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2008年5月11日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(4)

 結局のところ、私たちは宗教に対して、最終的に何を求めているのでしょう? キリスト教ならその答えは簡単なことで、それは天国における永遠の生といったものになるのでしょう。仏教でも似たようなものですね、生きているあいだはこの世の煩悩を断ち、死んだら仏になって極楽浄土に行くこと。両宗教ともそのご褒美の代償として、この世での善行や敬虔な信仰を要求している訳です。逆に悪行や不信心に対しては、地獄というものを用意している点でも共通しています。しかし、特定の宗教を持たず、天国も地獄も信じていない私たちには、このアメとムチは通用しません。(いつの間にか平気で「私たち」という人称を使っていますが、ここで言う私たちというのは、「困った時の神頼み」教の信者である私たち、という意味です。つまり、あなたや私のことです。笑) 例えば私たちが初詣に行って、お賽銭を投げて手を合わせる時、祈るのは今年一年の健康のことであったり、気掛かりな仕事や受験や恋愛のことであったりはしますが、死んだあとに天国に行けるようにと祈る人はあまりいないような気がします。また日本人の場合(と言っていいと思うのですが)、虫のいい祈りの代償として神様に忠誠を誓うということもありません。祈ったら、祈りっぱなし。次に神様のことを思い出すのは、翌年の初詣の時というくらいの話で、信心を怠ったからバチが当たるとも考えていない。

 日本人の宗教心の特徴を知りたければ、人気を集めている新興宗教の教義を調べてみるのがいいかも知れません。なにしろここは不況知らずの巨大市場であり、この分野のマーケット・ニーズ(つまり現代人が宗教に何を求めているか)を最も意欲的にリサーチしているのは、成功している宗教法人であるに違いないからです。私はその方面に全く疎い人間ですが、おそらく言えることは、日本で人気のある宗教は明確に〈現世利益的〉であるに違いないということです。私たちが人生の中で「神頼み」したくなることは大体パターン化されていて、学生時代には受験や就職のこと、適齢期になれば恋愛や結婚のこと、結婚後は子宝に恵まれますように、社会に出れば仕事や事業がうまく行きますように、子や孫が生まれれば彼らの受験や結婚のことを心配して、やがて年老いて死ぬ時が近付けば、いよいよ天国に行くことを気にするのかと思いきや、苦しまずにコロリと死ねることを祈っていたりする。むろん死後のことや来世に対する漠とした不安はあるにしても、だいたいにおいて私たちの視界は生まれてから死ぬまでの範囲に限られていて、宗教に対する要請もその範囲の中でのことであるような気がします。キリスト教や仏教と同じ意味で、果たしてこれが宗教と呼べるのかといったようなもので、ドーキンスさんのような高尚な宗教批判論のなかにケーススタディとして提出するのも、正直恥ずかしいようなものです。

 といったことは、すでに日本人の宗教心に関して一般的に言われていることではないかと思います。ところで、私が今回書いてみたいと思うのは、もう少し違う切り口からの考察です。ドーキンスさんの本にも書いてあるように、宗教史の常識では多神教よりも一神教の方が、より進化した高級な宗教だと考えられているようです。この本の中には、多神教が進化して一神教になったのなら、一神教ががさらに進化すると無神論になるに違いないという冗談が紹介されています。この観点からすると、「鰯の頭も信心から」なんていうのは、宗教の中では低級も低級、およそ文明国の国民として相応しくないようなプリミティブな宗教意識ということになるのだろうと思います。では、これを倫理性という視点から比較してみたらどうだろう? 特に西洋の歴史の中では、キリスト教が道徳の発展に果たした役割は大きいというのが定説になっています。これに対してもドーキンス氏は真っ向から反論を唱えていて、これもテーマとしてはとても面白いので、いずれ取り上げるつもりですが、もっと単純に考えてもキリスト教や仏教の倫理性における瑕疵を指摘するのは簡単なことだと思います。いくら献身的な愛だとか禁欲的な生活だとか言っても、これら宗教の信者は、その見返りとして来世での救い(とそこから来る現世での心の平安)を期待している訳でしょう? もちろん鰯の頭を信じることが、倫理的な面でより優れている訳ではありませんが、現世であろうが来世であろうが、自分に利益を期待するという点では変わらないではないですか。むしろたかだか数十年の信仰生活の見返りに、天国での〈永遠の〉幸福を手に入れるという虫のよさに比較すれば、鰯の頭と引き換えに現世での小さな幸福を要求する方が、まだしも控え目な態度と言えるような気がします。

