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2008年5月25日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(6)

 いくらはっきりと無神論者を自認する人でも、何か合理的に説明がつかないような神秘的な体験をして、心が宗教に傾くという例はきっとあるのだと思います。幸か不幸か私自身は過去にそうした体験をしたことが無いので、安心して自分を無神論者だと思い込んでいる訳ですが、もしも自分が一度でもそうした体験に出会えば、それでも自分が無神論者でいられるかどうか、自信はありません。『神は妄想である』という本の中で、著者のリチャード・ドーキンスさんは、世間で言う超自然的な体験がいかにいい加減なまやかしであるかを例を挙げながら説明しています。しかし、残念なことにこの部分は、この本の中でも最も説得力の弱いところのひとつです。例えばそこで挙げられているのは、大学時代の同級生が夜中に悪魔の声を聞き、その経験がもとで彼は聖職者を目指すことになったのだが、後々それが〈悪魔鳥〉と呼ばれる鳥の鳴き声だったことが判明したという話だったり、著者自身も子供の頃に幽霊の声を聞いたことがあったが、勇気をふるってその声の方向に近付いてみると、それは鍵穴を吹き抜けるすきま風の音だったという話だったり、要するに諺にいう「幽霊の正体見たり枯れ尾花」みたいな話ばかりなのです。よく心霊関係の本などには、もっと説得力のある事例が紹介されています。典型的なのは、遠く離れた場所に住む肉親が死んだちょうどその時刻に、夢の中でその死の状況を正確にまざまざと見たという話、あるいは事故で意識を失った人が体外離脱をして、自分を心配そうに見守る友人たちを上から見ていた、後でその時の彼らの服の色まで言い当てたのだが、実はその人は盲人だったといった話など、トリックがどうなっているのか分からない、よく出来たマジックのような話の数々です。

 そんな体験談はすべて作り話か、さもなくば一種の幻覚のようなものに過ぎない、そう切って捨てることも出来るでしょう。しかし、ここで私が指摘しておきたいことは、たとえあなたがそのような超自然的な現象を頭から否定していたとしても、現実にそれを一度でも体験してしまえば、それはあなたの信念に何らかの影響を与えずにはいないだろうということです。私は自分をはっきりと無神論者だと思っているし、どちらかと言えば唯物論者だとも思っています。が、それはこれまでの自分の知識や経験や趣味嗜好などを通じてたまたまそうなっただけのことで、もしもこれまで経験したこともない新しい〈何か〉が起これば、自分の信念もいっぺんに崩れてしまうに違いないとも思う。そしてそれは別段困ったことでもないような気がします。これは宗教的な問題に限ったことではありません、そのように自分の信念や信条を相対化して、常に〈変わり得るもの〉として維持しておくことは、むしろ好ましいことであるような気がするのです。例えば私は94パーセントの死刑反対派であり、55パーセントの天皇制廃止派であり、31パーセントの代理出産容認派である。まあ、細かいパーセンテージなんて意味が無い訳ですが、イメージとしてはそんな感じ。このパーセンテージは、新しい本を読んだり、誰かと議論をしたりすることで、常に変動している。宗教に関する信念だけは、100パーセントか0パーセントかのどちらかでなければならないという訳でもないでしょう。ドーキンスさんの本を読んだばかりの私は、97パーセントの無神論者かも知れないが、これが例えばキューブラー・ロスさんの本を読んだ直後なら、70パーセントくらいまで数字は下がるかも知れない(笑)。そして、それで全然かまわないじゃないのというのが、「困った時の神頼み」派としての強みだと思う訳です。

 もしもこの世界に本当の神秘というものがあるとすれば、それは神の存在でも霊魂の存在でもなく、自分自身が存在していることの神秘に他ならない、そういう考えを私は持っています。たとえ人間の心が、脳という物質の働きですべて説明されてしまう時代が来たとしても、自分が存在していることの不思議は決して解明されることはない。(脳が心を産み出す仕組みは分かったけど、何故そうして産み出された心が他の誰でもなく自分なの?と問うことは出来るから。) 反対に人間の心には物質的な働きを超えた〈霊的〉な性質があるということが(科学的に)証明されたとしても、やはり自分が存在していることの不思議は解明されません。(その霊的な存在者が何故他の誰でもなく自分なの?と問うことは出来るから。) いったん「自分が存在することの不思議」という観念に取りつかれてしまうと、これはもう科学によっても宗教によっても満たされない、永遠の課題を背負い込んだことになってしまう。ところが(ここからが大事なところ)、この「科学によっても宗教によっても満たされない」という問題意識が、逆に科学と宗教というものの対立関係を相対化してくれることになるのです。科学vs宗教という主戦場でバトルを繰り広げている当人たち(ドーキンスさんのような)にとっては、とりあえず相手を打ち負かすことが第一の目的になるのでしょう。しかし、私たちにとってみれば、どちらかが最終的に勝利したとしても、大勢に影響は無いのです。だって、その時にも〈私たちの課題〉は無傷のまま残されているのだから。

