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2008年4月27日 (日)

私が裁判員を辞退する本当の理由

 9年前に山口県光市で起こった母子殺害事件に対して、今週広島高裁が死刑の判決を下しました。一審、二審では無期懲役の判決だったのを、最高裁が差し戻したという異例の裁判だったようです。最高裁から「特に酌量すべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」という理由で差し戻しが行なわれたのだそうで、高裁としてはおそらく死刑以外の選択肢は無かったのだろうと思います(だったら何故最高裁が自ら死刑を言い渡さなかったのでしょう?)。被告人が犯行当時18歳の少年だったということを斟酌しても、犯行の残忍さや事件後の供述の曖昧さから、情状酌量の余地はまったく無いと判断されたようです。

 以前からこのブログで何度も書いているように、私は個人の信念として、死刑制度に対してははっきりと反対の立場を採っています。しかし、それは制度としての死刑は将来的に無くしていくべきだと考えているのであって、個々の事件に対して死刑判決が下されることに異議を唱えているのではありません。現在の日本の法律では、殺人罪の最高刑は死刑であり、その中で量刑が行なわれることは当然だからです。ただ、それにしても今回の判決は、最高裁からのコメント付きの差し戻しといい、それに唯々諾々と従ったかのような高裁の判決といい、傍で見ている国民としては非常に気味悪く感じるものでした。多くの人が感じたことだと思いますが、18歳になったばかりの少年による衝動的な強姦殺人、という事件の性格を冷静に考えれば、明らかに死刑は重過ぎる。ここには少年犯罪に対してはっきりと厳罰化の方向に向かおうとする、最高裁の意志を感じます。

 マスコミの中にこの判決に対して真っ向から異論を唱えるところが無いというのも、現代という時代を象徴していると私は思います。妻と幼い娘を殺された遺族の方が、判決後に述べられたコメントを、報道各社はかなり大きく取り上げました。記事で読んだだけでも立派なコメントだったと思いますし、犯罪被害者の遺族として9年間に亘って裁判で闘って来た苦労には素直に頭が下がります。私が不審に感じるのは、被告を弁護する側の主張やコメントが、(少なくともインターネットで記事を検索した限りでは)マスコミによってほとんど報じられていないという点です。なかには無能な弁護団をあざ笑うかのような記事を載せた週刊誌もある。これはおかしなことではありませんか。まるで読者を煽って犯人に対する憎悪を盛り立てているようにさえ見えます。もちろん実際の裁判の中では、弁護側の主張も丹念に聴き取られ、被告人に対するあらゆる情状酌量の余地だって検討されたのだろうと信じます。(それにしても、実際に法廷に立ち合っていた訳でもない最高裁の判事が、ほとんど強権的とも言えるコメントを付けて審理を差し戻したという点については、私は強い不審の念を抱きます。) 問題は、検察側と弁護側の主張を、じっくり時間をかけて検討出来るのも、来年の5月までのことだという点です。

 小説や映画の中で、私たちは明らかに〈悪役〉である筈の登場人物に共感を抱く場合があります。それは小説家や脚本家が簡単に操作出来ることで、読者や観客がその〈悪役〉と一緒に過ごす時間を長くすればいいのです。これはおそらく裁判員として法廷に臨む私たちにも当てはまることでしょう。生きていた頃の被害者の生活や未来への夢、嘆き悲しむ遺族の言葉、そうしたものに接すれば接するほど、私たちの犯人を憎む心は強くなる。その逆に、18歳で犯行に及ばざるを得なかった犯人の不幸な生い立ちや、こんな子供に育ててしまって申し訳ないと泣き崩れる両親の様子などを目の当たりにすれば、被告にもう一度立ち直るチャンスを与えたくなるかも知れない。裁判員制度がスタートすると、審理はこれまでよりも格段にスピードアップされるそうです。忙しい一般人を法廷に呼び出すのだから当然です。そんな中では、私たちは被害者と被告人の両方に充分〈寄り添う〉時間的余裕も与えられないでしょう。3時間の映画を30分に短縮したダイジェスト版を見せられて、感想を述べよと言われても、責任ある発言など出来る訳がありません。しかもマスコミの操作もあって、国民の犯罪を憎む気持ちは日に日にエスカレートさせられている。どういう結果が待っているかは、誰にでも想像がつくことです。

