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2008年2月24日 (日)

我が家の子育て十箇条

 部屋はいつもおもちゃで散らかっています。今年四歳になるひとり息子のおもちゃです。短期間によくもこれだけ買い与えたと思うくらいの数がある。ほとんどが乗り物のおもちゃで、ミニカーはトミカとマジョレット、電車はプラレールとトレーンのNゲージ、数えてはいませんが数百個はありそうです。先日新聞で見た記事によれば、小さな男の子を持つ家庭の多くは、だいたい似たようなものなのだそうです。父親である私が幼少期を過ごした昭和三十年代前半には、まだこれらの製品は世の中に出ていませんでしたから、三歳にしてこんなたくさんのおもちゃに囲まれていたという事実は無かった筈です。

 息子も最近は知恵がついて来たので、たまに父親が保育園のお迎えに行くと、必ずおもちゃを買ってとおねだりされます。で、安いものだし、泣かれるのが面倒なのでついつい買い与えてしまうという流れになります。家に帰るとママに、「またミニカー買ったの?」ととがめられる。すると、息子、「パパがかってくれたの。ほんとはいけないんだよね」なんて言いつけてる(笑)。さっきまでの赤ん坊のような駄々のこね方は一体何だったの?と呆れている父親に、「ほら、これかっこいいよ」とご満悦な息子。小さなうちから欲しいものはすぐに買ってもらえて、我慢をするという習慣を持たずにこのまま育ってしまったら、この子は一体どういう大人になってしまうのだろうか、ちょっと心配です。

 このブログの新年最初の記事で、今年は子育てについてライブに綴って行きたいと書きました。一応このブログは、市井の一思索人の哲学的エッセイというコンセプトで店開きをしているので、子育て日記というのはちょっと意に沿わないのですが、最近は仕事が忙しくてネタ探しの余裕が無いこともあり、身近な書きやすいテーマとしてシリーズ化しようかと思ったのです。それに考えてみれば、これって結構面白い試みかも知れません。もしもこのブログをこれから十年、二十年と続けて行けたなら(そうありたいと願っているのですが)、こういう親バカに育てられた子供が、どういう少年になり大人になったか、そこまでをリアルタイムで報告出来るかも知れない。いずれにしても、現代のように「何でもアリ」の時代には、子育てだってひとつの実験でしかありえない訳で、そういう類のブログがたくさん現れれば、これからの時代の育児論に有益なデータを提供出来る可能性もあります。それにまた、私には日記を書くという習慣がありませんので、のちのち子供が小さかった頃の思い出に浸るよすがにもなるでしょうし、息子が高校生くらいになった時に親父のこの文章を読む日が来るかも知れないと思えば、それもひとつの楽しみになります。

 さて、この文章のタイトルに興味を覚えて読み始めた方には、毎度のことながら長い前置きですみません。おもちゃを子供にどう買い与えるべきかを考えていて、ふとこのタイトルを思い付きました。半分はネタですが、半分は実際に我々夫婦が心がけていることです。育児書の一冊も読んだことがない新米のパパとママが、こんな方針で三歳児と向き合っていますというわけで、以下、我が家の子育て十箇条です。

1.「父親と母親の役割分担を決めない」

 ひと昔まえまでは、息子は父親の背中を見て育つとか、厳しい父親とそれをフォローする優しい母親といった、ふた親の役割についての合意された類型があったように思います。我が家ではこれを廃止します。とても自分の背中を見せるだけで息子を導ける自信は無いし、厳しさに徹するには甘過ぎ、優しさに徹するには怒りっぽい自分が、昔の強い父親というロールモデルを引き受けられる訳がないと気付いたからです。これは母親にしても同じです。要するに、家族の中で役割を決めるなんて面倒なことは止めようと決めたのです。当たり前のことだけど、親だって機嫌の悪い時もあれば、気持ちに余裕のない時もある、そのへんは自然でいいじゃないか。こう割り切ってしまうと、父親業、母親業がだいぶ楽になります。