 多少、牽強付会に近いところもありますが、私はこの考え方を、我らが「困った時の神頼み」教の中心ロジックに据えたらどうだろうと提案します。今日、私たちが宗教的なものに警戒心というか、ある種の違和感を持っているのは、そのあまりに排他的なメンタリティという点においてではないかと思います。同じように愛と平和を説きながら、キリスト教とイスラム教は何故あれほど憎み合わなければならないのか? それは両者が唯一絶対の真理を主張して、お互いに譲り合わないからでしょう。そこにドーキンスさんのような科学者が割って入れば、今度は三つ巴のバトルになってしまう。(ドーキンスさんが、「自然淘汰は我々の意識を高揚させる」と書く時、私はそれを彼の信仰告白のように受け取ってしまいます。) これと比較すると、「自分が存在することの不思議」という観念は、何も相手に悪さをしません。それはどんな真理を主張する訳でもなく、ただただ不思議がっているだけなんだから。しかも、この観念はあらゆる信仰や道徳心を載せる基盤としても、柔軟性に富んだ〈すぐれもの〉ではないかという気がする。自分が存在することが不思議であるように、自分の周りの人たちが存在していることも、それぞれ同じように不思議なことなのであって(本人たちは気付いていないかも知れないけど)、それを思えばこうして〈かけがえのないあなたと私〉が時と場所を同じくして出会った奇跡に感謝したくもなるし、自然な優しさや愛情のようなものも湧いて来ようというものだからです。

 日本は古来から宗教に対しては寛容な国だったと言います。それも時の権力者が政策として、異なる宗教を受け入れて来たという意味ではなくて、ひとりの人間がいろんな宗教に対する信仰を自分の中でブレンドする(神道が23パーセント、仏教が36パーセント、儒教が20パーセント、キリスト教が18パーセント、鰯の頭が3パーセント)ことを平気でやって来たという意味です。この伝統は現代でもまったく衰えていなくで、そのことは星の数ほどもある新興宗教の乱立や、スピリチュアリズムのようなものの流行によっても証明されていると思います。別に日本人の中には、昔から自分自身の存在を不思議に感じる哲学的傾向があって、それが宗教への寛容さを育んだなどとこじつけるつもりはありません。しかし、木や石や風の中にも心の存在を感じるアニミズムの傾向は、要するに心のありようとしてはそれに似たものでしょう。これは日本に限ったものではないと思いますが、こうした素朴な自然宗教は、権力と結び付いて硬直化してしまった一神教よりもずっと現代社会にマッチしたものであるように思われます(たぶんそれは自然科学や唯物論とさえ親和性がいい)。だからと言って、私はこれを世界に布教しようなんて大それたことまでは言いません、ただ、ドーキンスさんの本に書かれているような宗教をめぐる感情的対立や、個人の中での心理的葛藤を経験しなくて済んだだけでも、この国に生まれたことは幸運だったと思うのです。

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2008年5月18日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(5)

 宗教と道徳というふたつのものは、人間の精神の中で(あるいは脳の中で、と言うべきかも知れませんが)、それぞれ別々の場所を占めているもののように思われます。ドーキンスさんも指摘するように、宗教的ではない道徳というものも確かに存在するし、現代人の感覚からしてとても道徳的とは呼べないような宗教も存在しているからです。ただ、この両者に共通していることがひとつあります。それは、このふたつがその生まれて来た起源を合理的に説明されることを極端に嫌うということです。私は基本的に無神論者なので、あらゆる宗教が太古の時代のくだらない迷信に起源を持っていると言われても、別に反論したい気持ちは起こりません。しかし、人間の道徳性に対しては多少の思い入れがあるので、あらゆる道徳は生存競争の戦略のひとつとして進化して来たなどと言われると、心が反撥するのを感じます。

 生物の世界において、利他的な行動がしばしば生存競争に有利に働くという事実は、野生動物の観察やゲーム理論のような数学的モデルによっても裏付けられているようです。もちろん生物進化の過程で、自然淘汰のメカニズムがゲーム理論のようなものを〈知的に〉理解していた筈はありません。しかし、生物進化の歴史の中ではあらゆる可能性が試行されて来たのであり、たまたまその中で最善の戦略を選択したものが現在まで生き残っているのだとすれば、進化の最先端にいる人類の心理的傾向の中に利他主義の要素がたっぷり残っていたとしても驚くには当たりません。別にそれは神的な起源に発するものでもなければ、人類が文明を築き上げる中で新たに獲得して来たものでもないのです。こういうロジックは、いかにも現代人好みだし、反論するのは難しいと感じます。しかし、何かそこには釈然としないものがある。私がドーキンスさんの本を読んで、非常に面白く感じると同時に反撥を感じてしまうのは、例えば次のような文章に出会った時です。少し長いですが引用します。この部分を読めば、きっとあなただって〈何か〉を感じるのではないかと思います。

