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2008年3月30日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(1)

 決して勤勉な読書家ではないけれども、いい本とめぐり会いたいという気持ちはいつでも持っています。特にブログを始めてからは、自分が書く記事のネタ探しという意味でも、読書に対する欲求は高まっています。若い頃からの悪い癖で、読み始めた本の八割がたは最初の数頁で放り出してしまうのですが、それでも年に一冊か二冊くらいは、ほんとうに面白いと思える本に出会うことがあります。一年以上前に『エンデの遺言』という本でシルビオ・ゲゼルという思想家のことを知ったのも、そうした出会いのひとつでした。これをネタにずいぶんたくさんのブログ記事を書かせてもらいました。最近、久し振りに、もしかしたらこれはネタの宝庫かも知れないと思える本に出会いました。英国の著名な生物学者、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』という本です。ドーキンスさんの本は、以前にも有名な『利己的な遺伝子』を読もうとして、途中で挫折した経験があります。しかし、昨年日本語訳が出版されたこちらの新刊は、五百ページを超す厚い本であるにもかかわらず、ほとんど一気に読み通してしまった。図書館で借りた本だったので、書き込みが出来ないのが残念なくらい、随所に心を高揚させる文章が散りばめられた本でした。ろくに読みもせずに、利己的な遺伝子説には何となく反撥を感じていた自分が、いっぺんでドーキンス・ファンになってしまったほどです。

 日本語タイトルの『神は妄想である』というのは、あまりにストレートで工夫が無いように思いましたが、原題は『THE GOD DELUSION』ですから、そのまんまなんですね(“Delusion”は精神病理学で言う「妄想」のことだそうです)。タイトルからも分かるとおり、これは宗教批判の本です。それも生やさしい批判ではない、むしろあらゆる宗教的なものに対する宣戦布告の書と言ってもいいような内容です。私がこの本を読みながら、襟を正さずにはいられないような気分になったのは、ひとりの科学者の知的な誠実さというものが、ここまで徹底して欺瞞や妥協を排除するものなのか、そういう驚きがあったからです。以前からこの著者の著作の中には、宗教的な、あるいは超自然的なものの見方に対する批判の言葉があったと思います。2006年に出版されたこの『神は妄想である』という本がその中でも際立っているのは、おそらく9.11事件以後の世界の動向に著者が深い憂慮を抱いていることと無関係ではない筈です。あの事件をきっかけにアメリカはテロリストとの戦争を宣言し、イラクに攻め込みました。キリスト教原理主義者のブッシュ大統領は、この戦争を十字軍に喩える発言をしています。あろうことか、二十一世紀にもなってこの地球上では宗教戦争が勃発したのです。この時代背景が、著者の心に火をつけたのだと思います。この本の全編にみなぎる緊張感は、宗教的なものに退行して行く時代の趨勢に対峙しようとする、著者の心の緊張感から来ていると感じられます。

 平均的な日本人として、と言っていいのかどうか分かりませんが、私自身は特定の宗教にも属さないし、はっきりした信仰も持たない人間なので、ドーキンスさんが宗教を攻撃する容赦の無い態度にもさほど抵抗感はありません。例えばユダヤ教とキリスト教とイスラム教という、歴史的には兄弟であると言ってもいい三大宗教が、何故あんなに互いに仲が悪いのか私には理解出来ませんし、また現在のアメリカが、ダーウィンの進化論を教えることを禁じるほどの偏狭な原理主義に陥っていることに、一種の気味悪さを感じてもいます。この本を読めば、状況は想像以上にひどいものだということがよく分かります。いまアメリカは大統領選のまっ最中です。優秀な候補者が互いに意見を戦わせ、国民が直接それを評価するというシステムは、同じ民主主義国家として羨ましいものです。ですが、クリントンにしろオバマにしろマケインにしろ、もしも自分は無神論者であるなどとひと言でも言えば、ただちに選挙戦から脱落してしまう。アメリカの政治家は、たとえ心の中ではキリスト教の神を信じていなくても、そのことを完璧に隠して政治活動を行なわなくてはならないのだそうです。こちらの事実は全然羨ましくないですね。アメリカやイギリスにも隠れた無神論者は多い筈ですが、そういう人たちは一般的に党派を組まないので、政治的にはマイノリティにとどまらざるを得ない。ドーキンスさんは、そういう人たちの勢力を政治的に糾合出来ないだろうかと提案しています。

