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2008年2月 3日 (日)

元死刑囚の「脳の病変」という話から

 これも最近新聞の片隅で目にして、心に引っ掛かった記事からの話題です。帝銀事件と言えば、戦後まもなく起こった大量殺人事件(12人が毒殺された)として、また犯人に死刑が宣告されながら、冤罪だった可能性がいまも取りざたされている事件として有名です。容疑者平沢貞通氏は、事件が起こった1948年に逮捕されたあと、1955年に死刑が確定、そして1987年に95歳で獄死するまで、40年近くに亘って獄中から無実を叫び続けました。事件は今も謎に包まれたままです。その平沢死刑囚の死去から20年が経過した昨年、保存されていた脳の組織を顕微鏡で調査した結果、ある「病変」が見付かったという研究報告が発表されたのです。新聞の文章をそのまま引用すれば、「狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎の後遺症と推定される病変」なのだそうで、「病変の状態から、認知症にはいたらなかったが、性格変化をもたらしたと結論付けた」というのです。

 もともとこの事件は、物証もほとんど無く、取り調べ時の自白だけが犯人特定の根拠でした。今回の研究によって、平沢氏が生前持っていたとされる虚言癖が、脳の病気によるものであったことの医学的な裏付けが見付かったということのようです。取り調べでの厳しい尋問や誘導によって、容疑者がやってもいない事件に対して自白をしてしまうことがあるのは、いまでは誰もが知る事実です。そこに脳の病気による虚言癖や知的減退が加われば、自白を唯一の証拠とする死刑判決に疑義が生じるのも肯けます。帝銀事件に関しては、現在も遺族・弁護団による再審請求が出されていて、決着がついていないという状況があります。今回の調査結果によって、故人の名誉が回復される方向に向かうならば、それは喜ばしいことに違いありません。しかし、いずれにしても遅過ぎました。新聞記事にも書いてありましたが、もしもこれが現代ならMRIなどの検査によって、死後解剖を待たなくても脳の病変は発見出来た筈なのです。

 さて、今回のエントリーは帝銀事件についての考察が目的ではありません。このニュースにも特徴的なように、これからの時代は、進歩した医療技術や脳科学の知見によって、犯人の特定や犯行に至った原因の解明などに、科学的なアプローチが採用される機会が増えて来るだろうと予想されます。それに対して私たちは、現代人としてどのような心構えで臨めばいいのだろうか、その点を考察してみたいのです。これは以前からの私のテーマでもあるのですが、最近マスコミでヒトの脳に関する話題がよく取り上げられる、その割にはこれを道徳や犯罪の問題と結び付けて論じられる機会が少ないと思うからです。実はこれは、哲学史のなかに埋もれていたとても古い問題の現代版であると私は捉えています。つまり「決定論」だとか「自由意志の存在」といった言い方で呼ばれている問題です。もしも万物をつかさどる神の意志や、あるいはすべてを見通せる物理法則のようなものが存在するならば、人間のどんな行為もあらかじめ定められた軌道に沿っているだけで、自由意志などというものは錯覚に過ぎない。究極のところ人間は自分の行ないに責任を持つことは出来ないし、道徳的な意味での罪というものなど存在しないのだ、そういった極端な議論になります。常識ある人なら、誰もこんな主張をまともに受け取りはしないでしょう。しかし、これが現代の脳科学の言葉で語られたら? 犯人が犯行に及んだのは、脳のある機能障害により、性的な衝動のコントロールが利かなくなったことが原因である、そんな専門家の説明を聞けば、古くさい決定論の主張が俄然現実的な意味を帯びて蘇って来ることになるのです。