 『私たちの祖先がヒヒのような小さくて安定した群れをつくって暮らしていた時代に、自然淘汰は性的衝動、飢餓衝動、よそもの嫌いの衝動などとならんで、脳に利他的な衝動をプログラムした。知的なカップルは、ダーウィンを読み、性的衝動が形づくられた究極の理由を知ることができる。彼らは女がピルを飲んでいれば妊娠しないことを知っている。しかし彼らは、それを知ることによって自分たちの性欲が消滅するわけではないことにも気づいている。性欲は性欲であり、個人の心理におけるその強さは、それを衝き動かす究極的なダーウィン主義的な圧力とは独立したものである。この強い衝動は、究極的な合理的根拠とは独立して存在するものなのだ。
 私はここで、同じことが親切への――利他行動や気前よさ、同情、憐れみといったものへの――衝動についても当てはまるのではないかと言おうとしているのである。祖先の時代、私たちは利他行動を近縁者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。現在では、そのような制限はもはや存在しないが、経験則はまだ存続している。だが、なぜその経験則もなくなってしまわないのか? それが性欲とまったく同じようなものだからだ。泣いている不幸な人(その人は血縁者ではなく、見返りを期待することもできない)を見たときに私たちは、異性の誰か(その人は不妊症かもしれないし、その他の理由で子供をつくれないかもしれない)を見たときに欲情を感じるのを抑えられないのと同じように、憐れみを感じるのを抑えることができないのだ。どちらもメカニズムの誤動作で、ダーウィン主義的には誤りである。だが、悦ばしく、貴重な誤りである。』(P.322‐323)

 どう思います、これ? 私がこの文章に反撥を感じる理由は、親切心や同情や憐れみといった、一般的には道徳的な心理と見られているものが、生物の本能である性欲と一緒くたにされているからではありません。ここまで身もフタも無く人間の道徳的心性を、自然淘汰のメカニズムの中に還元してしまうのだったら、いっそのこと道徳などというものは〈幻想〉であるとはっきり断定すればいいじゃないか、同じ論法で宗教のことは〈妄想〉であるときっぱり断定しているのだから。何故それは『メカニズムの誤動作で、ダーウィン主義的には誤りである』にもかかわらず、『悦ばしく、貴重な誤りである』と、取ってつけたように称揚されなければならないのか? 実際この文章のすぐあとには、『どうか早合点して、ダーウィン主義による説明が同情や寛大さといった高貴な感情の意義を失わせたり、貶めたりするものだと思わないで欲しい。』という一文が続くのです。(こういう但し書きはこの本の至るところに出て来ます。) 宗教についても道徳についても、進化のメカニズムの〈副産物〉であり〈誤動作〉であると明確に論証しておきながら、一方を徹底的に冷遇し、一方をここまで優遇する理由は何でしょう。まあ、そんな質問をすること自体が野暮なことであって、こうした常識的な姿勢を堅持していることがドーキンスさんの著作家としての人気の秘密だろうし、卓越したエッセイストである証拠でもあるのだろうと思います。ただ、私は思うのです、でもそれって科学者としてどうなのよ、と。

 もしも厳格な科学者であるならば、道徳や宗教の起源に関するどのような仮説を思い付こうと、それを価値判断には結び付けないという実証科学のルールから逸脱しないことに細心の注意を払うものでしょう。ところが、利己的な遺伝子説などでもそうですが、リチャード・ドーキンスという人は、あえてその一線を乗り越えることを〈芸風〉としているようなフシがある。その点において私は反論したい訳ではありません、むしろ逆です。だからこそドーキンスは、突っ込みどころ満載で、面白いと思っている。だからこそ自分のようなマイナー・ブロガーでも、同じ土俵の上で議論を戦わせることが出来るような気にさせられるのです。で、私も「NOMAなんぞくそ食らえ!」というメンタリティの持ち主なので、あえてドーキンス流の道徳(および宗教)起源論とは違う、もうひとつの道徳(宗教)起源論を提唱してみたい。まあ、素人の脳味噌が考えついた〈トンデモ〉のたぐいですが(それを言えばドーキンスのミーム説だってトンデモかも)、これによってドーキンス一派によって泥を塗られた道徳と宗教に、もう一度名誉回復のチャンスが(合理的に)与えられるかも知れない。ダーウィン主義では(ダーウィン自身はむしろ節度ある科学的精神の持ち主で、ドーキンスさんのような人を正統な後継者だとは認めないような気もしますが、それはともかく)、道徳や宗教は生物としての人間が自然淘汰を生き抜くために必要とした何かから派生した副産物であり、進化の視点から見れば誤動作なのだと主張します。私はむしろ、人間というものの存在そのものが、進化の視点から見れば誤動作、と言うか〈失敗作〉だったのではないかと考えています。道徳や宗教は、この失敗を取り返すために、自然淘汰の側からではなくむしろ人間の側から要請されたものであったと考えるのです。

