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2008年5月18日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(5)

 宗教と道徳というふたつのものは、人間の精神の中で(あるいは脳の中で、と言うべきかも知れませんが)、それぞれ別々の場所を占めているもののように思われます。ドーキンスさんも指摘するように、宗教的ではない道徳というものも確かに存在するし、現代人の感覚からしてとても道徳的とは呼べないような宗教も存在しているからです。ただ、この両者に共通していることがひとつあります。それは、このふたつがその生まれて来た起源を合理的に説明されることを極端に嫌うということです。私は基本的に無神論者なので、あらゆる宗教が太古の時代のくだらない迷信に起源を持っていると言われても、別に反論したい気持ちは起こりません。しかし、人間の道徳性に対しては多少の思い入れがあるので、あらゆる道徳は生存競争の戦略のひとつとして進化して来たなどと言われると、心が反撥するのを感じます。

 生物の世界において、利他的な行動がしばしば生存競争に有利に働くという事実は、野生動物の観察やゲーム理論のような数学的モデルによっても裏付けられているようです。もちろん生物進化の過程で、自然淘汰のメカニズムがゲーム理論のようなものを〈知的に〉理解していた筈はありません。しかし、生物進化の歴史の中ではあらゆる可能性が試行されて来たのであり、たまたまその中で最善の戦略を選択したものが現在まで生き残っているのだとすれば、進化の最先端にいる人類の心理的傾向の中に利他主義の要素がたっぷり残っていたとしても驚くには当たりません。別にそれは神的な起源に発するものでもなければ、人類が文明を築き上げる中で新たに獲得して来たものでもないのです。こういうロジックは、いかにも現代人好みだし、反論するのは難しいと感じます。しかし、何かそこには釈然としないものがある。私がドーキンスさんの本を読んで、非常に面白く感じると同時に反撥を感じてしまうのは、例えば次のような文章に出会った時です。少し長いですが引用します。この部分を読めば、きっとあなただって〈何か〉を感じるのではないかと思います。

 『私たちの祖先がヒヒのような小さくて安定した群れをつくって暮らしていた時代に、自然淘汰は性的衝動、飢餓衝動、よそもの嫌いの衝動などとならんで、脳に利他的な衝動をプログラムした。知的なカップルは、ダーウィンを読み、性的衝動が形づくられた究極の理由を知ることができる。彼らは女がピルを飲んでいれば妊娠しないことを知っている。しかし彼らは、それを知ることによって自分たちの性欲が消滅するわけではないことにも気づいている。性欲は性欲であり、個人の心理におけるその強さは、それを衝き動かす究極的なダーウィン主義的な圧力とは独立したものである。この強い衝動は、究極的な合理的根拠とは独立して存在するものなのだ。
 私はここで、同じことが親切への――利他行動や気前よさ、同情、憐れみといったものへの――衝動についても当てはまるのではないかと言おうとしているのである。祖先の時代、私たちは利他行動を近縁者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。現在では、そのような制限はもはや存在しないが、経験則はまだ存続している。だが、なぜその経験則もなくなってしまわないのか? それが性欲とまったく同じようなものだからだ。泣いている不幸な人(その人は血縁者ではなく、見返りを期待することもできない)を見たときに私たちは、異性の誰か(その人は不妊症かもしれないし、その他の理由で子供をつくれないかもしれない)を見たときに欲情を感じるのを抑えられないのと同じように、憐れみを感じるのを抑えることができないのだ。どちらもメカニズムの誤動作で、ダーウィン主義的には誤りである。だが、悦ばしく、貴重な誤りである。』(P.322‐323)

 どう思います、これ? 私がこの文章に反撥を感じる理由は、親切心や同情や憐れみといった、一般的には道徳的な心理と見られているものが、生物の本能である性欲と一緒くたにされているからではありません。ここまで身もフタも無く人間の道徳的心性を、自然淘汰のメカニズムの中に還元してしまうのだったら、いっそのこと道徳などというものは〈幻想〉であるとはっきり断定すればいいじゃないか、同じ論法で宗教のことは〈妄想〉であるときっぱり断定しているのだから。何故それは『メカニズムの誤動作で、ダーウィン主義的には誤りである』にもかかわらず、『悦ばしく、貴重な誤りである』と、取ってつけたように称揚されなければならないのか? 実際この文章のすぐあとには、『どうか早合点して、ダーウィン主義による説明が同情や寛大さといった高貴な感情の意義を失わせたり、貶めたりするものだと思わないで欲しい。』という一文が続くのです。(こういう但し書きはこの本の至るところに出て来ます。) 宗教についても道徳についても、進化のメカニズムの〈副産物〉であり〈誤動作〉であると明確に論証しておきながら、一方を徹底的に冷遇し、一方をここまで優遇する理由は何でしょう。まあ、そんな質問をすること自体が野暮なことであって、こうした常識的な姿勢を堅持していることがドーキンスさんの著作家としての人気の秘密だろうし、卓越したエッセイストである証拠でもあるのだろうと思います。ただ、私は思うのです、でもそれって科学者としてどうなのよ、と。