 勇気ある人が「王様は裸だ!」と叫んだ時、前々から心の中では同じように感じていた人たちが、その叫びに呼応しないならば、結局何も変わりはしません。この本を読んで、心が鼓舞されたように感じたのは、まずはそういう点でした。一般的に日本人は宗教心が薄いと言っても、日本でも政治に宗教的な勢力が食い込んで来ているのは事実です。この国では宗教の自由も政治活動の自由も認められているので、宗教法人が政治勢力を形成すること自体を否定することは出来ません。でも、何故それがよりによって与党なのでしょう? 今の政権政党の不人気は、総裁たるべき人の無能や政策の無策ということもありますが、政治の世界で長く続いているこの「異物混入」にも大きな原因があると私は見ています。この本の中で著者が何度も指摘しているように、今日の自由主義国家では宗教というものが少し丁重に扱われ過ぎているようです。宗教法人が税制上の優遇を受けていることは、日本も他の先進国も変わりませんし、信仰の自由に関する問題と言われれば、マスコミの論調も腫れものにさわるようなものになってしまう、この点も各国共通しているようです。私もこのブログでは、政府批判のようなことを結構自由に書き散らかして来た一方で、現代の宗教について語ることには一種の禁忌を感じていたことを認めざるを得ません。むしろリベラルな人間として、宗教の問題に対しては寛大であるべきだと思っていたフシもある。リチャード・ドーキンスは、そういう我々の頭上にも容赦なく鉄槌を振るいます。

 宗教を批判するに当たって、宗教組織の金権構造であるとか、信者の人たちへのマインドコントロールといった点を取り上げて批判することは容易だし、そういう論点の書物なら世の中にいくらでもあると思います。しかし、この本での批判の矛先は、宗教におけるそのような個別の問題にのみ向けられているのではありません。タイトルからも推測されるとおり、「そもそも神などというものはどこにも存在しないのではないか?」というのが、ドーキンスが読者に投げかけている根本的な疑問なのです。(科学者らしく、「非常に高い蓋然性で神は存在しない」という表現が使われていますが。) 考えてもみてください、どこかの国のトンデモ本ならともかく、第一線で活躍する世界的な科学者が、ふつうそんな本を書きますか? また書いたとしても、現代の読書人を納得させられる内容の本になると思いますか? それを驚くべき力技でやってみせたのがこの本だと私は受け止めました。二十世紀のポストモダニズムを経て来ている私たちは、宗教に限らず、時代により民族により異なった価値観があるということに、寛大で中立な態度で向き合うことを躾けられて来ました。著者はそのパラダイムをも壊しにかかっているのだと思います。だとすれば、これは非常に大きな問題提起の書であると言うことが出来ます。

 宗教に関しては、前々から一度はじっくり取り組んで、書き物にまとめてみたいと思っていました。そんな折りにこんな本と出会ったのも何かの縁です。(いやいや、「縁」などと言ったら、それこそドーキンス博士に怒られちゃいますね。) 自分には宗教について体系立てて理論を構築したり、あるいは説得力ある批判や擁護を展開する力はありません。でも、この本の中で自分が共感した部分や反撥を感じた部分を軸にすれば、おのずから宗教に対する自分の考えがまとまって行くかも知れない、そんなふうに思うのです。とても1回や2回の記事で語り尽くせる問題でもないので、これも不定期での連載になると思います。この本は発売されるやアメリカを中心にベストセラーになっているそうです。ドーキンスさんは、この本を単なる宗教批判のための本ではなく、宗教という足枷から読者を解き放つ〈意識高揚〉のための本であると言っています。ダーウィンの進化論を、人類の心を高揚させるものとしてドーキンスさんは推奨しますが、私はむしろこうした時代にこうした本を敢えて刊行した、著者の科学者としての知的良心に心を高揚させられます。宗教に関して口をつぐむのは、もういい加減おしまいにしよう、この本を読み終えて本気でそう思い始めています。