 裁判員制度が始まると、日本の刑事裁判から慎重さや冷静さが失われ、代わって剥き出しの道徳的感情が法廷を占領することになるのだと思います。これが本当に日本の刑事裁判の質を高めるための制度なのか、私には疑問なのです。もともとどんな刑事事件においても、私たちの道徳的感情が完全に納得出来る判決というものは無いと私は思っています。被害者の気持ちに寄り添えば、極刑以外はあり得ないと思えるし、加害者の立場に寄り添えば、更生の機会を与えてやりたいと思うのが自然の情というものでしょう。どちらがより正しいというものでもないし、話し合いをすれば裁判員全員の考え方が一致するというものでもない。で、判決は多数決でということになるらしい。とんだ民主主義だと私は思います。私たちの社会は、個人の剥き出しの道徳的感情で人を裁かないよう、法律というものを整備し、刑の公平さを保つために判例というものを積み重ねて来たのです。そしてこの法を司る専門家として、重い責務を負う裁判官と呼ばれる人たちに判決を出す権限を預けたのです。そんなことは国民としての常識だと私は思っていました。その常識がいままさに覆されようとしているのです。

 これまで裁判員制度について、いろいろな視点から意見を言って来ました。読む方にとってもいい加減うんざりだろうし、この話題はもう今回で最後にしたい気持ちです。理屈はどうあれ、ホンネを言えば私は、素人を集めて人を裁かせようという発想自体に深い嫌悪を感じているのです。この制度の実施により、日本は通常の法治主義から、合法的な私刑(リンチ)による犯罪の抑止という恐怖主義に転換するのだと私は理解しています。それはいわば、国民の犯罪に対する強烈な憎悪を利用した相互監視国家というようなものです。そんなものの実現のために、私は指一本たりとも貸したくはない。これが私が裁判員を辞退したい本当の理由です。

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2008年4月20日 (日)

「裁判員辞退の請願書」文案

 早ければ今年の暮れあたりには、くじ運の悪い人たちのところに第一便の「赤紙」が届くのだそうです。地域の裁判所から送られて来る、裁判員としての呼び出し状のことです。これを国民としての義務だなどとまともに受け取って、のこのこと裁判所に出掛けて行くと、どのような悲惨な目に遭うか、それについて説明することはこのブログの目的ではありません。私がこの件で心を痛めるのは、おそらく真面目で良心的な人ほど、「国民としての義務」という考えと、「自分には人は裁けない」という思いのあいだで気持ちが引き裂かれるに違いないという点です。裁判員制度の問題点に関しては、既に私はこのブログで何度も論じて来ました。制度実施の具体的な日程が決まったいま、問題は裁判員制度の是非を論じることではなく、いかにこうした善良なふつうの市民に救いの手を差し伸べられるか、その戦略を練ることだと思います。

 『裁判員制度の正体』を著した西野喜一教授によれば、裁判員になることを拒否するのは簡単なことで、呼び出し状を読まずに捨ててしまえばいいのだそうです。裁判員法によれば、正当な理由無く裁判所への出頭を拒否すれば、10万円以下の過料(罰金)を科せられることになっています。私としては、罰金を払うのが惜しいというよりも、一方的に呼び出しを無視して欠席することにためらいがあります(気の弱い善良な市民なので。笑)。出来れば、正々堂々と自分が裁判員を辞退したい理由を述べて、裁判所にもそれを納得してもらった上で合法的に裁判員任命を拒否したい。もしも呼び出しに応じて裁判所に行けば、担当の裁判官との面接が待っています。むろんそこで自分が裁判員を辞退したい理由を述べる訳ですが、なんたって相手は百戦錬磨の論争のプロです。口下手な私なんか、簡単に言い負かされてしまうに違いない。(例えば、「あなたのように是を是、非を非としてしっかり主張出来る人こそ、裁判員として期待される人材なんです」なんて言われて。笑) わざわざ辞退しに行くために仕事を休むのももったいないし、ここは出来れば文書の返信だけで済ませたいところです。で、もしも自分ならどのような「裁判員辞退の請願書」を書くか、その文案を考えてみました。もしも裁判員になりたくない方で、この私の考えに同感してくださる方がいらっしゃるなら、以下の文章を参考にしてみてください。ライセンスフリーですから、そのままコピーして使っていただいても、適当に修正していただいても構いません。忙しいあなたが、裁判員辞退のために時間をつぶす必要など無いのです。

