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2008年3月30日 (日)

道徳進化が行き着く果ての無神論(1)

 決して勤勉な読書家ではないけれども、いい本とめぐり会いたいという気持ちはいつでも持っています。特にブログを始めてからは、自分が書く記事のネタ探しという意味でも、読書に対する欲求は高まっています。若い頃からの悪い癖で、読み始めた本の八割がたは最初の数頁で放り出してしまうのですが、それでも年に一冊か二冊くらいは、ほんとうに面白いと思える本に出会うことがあります。一年以上前に『エンデの遺言』という本でシルビオ・ゲゼルという思想家のことを知ったのも、そうした出会いのひとつでした。これをネタにずいぶんたくさんのブログ記事を書かせてもらいました。最近、久し振りに、もしかしたらこれはネタの宝庫かも知れないと思える本に出会いました。英国の著名な生物学者、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』という本です。ドーキンスさんの本は、以前にも有名な『利己的な遺伝子』を読もうとして、途中で挫折した経験があります。しかし、昨年日本語訳が出版されたこちらの新刊は、五百ページを超す厚い本であるにもかかわらず、ほとんど一気に読み通してしまった。図書館で借りた本だったので、書き込みが出来ないのが残念なくらい、随所に心を高揚させる文章が散りばめられた本でした。ろくに読みもせずに、利己的な遺伝子説には何となく反撥を感じていた自分が、いっぺんでドーキンス・ファンになってしまったほどです。

 日本語タイトルの『神は妄想である』というのは、あまりにストレートで工夫が無いように思いましたが、原題は『THE GOD DELUSION』ですから、そのまんまなんですね(“Delusion”は精神病理学で言う「妄想」のことだそうです)。タイトルからも分かるとおり、これは宗教批判の本です。それも生やさしい批判ではない、むしろあらゆる宗教的なものに対する宣戦布告の書と言ってもいいような内容です。私がこの本を読みながら、襟を正さずにはいられないような気分になったのは、ひとりの科学者の知的な誠実さというものが、ここまで徹底して欺瞞や妥協を排除するものなのか、そういう驚きがあったからです。以前からこの著者の著作の中には、宗教的な、あるいは超自然的なものの見方に対する批判の言葉があったと思います。2006年に出版されたこの『神は妄想である』という本がその中でも際立っているのは、おそらく9.11事件以後の世界の動向に著者が深い憂慮を抱いていることと無関係ではない筈です。あの事件をきっかけにアメリカはテロリストとの戦争を宣言し、イラクに攻め込みました。キリスト教原理主義者のブッシュ大統領は、この戦争を十字軍に喩える発言をしています。あろうことか、二十一世紀にもなってこの地球上では宗教戦争が勃発したのです。この時代背景が、著者の心に火をつけたのだと思います。この本の全編にみなぎる緊張感は、宗教的なものに退行して行く時代の趨勢に対峙しようとする、著者の心の緊張感から来ていると感じられます。

 平均的な日本人として、と言っていいのかどうか分かりませんが、私自身は特定の宗教にも属さないし、はっきりした信仰も持たない人間なので、ドーキンスさんが宗教を攻撃する容赦の無い態度にもさほど抵抗感はありません。例えばユダヤ教とキリスト教とイスラム教という、歴史的には兄弟であると言ってもいい三大宗教が、何故あんなに互いに仲が悪いのか私には理解出来ませんし、また現在のアメリカが、ダーウィンの進化論を教えることを禁じるほどの偏狭な原理主義に陥っていることに、一種の気味悪さを感じてもいます。この本を読めば、状況は想像以上にひどいものだということがよく分かります。いまアメリカは大統領選のまっ最中です。優秀な候補者が互いに意見を戦わせ、国民が直接それを評価するというシステムは、同じ民主主義国家として羨ましいものです。ですが、クリントンにしろオバマにしろマケインにしろ、もしも自分は無神論者であるなどとひと言でも言えば、ただちに選挙戦から脱落してしまう。アメリカの政治家は、たとえ心の中ではキリスト教の神を信じていなくても、そのことを完璧に隠して政治活動を行なわなくてはならないのだそうです。こちらの事実は全然羨ましくないですね。アメリカやイギリスにも隠れた無神論者は多い筈ですが、そういう人たちは一般的に党派を組まないので、政治的にはマイノリティにとどまらざるを得ない。ドーキンスさんは、そういう人たちの勢力を政治的に糾合出来ないだろうかと提案しています。