 私はこのブログのずっと以前の記事で、生命進化の中でどのように人間の〈心〉が生み出されて来たのか、そのことに関するひとつの仮説を書きました(『心の誕生に関する進化論的仮説(1)(2)』)。出来ればそちらもお読みいただけると嬉しいのですが、簡単に要約するとこういうことです。自然は(自然淘汰はと言っても同じ)この惑星に生命を生み出すに当たり、個体が細胞分裂をしたり有性生殖をすることで空間と時間を満たして行く戦略を採りました。そして個々の個体には〈快と苦〉を感知するセンサーを取り付け、それによって生存に有利な条件を自律的に選択する仕組みを埋め込んだのです。これは40億年もの間うまく機能していました、少なくとも人間という種が誕生するまでは。人間の誕生とともに、主客が逆転してしまった。つまり、遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎなかった筈の個体の方が自意識と我欲を持ち、自己の幸福の最大化だとか自己実現なんてことを言い出した。これが自然淘汰にとってどれほど危険な事態であるか、考えてみればすぐに分かります。他の動物種ではありえないことですが、人間は国家間の戦争や民族紛争によって今も同じ種の仲間を大量に殺戮しているし、平和な時代になればなったで今度は自殺してしまう。人間がどれほどこの地球の生命全体にとって危険な存在であるかは、こういう思考実験をしてみれば簡単に証明出来ます。最近は核兵器がテロ組織の手に渡ることが懸念されていますが、もしもすべての個人がプライベートな核爆弾を所有出来る時代が来たらどうだろう? 私は確信しているし、あなたにも同意していただけると思います、そうなったら人類とこの地球上の生命は1秒ともたずに絶滅してしまうに違いない。

 宗教や道徳は生命進化の自然の産物だなどと気軽に考えている科学者には思い付かないことでしょうが、今日私たちが置かれている状況はもっとずっとクリティカルなもので、自然淘汰の流れに悠然と身を横たえていられるような状況ではないと考えます。個体発生は系統発生を繰り返すという生物学の言い方があります。生命は数十億年のとうとうたる時の流れに運ばれて来たものである一方、私たちはせいぜい数十年のあいだこの世界に滞在することを許された旅行者でしかない。しかし、私たちにとっては、この旅行期間だけがリアルなものです。私たちは自分が遺伝子の操り人形などではないと考えているし、一方の自然は個体としての生物のことなど大して気遣っているふうでもない。そこには深刻なギャップがあるように感じます。自然淘汰は我々の意識を高揚させると言いますが、それはドーキンスさんのような生物学者の心を高揚させるだけで、私たちのようなふつうの人間にはそれだけでは全然足りません。自分が何故ここにいるのか、自分が生まれて来た目的は何なのか、私たちにはそれを知る必要と権利がある。科学がそれに答えてくれない以上、広い意味での宗教や道徳のようなものを新しく発明する必要があるのだと私は思います。これは単に、生命や宗教に対する私たちの見方を変えるだけのことではありません、人間が生物進化の異端児であり鬼っ子であるという自覚のもと、自然淘汰という自動操縦から自らの手に操縦管を取り返すことを意味するのです。宗教や道徳が人間社会に生まれたことは、自然淘汰というメカニズムの『悦ばしく、貴重な誤りである』訳ではない、人間はこの惑星上に生命を生み出したもののコントロールを離れて、自らが神の役割をも引き受けなければならない瀬戸際にまで追いつめられた生物種であるという意味なのです。

 …文章のボルテージが上がり過ぎました。少しクールダウン。要するに言いたかったことは、近頃は分子生物学や脳科学などの知見によって、(ドーキンス風の)一見科学的な装いをまとった俗流社会学が幅を利かせているけれども、それはちょっと違うのではないかということです(あれ、全然クールダウンしていないぞ。笑)。身の丈も考えず、少し話題を広げ過ぎましたので、次回はこうした状況のなかで私たちはどのように宗教と付き合って行けばいいのか、「困った時の神頼み」教信者としての実践的なノウハウについて考えてみたいと思います。とりあえず次回がこの連載の最終回、かな?

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2008年5月11日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(4)

 結局のところ、私たちは宗教に対して、最終的に何を求めているのでしょう? キリスト教ならその答えは簡単なことで、それは天国における永遠の生といったものになるのでしょう。仏教でも似たようなものですね、生きているあいだはこの世の煩悩を断ち、死んだら仏になって極楽浄土に行くこと。両宗教ともそのご褒美の代償として、この世での善行や敬虔な信仰を要求している訳です。逆に悪行や不信心に対しては、地獄というものを用意している点でも共通しています。しかし、特定の宗教を持たず、天国も地獄も信じていない私たちには、このアメとムチは通用しません。(いつの間にか平気で「私たち」という人称を使っていますが、ここで言う私たちというのは、「困った時の神頼み」教の信者である私たち、という意味です。つまり、あなたや私のことです。笑) 例えば私たちが初詣に行って、お賽銭を投げて手を合わせる時、祈るのは今年一年の健康のことであったり、気掛かりな仕事や受験や恋愛のことであったりはしますが、死んだあとに天国に行けるようにと祈る人はあまりいないような気がします。また日本人の場合(と言っていいと思うのですが)、虫のいい祈りの代償として神様に忠誠を誓うということもありません。祈ったら、祈りっぱなし。次に神様のことを思い出すのは、翌年の初詣の時というくらいの話で、信心を怠ったからバチが当たるとも考えていない。