2.「質問をはぐらかしても嘘はつかない」

 三歳にもなると物事がだいぶ分かって来るし、子供に嘘をつくのだけは止めようと話し合いました。例えば息子は医者に行くのが大嫌いで、風邪で熱を出している時に小児科に連れて行こうとすると、すぐに察して「おいしゃさんいかない?」と質問して来る。行くと言えば大泣きだし、行かないと言えば嘘になる。こんな時、母親の方は慣れたもので、「そうだねー、お医者さん行きたくないねー、ママも行きたくないなー」なんて言いながら、さっさと抱き抱えて連れてってしまう。「それって単にごまかしてるだけなんじゃない?」、「だって嘘は言ってないでしょう」。なるほど。子育てでは、こういう場面は多いですね。お風呂で頭を洗うのが嫌いな息子とママの会話、「あたまあらわない?」、「そうだねー、洗いたくないねー、どうしようかなー」、ざぶん。父親がやろうとしても、こんなふうにうまくはいきません。

3.「いつかは出来ることをあせらない」

 今どきの三歳児はまだおむつをしているのがふつうだと言うと、私の母親(息子の祖母)などは驚き呆れます。これは紙おむつという偉大な発明のおかげなのですが、それはそれとして我が家の三歳児は、いろいろなことが平均よりもゆっくりなようです。テレビの「おかあさんといっしょ」では、息子より月齢の小さな子が上手にパジャマを着てみせるのに、彼はまだ自分でボタンが止められません。いまでも夜寝る前には哺乳瓶でミルクを飲むことが習慣になっていて、眠くなると、「パパ、チュッチュ」と言って所望する。でも、おむつもミルクもやがては卒業するだろうし、中学生になっても学生服のボタンをママに止めてもらっているとは想像しにくい。そういうことは自然に任せましょう。保育園ではお昼寝の前に決してチュッチュとは言わないそうです。この使い分けの方がしたたかで高度です(ちゃんと成長してるじゃん)。

4.「おかたづけは本人にさせる」

 なんでも自由放任で甘やかせてばかりでもよくないので、出したおもちゃの片付けくらいは本人にさせるか、親はそれを手伝うくらいにしましょう。これは共働きの夫婦にとっては、けっこう覚悟のいることです。いつもたいていおもちゃで散らかった部屋で暮らすことになるからです(厳しく叱れない両親なので)。幸いなことに、私自身はいくら部屋が散らかっていても平気な性分なので、息子が自分で片付ける気になるまでいつまでも待てます(いま奥さんからは文句が来ました。笑)。願わくは息子には、父親とは違って整理整頓のきちんと出来る大人になって欲しいと思います。でも、これは私の直感なのですが、これは小さい頃の躾の問題というよりも、持って生まれた性格の問題であるような気がする。うちの息子はどうもパパの方に似ちゃったんじゃないかな?

5.「言葉づかいはきちんと教える」

 楽器も絵も踊りも何も教えてあげられない父親だけど、日本語の正しい使い方だけは教えましょう。今の二十代、三十代のパパとママにとって、「見れる」「食べれる」は当たり前かも知れませんが、我が家ではそれは許しません。そんな父親の影響か、息子は時々〈考え過ぎた〉コトバを使います。例えば、「ほら、みて、おもいのもてられたよ」、といった具合です。これはまったく問題ありません。「持てられる」は、やがて自然に矯正されて行くに決まっているからです。ところが「見れる」「食べれる」の方は、直さなければ彼の人生で定着してしまう危険性がある。おそらく今の子供たちが、敬語も含めて正しい日本語を習得して行くことは、なかなかの難事ではないかと思います。逆に言えば、子供に正しい日本語を教えることが出来れば、それだけで社会で生きて行くための優位性をひとつ与えることになる。その点はこのパパに任せなさい。

