、三番目の選択肢は私が後から追加したものです。そして私の興味の対象は、実はこの最後の選択肢にあるんですね。もしも上記の①か②を選択する人がいるならば、その人はどちらにしても既にひとつの解答に到達していることになります。(そういう意味では、ドーキンス派もその敵対派も、既に答えを持っている人たちです。) しかし、もしも私たちが③を選択するなら、答えは科学的合理主義の中には見付からないし、おそらく既存のどのような宗教の中にも見付からないものであるように思われます。これは宗教を持たない自分のような人間にとっても、(時と場合によって)非常に切実なものとして迫って来る問題です。

 有神論と無神論のちょうど中間あたりに「理神論」という考え方があります。理神論も神の存在を認めはしますが、その神は伝統的なキリスト教の神様とはだいぶ趣を異にしています。理神論の神は、人間のような人格を持った存在(人格神)ではなく、人間の心の中を覗き見ることもしないし、奇跡を起こしたりもしない、この世界の運行に何も影響力を持たないような神です。ただこの宇宙が最初に誕生した時に、宇宙の基本的な法則や進化の方向性といったものを決定した、ドーキンスの言葉を借りれば「スーパーエンジニア」とでも言うような存在なのです。歴史的に見れば、理神論は17世紀のイギリスで生まれ、18世紀フランスの啓蒙思想家たちに受け継がれ、今日のアメリカのインテリジェント・デザイン説にまでつながる系譜を持ったもののようです。それは近代の合理主義が、神という概念と折り合いをつけようとして、自然に生み出した考え方だったとも言えると思います。またこれは、キリスト教のような一神教の伝統を持たない私たちにとっても親しみやすい考え方です。今日では、篤い信仰心を持っている人でも、白い髭をたくわえた老人が杖をひと振りしてこの世界を造ったなどとは信じていない筈です。しかし、この世界(特に生物界や人間の精神世界)が、何かしら超越的な存在者のデザインプランによって造り出されたと考えることは、私たちの思考の自然な傾向であるような気がします。何故なら、生物界や精神世界で起こっていることは、他のどんな物質界で起こっていることとも異質で、物理的な法則だけでそれがすべて説明出来るとは、素人考えにも信じられないから。

 この理神論的な神(超越的存在)は、現代人の合理主義から見て、どこまで受け入れ可能なものでしょうか? 少なくともヤハウェ神やアッラー神や天照大神よりは受け入れやすいもののように私には思えます。しかし、これに対しても、ドーキンスさんは簡単明瞭なロジックで反証してみせるのです。もしもこの宇宙の出発点で、この地球上の生命の誕生まで計画に織り込んで宇宙の設計図を描いた超越者がいたとするならば、その超越者自身を作り出した者は一体誰なのか? 結局のところ、創造主というものを想定することは、その創造主を造った創造主は誰かという無限の問いを引き起こすだけで、意味のある仮説にはなり得ないというのです。しかし、それでも私たちの知的好奇心は食い下がります、進化した生物や人類の文明のようなものが、無機物からまったく自然発生的に生まれて来たとはどうしても信じられない、生命の進化が〈自然淘汰〉というロジックを採用して実行されて来たのが事実だとしても、その背後には何か大いなる自然の〈意志〉であるとか、隠された〈目的〉のようなものが存在していたのではないか? いや、意志や目的などという言葉を使うから、擬人化された神を呼び寄せてしまうのでしょう。だったらせめて、進化を駆動する〈推進力〉であるとか、進化の方向を指し示す〈指向性〉というものくらいは、その存在を認めていただけないものだろうか?