 もしも厳格な科学者であるならば、道徳や宗教の起源に関するどのような仮説を思い付こうと、それを価値判断には結び付けないという実証科学のルールから逸脱しないことに細心の注意を払うものでしょう。ところが、利己的な遺伝子説などでもそうですが、リチャード・ドーキンスという人は、あえてその一線を乗り越えることを〈芸風〉としているようなフシがある。その点において私は反論したい訳ではありません、むしろ逆です。だからこそドーキンスは、突っ込みどころ満載で、面白いと思っている。だからこそ自分のようなマイナー・ブロガーでも、同じ土俵の上で議論を戦わせることが出来るような気にさせられるのです。で、私も「NOMAなんぞくそ食らえ!」というメンタリティの持ち主なので、あえてドーキンス流の道徳(および宗教)起源論とは違う、もうひとつの道徳(宗教)起源論を提唱してみたい。まあ、素人の脳味噌が考えついた〈トンデモ〉のたぐいですが(それを言えばドーキンスのミーム説だってトンデモかも)、これによってドーキンス一派によって泥を塗られた道徳と宗教に、もう一度名誉回復のチャンスが(合理的に)与えられるかも知れない。ダーウィン主義では(ダーウィン自身はむしろ節度ある科学的精神の持ち主で、ドーキンスさんのような人を正統な後継者だとは認めないような気もしますが、それはともかく)、道徳や宗教は生物としての人間が自然淘汰を生き抜くために必要とした何かから派生した副産物であり、進化の視点から見れば誤動作なのだと主張します。私はむしろ、人間というものの存在そのものが、進化の視点から見れば誤動作、と言うか〈失敗作〉だったのではないかと考えています。道徳や宗教は、この失敗を取り返すために、自然淘汰の側からではなくむしろ人間の側から要請されたものであったと考えるのです。

 私はこのブログのずっと以前の記事で、生命進化の中でどのように人間の〈心〉が生み出されて来たのか、そのことに関するひとつの仮説を書きました(『心の誕生に関する進化論的仮説(1)(2)』)。出来ればそちらもお読みいただけると嬉しいのですが、簡単に要約するとこういうことです。自然は(自然淘汰はと言っても同じ)この惑星に生命を生み出すに当たり、個体が細胞分裂をしたり有性生殖をすることで空間と時間を満たして行く戦略を採りました。そして個々の個体には〈快と苦〉を感知するセンサーを取り付け、それによって生存に有利な条件を自律的に選択する仕組みを埋め込んだのです。これは40億年もの間うまく機能していました、少なくとも人間という種が誕生するまでは。人間の誕生とともに、主客が逆転してしまった。つまり、遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎなかった筈の個体の方が自意識と我欲を持ち、自己の幸福の最大化だとか自己実現なんてことを言い出した。これが自然淘汰にとってどれほど危険な事態であるか、考えてみればすぐに分かります。他の動物種ではありえないことですが、人間は国家間の戦争や民族紛争によって今も同じ種の仲間を大量に殺戮しているし、平和な時代になればなったで今度は自殺してしまう。人間がどれほどこの地球の生命全体にとって危険な存在であるかは、こういう思考実験をしてみれば簡単に証明出来ます。最近は核兵器がテロ組織の手に渡ることが懸念されていますが、もしもすべての個人がプライベートな核爆弾を所有出来る時代が来たらどうだろう? 私は確信しているし、あなたにも同意していただけると思います、そうなったら人類とこの地球上の生命は1秒ともたずに絶滅してしまうに違いない。

 宗教や道徳は生命進化の自然の産物だなどと気軽に考えている科学者には思い付かないことでしょうが、今日私たちが置かれている状況はもっとずっとクリティカルなもので、自然淘汰の流れに悠然と身を横たえていられるような状況ではないと考えます。個体発生は系統発生を繰り返すという生物学の言い方があります。生命は数十億年のとうとうたる時の流れに運ばれて来たものである一方、私たちはせいぜい数十年のあいだこの世界に滞在することを許された旅行者でしかない。しかし、私たちにとっては、この旅行期間だけがリアルなものです。私たちは自分が遺伝子の操り人形などではないと考えているし、一方の自然は個体としての生物のことなど大して気遣っているふうでもない。そこには深刻なギャップがあるように感じます。自然淘汰は我々の意識を高揚させると言いますが、それはドーキンスさんのような生物学者の心を高揚させるだけで、私たちのようなふつうの人間にはそれだけでは全然足りません。自分が何故ここにいるのか、自分が生まれて来た目的は何なのか、私たちにはそれを知る必要と権利がある。科学がそれに答えてくれない以上、広い意味での宗教や道徳のようなものを新しく発明する必要があるのだと私は思います。これは単に、生命や宗教に対する私たちの見方を変えるだけのことではありません、人間が生物進化の異端児であり鬼っ子であるという自覚のもと、自然淘汰という自動操縦から自らの手に操縦管を取り返すことを意味するのです。宗教や道徳が人間社会に生まれたことは、自然淘汰というメカニズムの『悦ばしく、貴重な誤りである』訳ではない、人間はこの惑星上に生命を生み出したもののコントロールを離れて、自らが神の役割をも引き受けなければならない瀬戸際にまで追いつめられた生物種であるという意味なのです。

 …文章のボルテージが上がり過ぎました。少しクールダウン。要するに言いたかったことは、近頃は分子生物学や脳科学などの知見によって、(ドーキンス風の)一見科学的な装いをまとった俗流社会学が幅を利かせているけれども、それはちょっと違うのではないかということです(あれ、全然クールダウンしていないぞ。笑)。身の丈も考えず、少し話題を広げ過ぎましたので、次回はこうした状況のなかで私たちはどのように宗教と付き合って行けばいいのか、「困った時の神頼み」教信者としての実践的なノウハウについて考えてみたいと思います。とりあえず次回がこの連載の最終回、かな?

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