« 道徳進化が行き着く果ての無神論(5) | トップページ | 京都議定書、日本の採るべき道(改) »

2008年5月25日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(6)

 いくらはっきりと無神論者を自認する人でも、何か合理的に説明がつかないような神秘的な体験をして、心が宗教に傾くという例はきっとあるのだと思います。幸か不幸か私自身は過去にそうした体験をしたことが無いので、安心して自分を無神論者だと思い込んでいる訳ですが、もしも自分が一度でもそうした体験に出会えば、それでも自分が無神論者でいられるかどうか、自信はありません。『神は妄想である』という本の中で、著者のリチャード・ドーキンスさんは、世間で言う超自然的な体験がいかにいい加減なまやかしであるかを例を挙げながら説明しています。しかし、残念なことにこの部分は、この本の中でも最も説得力の弱いところのひとつです。例えばそこで挙げられているのは、大学時代の同級生が夜中に悪魔の声を聞き、その経験がもとで彼は聖職者を目指すことになったのだが、後々それが〈悪魔鳥〉と呼ばれる鳥の鳴き声だったことが判明したという話だったり、著者自身も子供の頃に幽霊の声を聞いたことがあったが、勇気をふるってその声の方向に近付いてみると、それは鍵穴を吹き抜けるすきま風の音だったという話だったり、要するに諺にいう「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいな話ばかりなのです。よく心霊関係の本などには、もっと説得力のある事例が紹介されています。典型的なのは、遠く離れた場所に住む肉親が死んだちょうどその時刻に、夢の中でその死の状況を正確にまざまざと見たという話、あるいは事故で意識を失った人が体外離脱をして、自分を心配そうに見守る友人たちを上から見ていた、後でその時の彼らの服の色まで言い当てたのだが、実はその人は盲人だったといった話など、トリックがどうなっているのか分からない、よく出来たマジックのような話の数々です。

 そんな体験談はすべて作り話か、さもなくば一種の幻覚のようなものに過ぎない、そう切って捨てることも出来るでしょう。しかし、ここで私が指摘しておきたいことは、たとえあなたがそのような超自然的な現象を頭から否定していたとしても、現実にそれを一度でも体験してしまえば、それはあなたの信念に何らかの影響を与えずにはいないだろうということです。私は自分をはっきりと無神論者だと思っているし、どちらかと言えば唯物論者だとも思っています。が、それはこれまでの自分の知識や経験や趣味嗜好などを通じてたまたまそうなっただけのことで、もしもこれまで経験したこともない新しい〈何か〉が起これば、自分の信念もいっぺんに崩れてしまうに違いないとも思う。そしてそれは別段困ったことでもないような気がします。これは宗教的な問題に限ったことではありません、そのように自分の信念や信条を相対化して、常に〈変わり得るもの〉として維持しておくことは、むしろ好ましいことであるような気がするのです。例えば私は94パーセントの死刑反対派であり、55パーセントの天皇制廃止派であり、31パーセントの代理出産容認派である。まあ、細かいパーセンテージなんて意味が無い訳ですが、イメージとしてはそんな感じ。このパーセンテージは、新しい本を読んだり、誰かと議論をしたりすることで、常に変動している。宗教に関する信念だけは、100パーセントか0パーセントかのどちらかでなければならないという訳でもないでしょう。ドーキンスさんの本を読んだばかりの私は、97パーセントの無神論者かも知れないが、これが例えばキューブラー・ロスさんの本を読んだ直後なら、70パーセントくらいまで数字は下がるかも知れない(笑)。そして、それで全然かまわないじゃないのというのが、「困った時の神頼み」派としての強みだと思う訳です。