 日本人の宗教心の特徴を知りたければ、人気を集めている新興宗教の教義を調べてみるのがいいかも知れません。なにしろここは不況知らずの巨大市場であり、この分野のマーケット・ニーズ(つまり現代人が宗教に何を求めているか)を最も意欲的にリサーチしているのは、成功している宗教法人であるに違いないからです。私はその方面に全く疎い人間ですが、おそらく言えることは、日本で人気のある宗教は明確に〈現世利益的〉であるに違いないということです。私たちが人生の中で「神頼み」したくなることは大体パターン化されていて、学生時代には受験や就職のこと、適齢期になれば恋愛や結婚のこと、結婚後は子宝に恵まれますように、社会に出れば仕事や事業がうまく行きますように、子や孫が生まれれば彼らの受験や結婚のことを心配して、やがて年老いて死ぬ時が近付けば、いよいよ天国に行くことを気にするのかと思いきや、苦しまずにコロリと死ねることを祈っていたりする。むろん死後のことや来世に対する漠とした不安はあるにしても、だいたいにおいて私たちの視界は生まれてから死ぬまでの範囲に限られていて、宗教に対する要請もその範囲の中でのことであるような気がします。キリスト教や仏教と同じ意味で、果たしてこれが宗教と呼べるのかといったようなもので、ドーキンスさんのような高尚な宗教批判論のなかにケーススタディとして提出するのも、正直恥ずかしいようなものです。

 といったことは、すでに日本人の宗教心に関して一般的に言われていることではないかと思います。ところで、私が今回書いてみたいと思うのは、もう少し違う切り口からの考察です。ドーキンスさんの本にも書いてあるように、宗教史の常識では多神教よりも一神教の方が、より進化した高級な宗教だと考えられているようです。この本の中には、多神教が進化して一神教になったのなら、一神教ががさらに進化すると無神論になるに違いないという冗談が紹介されています。この観点からすると、「鰯の頭も信心から」なんていうのは、宗教の中では低級も低級、およそ文明国の国民として相応しくないようなプリミティブな宗教意識ということになるのだろうと思います。では、これを倫理性という視点から比較してみたらどうだろう? 特に西洋の歴史の中では、キリスト教が道徳の発展に果たした役割は大きいというのが定説になっています。これに対してもドーキンス氏は真っ向から反論を唱えていて、これもテーマとしてはとても面白いので、いずれ取り上げるつもりですが、もっと単純に考えてもキリスト教や仏教の倫理性における瑕疵を指摘するのは簡単なことだと思います。いくら献身的な愛だとか禁欲的な生活だとか言っても、これら宗教の信者は、その見返りとして来世での救い(とそこから来る現世での心の平安)を期待している訳でしょう? もちろん鰯の頭を信じることが、倫理的な面でより優れている訳ではありませんが、現世であろうが来世であろうが、自分に利益を期待するという点では変わらないではないですか。むしろたかだか数十年の信仰生活の見返りに、天国での〈永遠の〉幸福を手に入れるという虫のよさに比較すれば、鰯の頭と引き換えに現世での小さな幸福を要求する方が、まだしも控え目な態度と言えるような気がします。

 たとえキリスト教が愛の宗教だったとしても、その中心にあるのは自己愛であって、隣人への愛や自己犠牲などというのも偽装された自己愛に過ぎない。何だかどこかの高校生レベルの議論ですが(と言うより、自分が高校生の頃にそういった疑問を抱いて以来、私はその考えから抜け出せずにいるのです)、これは単純であるだけに強力な宗教批判の理論であると私には思われます。(仏教についても同じことが言えますが、偽善性という点では仏教の方がマシだという印象が私にはあります。ちなみに『神は妄想である』の中で、著者は〈あの〉マザー・テレサに対してさえも偽善者呼ばわりをしています。バチ当たりにも!)。さて、対するに我が日本人の宗教的メンタリティについてはどうでしょう。「困った時の神頼み」だとか「鰯の頭も信心から」といった文句からは、あっけらかんとするほど私利私欲に対して肯定的な宗教観が窺え、そこには偽善性の要素はつゆも感じられません。いや、これらは日本人の移り気な宗教心を揶揄しただけのコトバで、別段そこに深い意味を読み取るべきようなものではないでしょう。しかし、こうした一見素朴で土着的とでも呼びたいような日本人の宗教心の奥には、神とおのれが一対一で対峙する一神教とはまた異なった倫理性が内包されているのでないか、実はそういう仮説を私は持っているのです。ここから先は客観的な観察結果や先行文献に基づくものではなく、ただただ私自身の心の中を点検した結果の推測なのですが、特定の宗教を持たない日本人にとって、自分が救われたいという気持ちが宗教に向かわせることよりも、むしろ愛する者を救いたいという気持ちが〈神頼み〉に向かわせる場合の方が一般的ではないかという気がするのです。