 勇気ある人が「王様は裸だ!」と叫んだ時、前々から心の中では同じように感じていた人たちが、その叫びに呼応しないならば、結局何も変わりはしません。この本を読んで、心が鼓舞されたように感じたのは、まずはそういう点でした。一般的に日本人は宗教心が薄いと言っても、日本でも政治に宗教的な勢力が食い込んで来ているのは事実です。この国では宗教の自由も政治活動の自由も認められているので、宗教法人が政治勢力を形成すること自体を否定することは出来ません。でも、何故それがよりによって与党なのでしょう? 今の政権政党の不人気は、総裁たるべき人の無能や政策の無策ということもありますが、政治の世界で長く続いているこの「異物混入」にも大きな原因があると私は見ています。この本の中で著者が何度も指摘しているように、今日の自由主義国家では宗教というものが少し丁重に扱われ過ぎているようです。宗教法人が税制上の優遇を受けていることは、日本も他の先進国も変わりませんし、信仰の自由に関する問題と言われれば、マスコミの論調も腫れものにさわるようなものになってしまう、この点も各国共通しているようです。私もこのブログでは、政府批判のようなことを結構自由に書き散らかして来た一方で、現代の宗教について語ることには一種の禁忌を感じていたことを認めざるを得ません。むしろリベラルな人間として、宗教の問題に対しては寛大であるべきだと思っていたフシもある。リチャード・ドーキンスは、そういう我々の頭上にも容赦なく鉄槌を振るいます。

 宗教を批判するに当たって、宗教組織の金権構造であるとか、信者の人たちへのマインドコントロールといった点を取り上げて批判することは容易だし、そういう論点の書物なら世の中にいくらでもあると思います。しかし、この本での批判の矛先は、宗教におけるそのような個別の問題にのみ向けられているのではありません。タイトルからも推測されるとおり、「そもそも神などというものはどこにも存在しないのではないか?」というのが、ドーキンスが読者に投げかけている根本的な疑問なのです。(科学者らしく、「非常に高い蓋然性で神は存在しない」という表現が使われていますが。) 考えてもみてください、どこかの国のトンデモ本ならともかく、第一線で活躍する世界的な科学者が、ふつうそんな本を書きますか? また書いたとしても、現代の読書人を納得させられる内容の本になると思いますか? それを驚くべき力技でやってみせたのがこの本だと私は受け止めました。二十世紀のポストモダニズムを経て来ている私たちは、宗教に限らず、時代により民族により異なった価値観があるということに、寛大で中立な態度で向き合うことを躾けられて来ました。著者はそのパラダイムをも壊しにかかっているのだと思います。だとすれば、これは非常に大きな問題提起の書であると言うことが出来ます。

 宗教に関しては、前々から一度はじっくり取り組んで、書き物にまとめてみたいと思っていました。そんな折りにこんな本と出会ったのも何かの縁です。(いやいや、「縁」などと言ったら、それこそドーキンス博士に怒られちゃいますね。) 自分には宗教について体系立てて理論を構築したり、あるいは説得力ある批判や擁護を展開する力はありません。でも、この本の中で自分が共感した部分や反撥を感じた部分を軸にすれば、おのずから宗教に対する自分の考えがまとまって行くかも知れない、そんなふうに思うのです。とても1回や2回の記事で語り尽くせる問題でもないので、これも不定期での連載になると思います。この本は発売されるやアメリカを中心にベストセラーになっているそうです。ドーキンスさんは、この本を単なる宗教批判のための本ではなく、宗教という足枷から読者を解き放つ〈意識高揚〉のための本であると言っています。ダーウィンの進化論を、人類の心を高揚させるものとしてドーキンスさんは推奨しますが、私はむしろこうした時代にこうした本を敢えて刊行した、著者の科学者としての知的良心に心を高揚させられます。宗教に関して口をつぐむのは、もういい加減おしまいにしよう、この本を読み終えて本気でそう思い始めています。

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2008年3月23日 (日)