6.「こわいと言っているものを強要しない」

 先日の節分の日には、保育園で鬼のお面を見ただけで泣き出したほどの臆病な息子です。夏は他の園児たちがビニールプールに入っているのを、ひとり座って見ていたのだそうです。家でも電気を消しては寝られないし、お風呂も基本的にはダメ、道を歩いていて強い風が吹いて来ると、「だっこだっこ」になってしまう。「男の子なんだからしっかりしなさい」と言いたいところですが、考えてみればこれもひとつの個性なので、尊重すべきことなのだと思います。三歳児にとって、こわいというのは本当に全身全霊をあげてこわいのだろうし、それは大人の想像を超えたものである筈です。これを克服出来る日が来るとしても、それは内的な変化によるもので、外からの強要によるものではないような気がします。時に大人は面白がって、子供を恐がらせることをしがちですが、我が家ではそれは絶対にしない方針です。

7.「食の安全にこだわり過ぎない」

 中国産餃子の問題は特別として、現代では多少なりとも農薬や化学物質の入った食品をすべて避けることは不可能です。無農薬野菜や天然ものの魚だけを食べるためには、それなりの経済的負担も伴います。それにこれからの時代、世界的な環境汚染や人口増加によって、安全を保証された食品がますます手に入らなくなることが予想されますから、二十一世紀の子供たちには、むしろそうした環境への(生物としての)適応力が求められるのかも知れません。最近の子供たちは、あまりに清潔な環境にいるために、却ってアレルギーが増えているとも聞きます。ことさら安くて危険な食品を選ぶ必要はありませんが、あまり食の安全に神経質になり過ぎないのも、親としてのひとつの見識だと思います。(母親がいなくて面倒な時は、子供にコンビニおにぎりを与えて済ませてしまうこともある、その言い訳ですね。笑)

8.「子供と遊ぶ時は大人のエゴを捨てる」

 これは自分への戒めです。平日は仕事で帰りが遅くなることの多い自分は、子供の世話も奥さんに任せきりになってしまいがちです。その代わり、週末に子供を連れて公園や児童館に遊びに行くのはパパの役目です。週末と言えば、私にはブログを書くというもうひとつの仕事があるので、子供と遊んでいても、早く眠くなってお昼寝してくれないかなと考えていることが多い。これでは子供と遊んでいても楽しくないですね。これはやはり改めなくてはいけません。ブログは書きたい記事があればいつでも書けるけれど、成長の速い子供と過ごす今日という日は、他にかけがえのないものなのですから。(こちらはブログをサボることへの言い訳かな?)

9.「おでかけの時には心を開いて」

 子供を連れておでかけするようになった頃、驚いたことのひとつは、「街にはこんなにたくさんのベビーカーがあふれていたんだ」ということでした。自分がベビーカーを押す身になって、初めてそのことに気が付いたのです。これまでだって、目には入っていた筈なのに、子供のいない自分はあまり気にも止めなかったんだと思います。子供が出来てからは、街なかで小さな子供を連れたお母さんやお父さんを見掛けると、湧き起こるシンパシーに浸りながら、この子はいくつくらいだろうと我が子と比べながら考えている。通勤の時は、iPodで外界の音を遮断し、半径30センチ以内に侵入して来るやつはみんな敵、みたいなメンタリティで武装しているので、その落差は大きいです。最近は子供との散歩もルーティン化して来て、そうした感動は少なくなってしまった気がします。これは良くないですね。初めて息子を連れて公園に散歩に行った時の、あの気持ちを忘れないようにしなくては。