 もしもこの世界に本当の神秘というものがあるとすれば、それは神の存在でも霊魂の存在でもなく、自分自身が存在していることの神秘に他ならない、そういう考えを私は持っています。たとえ人間の心が、脳という物質の働きですべて説明されてしまう時代が来たとしても、自分が存在していることの不思議は決して解明されることはない。(脳が心を産み出す仕組みは分かったけど、何故そうして産み出された心が他の誰でもなく自分なの?と問うことは出来るから。) 反対に人間の心には物質的な働きを超えた〈霊的〉な性質があるということが(科学的に)証明されたとしても、やはり自分が存在していることの不思議は解明されません。(その霊的な存在者が何故他の誰でもなく自分なの?と問うことは出来るから。) いったん「自分が存在することの不思議」という観念に取りつかれてしまうと、これはもう科学によっても宗教によっても満たされない、永遠の課題を背負い込んだことになってしまう。ところが(ここからが大事なところ)、この「科学によっても宗教によっても満たされない」という問題意識が、逆に科学と宗教というものの対立関係を相対化してくれることになるのです。科学vs宗教という主戦場でバトルを繰り広げている当人たち(ドーキンスさんのような)にとっては、とりあえず相手を打ち負かすことが第一の目的になるのでしょう。しかし、私たちにとってみれば、どちらかが最終的に勝利したとしても、大勢に影響は無いのです。だって、その時にも〈私たちの課題〉は無傷のまま残されているのだから。

 多少、牽強付会に近いところもありますが、私はこの考え方を、我らが「困った時の神頼み」教の中心ロジックに据えたらどうだろうと提案します。今日、私たちが宗教的なものに警戒心というか、ある種の違和感を持っているのは、そのあまりに排他的なメンタリティという点においてではないかと思います。同じように愛と平和を説きながら、キリスト教とイスラム教は何故あれほど憎み合わなければならないのか? それは両者が唯一絶対の真理を主張して、お互いに譲り合わないからでしょう。そこにドーキンスさんのような科学者が割って入れば、今度は三つ巴のバトルになってしまう。(ドーキンスさんが、「自然淘汰は我々の意識を高揚させる」と書く時、私はそれを彼の信仰告白のように受け取ってしまいます。) これと比較すると、「自分が存在することの不思議」という観念は、何も相手に悪さをしません。それはどんな真理を主張する訳でもなく、ただただ不思議がっているだけなんだから。しかも、この観念はあらゆる信仰や道徳心を載せる基盤としても、柔軟性に富んだ〈すぐれもの〉ではないかという気がする。自分が存在することが不思議であるように、自分の周りの人たちが存在していることも、それぞれ同じように不思議なことなのであって(本人たちは気付いていないかも知れないけど)、それを思えばこうして〈かけがえのないあなたと私〉が時と場所を同じくして出会った奇跡に感謝したくもなるし、自然な優しさや愛情のようなものも湧いて来ようというものだからです。

 日本は古来から宗教に対しては寛容な国だったと言います。それも時の権力者が政策として、異なる宗教を受け入れて来たという意味ではなくて、ひとりの人間がいろんな宗教に対する信仰を自分の中でブレンドする(神道が23パーセント、仏教が36パーセント、儒教が20パーセント、キリスト教が18パーセント、鰯の頭が3パーセント)ことを平気でやって来たという意味です。この伝統は現代でもまったく衰えていなくで、そのことは星の数ほどもある新興宗教の乱立や、スピリチュアリズムのようなものの流行によっても証明されていると思います。別に日本人の中には、昔から自分自身の存在を不思議に感じる哲学的傾向があって、それが宗教への寛容さを育んだなどとこじつけるつもりはありません。しかし、木や石や風の中にも心の存在を感じるアニミズムの傾向は、要するに心のありようとしてはそれに似たものでしょう。これは日本に限ったものではないと思いますが、こうした素朴な自然宗教は、権力と結び付いて硬直化してしまった一神教よりもずっと現代社会にマッチしたものであるように思われます(たぶんそれは自然科学や唯物論とさえ親和性がいい)。だからと言って、私はこれを世界に布教しようなんて大それたことまでは言いません、ただ、ドーキンスさんの本に書かれているような宗教をめぐる感情的対立や、個人の中での心理的葛藤を経験しなくて済んだだけでも、この国に生まれたことは幸運だったと思うのです。

|

« 道徳進化が行き着く果ての無神論(5) | トップページ | 京都議定書、日本の採るべき道(改) »