昭和三十年代生まれという幸福

 昭和三十年代がブームだそうです。リリー・フランキーさんの小説『東京タワー』や、安倍前首相も激賞する映画『三丁目の夕日』といったところがブームの火付け役だったようです。あるいはその頃に建てられた古い団地が、若い人のあいだで隠れたブームなんだとか。昭和三十年代の始めに生まれ、しかも生まれた時から公営団地で育った自分としては、このブームには何となく心にしっくり来ないものがあります。そんなにいい時代でしたっけ、あの頃って? まあ、今の若い人にとってみれば、昭和三十年代の団地族文化も江戸時代の長屋文化もたいして違いが無いように見えるのかも知れません。しかし、実際にその時代を生きて来た者の目から見れば、あの時代と現代とは当たり前に地続きで、この間に世の中の人間関係が著しく希薄になったとか、人々の心から温もりが失われてしまったいうようなことはないような気がします。現代に無いものは、たぶんあの頃にだって無かったのだと思う。もしも昭和三十年代が格別に輝いて見えるという人がいるなら、その人はいつの時代にもいる〈古き良き時代を回顧する老人〉と同じメンタリティに陥っているだけなんじゃないか、そんな気さえします。

 ただ、明らかにあの頃と今とでは違う点がひとつあります。現代人の多くが昭和三十年代をまぶしく思い出しているのとは反対に、昭和三十年代に生きていた私たちは、未来を、とりわけ二十一世紀という遠い未来を、限りなくまぶしいものとして眺めていたということです。なにしろ昭和三十年と言えば、まだ戦後十年が経過したばかりで、本格的な経済復興が始まったばかりの頃です。家庭にテレビや冷蔵庫や洗濯機やマイカーが普及し始め、物質的な豊かさが運んで来る幸福に誰もが心を奪われていた時代です。貧しいけれども、未来には希望があった。おそらくこの点がふたつの時代を隔てる一番の違いなのだと思います。だいたい人間って、欲しいものを手に入れた後よりも、それを手に入れようと頑張っている時の方が幸福だというのが一般的じゃないですか。もちろん生存を脅かされるほどの極端な貧困は別として、適度な貧しさや欠乏感は人の心に張りを与え、努力に対するインセンティブを与えます。そういう意味で、昭和三十年代の貧しさというのは、人間にとってちょうど良い貧しさのレベルだったのではないかと思うのです。しかも貧しさにおいては皆がほぼ横一線だった訳だし。現代のような経済格差の広がった時代では、貧しさも個人的なものなので、豊かになりたいという思いも個人的な渇望にとどまります。ところが、あの時代はそれが社会全体の渇望だった訳ですね。戦後の奇跡のような経済成長の裏には、この社会全体の豊かさへの渇望があった訳です。

 同じような状況は、いままさに成長のただ中にある中国やインドにも当てはまるでしょう。ただ、日本が幸運だったのは、高度経済成長の時代が科学技術や工業技術の急速な発展と軌を一にしていたことだと思います。中国がいくら経済的な急成長を遂げつつあっても、その中で豊かになる人たちは先進国がすでに達成した生活スタイルに追い付くだけで、自分たちの時代が新しい未来を切り拓いているというワクワクした気持ちは持ちにくいのではないだろうか。例えば、中国の内陸の村で、固定電話が引かれる前に携帯電話のサービスが始まる。それはそれで素晴らしいことだと思いますが、私たち昭和三十年代っ子にとっては、携帯電話というのは子供の頃からずっとずっと夢に見続けていた憧れの対象だったのです。まさかスーパージェッターや国際救助隊のペネロープが持っていたあの夢の機械を、自分が持てる日が来るなんて!(笑) まあ、実際に持ってみれば、すぐにそれは単なる便利グッズのひとつに成り下がってしまう訳ですが、それを待ち望んだ三十年分のワクワク感は、ある世代の人たちだけに与えられた特権だったようにも思えます。考えてみれば、夢見がちな少年期にテレビや電話(固定電話だよ)が初めて家にやって来て、たくさんのアニメや特撮のヒーローが登場し、人類がロケットで宇宙に飛び立った、そんな経験が出来たというのは人類史的に見てもまれな幸運だったのではあるまいか。そう考えると、生まれた時には既に何もかも揃っている、いまの子供たちが可哀想にも思えて来るのです。

 以前どこかで書いたような気がしますが、私が子供の頃、小学館の図鑑シリーズに『未来の図鑑』というものがありました。小学生だった自分は、この一冊をことさら愛読していたものです。そこには二十一世紀の輝かしい未来が魅力的なイラストとともに描き出されていました。我が家の三歳の息子にはまだ少し早いのですが、父親が夢中になったあの図鑑を買い与えることは出来ないだろうかと思って、書店に行ってみました。案の定、科学の図鑑や宇宙の図鑑はあっても、未来の図鑑は無いのですね。アマゾンで検索しても無い。この事実を知った時、やはり現代というのは未来を失ってしまった時代なんだと実感しました。未来の図鑑に描かれていたのは他愛も無い空想的な世界です。しかし、それは子供の心をときめかすには充分なものだったのです。私たち大人のことはともかく、子供に明るい未来のビジョンを見せてやれない時代は、やはり不幸な時代というべきなのかも知れません。

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2008年3月16日 (日)

相続税も消費税も累進課税も全部廃止!