10.「パパのおもちゃ箱を用意する」

 で、おもちゃをどう買い与えるかという問題です。これは今回の記事を書きながら思い付いたことです。最近は息子がミニカーを選んでいると、待つ身の気分で、「どれ買うか決まった?」なんてせかすことがふつうになってしまいました。これも良くないですね。いくら家には何百個のおもちゃがあるとは言え、息子にとっては新しいおもちゃとの一期一会の出会いの場なのです(時々間違えて家にあるのと同じものを買おうとするけど)。ここはやはり父親もその感動に付き合ってあげなくては。で、思い付いたのが、パパ専用の小さなおもちゃ箱を作って、父親も子供と同じ目線でおもちゃを選んでみるということです。毎回ではなくても、たまには息子のと一緒にパパのミニカーも買ってみる。「こっちはパパのだからね」と言って小さなおもちゃ箱にしまう。興味があるようなら、「かして」と言えば貸してあげる。でもしまうのはこちらのおもちゃ箱。うん、これはいいかも知れない。子供にモノの所有ということを教えるきっかけにもなるし。

 というわけで、さっそく昨日、100円ショップで小さなプラスチック・ケースを買って来ました。そして今日、息子と一緒にミニカーを買いに行きました。パパのミニカーもひとつ買いました。「こっちはパパのだからね」ときちんと説明しました。家に帰って、パパのおもちゃ箱に入れてみました。小さな透明のケースが、息子はとても気になるようでした。五分後には、そのケースに自分のお気に入りのミニカーを入れて、嬉しそうにママに見せびらかしている息子がいました。嗚呼。

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2008年2月17日 (日)

日本には「鎖国」という奥の手がある

 本や雑誌を読む時間が少ない自分は、ブログのネタも新聞やインターネットから拾うことが多くなりがちです。IT業界で営業サポートのような仕事をしていると、日経BP社のサイトにはずいぶんお世話になることが多いのですが、ついついこの会社のページを覗いてしまうもうひとつの理由は、各界の第一人者の方たちによる充実したエッセイが(無料で)読めるというところにあります。経済評論家の森永卓郎さんも人気の執筆陣のひとりで、毎回とてもいい文章を発表されています。小泉政権がやったような弱者切り捨ての経済政策に、一貫して反対を貫いているところにいつも共感しながら読んでいます。特に先週掲載されたエッセイは面白いと思いました。『信長の改革と構造改革はうり二つ』というタイトルで、小泉改革を織田信長の経済改革と対比させて論じたものです。内容については本文を読んでいただくとして、結論は、そろそろ信長がやったような拡大主義の構造改革はおしまいにして、家康がやったような国内中心の小ぢんまりした平和主義に回帰すべき時ではないかというのです。私はこの考えに100パーセント賛成です。

 以前の記事で金融問題について触れた時には、自信がなくて少々議論が及び腰でしたが、今回森永さんの文章を読みながら、やっぱりそうだよなと意を強くして思いました。おそらく森永氏のような、著名な経済評論家で大学の先生でもある人には言いにくいことでも、自分のような無名のブロガーならはっきり言えます。つまり、いまこそ日本は、経済の領域では信念を持って〈鎖国政策〉に転換すべし、ということについてです。ここ10年くらいのあいだ、規制緩和だとかグローバル・スタンダードだとかいうコトバが、ニュースに載らない日が無いくらい耳慣れたものになりました。おかげで日本人の意識もずいぶん変わって来て、個人で株の売買をする人の数も急激に増えましたし、規制緩和のおかげで、いつの間にか上場会社の株式の三割近くが外国人投資家の所有になってしまった。それでもそれがおかしいと思う人はほとんどいなくなってしまったのです。たまに外資をハゲタカファンドなどと揶揄して呼ぶことはあっても、それは基本的には国際ルールに則ったフェアな取り引きであって、株や投資信託で損をする人は自己責任だという訳です。