コメント

ぜひお目通しいただきたい私信メールをお届けしたのですが、どうすればよろしいでしょうか。

投稿: Done Q Miyoshi | 2008年5月30日 (金) 12時11分

はじめましてSaitamanといいます。本ブログの読者です。どちらかというと批判的な
コメントが多いので悪しからず。同調者ばかりでは面白くないのですから。
もちろん「何でも反対」ではなく、裁判員制度など、現行の制度なら、私も大反対
です。

■神秘体験について
そんなに簡単に体験に影響されてよいのでしょうか。そうであるなら精神病院には、
その手の体験者は大勢いますし、オウム真理教の信者も修行や薬物で神秘体験を
しています。普通は、このような神秘体験者が主張する内容を言葉どおり受け取ら
ないと思います。夢で近親者の死を知ったというような現象も確率的には不思議な
ことではありません(むしろ、そういう現象がないことのほうが不合理でしょう)。

■宗教に関する信念
「困った時の神頼み」で神様は助けてくれるのでしょうか。私自身は宗教的な
信念には批判的なのですが、こういった言葉を聞くと、真摯な信仰を持っている人に
失礼な気がするのです。日常的に神頼み(祈り)している人をこそ神は救って
欲しいと思います。
余談ですが、キューブラー・ロスは晩年に考え方を全く変えてしまったことを
知っていますか?何年か前、NHKスペシャルで見たのですが、彼女は神を呪い
(キリスト教の信仰は捨てていなかったようです)、今までの業績を価値のない
ものだと言っていました。信奉者にはショックと失望を与えたようでしたが、
私は、ある種の人間らしさを見て、感慨深かったものです。
もちろんキューブラー・ロス個人の人生を離れて、終末期医療に対する彼女の貢献は
有用なものだと思います。

■自分自身が存在していることの神秘
私も子供のころからそういう感覚を持ってきており、永井均の本などで、世の中
には同様の感覚を持っている人もいるんだと知ったわけですが、最近は、
その不思議さというものを問題にすべきではないかと考えています。
端的な事実に不思議はない。そう思えないのは、我々の思考の癖、つまり無意味な
「なぜ」や「意味」を問う傾向があるからではないでしょうか。子供の「なぜ」を
問う遊びから脱却していないと言ってもよい。最後は「理由はない。それが事実だ」
という地点があるわけです。それをわきまえないと、なぜ今投げたサイコロの目は
3なのか、なぜ光の速度は一定なのか、なぜ私はこの私なのか、等々、際限なく
「不思議がり」は続くのです。もっとも、この自己存在の神秘という感じが、
優しさや愛情、ひいては世界平和に通じるかは疑問です。もともと独我論的な感覚
(独在論と言ったほうがよいか)と親和性がある神秘感覚なら、対他的、社会的な
発展性があるかは疑わしいというのが私の意見です。

投稿: Saitaman | 2008年5月31日 (土) 18時36分

Saitamanさん、はじめまして。コメントをありがとうございます。

記事を丁寧にお読みいただいたことに、まずはお礼を申し上げます。
私のブログには、通りがかりのお客さんはたまにいても、内容まで読んでくださる方はあまりいらっしゃらないものですから。(笑)

3つのテーマに分けてご意見をいただきましたので、それぞれにコメントさせていただきます。

■神秘体験について
この部分の論旨は、もしも自分がそのような体験をするめぐり合わせになったら、それは自分の世界観に何らかの影響を与えずにはいないだろうということを言っています。他人の神秘体験ではありません。「自分だけは絶対にそんな体験などしない」と考えている人がいるなら、それはその人の信念ですから誰もとやかく言う筋合いはありません。でも、私にはそこまではっきりと神秘体験を否定するほどの信念は無い、というだけのことなのです。

