« 「裁判員辞退の請願書」文案 | トップページ | 道徳進化が行き着く果ての無神論(3) »

2008年4月27日 (日)

私が裁判員を辞退する本当の理由

 9年前に山口県光市で起こった母子殺害事件に対して、今週広島高裁が死刑の判決を下しました。一審、二審では無期懲役の判決だったのを、最高裁が差し戻したという異例の裁判だったようです。最高裁から「特に酌量すべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」という理由で差し戻しが行なわれたのだそうで、高裁としてはおそらく死刑以外の選択肢は無かったのだろうと思います(だったら何故最高裁が自ら死刑を言い渡さなかったのでしょう?)。被告人が犯行当時18歳の少年だったということを斟酌しても、犯行の残忍さや事件後の供述の曖昧さから、情状酌量の余地はまったく無いと判断されたようです。

 以前からこのブログで何度も書いているように、私は個人の信念として、死刑制度に対してははっきりと反対の立場を採っています。しかし、それは制度としての死刑は将来的に無くしていくべきだと考えているのであって、個々の事件に対して死刑判決が下されることに異議を唱えているのではありません。現在の日本の法律では、殺人罪の最高刑は死刑であり、その中で量刑が行なわれることは当然だからです。ただ、それにしても今回の判決は、最高裁からのコメント付きの差し戻しといい、それに唯々諾々と従ったかのような高裁の判決といい、傍で見ている国民としては非常に気味悪く感じるものでした。多くの人が感じたことだと思いますが、18歳になったばかりの少年による衝動的な強姦殺人、という事件の性格を冷静に考えれば、明らかに死刑は重過ぎる。ここには少年犯罪に対してはっきりと厳罰化の方向に向かおうとする、最高裁の意志を感じます。

 マスコミの中にこの判決に対して真っ向から異論を唱えるところが無いというのも、現代という時代を象徴していると私は思います。妻と幼い娘を殺された遺族の方が、判決後に述べられたコメントを、報道各社はかなり大きく取り上げました。記事で読んだだけでも立派なコメントだったと思いますし、犯罪被害者の遺族として9年間に亘って裁判で闘って来た苦労には素直に頭が下がります。私が不審に感じるのは、被告を弁護する側の主張やコメントが、(少なくともインターネットで記事を検索した限りでは)マスコミによってほとんど報じられていないという点です。なかには無能な弁護団をあざ笑うかのような記事を載せた週刊誌もある。これはおかしなことではありませんか。まるで読者を煽って犯人に対する憎悪を盛り立てているようにさえ見えます。もちろん実際の裁判の中では、弁護側の主張も丹念に聴き取られ、被告人に対するあらゆる情状酌量の余地だって検討されたのだろうと信じます。(それにしても、実際に法廷に立ち合っていた訳でもない最高裁の判事が、ほとんど強権的とも言えるコメントを付けて審理を差し戻したという点については、私は強い不審の念を抱きます。) 問題は、検察側と弁護側の主張を、じっくり時間をかけて検討出来るのも、来年の5月までのことだという点です。

 小説や映画の中で、私たちは明らかに〈悪役〉である筈の登場人物に共感を抱く場合があります。それは小説家や脚本家が簡単に操作出来ることで、読者や観客がその〈悪役〉と一緒に過ごす時間を長くすればいいのです。これはおそらく裁判員として法廷に臨む私たちにも当てはまることでしょう。生きていた頃の被害者の生活や未来への夢、嘆き悲しむ遺族の言葉、そうしたものに接すれば接するほど、私たちの犯人を憎む心は強くなる。その逆に、18歳で犯行に及ばざるを得なかった犯人の不幸な生い立ちや、こんな子供に育ててしまって申し訳ないと泣き崩れる両親の様子などを目の当たりにすれば、被告にもう一度立ち直るチャンスを与えたくなるかも知れない。裁判員制度がスタートすると、審理はこれまでよりも格段にスピードアップされるそうです。忙しい一般人を法廷に呼び出すのだから当然です。そんな中では、私たちは被害者と被告人の両方に充分〈寄り添う〉時間的余裕も与えられないでしょう。3時間の映画を30分に短縮したダイジェスト版を見せられて、感想を述べよと言われても、責任ある発言など出来る訳がありません。しかもマスコミの操作もあって、国民の犯罪を憎む気持ちは日に日にエスカレートさせられている。どういう結果が待っているかは、誰にでも想像がつくことです。

 裁判員制度が始まると、日本の刑事裁判から慎重さや冷静さが失われ、代わって剥き出しの道徳的感情が法廷を占領することになるのだと思います。これが本当に日本の刑事裁判の質を高めるための制度なのか、私には疑問なのです。もともとどんな刑事事件においても、私たちの道徳的感情が完全に納得出来る判決というものは無いと私は思っています。被害者の気持ちに寄り添えば、極刑以外はあり得ないと思えるし、加害者の立場に寄り添えば、更生の機会を与えてやりたいと思うのが自然の情というものでしょう。どちらがより正しいというものでもないし、話し合いをすれば裁判員全員の考え方が一致するというものでもない。で、判決は多数決でということになるらしい。とんだ民主主義だと私は思います。私たちの社会は、個人の剥き出しの道徳的感情で人を裁かないよう、法律というものを整備し、刑の公平さを保つために判例というものを積み重ねて来たのです。そしてこの法を司る専門家として、重い責務を負う裁判官と呼ばれる人たちに判決を出す権限を預けたのです。そんなことは国民としての常識だと私は思っていました。その常識がいままさに覆されようとしているのです。

 これまで裁判員制度について、いろいろな視点から意見を言って来ました。読む方にとってもいい加減うんざりだろうし、この話題はもう今回で最後にしたい気持ちです。理屈はどうあれ、ホンネを言えば私は、素人を集めて人を裁かせようという発想自体に深い嫌悪を感じているのです。この制度の実施により、日本は通常の法治主義から、合法的な私刑(リンチ)による犯罪の抑止という恐怖主義に転換するのだと私は理解しています。それはいわば、国民の犯罪に対する強烈な憎悪を利用した相互監視国家というようなものです。そんなものの実現のために、私は指一本たりとも貸したくはない。これが私が裁判員を辞退したい本当の理由です。

|

« 「裁判員辞退の請願書」文案 | トップページ | 道徳進化が行き着く果ての無神論(3) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/41012680

この記事へのトラックバック一覧です: 私が裁判員を辞退する本当の理由:

» 差し戻し審に疑問 [ちょっと一言]
 山口県光市の母子殺害事件差し戻し控訴審の判決が22日にあり死刑が言い渡された。冤罪を争うものでもなく、犯した罪は紛うことなく大きいので法律 [続きを読む]

受信: 2008年4月28日 (月) 09時36分

« 「裁判員辞退の請願書」文案 | トップページ | 道徳進化が行き着く果ての無神論(3) »