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2008年1月27日 (日)

ポスト・オイル時代を待ち望む

 地球1個分の生活という考え方はとても魅力的ですが、地球が産出することの出来る資源の量と、人間が消費する資源の量とが、どうしたってバランスしないものもあります。CO2の排出や森林の伐採については、各国の努力や将来の技術革新でサステイナブル・ラインにまで改善される可能性が無いとは言えません。また鉱物資源、最近話題になっているレアメタルのようなものだって、廃棄物から効率よく回収する技術が確立すれば、持続可能な資源の循環が成立しないとも限らない。ただ、どう工夫しても循環サイクルが形成出来ないのが、石油を始めとする化石燃料です。考えてみればとても恐ろしいことのように思えるのですが、生物の進化が40億年もかけて蓄えた貴重な資源を、人間はニ百年かそこらで使い果たそうとしているのですね。もしも仮に人類が今世紀のうちにも絶滅してしまい、その何千万年後かにポスト・ヒューマンと呼ばれる知的生物が地球を支配することになったとしても、彼らにはもはや文明を築き上げるための化石燃料は残されていない。そう考えると、人間がこの地球に対して働いた過酷な搾取は、本当に取り返しのつかないものだったのだと感じられます。それは足跡(フットプリント)と呼ぶよりも、永久に消えない「爪跡」と呼ぶべきものです。

 地球温暖化という話題の陰に隠れて、あまり目につかなくなりましたが、「ピーク・オイル」というのも社会の持続可能性を考える上での重要なキーワードのひとつです。石油の埋蔵量には限りがあり、その発掘量は近いうちにピークを迎え、その後は石油の供給量が次第に減少して行くという考え方です。石油がすっかり枯渇するというのではなく、品質が良くて採掘コストの安い石油が少なくなって、値段が他の代替エネルギーよりも割高になった時、経済原理として石油に依存した社会は終わりを告げるだろう、そういう理屈のようです。インターネットで調べてみると、これにもいろいろ対立する意見があるのですね。ある人はもう今年にも世界の産油量はピークを迎えるだろうと言っているし、ある人はあと140年は今のペースで採掘しても大丈夫だと主張している。実のところ全世界の埋蔵量がどのくらいあるのかよく分からないのだという説があるかと思えば、欧米の調査機関は採掘可能な石油の量を正確に把握しているが、それを国家機密として公開しないだけなのだという説もある。これでは私たち生活人はいったい何を信じていいのか分かりません。

 それでも断片的な情報をつなぎ合わせることで推測出来ることもあります。1960年代くらいまでは世界中で新たな油田の発見が相次ぎましたが、それ以後は油田発見の件数が急激に減っている、世界一の石油消費国であるアメリカは、かつては石油の輸出国だった時代もあったのに、今では国内消費の6割以上を輸入に頼るようになっている、また世界最大の埋蔵量と言われるサウジアラビアの油田でさえ、すでにピークの前兆である原油成分の劣化が現れ始めているという報告もあるそうです。これに中国やインドを始めとする途上国の経済発展によって、世界の石油需要が急速に伸びていることも考え合わせると、楽観論よりも悲観論に照準を合わせて準備をしておいた方が良いというのが常識的な判断だろうと思います。昨年から今年にかけて原油価格が高騰して、ついに1バレル100ドルを超えました。これは世界の投機マネーが実体以上に価格を吊り上げているためだとも言われますが、石油の将来に漠然とした不安がなければ投機マネーだってそうは集まらない筈でしょう。

 もしも地球温暖化や環境保護の観点から考えるなら、早くピーク・オイルの時代が到来して、社会がいやでも代替エネルギーに移行しなければならなくなった方が、結果として人類の未来のためにはいいのかも知れない、そんなことを考えたりもします。もちろんその代替エネルギーは、CO2や放射能などを撒き散らさないクリーンなものであることが前提です。そうした技術は、すでに理論的には出揃っていて、実用化の可能性も見えて来ているのですね。おそらくその一番の本命は「核融合技術」なのだと思います。私たちがすでにその恩恵を受けている原子力発電は、ウランのような重い物質が核分裂を起こす際に発生するエネルギーを利用したものですが、核融合の方は水素のような軽い物質を高温・高密度のプラズマ状態に置き、そこで起こる核融合反応で発生するエネルギーを取り出すものです(と、書いてる本人がよく理解している訳ではありませんが。笑)。注目すべき点は、核融合は核分裂と違って危険な放射能を少量しか発生させないこと、事故によって原子炉が暴走したり爆発したりする危険性も少ないこと、温暖化ガスであるCO2をほとんど排出しないこと(これはウラン型原子力でも同じ)、そして使われる燃料が海水中にほとんど無尽蔵に存在する重水素であるといったことです。なんだ、いいことずくめじゃないですか。ただ、それを実現するための技術的なハードルが高いのですね。その研究は、とても一国だけの予算では賄い切れるものではないので、先進国の共同プロジェクトとして進められているのだそうです。2005年に日本とフランスが実験炉の誘致に名乗りを上げ、日本はフランスに敗れてしまいました。現在、2016年の試験運転開始を目標に、フランスのカダラッシュというところにイーター(実験炉)が建設されつつあります。