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コメント

 ドーキンスさんは、天然自然の存在の創造主である神がいることについて、とんとご存知ではないのです。
 ドーキンスさんが知っているのは、ヒトが妄想しでっち上げた宗教信仰上の神。

 ヒトがこの世界に誕生する前から、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きでこの世界とヒトを創造した創造主である神が存在することを、創造主である神自らに存在証明させることができます。
 なお、自然科学は、自然自らにその存在とこの世界の成り立ちと仕組みを語らせるものです。

  一般法則論者
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/

投稿: 一般法則論者 | 2008年3月30日 (日) 23時50分

ROMしておりますが、ちょっとお邪魔します。シルビオ・ゲゼルは私も好きな思想家です。

ついでに、ネタの宝庫になり得る書籍をご紹介。もう、お読みかも知れませんが。

エマニュエル・レヴィナス(著)、内田樹(訳)
『観念に到来する神について』(国文社、1997年)p.7
——本書に収録されたテクストは、「神」という語を意味のある語として悟性的に了解することの可能性——ないしは悟性的に了解するという事実そのもの——について考察したものである。この考察は「神は存在するか、存在しないか」という問題とは切り離されたかたちで進められる。したがって、この考察は、「神は存在するか、しないか」という選択を前にしたとき人はいかなる決定が取りうるかという問題とも、そのような選択自体にそもそも意味があるかどうかという問題とも、とりあえずは関わりを持たない。「神」はいかなる現象性からも乖離しているはずであるけれども、とにかく「神」という語がなにごとかを意味しうる、あるいは現に意味しているような現象学的な具体的様相が存在すること、このことは確実である。本書が考察するのは、かかる具体的様相に他ならない。(以下略)

岩田靖夫(著)『神なき時代の神 キルケゴールとレヴィナス』(岩波書店、2001年)
もう少し読みやすい同著者の本に、
岩田靖夫(著)『よく生きる』(ちくま新書、2005年)
最後の本は子どもに読ませています。私は自分の表現力不足で、信仰者がどのように考えているのかという例を示してやることができないからです。信仰者のサンプルを集めて、信仰とは、いかなる現象であるのか、きちっと考察することが子どもらにとって重要かと思っております。

道徳進化が無神論に行き着くのかは、多分、我々の目の黒いうちに決着するような問題ではなく、私の子どもらや、まだ生まれない孫たちも考えることになるでしょう。

お邪魔しました。

投稿: | 2008年4月 4日 (金) 11時05分

コメントありがとうございます。

レヴィナスの著書からの抜粋は、これだけ読んだだけでも頭が痛くなりそうな文章ですね(笑)。内田樹さんの文章は、とても好きで本やブログもよく読むのですが、レヴィナスとなると最初から歯が立たないような気がして、ついつい敬遠しています。

それにしても、ドーキンスもレヴィナスもともに現代を代表する知性と言っていいと思うのですが、どうしてこう同じテーマでも方向性が違うのでしょう。この二人が対話しても、絶対に議論が噛み合うことはないと思います。単に科学者と哲学者という立場の違いだけなのでしょうか?