 こんな想像をしてみてください、医者があなたの身体のどこかに進行癌が見付かったと告げた場合と、あなたの子供が白血病に罹っていると告げた場合、それぞれあなた自身の心の反応はどのようなものだろうか? 私にはどちらの経験も無いので推測に過ぎませんが、おそらく受ける衝撃という意味では後者の方がはるかに大きいのではないかと思います。自分があと余命半年だと告げられれば、それはショックには違いありませんが、その時に感じるのはまずは当惑であって、それがすぐに神にすがる気持ちや神を恨む気持ちにはつながらないような気がする(あとあとにはそういう気持ちも湧いて来るでしょうが)。しかし、もしもそれが自分の子供のことだったら? これはもう当惑したり茫然自失したりしている場合ではない、入院の手続きのかたわらですぐに神様を招来する手続きも始めているに違いありません。私たち日本人が、どのような場合に最も深刻な宗教心を発動させるのかを考えてみると、私には真っ先にこのような事例が思い浮かびます。もちろんキリスト教徒の親たちだって、子供の命にかかわることであれば、真剣に神に祈るでしょう。その祈りの向け先は、常日頃から祈りを捧げている同じ神様であるに違いありません。そしてもしも不幸にも子供が助からなかったとしても、それも神の思し召しなのだと考えて、案外早く悲しみから立ち直ることが出来るかも知れない(子供はすでに天国にいるのだから)。だが、私たちにはそうは行かないのです。もしも子供を助けてくれない神様だったらこちらからお断りだ。そんな神は見限って別の神様を探して回るだけのことです。大事なのは神がどう思し召されるかではなく、子供の命を救うことなのです。そしてもしも不幸にも子供が助からなかったとしても、私たちは神の不在を嘆くだけで、特定の神を呪ったりはしないだろう。子供のお葬式が済み、お墓参りをする時、もしもキリスト教徒だったら子供を失ったことを、神が自分に与えた試練だったと考えるようになるかも知れません。が、私たちにはそんな発想は浮かびません。むしろそんな考えは厭わしいエゴイズムではないかとさえ思う。子供はあなたに試練を与え、あなたを成長させるための道具ではない。

 こうした日本人の宗教心の特徴を表すものとして、もうひとつ典型的な例を挙げられるかも知れません。イスラムの自爆テロは、しばしば日本の神風特攻隊に喩えられます。どちらも宗教的な考察の対象となる事例ですが、このふたつにはやはり輪郭のくっきりした一神教と、私の言う〈淡い宗教〉のあいだのはっきりした対比が見られます。イスラムの戦士は、自分の命と引き換えに敵を倒すことを、アッラーの神の御心にかなうことと考え、その行為によって自分がまっすぐ天国に行けることを疑いもなく信じている。すなわちそこには分かりやすい利己的な目的があります。ところが日本人の特攻隊員となると、そう単純な話ではありません。彼らの遺書を読めば、「靖国神社で会おう」といった文句こそ見付かる訳ですが、そこからは靖国の神に嘉される喜びが読み取れる訳ではありません。六十数年前の若者だって、日本古来の神様の実在や、それが約束する幸福な来世などを信じていた訳ではない、むしろ彼らの文章が現在の私たちにも訴えかけて来るものは、父や母を慕う心であり、幼い弟や妹を気遣う心であり、そして愛する日本を守るために自分の命をなげうつという悲壮な覚悟の念だけです。そこでは見返りとして約束されているものは能う限り少ない。これを宗教と呼ぶとすれば、これほどつらく哀しい宗教も無いと思います。それは神道を軍国主義に利用しようとしたこの国の為政者や軍部の思惑とも、まったくレベルの違う別次元の話です。自爆テロに向かうイスラムの若者が、遺される両親に向けて遺書を書き残しているものか、いつかはそれが一冊の本になって刊行されるものか、私は知りません。しかし、特攻隊員たちの遺書が、私たち平和ボケした現代人の心にも強く訴えかけて来ること、またこの先も日本人の心に訴え続けることだけは間違いないと思っています。

 おやおや、ふだんからリベラリストを任じている自分らしからぬ文章を書いていますね(笑)。このことから私は、日本人の宗教心のユニークさを論じようとしている訳ではありません。むしろ人間に自然に備わっている本来の宗教心というものがあるとすれば、日本人の〈淡い宗教〉こそがそれに近いものであるかも知れない、そんな仮説を立ててみたい気がするのです。それは決して日本だけのものでもなく、キリスト教とイスラム教(と共産党)の勢力が及んでいない地域には共通したものかも知れないと思っています。まあ、宗教史の知識を持たない自分が、そんな仮説を立てても説得力は無いのですが、そうした自分のふだんからの想いが、たまたまドーキンスさんの本に共鳴したのが今回の連載を書かせる原動力になったことだけは間違いありません。どうも毎回、脈絡の無い文章を書いているようで恐縮です。しかし、宗教について考える時は、あらかじめ結論を定めないで考えることが大事なのであって、多少の脱線は大目に見ていただきたいと思います。(だって、あらかじめ結論を持っている人の宗教エッセイなんて、誰も読みたくはないでしょ?) 次回はいよいよこの連載の最大のテーマである宗教と道徳の起源に関する考察に…入るかどうかは分かりません。重たいテーマに取り組む時には、なんとなく気の向くままに気軽な気持ちで取り組んだ方がいいかも知れない、そんな気もしているからです。