 『前略、○○地方裁判所、ご担当裁判官殿

 この度、貴裁判所より裁判員としての参加要請を受けた者です。以前から裁判員制度というものが始まることは承知しておりましたし、その内容もある程度は理解しておりました。が、まさか自分が呼び出し状を受け取るとは思ってもいませんでした。いささか動揺しながらこの文章を書いています。これは裁判員候補になることをお断りするためのお願いの手紙です。

 裁判員を辞退するために、思想信条が理由にならないことは、すでに新聞等でも読んで知っていました。私が裁判員を辞退したい理由は、自分は司法の世界には縁の無い一私人であり、そうした立場の人間として、他人を裁くことなどは絶対にしたくないという一点に尽きます。もしかしたら、こうした考え方自体が思想信条の一種だと判断されるのでしょうか? だとすれば、私の辞退の理由は、まさに思想信条によるものかも知れません。しかし、どうしても人を裁きたくないという人間を、無理矢理に裁判員として法廷に引っ張り出しても、それで公正な裁判が行なわれるとは私には信じられないのです。私は自分が裁判に参加すると、判決の結果を歪めてしまうことを怖れるが故に、辞退を申し出るのです。

 聞くところによると、ひとつの事件に必要な6人の裁判員を選び出すために、数十人の候補者を面接するのだそうですね。しかもその面接を、担当の裁判官殿が自ら行なうのだとか。欧米諸国と比べて、日本の裁判官は、ひとりが担当しなければならない事件の件数が非常に多いという話を聞いたことがあります。そのために1件ずつの審理に充分な時間が取れないという事情もあるらしい。この上さらに裁判員候補の面接審査などという厄介な仕事まで押し付けられたのでは、日本の裁判官の人たちのメンタルヘルスは大丈夫だろうかと余計な心配をしてしまいます。なにしろ国民の中から抽選で選ばれた有象無象の輩が集まるのです。クセのある人間や精神的な問題を抱えた人間だっていっぱい来るでしょう。毎日毎日そうした人間を面接しながら、その合間に本業の裁判もこなさなければならない。その裁判の中では、これまた素人の裁判員を手取り足取り指導してやらなくてはならないのです。ほんとうにご苦労様な話です。

 私はこの制度に対して、日本の裁判官の方たちが何故はっきりノーと言わないのか、それが不思議でなりません。もしも巷間言われているように、多くの裁判官が世間の常識とかけ離れた判決を出しているという事実があるのなら(私自身は全くそうは思っていません)、そもそも裁判員候補者の面接審査を裁判所にやらせること自体が矛盾です。常識に欠けた人に、良識ある人の選任は出来ない筈のものだからです。どうです、こんな失礼な話ってないじゃありませんか。私は医師や教師や判事といった職業の方たちを、高度な専門知識と高潔な職業倫理を持ったプロフェッショナルとして尊敬しています。そしてこのところの、「近頃の医者は…」とか、「最近の先生は…」などと軽々しく批判する風潮を憎んでさえおります。裁判員制度などというのは、この嘆かわしい風潮の典型たるものです。何故、日本の裁判官は、プロフェッショナルの誇りにかけて、これにノーを言わない?

 どうか私の裁判員辞退を、日本の司法に対する挑戦だなどと受け取らないでください。むしろ逆なのです。私は裁判員制度に疑問を持っている多くの国民と、今回の司法制度改革に翻弄されている裁判官の方々とが、協力してこの愚劣な制度にストップをかけて行くべきだと思っているのです。ひとりの国民として出来ることは、裁判員への任命をボイコットすることぐらいでしかありません。しかし、国民の多くがこの方法を選択すれば、少なくとも日本の司法の崩壊は避けられるのだと信じます。このような私の考えは、明らかに思想信条に属するものでしょう。だから裁判員辞退の理由として認めないと、裁判官である貴方はおっしゃいますか? よろしい、もしもそうなら私は指定日に裁判所に出向き、貴方と2時間でも3時間でも議論をする用意がある。さあ、こんな私をそれでも貴方は裁判所に呼び付けますか?』