■宗教に関する信念
「困った時の神頼み」って結構よくないですか? 今回の記事を書きながら、私はなんだか気に入ってしまったんです。これまで自分は無宗教だと人にも言って来ましたが、これからはもしも宗教を問われたら、「困った時の神頼み教です」と答えたい気がするほどです。(笑)
これは「真摯な信仰を持っている人に失礼」だなんてことは全然ないと思いますよ。むしろひとつの宗教を専一的に信じている人から見れば、哀れむべき幼稚な信仰とでも思われてしまうのではないでしょうか。真摯な信仰を持つ人にとって本当に失礼なのは、ドーキンスさんみたいな人です。彼のやっていることは、人の信仰心の中に土足でずかずかと入って来るようなことですから。「日常的に神頼み(祈り)している人をこそ神は救って欲しい」というのは私も同感ですが、残念ながらそういう人をも神は救ってくれない。何故なら、神などというものはどこにも存在しないのですから。

■自分自身が存在していることの神秘
ここはもう考え方の違いとしか言いようがありません。Saitamanさんも子供のころからそういう感覚を持っていたけれど、今はもうそれを卒業なさったのですね。で、私のような考え方は、「子供の「なぜ」を問う遊びから脱却していないと言ってもよい」と断じていらっしゃる。まあ、そう言われればその通りなんでしょう。ただ、私はかなり自覚的にこの「不思議がり」に留まろうとしています。別に日常生活の中で誰にそんな話をする訳でもありませんよ、ただこのブログの中でだけ。このブログの一番のテーマは、まさにこの「自己存在の神秘」が、優しさや愛情、ひいては世界平和に通じるのではないか、そのことを考察することにあるのです。
このことに関しては、『哲学論考』と題した一連の記事でもう少し詳しく考察しています。特に次の記事をお読みいただけると嬉しいのですが…

『罪と罰の問題に関する一考察(1)』
http://philosopher.cocolog-nifty.com/essay/2006/10/post_36de.html

投稿: Like_an_Arrow | 2008年6月 2日 (月) 23時54分

長くなってしまうので、最後の項目に関してだけ返答します。
「自己存在の神秘」を卒業したというのは正しい言い方ではないのです。
不思議だと感じたなら、その不思議さは何なのか、問い方に誤りはないか、等々、
やることがあると言いたいだけなのです。「自己存在の神秘」に留まって、
神棚に祭るように扱う必要はないと考えるわけです。「自己存在は神秘」なのか
どうかは、「私はなぜこの私なのか」という問いが有意味な問いであり、かつ、
その問いの答えが原理的に手の届かない、という場合だろうと思います。

直接関係ないですが、問いの意味を吟味すると言う点が重要だということの例として
書きます。「脳はどのように意識(主観的体験)を生み出すのだろうか」という問いは
全く間違っています。あと100万年経とうが答えはないでしょう。なぜなら、問いが
間違っているからです。ある脳生理学者が意識生産機構を発見したとして、
ある科学理論を発表したとしましょう。いったい、この理論が正しいかどうかの
判定ができるでしょうか。原理的にありえないでしょう。つまり「脳が意識を
生み出す」ということが意味のあるフレーズと思われていたが、実は、そうでは
なかったということです。つまり「脳はいかにして意識を生み出すか」という
問いは、意味あるように感じられても、そうではなかったのです。他者の意識の
存在を証明する、なんていうのも同類ですね。

リンクの文章は、機会があれば読んでみます。

投稿: Saitaman | 2008年6月 7日 (土) 23時01分

Saitamanさん、こんにちは。

「自己存在の神秘」ということが、問題設定として有意味なものではないということについては、私はすでにあちこちに書いています。特に次の記事をお読みいただけると私の立場が分かっていただけるのではないかと思います。たぶんSaitamanさんのような人には面白いのではないかと思います。宣伝ばかりですみませんが。

「自分とは何か」の自分とは何か?
http://philosopher.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_3cb2.html

投稿: Like_an_Arrow | 2008年6月15日 (日) 03時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/41315451

この記事へのトラックバック一覧です: 道徳進化が行き着く果ての無神論(6):

« 道徳進化が行き着く果ての無神論(5) | トップページ | 京都議定書、日本の採るべき道(改) »