« 道徳進化が行き着く果ての無神論(1) | トップページ | 「義務なら参加せざるを得ない」は本当か? »

2008年4月 6日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(2)

 確かチェーホフの作品の中で登場人物の誰かが口にしたエピソードだったと思います。日照りが続き旱魃が心配されたある年、ひとりの神父が雨乞いの祈祷のために教会に出掛けました。彼は帰り道のことを心配して、わざわざ傘を持って教会に向かったのだそうです。ほんとうの信仰というものがあるとすれば、つまりはそういうものだというのです。思わずニヤリとしてしまいそうなチェーホフらしいユーモアですが、ある人が持っている信仰心のレベルというのも、考えてみればなかなか難しいテーマだという気がします。私は自分を無神論者だと思っていますが、それではほんとうに神様(人間や世界を超えた何者か)の存在を一点の曇りもなく完全に否定しているかと聞かれれば、100パーセントではないような気もする。『神は妄想である』の中で、ドーキンスは虹のスペクトラムに喩えて、神の存在する確率を7段階にランク分けしています。この7段階のどれが心にしっくり来るかによって、その人の信仰の度合いが測られるという仕掛けです。完璧な有神論から完璧な無神論まで、以下のような「信仰のスペクトラム」が提示されます。

1.神は100%の確率で確実に存在する。(完璧な有神論)
2.100%ではないが非常に高い確率で神は存在する。
3.確実とは言えないが50%以上の確率で神は存在する。
4.神が存在するかしないかは五分五分の確率である。(不可知論)
5.確実とは言えないが50%以上の確率で神は存在しない。
6.100%ではないが非常に高い確率で神は存在しない。
7.神の存在は100%の確率でありえない。(完璧な無神論)

 そもそも信仰をパーセンテージで測ろうという発想自体、宗教サイドの人たちからは反感を買うようなものであるかも知れません。ここはまあ、ひとつのお遊びだと考えてください、この中であなたの心にしっくり来るのはどのレベルですか? もしも「神」というコトバがしっくり来ないなら、別にキリスト教の神でなくても、日本の八百万(やおよろず)の神でもいいし、仏教でいう如来様や菩薩様のようなものでもいい。もっと現代人らしく〈超越的存在〉という概念一般で考えてもいいです。私自身は自分がレベル6にいると感じています。面白いのは、『神は妄想である』を書いているドーキンスさんも、自分はレベル7に近いレベル6だと言っていることです。完全否定じゃないんですね。ただこれは、心の中に信仰に傾く余地を1パーセントだけは残しているといった意味ではなく、どんなありえなそうなことにも可能性の余地は残すという科学者としての態度から来ているようです。このリストを眺めているだけでも、いろいろな考えが湧いて来ます。例えば、この一覧表の中にある「神」というコトバを、「霊」というコトバで置き換えてみたらどうでしょう? 最近のスピリチュアル・ブームからすると、日本人としてはこちらのテストの方が興味深い気もします。「確実とは言えないが50%以上の確率で霊は存在する。」 これになら結構多くの人が賛同するのではないでしょうか。たぶん私自身も、こちらの場合だったら、レベルが一段上がって(下がって?)、レベル5くらいになりそうな気がする。

 もうひとつ、このリストを見ていて気が付くことは、自分のような世俗にまみれた人間は、その時々によって移り気にレベルが変わるということです。いくら無神論者を自負していても、人生の中で本当に困った時には、神頼みのひとつもしたくなりますし、それで結果が思わしくなければ、「ちくしょう、神も仏もあるものか!」と悪態のひとつもつきたくなる。たぶんそんな経験は(日本人なら)多くの人に共通したものだと思います。正月には神社に初詣に行って、クリスマスにはツリーを飾ってケーキを食べ、死んだ時にはお坊さんを呼んでお経を上げてもらう、そういったことは信仰の問題というより習俗の問題ですから、日本人の宗教心の問題とはそれほど関係が無いような気がします。しかし、愛する人が病院の集中治療室で生死をさまよっている時だとか、我が子が行方不明になって警察からの連絡を待っている時だとかを想像してみれば、大抵の人は何かに祈りたい気持ちになるのが普通でしょう。(そんな時でもドーキンスさんのような人は、神頼みをしたい気持ちに駆られないのでしょうか? 素朴な疑問です。) 日本人は、という言い方は慎重にしなければならないので、少なくとも私はと言いますが、少なくとも私は日頃の不信心を棚に上げて、自分の都合のいい時だけ神様に祈ったり、仏様に感謝したりすることに矛盾も後ろめたさも感じていません。もしもこの点を衝かれて、例えばキリスト教文化圏の人に、おまえの宗教観は未熟であるとか、世俗的で不純であるとか指摘されたとしたら、これに対しては大いに反論したい気持ちになります。