ご紹介していただいた本、機会があれば読んでみたいと思います。思えば、宗教的なものに対する薀蓄もまったくないのに、無謀な連載を始めたものだと思います。まあ、いつものとおり書きながら考えていくタイプなので、書いているうちに考え方が一貫しないところも出て来るでしょうが、その点はどうぞご容赦いただけたらと思います。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年4月 7日 (月) 00時34分

 あるオーストラリアの英語学校の自由討論のクラスでの出来事でした。そこで司会者のオーストラリアの男子高校生が「この世に神が存在するかどうか?」という話を切り出したのです。
 その質問を聞いたとたん、日本の二人の女子大生が「ケラケラ」と大笑いしてしまったのです。彼女たちにしてみれば「神なんかいないに決まってるじゃん。そんな幼稚な話をここでやるの? 高校生らしいわね」といった感じだったのでしょう。
 しかしその笑いが教室内を一瞬静まり返らせてしまったのです。ひと呼吸の後、司会のオーストラリアの男子高校生は少し怪訝な感じで「何かおかしいですか?」と流暢な日本語で彼女たちに問いかけたのです。それに対して、彼女たちは黙り込んでしまって何も答えず、益々気まずい雰囲気になってしまったのです。

 我々日本人の大半は神など存在しないと思っているでしょう。しかし問題は、それが確固たる信念に基づいた考えではないことです。
 学校でも家庭でも子供たちに「神は存在しない」ということを教えていませんし、例外をのぞいて誰も真剣にその問題を討論してはいませんから、信念に基づいた無神論者ではないことは明白です。

 こういう僕も、今では神の存在を信じていません。しかし反面、何故かこの全宇宙の存在を統括する創造主のような神がいると思っていたいと願う、もう一人の僕が心の中にいます。
 これはもしかしたら、神を信じる多くの人たちを排斥するのではなく、同じ人間として心の中に受け入れようとする僕の潜在的な意志の代用なのかも知れませんが...。

 哲学や倫理の問題はともかく、現実なんて、こんなもんです。
 実際、前述の自由討論のクラスで「僕は神の存在を信じていません。その根拠も持っています」とはっきりと宣言したとき、司会の彼は肯定も否定もせず何も言いませんでした。それが何を意味するかを問いただすことはしませんでした。不毛な議論になることが分かっていたからです。

 僕の信念はこうです。全ての自然界の物体(生命体も含む)は、宇宙の自然の法則の中で相互に反応し合い、うごめいているだけです。周囲の自然界の法則に合わないものは消えてゆき、適合しているものだけが存在し続けられるのです。いわば極めつきの進化論者ですね。
 まさに進化論が無神論者を生んだと言えるでしょう。

 人類は今、人口の大爆発を起こしました。その結果、自らの手で資源を浪費し安定していた自然環境を壊し、緩やかに推移していた自然の法則の変化をメチャクチャにして、その法則についてゆけなくなりつつあります。
 このことこそが現代の哲学や倫理面での大問題ではないでしょうか?

 しかし我々もただの中型ほ乳類の一つ。人口の爆発は決して止まらないでしょう。一方、科学の力で全ての問題が解決できるなどという幻想は気休めに過ぎません。どうしたらいいのか誰にも答えられないかもしれません。
 そうであれば結局、多くの犠牲を覚悟しなければならないのでしょう。

 この人口の急増問題をぜひ論じてほしいですね。
 政治家の問題でもありますが、世界の政治家たちは分かっていても容易には動きませんね。宗教が絡んでいますから...。

 僕が神の存在を信じない理由は、我々生命が地球の自然界の中にある単なる物体の一種であることが、ほとんどハッキリ理解できたからです。
 僕の最近立ち上げたホームページにそれが書いてあります。読んでみて下さい。

 2008.4.24 岡部 良一

投稿: 岡部 良一 | 2008年4月24日 (木) 03時23分

岡部良一さん、コメントありがとうございます。

私も哲学的な思索の経歴は長いのですが(かれこれ三十数年になります)、五十歳を過ぎた今日まで、何か天啓のようにひらめいた考えというものが無いのです。岡部さんは既に何かを発見された方なのですね? たぶん探し求めているものは同じだという気がします。機会があればぜひ拝読させていただこうと思います。

投稿: Like_an_Arrow | 2008年4月28日 (月) 01時44分

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