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2008年5月 6日 (火)

道徳進化が行き着く果ての無神論(3)

(前回の記事はこちら

 リチャード・ドーキンスが、『神は妄想である』の中で攻撃の対象にしているのは、合理主義に背を向けた原理主義的な宗教ばかりではありません。自身では信仰を持っていないのに、宗教に対しては宥和的な考えを持っている「もの分かりのいい現代人」に対しても容赦は無いのです。それがこの本が、自分のような無宗教の人間にとっても刺激的である所以です。例えば、こんな言い方があります、「科学には科学の真理があり、宗教には宗教の真理がある。両者はそれぞれカテゴリーが違うのだから、このふたつの真理は互いに矛盾するものでも対立するものでもない」。こういうコトバは一見とても受け入れられやすいものですし、ふとしたはずみで自分でも口にしてしまいそうなものです。

 科学と宗教には互いに不可侵であるべき固有の領域がある、という考え方は、この本の中で紹介されている略語でNOMA(Nonoverlapping Magisteria=重複することのない教導権)と呼ぶのだそうです。便利ですね、こういう略語を頭の中に入れておけば、論争のさなかにも、ああこれはノーマの話だなとひと括りに出来る。あるいはこれに近い考え方に、〈不可知論〉というものがあります。こちらは文字通り、神や創造主といったものの存在については、我々は(原理的に)何も言うことが出来ないという立場のことです。これらに対するドーキンス博士の見解は、全くごまかしのない単純明快なものです。『神が存在するかしないか、それは科学的な疑問である。いつの日か私たちはその答えを知ることができるかもしれず、当面は、その蓋然性についてかなり強い主張をおこなうことができる。』(P.76) もしもこの本のエッセンスをひと言で表すとすれば、この文章に要約されているように思います。ある程度の科学的な知識を持っていて、宗教的なものにも未練を残している私たち現代人にとって、ノーマや不可知論は手っ取り早い解決方法であるに違いありません。が、それは知的に不誠実な方法だと著者は言うのです。

 前回の記事でも触れたように、人間には時に宗教的なものに救いを求めようとする本性があることは、事実として認めざるを得ないように思います。しかし、このことと、「神の存在問題」は当然別に扱わなければなりません。そしてもしもドーキンス流の考え方に従うならば、後者の問題を不問にして、信仰の問題に何かしらの解決を与えることは出来ないのです。もっとはっきり言えば、宗教に対して我々が選択出来る態度は、次の三つのうちのひとつでしかありえない。①合理的な精神に従って宗教を捨てるか、②宗教を守るために合理主義を諦めるか、③あるいは合理的精神にも受け入れられる宗教というものの可能性を探るか、その三つです。いや、ドーキンスさんの問い掛けは、「科学か宗教か」の二者択一でしかあり得ないような激しいもので、三番目の選択肢は私が後から追加したものです。そして私の興味の対象は、実はこの最後の選択肢にあるんですね。もしも上記の①か②を選択する人がいるならば、その人はどちらにしても既にひとつの解答に到達していることになります。(そういう意味では、ドーキンス派もその敵対派も、既に答えを持っている人たちです。) しかし、もしも私たちが③を選択するなら、答えは科学的合理主義の中には見付からないし、おそらく既存のどのような宗教の中にも見付からないものであるように思われます。これは宗教を持たない自分のような人間にとっても、(時と場合によって)非常に切実なものとして迫って来る問題です。

 有神論と無神論のちょうど中間あたりに「理神論」という考え方があります。理神論も神の存在を認めはしますが、その神は伝統的なキリスト教の神様とはだいぶ趣を異にしています。理神論の神は、人間のような人格を持った存在(人格神)ではなく、人間の心の中を覗き見ることもしないし、奇跡を起こしたりもしない、この世界の運行に何も影響力を持たないような神です。ただこの宇宙が最初に誕生した時に、宇宙の基本的な法則や進化の方向性といったものを決定した、ドーキンスの言葉を借りれば「スーパーエンジニア」とでも言うような存在なのです。歴史的に見れば、理神論は17世紀のイギリスで生まれ、18世紀フランスの啓蒙思想家たちに受け継がれ、今日のアメリカのインテリジェント・デザイン説にまでつながる系譜を持ったもののようです。それは近代の合理主義が、神という概念と折り合いをつけようとして、自然に生み出した考え方だったとも言えると思います。またこれは、キリスト教のような一神教の伝統を持たない私たちにとっても親しみやすい考え方です。今日では、篤い信仰心を持っている人でも、白い髭をたくわえた老人が杖をひと振りしてこの世界を造ったなどとは信じていない筈です。しかし、この世界(特に生物界や人間の精神世界)が、何かしら超越的な存在者のデザインプランによって造り出されたと考えることは、私たちの思考の自然な傾向であるような気がします。何故なら、生物界や精神世界で起こっていることは、他のどんな物質界で起こっていることとも異質で、物理的な法則だけでそれがすべて説明出来るとは、素人考えにも信じられないから。