 少し前のエントリーで、経済評論家の森永卓郎さんの文章に触発されて、日本は経済的な鎖国政策に転換すべしという記事を書きました。先週掲載された森永さんの新しい記事には、また違った意味で触発されるものがありましたので、今日はこれについて書こうと思います。今回の森永さんの主張は、日本は行き過ぎた格差是正のためにも相続税を大幅にアップすべしというものです。その内容が尋常でなく過激なのです。いまの税制では、遺産相続に対しては5000万円までが基礎控除となり、相続税の対象外となります。その控除額を2000万円まで引き下げ、しかもそれを超える分については100%(!)の課税にしたらどうかというのが森永さんの提案です。つまり、預金や株式や不動産や家財といったすべての資産を合計して、評価額が2000万円を超える部分はそっくり国が召し上げるということです。私は森永さんという方をリベラル派のエコノミストとして信頼しているのですが、時々こういう暴論をためらいもなく発表されるので、がっかりすると言うか、ずっこけてしまいます。この人は温厚なリベラリストの顔をしているけど、本質的には遅れて来た過激派マルキストなんじゃないか、そんなふうに思ってしまうのです。

 今回の記事には、読者からのコメントが山のように寄せられています。なかには森永説に賛成という意見もありますが、多くは反対意見です。反対意見どころか、エコノミストとしての見識を疑うといった厳しいコメントも数多く見受けられます。今後森永氏がご自身の論陣を張る上で、今回のエッセイが敵に対する弱みにならないことを祈るばかりです。それにしても、私が今回の文章に触発されたというのは、権威あるプロのエコノミストがこんな荒唐無稽な提案をしても許されるというなら、自分にだって税制については少し言いたいことがあるぞ、そういう意味です。というのも、私は相続税というものは必要悪のひとつで、本当は廃止した方がいいと思っているからです。相続税だけではない、生前贈与の贈与税も廃止すべきだし、所得税も累進課税ではなく、税率一律のフラットタックスで充分ではないかと思っている。金持ちが聞けば喜びそうな意見ですが、私がそういった考えを持つに至ったのには訳があります。もしも私の過去の記事を読んだ方なら、また同じ話を聞かされるのかと思われるかも知れませんが、今回はそれを〈税の公平〉という観点からもう一度考察してみたいと思います。

 今日、極端な無政府主義者でもない限り、国や地方の徴収する税そのものを否定する人はいないと思います。国家を運営するには、中央政府も地方自治体も必要だし、社会的インフラの充実や、教育、医療、福祉、はたまた防衛といった分野でも公共の予算は必要になるからです。問題は、国や自治体の収入源である税を、どこからどのような比率で徴収するかということです。高度経済成長期の日本では、高額所得者への所得税率は、国税・地方税を合わせて90%を超えていた時期がありました(現在は最高50%)。また相続税の方も以前は最高75%の税率が課されていました(こちらも現在は最高50%。小泉構造改革の時代に、税率の累進性が緩和されたのです)。私たちは昔から累進課税というシステムに慣れてしまっているので、お金持ちが高い税率で税金を納めるのは当然だと思っています。でも、よく考えてみれば、これって変ですよね。例えば年収300万円の人が税率10%で30万円の税金を納めている時に、年収10億円の人が税率50%で5億円の税金を納めなければならないことに、どういった正当な理由があるのでしょうか? 公平さという意味ではむしろ累進課税の方が歪んだ仕組みであるような気がします。事実、世界を見渡せば、累進課税を止めて、誰もが一律の税率を課されるフラットタックスに移行する国もあるのです。成長著しいロシアや、東欧諸国などがそうです。