 …というような文章を書いてみましたが、今回の目論見にはひとつ重大な戦略上の盲点があることに思い当たりました。この請願書を裁判所に送り付けて、出頭日には無断で欠席したとしましょう。後日、裁判所から罰金10万円を支払うよう命じた命令書が届いた場合のことです。もちろんこちらは支払う気は無いし、悪しき前例を作る訳には行かないので、罰金取り下げの訴訟を起こすことになります。それは今後の裁判員制度の行方を占う上でも重要な訴訟になる筈です。結論は裁判に持ち込まれますが、その裁判は3人の裁判官と6人の裁判員で審理される訳で…、あかん、こりゃ勝ち目が無いじゃん!(

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2008年4月13日 (日)

「義務なら参加せざるを得ない」は本当か?

 とうとう来るべきものが来ました。法務省が今週、裁判員制度を来年の5月21日からスタートさせることを発表したのです。こんな誰の得にもならない馬鹿げた制度、放っておいても廃止の方向で決まるだろうと高を括っていたのですが、どうもこの予想は外れる見通しの方が強いようです。それにしても、この国の将来を揺るがす大問題であるにも関わらず、マスコミ各社がこの制度に対して採っている〈消極的是認〉の方針が気になります。どこの新聞社もテレビ局も、この制度への国民の理解が充分ではないといったことは指摘しますが、この制度自体が大きな問題をはらんでいて、制度の内容とそれが決められた経緯について、もう一度原点に帰って見直すべきだといった論点を提起するところが無い。この国では、マスコミが取り上げない意見は、要するに存在しないも同然ですから、何か新しい政策を通したければ、政府はまずマスコミを味方につけることが第一の条件になります。このところ、裁判員制度の宣伝をするために、どれほどの広告費がマスコミに流れているか考えてみてください。

 以前から裁判員制度に対しては断固反対の立場を表明していた私にとって、このニュース以上にショックだったのが、エイプリルフールの日に発表された最高裁のアンケート結果でした。今年に入ってから、最高裁は全国の1万人余りの国民に対して、裁判員制度に関する認知度や参加意向を問うアンケートを実施したのだそうです。その結果、裁判員制度のことを知っている国民は94.5パーセント、参加の意向については、「参加したい」「参加してもよい」という回答が15.5パーセント、「あまり参加したくないが義務なら参加せざるを得ない」が44.8パーセント、「義務でも参加したくない」が37.6パーセントという数字だったそうです。どうしてショックを受けたかと言うと、もしもこのままこの制度がスタートしたとすれば、国民の6割以上の人が(嫌々ながらも)裁判員として参加する見込みだと分かったからです。私は以前の記事で、もしもこの制度に対する国民の支持が5割以上あるなら、きっとこの制度はうまく行くだろう、そうなったら自分もこの制度の支持に回ってもいい、そんな書き方をしたことがありました。今回のアンケートで、この制度が国民の6割に支持されているという結果が判明した訳ではありません、むしろ支持率は15.5パーセントに過ぎないと見るべきでしょう。しかし、「義務なら参加せざるを得ない」という層がこれほど多いとは思わなかった。日本人の国民性を考えれば、「義務でも参加したくない」と答えた人の中にも、実際に裁判所からの出頭命令を受け取れば断れない人が多いに違いありません。たいへん残念な予測ですが、この制度は来年5月に平穏無事にスタートすることになるのだろうと思います。

 今日、国内で徴兵制を敷いている国の中で、「良心的徴兵拒否」の権利を認めていない国はほとんどありません。民主主義の進歩とともに、こういう権利は当然認められて然るべきだと思います。もしも第二次世界大戦が始まる前、参戦国の多くの若者がこの権利を行使していたなら、あの戦争はそもそも起こらなかったか、少なくともあれほど悲惨なものにはならなかった筈です。裁判員としての出頭命令は、しばしば〈現代の赤紙〉に喩えられます。私は「義務なら参加せざるを得ない」と考えている方たちに言いたいのです、もしもいま日本がどこかの外国との開戦前夜にあったとして、軍の召集に対して「義務なら参加せざるを得ない」と考えることは、要するにこれから起こる戦争を是認していることと同じではありませんか? 国や政府がやっていることのデタラメぶりが、これほど誰の目にも明らかになった時代なのに、国が決めたことだから、国民の義務だから仕方が無いと考えることは、民主主義国家の国民としてあまりに主体性の無い態度ではありませんか? 私は裁判員制度に対する国民の正しい態度は、「良心的出頭拒否」でしかありえないと思っているのです。