 この問題を考える時、私のいつものやり方は、これを具体的な事例に即しながら、自らの道徳的感情に訴えてみるというものです。そこでもうひとつのケーススタディを検討してみましょう、これも最近の記事のなかで印象に残ったものです。昨年、JR西日本の特急列車で、多くの乗客がいる中で強姦事件が発生するというショッキングなニュースがありました。犯人の36歳の男に対して、検察は懲役25年を求刑し、第一審では懲役18年の実刑判決が言い渡されました。この事件で弁護団は、被告が16歳の時に遭った交通事故によって脳に障害を負い、それが今回の事件につながったと主張しました。医師による検査が行なわれ、その結果特に問題となるような障害は見付からなかったため、この点での情状酌量は無かった模様です。では、もしも犯人の脳に明らかな障害が見付かり、最新の医学の知見からそれが犯行の原因であるという結論が出ていたとしたら、裁判の結果はどうなったのでしょう? 仮にあなたがこの事件を担当する裁判員だったと仮定してもいいです。過去の事故で脳にダメージを受けて、それが原因で性的衝動を抑制することが出来なくなってしまった男、そんな被告に対してあなたは情状の余地を認めるでしょうか? 脳科学の進歩により、どんな立派な人格者でも脳のその部分を破壊されると、おぞましい性犯罪者に転落してしまう、そんな大脳皮質上の「ツボ」が見付かったと想像してみましょう。たぶんあなただって私だって、いや、間違いなくあなたも私もそのツボを突かれれば、同じような犯罪を犯すことになるに違いない、そう科学によって証明されたとしたら、あなたの犯人を見る目は今とは違ったものになるでしょうか?

 こういう話が気味が悪いのは、医学や脳科学の発展によって、脳の障害と犯罪行為のあいだの因果関係が明るみに出されることだけではありません。昔から精神病を患った人の犯罪ということは社会問題としてあった訳で、刑法では「心神喪失者の行為はこれを罰せず」という条文でもって重い精神疾患の患者には法的責任を問えないことが明確に規定されています。世間にも、相手が病気であれば仕方が無いという一種の割り切りがあったと思います。ところが、最近は一見して病気には見えない、ふつうの社会生活を送っている人の脳にも、MRIなどで調べてみると病変が見付かる場合が多いのだそうです。「高次脳機能障害」と呼ばれるものです。これには交通事故の増加と、救急医療の発達というふたつの条件が関係しています。つまり自動車が無かった時代には、時速数十キロで人間の身体が何かに叩き付けられ、脳がそれだけの衝撃を受ける状況というのは少なかった訳ですし、今日のように救急医療の技術が進歩する以前には、助からなかった生命だったものが助かるようになった、そういう点で人類が過去に経験したことのない〈脳にとっての受難時代〉が到来したとも言えるのです。もちろん交通事故だけではありません、平沢元死刑囚のように薬物によって脳が障害を受けるということも、大昔には考えられなかったことでしょう。

 皮肉なことに、いろいろなパターンの高次脳機能障害の症例が見付かれば見付かるほど、脳と精神の関係についての理解が深まるという事実があります。問題は、こうした時代の変化と、科学的な見方の進歩に、私たちの道徳意識がまるでついて行けていないという点にあると思います。例えば前述のレイプ事件について、インターネットで検索してみると、非常に多くの人が意見を述べているのに気付きます。その大半は感情むきだしの怒りと憎しみの表明です。もしも犯人が本当に20年前の事故の後遺症で今回の事件を起こしたのだったら、我々の社会はどう彼と向き合うべきだろうか、そんな視点でこの問題を論じている人は、私が調べたかぎりでは見当たりませんでした。が、この事件が問いかけているものは、本当はそこなんじゃないですか。こういう複雑で難しい道徳的事象が増えている時代に、まるで狙ったかのように裁判員制度が始まるというのも、考えてみれば皮肉な話です。私は裁判に〈生のままの〉道徳感情を持ち込むべきではない、その一点で裁判員制度には反対しているのですが、いくらそんなことを言ってみても所詮は少数意見に過ぎないのでしょう。少なくとも自分自身としては、問答無用で犯人に憎悪を向ける世論には同調したくないし、脳科学が描き出す決定論的な世界観にも飲み込まれたくない。実はその中間あたりにこれからの時代にふさわしい道徳的な智恵というものがあるような気がするのですが、これについてはまた稿を改めて考えてみることにします。

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