 何故所得税や相続税が累進課税になっているのかと言えば、そうでもしなければ金持ちと貧乏人の格差がひらく一方だからです。いまの税制度は、基本的に〈お金が動いた現場〉をつかまえて税をむしり取る仕組みです。所得税然り、消費税然り、相続税然り。ここには税制度における重大な抜け穴があります。すなわち、いったん所得税の網をかいくぐって貯め込まれたお金は、それが消費に回されるか、あるいは所有者が死亡するまでは税務署の監視を逃れる特権を得るという抜け穴です。税金は、一般的にお金のフローに対しては厳しく、ストックに対しては甘く出来ているんですね。これは別に経済学の理論に則ってそうなっている訳ではなく、単に現実的な徴税のしやすさのためにそうなっているに過ぎません。タンスの中にしまい込まれている現金や株券に課税することは、物理的に不可能だからです。では、もしも理論的にそれが可能だとした場合、個人の保有する資産に課税することに正当な理由はあるのでしょうか? これに対しては、もともと所得税や相続税を支払った残余である個人の資産に課税することは、二重課税ではないかという意見があるかと思います。が、私はその意見は的外れだと考えます。現金や預金はもちろん、国内の株券や債券に関しても、その資産価値を保証しているものは国の通貨の信用と安定性です。その信用供与の対価として課税するという理屈は、特に否定される理由は無いように思うのです。少なくとも私たちは、土地や建物に対しては毎年固定資産税を支払っている訳です。お金に対して同じように資産税が発生しない理由は、土地や建物と違ってそれがタンスに隠せるからということ以外に考えられません。

 最も税務署の目に付きにくく、しかも大量に流通している貨幣というものに対する課税方法が発明されなければ、資産税というものは実現されませんし、従って資産家が持つ税制上の特権も揺らぐことはありません。これが日本人の個人資産が1500兆円もありながら、国や自治体の財政がいつも赤字で、借金体質に陥っていることの一番の原因です。これに対して画期的なアイデアを考え出したのが、19世紀から20世紀にかけてドイツで活躍したシルビオ・ゲゼル(1862-1930)という異端の経済学者でした。なんとゲゼルさんは、お金を持っていること自体に税金がかかるような、不思議な紙幣を考案したのです。それはスタンプ紙幣と呼ばれるものです。具体的にイメージするなら、例えば1万円札の裏側に12個のマス目が書いてあり、そこに紙幣の発行日の翌月からの年月が印刷されていると思ってください。2008年4月から始まって、2009年の3月までといった具合です。その紙幣を持っている人は、2008年の4月になったら、4月のマス目に100円の印紙を買って貼らなければ、その1万円札はお店や銀行で受け取ってもらえないのです。だから1万円札を1年間持ち続けるにしても、年間1200円分の税金がかかることになるのです。確かにこれなら、タンス預金にすることで資産税をゴマかすことは難しそうです。なんだか子供だましのような話ですが、実はゲゼルさんの死後、ヨーロッパの2つの市でこの紙幣が実際に試されたことがあったのです。結果はどうなったと思います? この紙幣を導入した市では、税金の滞納率が減ったばかりか、市民が税金を前倒しで支払うようにまでなったのだそうです。これはさもありなんことですね、税金を払うのが後になればなるほど、余分な印紙代まで払わなければならなくなる訳ですから。

 今回は税金の公平さについて考えているので、シルビオ・ゲゼルの思想の深いところにまで踏み込むことはしません。ただ、お金を所有していることに〈持ち越し税〉をかけるというこのアイデアは、税収を増やすことだけが目的ではないという点は補足しておく必要があります。スタンプ紙幣を採用した2つの市では、ヨーロッパ中が不況にあえぐなか、奇跡のような好景気に沸いたという事実があるからです。これは現代の日本に置き換えて想像してみればすぐに分かることです。いまの日本のような所得税と消費税を主体とした制度(フローへの課税)では、お金はどうしても貯蓄に回され、そこで滞ってしまうことになります。ところがお金を持っていることに税金がかかる制度(ストックへの課税)なら、欲しいものがあれば早く買ってしまった方が得ということになり、1500兆円の個人資産を需要に駆り立てることが出来るのです。これは豊富な個人資産があり、生産能力の余剰もあるのに、需要不足で経済が目詰まりを起こしている現在の日本にとって、まさにうってつけの処方箋だと言えます。もちろん100年前と違って、忙しい現代人が1万円札の裏にちまちまとスタンプを貼っている余裕などありません。しかし、現代には例えば電子マネーという技術がある訳で、これをうまく活用すればもっとスマートに「税金のかかるお金」を実現出来ると考えられます。これに関しては、以前このブログでも2通りのシナリオを書いています。もしも興味がおありでしたら、次の2つの記事も併せてご参照ください。(『減価する電子マネーが日本を救う?』『日本円が電子マネーに代わる日』