 リチャード・ドーキンスの本を読んで、とにかく強く感じることは、ここで扱われている宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)というのは、つくづく人間に対して厳しくて、懲罰的な宗教なんだなあということです。これがきっと我々には、じゃなかった私には、実感しにくい部分なのですね。私は若い頃からニーチェという哲学者が好きで、かれこれ30年以上も愛読しています(手許にある『ツァラトゥストラ』の岩波文庫版は、昭和49年発行の第5刷です)。ニーチェは歴史上、初めてキリスト教に対して正面から対決を迫った哲学者だと言われます。しかし、『神は死んだ』という彼の有名な言葉も、キリスト教の歴史という大きな大河ドラマに出て来るひとつの名セリフに過ぎない、今日ではそういう見解の方が定説になっているようです。そういう意味では、自分にはニーチェを本当には理解出来ないような気がします。一方、『神は妄想である』について言えば、これはもう宗教史の一変奏曲などという見出しでは括れない、科学的な合理主義からのアンチ宗教論である訳で、そういう意味でこれはキリスト教文化圏の外にいる人間にとっても、非常に理解しやすい本だと言えると思います。ただ、それでも私のような〈異教徒〉にとってやはり理解しがたいのは、著者が何故そこまでの(宗教的とも言えるほどの?)情熱を傾けて、すべての宗教に対して容赦ないパンチを食らわせるかということです。

 この本の中でとても共感を持って読めるのは、例えば子供に小さい頃から宗教的な観念を植え付けるのは止めようという主張です。キリスト教の神は、常に人の心の中を監視していて、行動にすら移されなかったどんな小さな〈悪〉でも見逃さずにリストアップされ、そのリストは最後の審判の時まで大事に保管されていて、それをもとに天国に行けるか地獄で永遠の業火に焼かれるかが決定されるのです。確かにこんな教義をものごころがつく前の幼い頃から刷り込まれるとしたら、これはたまらないことですね。実際にその犠牲となって苦しんでいる人たちの事例が、この本ではたくさん紹介されています。これはそうした宗教的な背景を持たない家庭でも若干は起こり得ることで、例えば我が家でも三歳の息子がなかなか寝ないと、「鬼が来るよ」なんて言って脅かしたりすることがある。(三歳児はほんとうに鬼を恐がるんですよ。) まあ、この点は今後気をつけるとして、家庭からすべての宗教的な色彩を取り除けば、子供が自由な心を持ってのびのび育つかと言えば、それもどうなんだろうと思う。ドーキンスさんは、小さな子供が持つ「想像上の友達」が進化して、大人の信じる神になったのではないかという仮説を提示しています。キリスト教の神は、信者の心の中に他者の声として現れるものだからです。小さな子供を見ていると分かりますが、子供は実に濃密なアニミズムの世界に生きています。うちの子もよくぬいぐるみとふたりで会話している。これが宗教心の芽生えだと言われるのは抵抗があります、むしろ他人を思いやる気持ちを身に付けるための予行演習をしているのだと言われた方が、自分としてはしっくり来ます。

 この本を読むことで、とにかく政治においても教育においても家庭においても、宗教というものがどれだけの害悪をもたらすものなのかが具体的にイメージ出来ました。でも、それは特に現代のアメリカにおけるキリスト教の問題を中心としたものです。著者はそこから敷衍してすべての宗教に対してノーを突き付けているように見えますが、そこに自分としては違和感を感じるのです。別に日本人が持っているような汎神論的な宗教観を代替案として提出しようというのではありません。しかし、神の存在がほとんど100パーセントの確率であり得ないのと同様、人間が時に神(のようなもの)を必要とするということもほとんど100パーセントの確率で事実です。キリスト教圏では、実際にドーキンスさんの畳みかける議論におされて、それまでの信仰が揺らいでいる人もいるのではないかと思います。そういう人たちの失った信仰の穴を埋めるものが、ダーウィンの進化論だけではいかにも心もとない。空いた信仰の穴はもうひとつの別の信仰で埋めるしかないのではないか、自分としてはそんなことを考えるのです。

|

« 道徳進化が行き着く果ての無神論(1) | トップページ | 「義務なら参加せざるを得ない」は本当か? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/40795732

この記事へのトラックバック一覧です: 道徳進化が行き着く果ての無神論(2):

« 道徳進化が行き着く果ての無神論(1) | トップページ | 「義務なら参加せざるを得ない」は本当か? »