 この理神論的な神(超越的存在)は、現代人の合理主義から見て、どこまで受け入れ可能なものでしょうか? 少なくともヤハウェ神やアッラー神や天照大神よりは受け入れやすいもののように私には思えます。しかし、これに対しても、ドーキンスさんは簡単明瞭なロジックで反証してみせるのです。もしもこの宇宙の出発点で、この地球上の生命の誕生まで計画に織り込んで宇宙の設計図を描いた超越者がいたとするならば、その超越者自身を作り出した者は一体誰なのか? 結局のところ、創造主というものを想定することは、その創造主を造った創造主は誰かという無限の問いを引き起こすだけで、意味のある仮説にはなり得ないというのです。しかし、それでも私たちの知的好奇心は食い下がります、進化した生物や人類の文明のようなものが、無機物からまったく自然発生的に生まれて来たとはどうしても信じられない、生命の進化が〈自然淘汰〉というロジックを採用して実行されて来たのが事実だとしても、その背後には何か大いなる自然の〈意志〉であるとか、隠された〈目的〉のようなものが存在していたのではないか? いや、意志や目的などという言葉を使うから、擬人化された神を呼び寄せてしまうのでしょう。だったらせめて、進化を駆動する〈推進力〉であるとか、進化の方向を指し示す〈指向性〉というものくらいは、その存在を認めていただけないものだろうか?

 特定の宗教的観念によって自己のアイデンティティが支えられていない私たちは、生物進化が神の意志によるものではないという現代科学の主張を、何の抵抗も無く受け入れることが出来ます。が、だからと言って自然淘汰のプロセスを、物理学の法則と同じレベルで受け入れることは難しいような気がします。アインシュタインの相対性理論は、ニュートン力学の正しい発展形と呼べると思いますし、量子力学だって(ずいぶん奇妙なところはあるけれど)それらと対立する理論という訳ではないと思います。ところが、自然淘汰説に限っては、他の自然科学の法則と地続きになっていない孤立した島のような印象があるのですね。これは私たちが知っている生命現象というものが、この地球上に存在する唯一のもの(たったひとつの原始生命から分化した同じ系統樹に属するもの)しか無いということと関連しています。SFの世界ではおなじみですが、もしも宇宙に地球型生命とは全く別系統の生命体が数多く見付かり、それらに共通する法則や異なる特徴を比較研究することが出来たとすれば、我々が生命現象と呼んでいるものの輪郭がもっとはっきり定義出来るようになるかも知れません。それによって、自然淘汰は生命進化が採用する方式のひとつに過ぎないということが判明するかも知れないのです。ここまで来れば、進化論も自然科学の一分野として確固たる地位を築くことになりますし、ひょっとしたら物理学と生命科学がより大きな科学理論によって統合されるなんてことも起こり得るかも知れません。(現在の私たちには想像もつかないことですが。)

 生命の持つ「1回こっきり性」という性格が、我々の宗教的意識の原点にあるような気がします。これは広大な宇宙の中にたったひとつ生まれた地球の生命という点でもそうですし、地球の40億年の生命進化の中で生まれたたったひとりの自分の生命という点でもそうです。仮に実験室で人工生命が簡単に作れるようになったり、私がいつも思考実験のネタにしているような、人間の人格や記憶をそっくりコピー出来る人工知能といったものが実現すれば、生命現象の「1回こっきり性」もだいぶ神秘性のベールを剥がれることになるでしょう。しかし、これだけ科学技術の進歩した現代でも、そのような技術は実現の方向性すら見えていません。だからドーキンス流の宗教否定論は、きっとまだ時期尚早なんだと思います。自然淘汰の理論によって、「複雑なものは複雑なものからしか生まれない」という私たちの先入観は粉砕されましたが、複雑なものを生み出すための〈推進力〉や〈指向性〉までも完全否定された訳ではないと思います。自然淘汰説は、科学理論として正当にもその部分には踏み込まないからです。ドーキンス理論は、原理主義的な宗教を信じる人にとっては脅威であるかも知れません。しかし、私たちのような一神教の伝統を持たない〈淡い宗教心〉の持ち主にとっては、何ら脅威でもありません。淡い宗教心は、人格神を否定されようが、理神論の神を否定されようが、自然の大いなる意志を否定されようが、致命傷を受けることはないからです。では、私たちのような「困った時の神頼み」派の淡い宗教信者にとっても、譲れない最後の一線というものはあるのでしょうか?

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