 でも、常識に立ち返って考えてみれば、やはりおかしいと思うことがあります。資本主義の最もシンプルなモデルは、資本家が将来有望だと思われる事業に資金を提供して、その事業の成長の見返りとして配当を得るというものでしょう。だとすればヘッジファンドやデイトレーダーと呼ばれる人たちがやっていることはやっぱり変です。こういう人たちは、ある会社の事業内容に将来性を見ている訳でもなければ、経営者の思想に共感を感じている訳でもない、単に値ごろだと思われる企業の株を買って、高値がついた時にそれを売り抜くことだけを目的にしているからです。言ってみれば、株式市場を利用してギャンブルに興じているだけなのです。どう考えても、これは健全な資本主義の一面ではないですよね。モノやサービスを売り買いする実体経済の大きさに比べて、実に百倍以上ものお金が日々金融取引に費やされていると聞けば、誰だって背筋が寒くなるのではないかと思います。ひと昔まえまでは、素人が〈株に手を出す〉ことは良くないことだと考えられていました。これは日本人の意識に資本主義の思想が根付いていなかったためというより、株式投資というものの危うさを肌で感じ取っていた日本人の意識の健全さを表していると私には思われます。実際に、そうしたメンタリティを抱えたままで、日本は外資に頼らず国民の勤勉さだけでもって、これほどの経済発展を遂げて来た訳ですから。

 ブルドックソースやサッポロビールを買収しようとした外資のスティール・パートナーズは、世界中の多種多様な企業の株を買い漁る、典型的なヘッジファンド企業だそうです。ブルドックソースへの買収は、日本の最高裁の決定で非合法だという結論が出されました。これに対して、規制緩和派の人たちが腹を立てています。これは日本経済の閉鎖性を象徴するものだというのです。しかし、庶民の感覚からすれば、国内で親しまれた歴史のある企業が、聞いたこともない外国の投資会社の手に落ちることは納得がいかないというのが正直なところだと思います。こうした庶民感覚を時代遅れのものだと専門家は一蹴するでしょうが、こちらにだって言い分はあります。企業の存在意義を、社会に対してどれだけの付加価値を提供出来るかという一点で測るならば、投資専門会社がやっていることはやはりおかしい。要するに企業の価値というものを、株式の時価総額でしか見ない思想が根底にある訳で、彼らの関心事は自分の資本をいかに殖やすかという点にしかないのです。これまで日本の多くの企業は、株主よりも顧客の方を向いて、そのブランド価値を築き上げて来たのだと思います。そういう健全な産業の伝統と、スティール・パートナーズのような会社の思想とが折り合う訳がありません。

 とにかくいま政府が緊急に行なうべきことは、世界中で吹き荒れている金融資本主義の嵐から、国内の産業を守ることだと思います。直接外資を制限するのが難しいと言うなら、国内の投資家も含めて、株式売買のルールを日本独自のものに変えることは出来ないものでしょうか。例えば、投資家が株式を取得した場合、買ってから一年間は売れないというルールを追加するだけでいい。そうすれば目先の利益だけを狙ったギャンブル投資の中から、本来の事業成長に対する投資だけをふるいにかけることが出来ます。あるいは短期での株式売買には、非常に高い税金をかけるというアイデアもあります。来年を目標に日本の株式は電子化される予定ですから、この機会にそうした仕組みを取り入れることも技術的には可能だと思います。世界の中には、まだこれから経済成長をするために、外資を呼び込まなければならない国がたくさんあります。が、日本はすでに外資に頼らなくても、国民が世界一の貯蓄を持っているような国なのです。サブプライム問題のようなものが実際に起こっている今日、狂乱のギャンブル資本主義に日本がついて行く必要はまったくない筈です。金融先進国の宣伝文句に過ぎないグローバル・スタンダードなどというコトバには背を向けて、むしろ日本は成熟した国としての新しいモデルを模索すべきだと思います。

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2008年2月 3日 (日)

