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2008年1月 6日 (日)

哲学と育児の関係について

 クサンチッペというのは、悪妻としてその名を歴史に残してしまったソクラテスの奥さんの名前です。これについては面白い逸話がありましたね、ソクラテスが若者から結婚すべきかどうかと相談を受けた時、こう答えたというのです、「結婚したまえ。もしも結婚相手が良妻なら君は幸せになれるし、悪妻なら哲学者になれる」。これはもちろん後世の人が脚色したジョークですが、ソクラテスの場合、いかに哲学者という職業(?)が結婚や家庭生活に不向きであるかを、身をもって証明しているとも言えそうです。このことはソクラテスを始祖とする西洋の哲学者たちの多くが、生涯独身を貫いているという事実からも窺えることです。試しに名前を挙げてみましょうか、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ジョン・ロック、ベンサム、カント、ショーペンハウエル、ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ウィトゲンシュタイン、そうそうたる顔ぶれですね。(ちなみにアリストテレスとヘーゲルは四十歳を過ぎてから結婚しています。) ルソーやハイデガーは結婚している上に女性関係も派手だったようですが、これはまあ例外と言っていいと思います。

 人間いかに生きるべきかを問うことの専門家であった筈の大哲学者たちが、揃いも揃ってみな独身者で、夫婦生活や子育てといった分野ではまるで未経験者であったということが、特に西洋哲学というものの全般的な欠落点につながっているような気がします。恋愛問題で苦しい時や、夫婦関係がうまく行っていない時に、プラトンやカントを読んでみても何の役にも立たないでしょう? さらにこれが育児となると、恋愛や結婚などとは違って、やり直しの利かない一発勝負の事業である訳で、先人の深い智恵を当てにしたいところなのに、これに関して頼りに出来るような書物というものが見当たりません。これは私の不勉強もあるのかも知れませんが、誰もが認める育児論の古典などというものは聞いたことがないと思いませんか。(いかに我が子を頭の良い子にするかといった、実利的な育児書なら毎年いくらでも出版されていますけど。)

 どこで読んだものだか忘れてしまいましたが、子供に対する大人の接し方について、とても印象に残る逸話がありました。幕末の頃、日本にやって来た西欧列強の使節団の人たちが、日本人が子供を可愛がる様子を見て驚いたというのです。150年前の西洋人たちは、子供がそれほど可愛くなかったのでしょうか? それとも江戸時代の庶民は今よりずっと子供を可愛がる習慣を持っていたのでしょうか? 事実がどのへんにあるのか私には分かりませんが、西洋哲学が子供に無関心な点を考え合わせても、なんとなく得心のいくものがあります。日本は万葉集の山上憶良の時代から、子供を慈しむ心を歌に詠む伝統を持っていました。西行法師や良寛さんの歌、小林一茶の句や宮沢賢治の詩や童話を思い浮かべてみれば、その伝統は明らかだと思います。前回取り上げた中原中也にも、子供をテーマにしたいい詩がたくさんありましたね(ちなみに私は未刊詩篇のなかの『坊や』という詩がたまらなく好きです)。ヨーロッパの文学史の中には、こういった気分の作品系列というものがあるのだろうか、私は寡聞にして知りません。そもそも、子供を慈しむという、この「いつくしむ」という動詞のニュアンスを、英語やフランス語ではどう表現するのでしょうか?

 いや、こんなことを書き散らかしていると、どんどん自分の無知をさらけ出すだけですから、このへんにしておきましょう(まだ正月気分が抜け切れていないんです)。話を哲学と育児の問題に戻せば、西洋の哲学者の中でまとまった教育論を残しているのは、ジョン・ロックとルソーだと思います。ロックが子供をタブラ・ラサ(白紙)に喩えたのは有名な話です。でも、これっていかにも机上の論理だという気がします。私ごとで恐縮ですが、私も四十歳を過ぎて結婚し、四十代後半で子供を授かり、いままさに子育て真っ最中の人間ですが、その実感からして子供って全然タブラ・ラサどころじゃないと思っています。いまでも我々夫婦のあいだで語り草になっていることがあります。まだ息子が二歳になって間もない頃、たまたま夫婦がつまらない口論をしている場面がありました。突然、息子が大きな声で「けんかしないで!」と言ったのです。まだ言葉を覚え始めたばかりの頃で、そんな〈ませた〉セリフが出て来るとは思わなかったので、夫婦して顔を見合わせてしまいました。たぶん保育園で覚えて来たコトバだったのでしょうが、そのタイミングと言い、コトバの調子と言い、あまりに場面にぴったりだったのです。で、思いました、この子は全部知っているんだ、まだ語彙が少なくて何も表現出来ないけれど、両親の考えていることくらいすべてお見通しなんだ。子供は言葉を覚えたり知識を吸収したりしているというより、すでに知っていることを思い出しているだけなのかも知れない、そんな感覚を持ったのです。息子の方は、たまたまそのコトバがヒットしたので、それ以後、両親がふつうに話していても、口癖のように「けんかしないで!」を連発するようになったのですが(笑)。

 ロックやルソーにしても、また現代の児童心理学や発達心理学でもそうですが、子供というものを客体として研究の対象としていたのでは捉え切れない何かがあるような気がしてなりません。単純な話、私たちは誰でもかつては赤ん坊であり幼児であった訳ですから、子供というものを単なる観察や実験の対象として、あるいは教育や矯正の対象として扱う以外のやり方があってもいいと思います。むしろ子供と相対するなかで、自分のなかにもある子供の部分を再発見し、追体験して理解を深めるという方向もあるのではないだろうか。それは日本人が長い歴史で培って来た「いつくしみ」という方法によってなされるものであるかも知れない、そんなことを思うのです。――まあ、そんなきれいごとはともかく、子育てを体験してみて分かったことは、子供というのは親(大人)の時間を食べて生きている生き物であるということです。とにかく眠っているとき以外は、一瞬たりとも親を解放してくれない(我が家の甘ったれ坊主に限ったことかも知れませんが)。この正月休みも、昨年買ったシルビオ・ゲゼルの主著でもじっくり読もうかと思っていたのに、とてもそんな余裕はありませんでした。こういう状況では、新しいテーマにもなかなか手を出しづらいので、今年はブログのテーマのひとつとして、子育てについてライブに綴って行こう、そんなことを一年の計として考えた次第です。

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コメント

共働きの夫婦にとって、子育てのひとつの試練は夜泣きです。育児休暇も終わり、育児を半々に分担しなければならなくなる頃に、夜泣きの時期がやって来ます。ほんとうに子育てというのは、命を削る仕事だと実感させられる時期でもあります。そんな時には、中也のこんな詩を口ずさんでみてはいかがでしょう。古今東西、赤ん坊の夜泣きというものを、これほどまでに美しく詠んだ詩はかつて無かったのではないか、というような詩です。


  坊や

 山に清水が流れるやうに
 その陽の照つた山の上の
 硬い粘土の小さな溝を
 山に清水が流れるやうに

 何も解せぬ僕の赤子(ぼーや)は
 今夜もこんなに寒い真夜中
 硬い粘土の小さな溝を
 流れる清水のやうに泣く

 母親とては眠いので
 目が覚めたとて構ひはせぬ
 赤子(ぼーや)は硬い粘土の溝を
 流れる清水のやうに泣く

 その陽の照つた山の上の
 硬い粘土の小さな溝を
 さらさらさらと流れるやうに清水のやうに
 寒い真夜中赤子(ぼーや)は泣くよ

    (中原中也『未刊詩篇』より)

投稿: Like_an_Arrow | 2008年1月 6日 (日) 23時33分

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