 そりゃあ戦争だとか軍隊だとかいうことになれば、良心的徴兵拒否ということにもそれなりの大義はあるだろうけど、裁判員制度をそれと一緒にすることには無理があるんじゃない? だってこの制度の目的のひとつは、日本の裁判を民主化することであって、それは民主主義の発展のためにもいいことなんだから。もしかしたら「義務なら参加せざるを得ない」派の人からは、そんな反論が返って来るかも知れません。が、ここが私にとって譲れないポイントなのですが、裁判員制度というのは日本の司法を民主化するものなどでは断じてないのです。欧米諸国に比べて、国民の司法参加ということに対する伝統がまったく無い日本は、また国民が犯罪に対して非常に厳しい厳罰主義を抱いている国でもあります。日本が世界中でも珍しいほど犯罪や殺人の少ない国であるということは、多くの人が知っている紛れもない事実です。それは何故だと思いますか? まあ、いろいろな理由が考えられるでしょうが、私は単純に「日本人ほど犯罪を憎む国民はいない」からだと思っています。一般的に日本人は、自分が犯罪を犯すことへの抑制心も強い代わりに、他人が犯した犯罪を赦さない厳格さにおいても他国民の追随を許さない。これは凶悪な犯罪が起こると、マスコミと国民とが一体となって憎悪のうねりを増幅させる、昨今の状況を見ても想像がつくことです。そんな国民を法廷に招じ入れて、被告を裁かせる。考えてみれば、こんなそら恐ろしいことが他にあるだろうか?

 政府が裁判員制度を導入しようとしている背景には、国際的な流れに反して、犯罪に対する厳罰主義を堅持したい思惑があるのだと私は見ています。犯罪大国であるアメリカを除いて、日本は先進国のなかでも例外的に死刑制度を存続させて、それを有効に活用している国です。(鳩山法相は今週また4人の死刑囚に死刑を執行しました。) いま欧州連合やアムネスティ・インターナショナルから、日本は死刑廃止に向かうよう勧告を受けています。一方、日本国内では実に8割以上の国民が死刑存続を支持している。政府が国際世論をかわすために、裁判員制度のようなものを導入すること以上に効果的な政策は考えられません。制度導入後、日本の刑事裁判が厳罰化に向かい、死刑の確定数がぐんと増えたとしても、それが国民の総意であると抗弁すれば、国際人権団体だってそうそう強くは抗議出来ません。この政府の思惑は、おそらくうまく図に当たるのだろうと思います。これは大きな声では言えないことですが、死刑制度に反対だったり、刑事罰の厳罰化に反対するような人ほど、裁判員の召集に対しては「良心的出頭拒否」を貫こうとする傾向があるでしょうし、逆に法廷で悪人を懲らしめてやりたいと思うような人ほど、裁判員になることに前向きな傾向があると予想出来るからです。もしかしたら、初めからこの政策にはそこまでの深慮遠謀が織り込み済みだったのかも知れません。

 最高裁のアンケート結果では、この制度の中身をよく知った人ほど、裁判員になることへの抵抗感が減る傾向にあるとも報告されています。冗談ばかり言ってます。私は以前の記事で、西野喜一さんという元判事の方が書かれた『裁判員制度の正体』という本を紹介しました。こういった本を読んで、この制度の内実を知れば知るほど、誰も怖くて裁判員になどなりたくないと思うのは必至です。法務省が作った裁判員制度PR用のポスターには、「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」なんてコピーが付けられている。(あんたの視点、あんたの感覚なんかで裁かれたくない、というポスターを私ならその隣りに貼ってみたい。) こういった国民をバカにしたイメージ広報はもうたくさんです。裁判員制度の施行まで1年余りと迫った今、マスコミ各社はもっと具体的な制度の実態について国民に知らしめて行くべきです。それと同時に、この「天下の大悪法」(@高野善通さん)に歯止めをかけるラストチャンスとして、民主党がこの制度の白紙撤回(撤回が無理なら、とりあえず延期か見直し)を打ち出して、総選挙を戦ってくれることに期待するばかりです。

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2008年4月 6日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(2)