元死刑囚の「脳の病変」という話から

 これも最近新聞の片隅で目にして、心に引っ掛かった記事からの話題です。帝銀事件と言えば、戦後まもなく起こった大量殺人事件(12人が毒殺された)として、また犯人に死刑が宣告されながら、冤罪だった可能性がいまも取りざたされている事件として有名です。容疑者平沢貞通氏は、事件が起こった1948年に逮捕されたあと、1955年に死刑が確定、そして1987年に95歳で獄死するまで、40年近くに亘って獄中から無実を叫び続けました。事件は今も謎に包まれたままです。その平沢死刑囚の死去から20年が経過した昨年、保存されていた脳の組織を顕微鏡で調査した結果、ある「病変」が見付かったという研究報告が発表されたのです。新聞の文章をそのまま引用すれば、「狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎の後遺症と推定される病変」なのだそうで、「病変の状態から、認知症にはいたらなかったが、性格変化をもたらしたと結論付けた」というのです。

 もともとこの事件は、物証もほとんど無く、取り調べ時の自白だけが犯人特定の根拠でした。今回の研究によって、平沢氏が生前持っていたとされる虚言癖が、脳の病気によるものであったことの医学的な裏付けが見付かったということのようです。取り調べでの厳しい尋問や誘導によって、容疑者がやってもいない事件に対して自白をしてしまうことがあるのは、いまでは誰もが知る事実です。そこに脳の病気による虚言癖や知的減退が加われば、自白を唯一の証拠とする死刑判決に疑義が生じるのも肯けます。帝銀事件に関しては、現在も遺族・弁護団による再審請求が出されていて、決着がついていないという状況があります。今回の調査結果によって、故人の名誉が回復される方向に向かうならば、それは喜ばしいことに違いありません。しかし、いずれにしても遅過ぎました。新聞記事にも書いてありましたが、もしもこれが現代ならMRIなどの検査によって、死後解剖を待たなくても脳の病変は発見出来た筈なのです。

 さて、今回のエントリーは帝銀事件についての考察が目的ではありません。このニュースにも特徴的なように、これからの時代は、進歩した医療技術や脳科学の知見によって、犯人の特定や犯行に至った原因の解明などに、科学的なアプローチが採用される機会が増えて来るだろうと予想されます。それに対して私たちは、現代人としてどのような心構えで臨めばいいのだろうか、その点を考察してみたいのです。これは以前からの私のテーマでもあるのですが、最近マスコミでヒトの脳に関する話題がよく取り上げられる、その割にはこれを道徳や犯罪の問題と結び付けて論じられる機会が少ないと思うからです。実はこれは、哲学史のなかに埋もれていたとても古い問題の現代版であると私は捉えています。つまり「決定論」だとか「自由意志の存在」といった言い方で呼ばれている問題です。もしも万物をつかさどる神の意志や、あるいはすべてを見通せる物理法則のようなものが存在するならば、人間のどんな行為もあらかじめ定められた軌道に沿っているだけで、自由意志などというものは錯覚に過ぎない。究極のところ人間は自分の行ないに責任を持つことは出来ないし、道徳的な意味での罪というものなど存在しないのだ、そういった極端な議論になります。常識ある人なら、誰もこんな主張をまともに受け取りはしないでしょう。しかし、これが現代の脳科学の言葉で語られたら? 犯人が犯行に及んだのは、脳のある機能障害により、性的な衝動のコントロールが利かなくなったことが原因である、そんな専門家の説明を聞けば、古くさい決定論の主張が俄然現実的な意味を帯びて蘇って来ることになるのです。