 たとえキリスト教が愛の宗教だったとしても、その中心にあるのは自己愛であって、隣人への愛や自己犠牲などというのも偽装された自己愛に過ぎない。何だかどこかの高校生レベルの議論ですが(と言うより、自分が高校生の頃にそういった疑問を抱いて以来、私はその考えから抜け出せずにいるのです)、これは単純であるだけに強力な宗教批判の理論であると私には思われます。(仏教についても同じことが言えますが、偽善性という点では仏教の方がマシだという印象が私にはあります。ちなみに『神は妄想である』の中で、著者は〈あの〉マザー・テレサに対してさえも偽善者呼ばわりをしています。バチ当たりにも!)。さて、対するに我が日本人の宗教的メンタリティについてはどうでしょう。「困った時の神頼み」だとか「鰯の頭も信心から」といった文句からは、あっけらかんとするほど私利私欲に対して肯定的な宗教観が窺え、そこには偽善性の要素はつゆも感じられません。いや、これらは日本人の移り気な宗教心を揶揄しただけのコトバで、別段そこに深い意味を読み取るべきようなものではないでしょう。しかし、こうした一見素朴で土着的とでも呼びたいような日本人の宗教心の奥には、神とおのれが一対一で対峙する一神教とはまた異なった倫理性が内包されているのでないか、実はそういう仮説を私は持っているのです。ここから先は客観的な観察結果や先行文献に基づくものではなく、ただただ私自身の心の中を点検した結果の推測なのですが、特定の宗教を持たない日本人にとって、自分が救われたいという気持ちが宗教に向かわせることよりも、むしろ愛する者を救いたいという気持ちが〈神頼み〉に向かわせる場合の方が一般的ではないかという気がするのです。

 こんな想像をしてみてください、医者があなたの身体のどこかに進行癌が見付かったと告げた場合と、あなたの子供が白血病に罹っていると告げた場合、それぞれあなた自身の心の反応はどのようなものだろうか? 私にはどちらの経験も無いので推測に過ぎませんが、おそらく受ける衝撃という意味では後者の方がはるかに大きいのではないかと思います。自分があと余命半年だと告げられれば、それはショックには違いありませんが、その時に感じるのはまずは当惑であって、それがすぐに神にすがる気持ちや神を恨む気持ちにはつながらないような気がする(あとあとにはそういう気持ちも湧いて来るでしょうが)。しかし、もしもそれが自分の子供のことだったら? これはもう当惑したり茫然自失したりしている場合ではない、入院の手続きのかたわらですぐに神様を招来する手続きも始めているに違いありません。私たち日本人が、どのような場合に最も深刻な宗教心を発動させるのかを考えてみると、私には真っ先にこのような事例が思い浮かびます。もちろんキリスト教徒の親たちだって、子供の命にかかわることであれば、真剣に神に祈るでしょう。その祈りの向け先は、常日頃から祈りを捧げている同じ神様であるに違いありません。そしてもしも不幸にも子供が助からなかったとしても、それも神の思し召しなのだと考えて、案外早く悲しみから立ち直ることが出来るかも知れない(子供はすでに天国にいるのだから)。だが、私たちにはそうは行かないのです。もしも子供を助けてくれない神様だったらこちらからお断りだ。そんな神は見限って別の神様を探して回るだけのことです。大事なのは神がどう思し召されるかではなく、子供の命を救うことなのです。そしてもしも不幸にも子供が助からなかったとしても、私たちは神の不在を嘆くだけで、特定の神を呪ったりはしないだろう。子供のお葬式が済み、お墓参りをする時、もしもキリスト教徒だったら子供を失ったことを、神が自分に与えた試練だったと考えるようになるかも知れません。が、私たちにはそんな発想は浮かびません。むしろそんな考えは厭わしいエゴイズムではないかとさえ思う。子供はあなたに試練を与え、あなたを成長させるための道具ではない。