 結論としてまとめるならば、所有者が死んだら2000万円以上の資産はすべて没収、というような暴力的な手段に頼らなくても、もっと現実的、効果的、人道的に富の再配分は可能だろうということです。しかも重要なことは、資産税の導入は決して金持ちいじめではないという点です。もしもこれが実現すれば、相続税や贈与税は存在意義が無くなりますし、所得税だって低い税率でのフラットタックスで良くなるからです。もちろん低所得者層にも恩恵があります。国の税収が安定するのにともない、消費税だって即刻廃止することが出来るからです。(消費税というのは本当にひどい税金で、稼いだお金をその月に使わなければならない我々貧乏人にとっては、それこそ二重課税そのものです。) いかがでしょう。個人資産が1500兆円もある日本だからこそ出来る贅沢な税制改革。ぜひ森永さんのような大胆な発言を恐れない〈戦うエコノミスト〉の方には、ご検討いただきたい内容です。我らリベラル派にとって、これからはマルクス主義ではなく、ゲゼル主義の時代だと思うのです。

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2008年3月 9日 (日)

北京五輪でのブーイング対策について

 インターネットの世界では、3日前のニュースはもう遠い過去の話ですから、いまさら半年前の話題を持ち出すのも気が引けるのですが、前回のエントリーに関連して日中関係の問題について検索していて、面白い記事に行き当たりました。新聞やテレビでも報道されたそうですから、覚えていらっしゃる方も多いと思います。昨年九月のワールドカップで、女子サッカーの「なでしこジャパン」が中国の杭州でドイツチームと対戦した時の話です。ドイツ側の応援席を埋めたのは、ほとんどが地元の中国人でしたが、これが試合前の国歌演奏の時から試合が終わるまで、終始日本チームに対して激しいブーイングを浴びせ続けたのです。なでしこジャパンは、そのプレッシャーによく耐えながら善戦しましたが、試合は2対0で敗れてしまいました。地元の観客には胸のすくような結果だったと思います。ところが、試合後に日本チームの選手が思いもかけない行動に出たのです。チームの全員があらかじめ用意してあった大きな横断幕を持ち、観客席に向かって深々とおじぎをした。その横断幕には、『ARIGATO謝謝CHINA』という文字が染め抜かれていました。その瞬間、観客席のブーイングは収まり、意表をつかれた観客席の一部からは拍手さえ湧き起こったと言います。この事件はマスコミにも取り上げられ、地元の新聞は、「日本チームは試合には負けたが、その果敢な行動で中国人観客のマナーの悪さに打ち勝った」と報じたのだそうです。

 いまでもインターネットを検索すると、多くのブログや掲示板でその時の反応を見ることが出来ます。例によって一部の掲示板では、「中国に媚を売る土下座サッカー」などという揶揄が見られるものの、多くの日本人の反応はおおむね好意的だったようです。いや、好意的というだけでなく、むしろその勇気ある行動に感動したという声の方が多い。私も遅まきながらこの記事を読んで、胸を打たれたというのが正直な感想です。でも、それは単にひとつの美談を聞いたということではない気がします。この魅力的な〈いたずら〉が、選手たち自身の思い付きだったのか、それとも誰かの入れ知恵によるものだったのか、私には分かりません。しかし、そこには非常にしたたかな計算があったように思われるのです。もちろん試合の前から、選手たちは地元観客の激しいブーイングがあることを予想していた訳でしょう。そんな状況のなかで、感情的な対立の構図に巻き込まれることなく、しかも相手におもねらない毅然とした態度を示す方法として、彼女たちのとった行動はほとんど百点満点だったと私は思います。その時の写真を見れば、彼女たちの手にする横断幕がとても立派なもので、決して試合の前日に思い付きで作ったようなものではないことが分かります。ここが重要な点です。日本を発つ前からこうした事態を予想し、このパフォーマンスを周到に準備していたという事実にまで思い至れば、観客席でブーイングを浴びせていた中国人だって、自分たちの方が完璧に〈一本とられた〉ことに気付く筈なのです。