 この問題を考える時、私のいつものやり方は、これを具体的な事例に即しながら、自らの道徳的感情に訴えてみるというものです。そこでもうひとつのケーススタディを検討してみましょう、これも最近の記事のなかで印象に残ったものです。昨年、JR西日本の特急列車で、多くの乗客がいる中で強姦事件が発生するというショッキングなニュースがありました。犯人の36歳の男に対して、検察は懲役25年を求刑し、第一審では懲役18年の実刑判決が言い渡されました。この事件で弁護団は、被告が16歳の時に遭った交通事故によって脳に障害を負い、それが今回の事件につながったと主張しました。医師による検査が行なわれ、その結果特に問題となるような障害は見付からなかったため、この点での情状酌量は無かった模様です。では、もしも犯人の脳に明らかな障害が見付かり、最新の医学の知見からそれが犯行の原因であるという結論が出ていたとしたら、裁判の結果はどうなったのでしょう? 仮にあなたがこの事件を担当する裁判員だったと仮定してもいいです。過去の事故で脳にダメージを受けて、それが原因で性的衝動を抑制することが出来なくなってしまった男、そんな被告に対してあなたは情状の余地を認めるでしょうか? 脳科学の進歩により、どんな立派な人格者でも脳のその部分を破壊されると、おぞましい性犯罪者に転落してしまう、そんな大脳皮質上の「ツボ」が見付かったと想像してみましょう。たぶんあなただって私だって、いや、間違いなくあなたも私もそのツボを突かれれば、同じような犯罪を犯すことになるに違いない、そう科学によって証明されたとしたら、あなたの犯人を見る目は今とは違ったものになるでしょうか?

 こういう話が気味が悪いのは、医学や脳科学の発展によって、脳の障害と犯罪行為のあいだの因果関係が明るみに出されることだけではありません。昔から精神病を患った人の犯罪ということは社会問題としてあった訳で、刑法では「心神喪失者の行為はこれを罰せず」という条文でもって重い精神疾患の患者には法的責任を問えないことが明確に規定されています。世間にも、相手が病気であれば仕方が無いという一種の割り切りがあったと思います。ところが、最近は一見して病気には見えない、ふつうの社会生活を送っている人の脳にも、MRIなどで調べてみると病変が見付かる場合が多いのだそうです。「高次脳機能障害」と呼ばれるものです。これには交通事故の増加と、救急医療の発達というふたつの条件が関係しています。つまり自動車が無かった時代には、時速数十キロで人間の身体が何かに叩き付けられ、脳がそれだけの衝撃を受ける状況というのは少なかった訳ですし、今日のように救急医療の技術が進歩する以前には、助からなかった生命だったものが助かるようになった、そういう点で人類が過去に経験したことのない〈脳にとっての受難時代〉が到来したとも言えるのです。もちろん交通事故だけではありません、平沢元死刑囚のように薬物によって脳が障害を受けるということも、大昔には考えられなかったことでしょう。

 皮肉なことに、いろいろなパターンの高次脳機能障害の症例が見付かれば見付かるほど、脳と精神の関係についての理解が深まるという事実があります。問題は、こうした時代の変化と、科学的な見方の進歩に、私たちの道徳意識がまるでついて行けていないという点にあると思います。例えば前述のレイプ事件について、インターネットで検索してみると、非常に多くの人が意見を述べているのに気付きます。その大半は感情むきだしの怒りと憎しみの表明です。もしも犯人が本当に20年前の事故の後遺症で今回の事件を起こしたのだったら、我々の社会はどう彼と向き合うべきだろうか、そんな視点でこの問題を論じている人は、私が調べたかぎりでは見当たりませんでした。が、この事件が問いかけているものは、本当はそこなんじゃないですか。こういう複雑で難しい道徳的事象が増えている時代に、まるで狙ったかのように裁判員制度が始まるというのも、考えてみれば皮肉な話です。私は裁判に〈生のままの〉道徳感情を持ち込むべきではない、その一点で裁判員制度には反対しているのですが、いくらそんなことを言ってみても所詮は少数意見に過ぎないのでしょう。少なくとも自分自身としては、問答無用で犯人に憎悪を向ける世論には同調したくないし、脳科学が描き出す決定論的な世界観にも飲み込まれたくない。実はその中間あたりにこれからの時代にふさわしい道徳的な智恵というものがあるような気がするのですが、これについてはまた稿を改めて考えてみることにします。

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