 こうした日本人の宗教心の特徴を表すものとして、もうひとつ典型的な例を挙げられるかも知れません。イスラムの自爆テロは、しばしば日本の神風特攻隊に喩えられます。どちらも宗教的な考察の対象となる事例ですが、このふたつにはやはり輪郭のくっきりした一神教と、私の言う〈淡い宗教〉のあいだのはっきりした対比が見られます。イスラムの戦士は、自分の命と引き換えに敵を倒すことを、アッラーの神の御心にかなうことと考え、その行為によって自分がまっすぐ天国に行けることを疑いもなく信じている。すなわちそこには分かりやすい利己的な目的があります。ところが日本人の特攻隊員となると、そう単純な話ではありません。彼らの遺書を読めば、「靖国神社で会おう」といった文句こそ見付かる訳ですが、そこからは靖国の神に嘉される喜びが読み取れる訳ではありません。六十数年前の若者だって、日本古来の神様の実在や、それが約束する幸福な来世などを信じていた訳ではない、むしろ彼らの文章が現在の私たちにも訴えかけて来るものは、父や母を慕う心であり、幼い弟や妹を気遣う心であり、そして愛する日本を守るために自分の命をなげうつという悲壮な覚悟の念だけです。そこでは見返りとして約束されているものは能う限り少ない。これを宗教と呼ぶとすれば、これほどつらく哀しい宗教も無いと思います。それは神道を軍国主義に利用しようとしたこの国の為政者や軍部の思惑とも、まったくレベルの違う別次元の話です。自爆テロに向かうイスラムの若者が、遺される両親に向けて遺書を書き残しているものか、いつかはそれが一冊の本になって刊行されるものか、私は知りません。しかし、特攻隊員たちの遺書が、私たち平和ボケした現代人の心にも強く訴えかけて来ること、またこの先も日本人の心に訴え続けることだけは間違いないと思っています。

 おやおや、ふだんからリベラリストを任じている自分らしからぬ文章を書いていますね(笑)。このことから私は、日本人の宗教心のユニークさを論じようとしている訳ではありません。むしろ人間に自然に備わっている本来の宗教心というものがあるとすれば、日本人の〈淡い宗教〉こそがそれに近いものであるかも知れない、そんな仮説を立ててみたい気がするのです。それは決して日本だけのものでもなく、キリスト教とイスラム教(と共産党)の勢力が及んでいない地域には共通したものかも知れないと思っています。まあ、宗教史の知識を持たない自分が、そんな仮説を立てても説得力は無いのですが、そうした自分のふだんからの想いが、たまたまドーキンスさんの本に共鳴したのが今回の連載を書かせる原動力になったことだけは間違いありません。どうも毎回、脈絡の無い文章を書いているようで恐縮です。しかし、宗教について考える時は、あらかじめ結論を定めないで考えることが大事なのであって、多少の脱線は大目に見ていただきたいと思います。(だって、あらかじめ結論を持っている人の宗教エッセイなんて、誰も読みたくはないでしょ?) 次回はいよいよこの連載の最大のテーマである宗教と道徳の起源に関する考察に…入るかどうかは分かりません。重たいテーマに取り組む時には、なんとなく気の向くままに気軽な気持ちで取り組んだ方がいいかも知れない、そんな気もしているからです。

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