 北京オリンピックでは、環境や食の安全に関する問題が参加国の心配のタネになっていますが、日本人選手にとっては、これに開催国の反日感情というもうひとつの懸念事項が加わる訳です。これに対抗するために、なでしこジャパンが先鞭をつけた〈クール・ジャパン戦略〉を北京に持ち込むというアイデアはどうでしょう。『ARIGATO謝謝CHINA』に関しては、これはもう歴史的な名キャッチコピーと言っても過言ではないので、例えばこれを日本人選手のユニフォームの中にデザインとして刷り込む。応援団も胸に大きくこの文字をあしらったお揃いのTシャツを着て北京に乗り込む。それだけではインパクトも弱いですし、見慣れてしまえば逆に嫌味にもなり兼ねないので、なでしこジャパンがやったような斬新なサプライズを要所々々で演出することが大事です。どんなアイデアがあるかな? 日中両国民にとって思わず「ぐっと」来てしまうような魅力的なキャッチフレーズをたくさん考えて、それを横断幕や旗にしてここぞというタイミングで観客席で翻す。『ARIGATO謝謝CHINA』のマスコット・キャラクターを作って、その着ぐるみを着たプロのダンサーが試合のインターバルに「謝謝CHINA」の踊りを踊る(笑)。もしも組織的な応援団を送り込めるなら、観客席に人文字でメッセージを表現するのもかっこいい。とにかく、新しい企画をどんどん繰り出して、それが北京オリンピックのひとつの名物になって、世界中のマスコミも注目するくらいにまでなれば、その宣伝効果には測り知れないものがあります。

 スポーツ観戦において中国の観客があまり賢明でないのは、日本に対するブーイングを日中戦だけでなく、第三国との試合のなかにも持ち込んでしまうことです。もしも日中戦のなかだけなら、それはローカルな話題に過ぎないので、世界中の人が注目するところにはなりません。ところが、これを対ドイツ戦でやれば、その様子はドイツ国内にも放映される訳ですから、それを見たドイツ人は、いったい何なのこれは?という感想を持つことになる。日本としては、これを利用しない手はありません。特に重要な大国との試合のなかでは、とっておきのサプライズを準備して、見世物としての面白さも演出します。これを繰り返して行けば、「歴史的な民族対立の感情をいまだに引きずっている国民」対「それに屈せずに新しい友好関係を作り出そうとしている国民」という対立の構図を全世界にアピールする機会になるのです。これは中国の人たちをからかったりおとしめたりする意図で行なわれるものではありません。歴史的に見れば、非は明らかに日本側にあるのですから、中国側からのブーイングを茶化して笑いのめすといった態度ではなく、なでしこジャパンがやったように真摯にこれと向き合う態度がここでは重要です。(って、書いてる本人が全然真摯な態度じゃないけど。笑)

 月並みな結論になりますが、今年のオリンピックが日中の国民感情を転換するターニング・ポイントになればいいと思います。オリンピックは若い人たちが主役の祭典です。その若い人たちが、自分が生まれてもいなかった時代の憎しみを継承していることほど馬鹿げた話はありません。中国共産党がいまも継続している反日教育は、ほとんど自国民に対する犯罪行為に等しいものではないかと私は思っています。その教育の効果が現れ過ぎて、応援席での国民のマナーの悪さを世界中に披瀝してしまうという結果になっている。共産党に対しては自業自得と言っておけば済むような話でも、これからの時代を担う若い人たちにとってみれば、やはりこれは不幸なことであるに違いありません。こんなくだらない状況は、若者自身が打ち破って行かなくてはならない。数年後に振り返ってみれば、2008年のオリンピックから日中関係が大きく変わった、そう実感出来るようなイベントに仕立てて行くべきです。その鍵を握るのは、日本人選手と日本からの応援団かも知れないと思うのです。

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2008年3月 2日 (日)

マナーの悪い国と道徳の廃れた国

 今年の八月に開催される北京オリンピックに向けて、中国では新しい競技場や宿泊施設、道路などの建設が急ピッチで進められています。当初は開幕までに間に合わないのでは、などという懸念の声もあったようですが、なにしろ小さな村にあっと言う間に高層ビル群が出現して、景観が一変してしまうような勢いのある国ですから、インフラ面での整備については国の威信にかけても間に合わせるのだろうと思います。問題は、環境の悪さや食品の安全に関して参加国のあいだに不安が広がっていることで、先進国の多くは選手団の宿泊地を日本や韓国に確保して、競技の直前に飛行機で北京入りする日程を組んでいるそうです。これは主催国にとっては、やはり不名誉なことですね。アメリカなどは、選手が中国産の食品を食べると、残留していた農薬や化学物質でドーピング検査に引っ掛かる可能性があるとして、食料もすべて持ち込む方針なのだそうです。ここまで来ると開催国に失礼なのでは?とも思いますが、中国産の食品が世界で引き起こしている問題を考えれば、まあ仕方の無いことだとも言えます。(農薬入り餃子の問題は、おそらく衛生管理の問題ではなく、どちらかの国の不届者による犯罪なので、これはまた別問題です。)