 特定の宗教的観念によって自己のアイデンティティが支えられていない私たちは、生物進化が神の意志によるものではないという現代科学の主張を、何の抵抗も無く受け入れることが出来ます。が、だからと言って自然淘汰のプロセスを、物理学の法則と同じレベルで受け入れることは難しいような気がします。アインシュタインの相対性理論は、ニュートン力学の正しい発展形と呼べると思いますし、量子力学だって(ずいぶん奇妙なところはあるけれど)それらと対立する理論という訳ではないと思います。ところが、自然淘汰説に限っては、他の自然科学の法則と地続きになっていない孤立した島のような印象があるのですね。これは私たちが知っている生命現象というものが、この地球上に存在する唯一のもの(たったひとつの原始生命から分化した同じ系統樹に属するもの)しか無いということと関連しています。SFの世界ではおなじみですが、もしも宇宙に地球型生命とは全く別系統の生命体が数多く見付かり、それらに共通する法則や異なる特徴を比較研究することが出来たとすれば、我々が生命現象と呼んでいるものの輪郭がもっとはっきり定義出来るようになるかも知れません。それによって、自然淘汰は生命進化が採用する方式のひとつに過ぎないということが判明するかも知れないのです。ここまで来れば、進化論も自然科学の一分野として確固たる地位を築くことになりますし、ひょっとしたら物理学と生命科学がより大きな科学理論によって統合されるなんてことも起こり得るかも知れません。(現在の私たちには想像もつかないことですが。)

 生命の持つ「1回こっきり性」という性格が、我々の宗教的意識の原点にあるような気がします。これは広大な宇宙の中にたったひとつ生まれた地球の生命という点でもそうですし、地球の40億年の生命進化の中で生まれたたったひとりの自分の生命という点でもそうです。仮に実験室で人工生命が簡単に作れるようになったり、私がいつも思考実験のネタにしているような、人間の人格や記憶をそっくりコピー出来る人工知能といったものが実現すれば、生命現象の「1回こっきり性」もだいぶ神秘性のベールを剥がれることになるでしょう。しかし、これだけ科学技術の進歩した現代でも、そのような技術は実現の方向性すら見えていません。だからドーキンス流の宗教否定論は、きっとまだ時期尚早なんだと思います。自然淘汰の理論によって、「複雑なものは複雑なものからしか生まれない」という私たちの先入観は粉砕されましたが、複雑なものを生み出すための〈推進力〉や〈指向性〉までも完全否定された訳ではないと思います。自然淘汰説は、科学理論として正当にもその部分には踏み込まないからです。ドーキンス理論は、原理主義的な宗教を信じる人にとっては脅威であるかも知れません。しかし、私たちのような一神教の伝統を持たない〈淡い宗教心〉の持ち主にとっては、何ら脅威でもありません。淡い宗教心は、人格神を否定されようが、理神論の神を否定されようが、自然の大いなる意志を否定されようが、致命傷を受けることはないからです。では、私たちのような「困った時の神頼み」派の淡い宗教信者にとっても、譲れない最後の一線というものはあるのでしょうか?

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コメント

いつぞやは、コメント&TBをありがとうございました。

私も、まったくの”困った時の神頼み”派です^^;
近々の課題?のお墓にも頭を悩ませています。
(既存の宗教墓地形態に抵抗があるのです)

人は、時に強い存在でもいられますが、
往々にして弱い存在なので、
人知を超えた何かにすがらざるを得ない事も多いですネ。

その様な時に、登場したものが宗教かなと考えます。
自分とは全くの無関係な
崇高な人物達の残した言葉にすがることによって、
心の安らぎを得るのだと思います。
(今、殆ど日本の宗教を思い描いています^^;)

世界の様々な宗教依存も、
推測ですが、
やはり”心の安定”を求めているのではと思います。
ただ、一神教を体感していないので
(八百よろずの神々の世界観で育った者なので)
果たして、心の安定だけなのかどうかは、自信が持てませんが。

何れにしましても、人間という不確かな生物には、
科学だけで生きていくことは、難しいのでしょうね。
(論理的な記事に対して、感覚のままのコメントを失礼しました)

投稿: una | 2008年5月 7日 (水) 16時53分

unaさん、コメントありがとうございます。

私も週末ブロガーなもので、コメントのご返事が遅くなってしまいました。すみません。たったひとりの方にでも(?)自分の記事を読んでいただいていると思うと、ブログを書く気持ちにも少し張りが出て来ます。(笑)

私も実は「感覚」を頼りに道徳や宗教の問題を考えています。なんとか日本人の宗教心にも、現代という時代の中で居場所を与えられないかと思って、この連載を書いています。新しいエントリーを追加しましたので、よろしければお読みいただけると嬉しいです。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年5月11日 (日) 23時58分

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