 確かチェーホフの作品の中で登場人物の誰かが口にしたエピソードだったと思います。日照りが続き旱魃が心配されたある年、ひとりの神父が雨乞いの祈祷のために教会に出掛けました。彼は帰り道のことを心配して、わざわざ傘を持って教会に向かったのだそうです。ほんとうの信仰というものがあるとすれば、つまりはそういうものだというのです。思わずニヤリとしてしまいそうなチェーホフらしいユーモアですが、ある人が持っている信仰心のレベルというのも、考えてみればなかなか難しいテーマだという気がします。私は自分を無神論者だと思っていますが、それではほんとうに神様(人間や世界を超えた何者か)の存在を一点の曇りもなく完全に否定しているかと聞かれれば、100パーセントではないような気もする。『神は妄想である』の中で、ドーキンスは虹のスペクトラムに喩えて、神の存在する確率を7段階にランク分けしています。この7段階のどれが心にしっくり来るかによって、その人の信仰の度合いが測られるという仕掛けです。完璧な有神論から完璧な無神論まで、以下のような「信仰のスペクトラム」が提示されます。

1.神は100%の確率で確実に存在する。(完璧な有神論)
2.100%ではないが非常に高い確率で神は存在する。
3.確実とは言えないが50%以上の確率で神は存在する。
4.神が存在するかしないかは五分五分の確率である。(不可知論)
5.確実とは言えないが50%以上の確率で神は存在しない。
6.100%ではないが非常に高い確率で神は存在しない。
7.神の存在は100%の確率でありえない。(完璧な無神論)

 そもそも信仰をパーセンテージで測ろうという発想自体、宗教サイドの人たちからは反感を買うようなものであるかも知れません。ここはまあ、ひとつのお遊びだと考えてください、この中であなたの心にしっくり来るのはどのレベルですか? もしも「神」というコトバがしっくり来ないなら、別にキリスト教の神でなくても、日本の八百万(やおよろず)の神でもいいし、仏教でいう如来様や菩薩様のようなものでもいい。もっと現代人らしく〈超越的存在〉という概念一般で考えてもいいです。私自身は自分がレベル6にいると感じています。面白いのは、『神は妄想である』を書いているドーキンスさんも、自分はレベル7に近いレベル6だと言っていることです。完全否定じゃないんですね。ただこれは、心の中に信仰に傾く余地を1パーセントだけは残しているといった意味ではなく、どんなありえなそうなことにも可能性の余地は残すという科学者としての態度から来ているようです。このリストを眺めているだけでも、いろいろな考えが湧いて来ます。例えば、この一覧表の中にある「神」というコトバを、「霊」というコトバで置き換えてみたらどうでしょう? 最近のスピリチュアル・ブームからすると、日本人としてはこちらのテストの方が興味深い気もします。「確実とは言えないが50%以上の確率で霊は存在する。」 これになら結構多くの人が賛同するのではないでしょうか。たぶん私自身も、こちらの場合だったら、レベルが一段上がって(下がって?)、レベル5くらいになりそうな気がする。

 もうひとつ、このリストを見ていて気が付くことは、自分のような世俗にまみれた人間は、その時々によって移り気にレベルが変わるということです。いくら無神論者を自負していても、人生の中で本当に困った時には、神頼みのひとつもしたくなりますし、それで結果が思わしくなければ、「ちくしょう、神も仏もあるものか!」と悪態のひとつもつきたくなる。たぶんそんな経験は(日本人なら)多くの人に共通したものだと思います。正月には神社に初詣に行って、クリスマスにはツリーを飾ってケーキを食べ、死んだ時にはお坊さんを呼んでお経を上げてもらう、そういったことは信仰の問題というより習俗の問題ですから、日本人の宗教心の問題とはそれほど関係が無いような気がします。しかし、愛する人が病院の集中治療室で生死をさまよっている時だとか、我が子が行方不明になって警察からの連絡を待っている時だとかを想像してみれば、大抵の人は何かに祈りたい気持ちになるのが普通でしょう。(そんな時でもドーキンスさんのような人は、神頼みをしたい気持ちに駆られないのでしょうか? 素朴な疑問です。) 日本人は、という言い方は慎重にしなければならないので、少なくとも私はと言いますが、少なくとも私は日頃の不信心を棚に上げて、自分の都合のいい時だけ神様に祈ったり、仏様に感謝したりすることに矛盾も後ろめたさも感じていません。もしもこの点を衝かれて、例えばキリスト教文化圏の人に、おまえの宗教観は未熟であるとか、世俗的で不純であるとか指摘されたとしたら、これに対しては大いに反論したい気持ちになります。