 もうひとつ中国政府が頭を痛めている問題が、一般的な中国国民の公共マナーの悪さについてです。いくら最新の設備を整えても、街なかでは人々が道路にゴミを捨てるわ、痰を吐くわ、行列には割り込むわでは、これはやはり五輪主催国としての名折れになる。中国政府は、マナー改善のキャンペーンを実施して、こちらも急ピッチで対策を立てようとしているようです。ただ、こちらは建物や道路の建設のように一朝一夕には行かないのではないかという気がします。中国の有名な景勝地が、不当に捨てられたゴミで台無しになっている様子などを見ると、やっぱりこの国は〈道徳後進国〉なんだなあと思ってしまう。たぶん同じように感じている人は多いのではないかと思います。ところが、先日の新聞の投書欄で面白い記事を読みました。北京の地下鉄のなかでは、若者がお年寄りに席を譲る光景が、ごくふつうに見られるというのです。この記事だけではありません、私がインターネット上で愛読している北村豊さんのレポートでも、北京の地下鉄について全く同じ報告がされています。奇しくも同じ主旨の記事を続けて読んだことで、自分のなかにあった中国の人たちへの偏見が少し是正されました。日本でも昔は、若者がお年寄りに席を譲る光景はふつうのものだったのだが…、北村さんの記事にはそう書き添えられています。

 考えてみれば、街なかで痰を吐かないとか、電車に乗る時はきちんと列を作って並ぶとかいったことは、道徳というよりも習慣の問題で、それ自体は道徳心の発露といったものではありません。いま東京の街でそういったマナー違反を犯せば、それはかなり目立つことですから、それをすること自体に相当な勇気がいる。都会の生活に慣れれば、必要最低限の公共マナーは自然に身につくことでもあります。ところが、電車で席を譲るとか、困っている人に声をかけるとかいったことになると、これも半ば習慣になり得ることではありますが、そこには多少は道徳心の発動が伴わざるを得ない。そこが日本人は(と言うより東京人は)駄目になっている気がします。つまり一方は、マナーにおいては劣っていても、道徳的な心情においてはまだまだ健全であるのに対し、一方は公共マナーにおいては洗練されていても、道徳心という点では枯渇していると言うか、どこか不健全なところがある、その違いなのだと思います。確かなことは、今後経済が発展するなかで、中国の人たちのマナーが全体的に向上することは間違いないのに対して(北京オリンピックまでに間に合うかどうかは微妙ですが)、日本の社会で再び若者がお年寄りに席を譲ることが当たり前になることは、自然の趨勢としては期待出来そうもないということです。(もちろんそうではない若者もたくさんいることは承知の上です。)

 新聞の投稿記事では、投稿者の友人である中国人の方のコメントとして、中国もだんだん経済的に豊かになると、日本と同じように若者も変わって行ってしまうのではないか、その点が心配だという発言が紹介されています。確かにこれは両国の国民性の違いなどといった問題ではなくて、経済的な発展に必然的に伴う利己主義の問題なのかも知れません。だとすれば、やはりこれはナショナリズムに転化すべき問題ではなくて、国を超えてこれからの時代における共通の課題として認識すべきものだと思います。敬老の心というものは、過去ニ千年以上に亘って東アジア圏では当たり前の徳目だった筈です。ところが、老人を敬うと言ったって、最近は街で見掛ける老人は若者よりも元気で溌剌としているみたいだし、席を譲られることの似合うお年寄りも少なくなって来た。やはり昔ながらの型にはまった儒教的な道徳観だけでは、これからの時代にはそぐわないという気がします。例えば、欧米からの旅行者が日本と中国と韓国を歴訪して、なるほどこの三つの国はそれぞれ古い歴史に支えられた道徳の国で、そこに住む人たちは西洋とは異なる叡智を持った人々の末裔なのだ、そう実感出来るような新しいアジアン・スタンダードが創造出来ないものだろうか? オリンピック・イヤーを迎えてそんなことを思うのです。

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