 リチャード・ドーキンスの本を読んで、とにかく強く感じることは、ここで扱われている宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)というのは、つくづく人間に対して厳しくて、懲罰的な宗教なんだなあということです。これがきっと我々には、じゃなかった私には、実感しにくい部分なのですね。私は若い頃からニーチェという哲学者が好きで、かれこれ30年以上も愛読しています(手許にある『ツァラトゥストラ』の岩波文庫版は、昭和49年発行の第5刷です)。ニーチェは歴史上、初めてキリスト教に対して正面から対決を迫った哲学者だと言われます。しかし、『神は死んだ』という彼の有名な言葉も、キリスト教の歴史という大きな大河ドラマに出て来るひとつの名セリフに過ぎない、今日ではそういう見解の方が定説になっているようです。そういう意味では、自分にはニーチェを本当には理解出来ないような気がします。一方、『神は妄想である』について言えば、これはもう宗教史の一変奏曲などという見出しでは括れない、科学的な合理主義からのアンチ宗教論である訳で、そういう意味でこれはキリスト教文化圏の外にいる人間にとっても、非常に理解しやすい本だと言えると思います。ただ、それでも私のような〈異教徒〉にとってやはり理解しがたいのは、著者が何故そこまでの(宗教的とも言えるほどの?)情熱を傾けて、すべての宗教に対して容赦ないパンチを食らわせるかということです。

 この本の中でとても共感を持って読めるのは、例えば子供に小さい頃から宗教的な観念を植え付けるのは止めようという主張です。キリスト教の神は、常に人の心の中を監視していて、行動にすら移されなかったどんな小さな〈悪〉でも見逃さずにリストアップされ、そのリストは最後の審判の時まで大事に保管されていて、それをもとに天国に行けるか地獄で永遠の業火に焼かれるかが決定されるのです。確かにこんな教義をものごころがつく前の幼い頃から刷り込まれるとしたら、これはたまらないことですね。実際にその犠牲となって苦しんでいる人たちの事例が、この本ではたくさん紹介されています。これはそうした宗教的な背景を持たない家庭でも若干は起こり得ることで、例えば我が家でも三歳の息子がなかなか寝ないと、「鬼が来るよ」なんて言って脅かしたりすることがある。(三歳児はほんとうに鬼を恐がるんですよ。) まあ、この点は今後気をつけるとして、家庭からすべての宗教的な色彩を取り除けば、子供が自由な心を持ってのびのび育つかと言えば、それもどうなんだろうと思う。ドーキンスさんは、小さな子供が持つ「想像上の友達」が進化して、大人の信じる神になったのではないかという仮説を提示しています。キリスト教の神は、信者の心の中に他者の声として現れるものだからです。小さな子供を見ていると分かりますが、子供は実に濃密なアニミズムの世界に生きています。うちの子もよくぬいぐるみとふたりで会話している。これが宗教心の芽生えだと言われるのは抵抗があります、むしろ他人を思いやる気持ちを身に付けるための予行演習をしているのだと言われた方が、自分としてはしっくり来ます。

 この本を読むことで、とにかく政治においても教育においても家庭においても、宗教というものがどれだけの害悪をもたらすものなのかが具体的にイメージ出来ました。でも、それは特に現代のアメリカにおけるキリスト教の問題を中心としたものです。著者はそこから敷衍してすべての宗教に対してノーを突き付けているように見えますが、そこに自分としては違和感を感じるのです。別に日本人が持っているような汎神論的な宗教観を代替案として提出しようというのではありません。しかし、神の存在がほとんど100パーセントの確率であり得ないのと同様、人間が時に神(のようなもの)を必要とするということもほとんど100パーセントの確率で事実です。キリスト教圏では、実際にドーキンスさんの畳みかける議論におされて、それまでの信仰が揺らいでいる人もいるのではないかと思います。そういう人たちの失った信仰の穴を埋めるものが、ダーウィンの進化論だけではいかにも心もとない。空いた信仰の穴はもうひとつの別の信仰で埋めるしかないのではないか、自分としてはそんなことを考えるのです。

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