 こういう話を聞くと、いまだ科学技術による明るい未来を信じている自分としては、心がワクワクするのを抑えられません。(いまどき珍しいタイプですね。笑) 核融合エネルギーが実用化されて、三百年以上も続いた化石燃料時代に終止符を打つ、その可能性が現実のものとなって我々の視界に入って来たのです。ポスト・オイル時代の視点で振り返れば、人類が石炭や石油に依存して、地球環境の破壊と引き換えに繁栄を手に入れていた時代は、なんと野蛮なものだったと見えることでしょう。未来の科学者なら、こんな記述をするかも知れません。生命の進化が人類のこの繁栄にまで到達するためには、奇跡とも呼べる3つの条件が必要だった。ひとつめは生命自身がこの星の大気を自らの生存に適した組成に作り直したこと、ふたつめは生命自体の循環すなわち豊かな生態系による食物連鎖が実現されたこと、そして三つめは地中に化石燃料を蓄積してそれを利用する知恵を持った生物に文明をプレゼントしたことである。それらはすべて30億年ほど前にこの星に誕生した〈葉緑体〉が作り出した奇跡だった。つまりすべては太陽の恵みだったのである。そしてこの星で初めて化石燃料を利用して文明を築き上げた人類は、二十一世紀の半ば、ついに地上の太陽(核融合)を手に入れた。それは人類が太陽エネルギーの恩恵に頼らず、初めて自分の足でこの地上に立った瞬間だったとも言える。それはまた、人類がこの地球から借りた莫大な借金の返済が始まる時代とも重なっていたのである。

 代替エネルギーについて書こうと思っても、私にはネタも何も無いので、まあそんなレトリックでお茶を濁すしかないのですが、やはり核融合技術というのは、全宇宙的規模で見ても画期的なものなのだと思います。宇宙のどこかに地球と同じような知的生物が存在する(した)として、彼らの文明が持続可能なものになるためには、この技術を手に入れるかどうかがひとつの試金石になるのではないかという気がする。ただ、現象面から見れば、核融合エネルギーと言っても、それは要するに非常に安全で、しかも安価に運用出来る原子力発電所を人類が手に入れるという、それだけのことに過ぎません。その実現に、日本が、フランスが、アメリカがどれだけ貢献したかなどというのはまあどうでもいい話で、クリーンで使い減りのしないエネルギーを使って、どう持続可能な社会を作って行くかが次の課題になります。いくら核融合エネルギーが当たり前のものになっても、まさか自動車や航空機に核融合エンジンが搭載される訳ではないので、課題はとにかく「エネルギーのポータビリティ」をどう実現するかにかかって来るでしょう。この分野では、燃料電池や水素エネルギー技術が有力視されていますが、日本はイーターの誘致に失敗したのをむしろ幸いとして、これらポスト・オイル時代の個別技術の研究開発に思い切って予算と人を投入すべきだと考えます。資源の乏しいこの国にとって、地下の化石燃料という資産格差が無くなる時代は、何世紀に一度というチャンスかも知れないからです。

 京都議定書の記事に触発されて、3回シリーズで環境とサステイナビリティの問題について考えて来ました。素人が偉そうに書くような話題ではなかったと反省しています。子供を持つひとりの父親として思うことは、やはり将来に亘って持続出来る社会の見取り図というものを心のなかに持っていなければ、結局私たちの生活は刹那的で虚無的なものに陥って行くしかないということです。未来はどちらに転ぶか分からない。しかし、最近はマスコミも世論も暗い方向にばかり目を向けているように思えます。楽天的と言われようが太平楽と言われようが、この問題に関しては明るい話題やニュースを選択的に取り上げて、自分(と周りの人)を励まして行くしかないように感じています。個人的には、そのへんがまあ今回の結論ということになるのでしょうか。

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2008年1月20日 (日)

地球1個分の生活という思想

 世界中で人間が排出するCO2が1日に7000万トンに達するとか、地球上で毎日2万ヘクタールの森林が失われているといった話を聞くと、なんだか無力感で頭がクラクラして来ます。環境破壊のスケールとスピードがあまりに途方も無いものなので、一部のエコ・コンシャスな人たちを見習って、私たちがいまの生活を改めたとしても、とても大勢に影響があるとは思えない。この無力感って、何かに似てませんか? そう、選挙のときに自分が1票を投じても何も変わらないと感じる、あの虚しさに似ている気がする。でも、自分の1票が無力だからと選挙を棄権するのが誉められることではないように、自分の生活が環境にどのような負荷をかけているか、そのことに無自覚でいることも現代人としてうるわしいことではありません。

 京都議定書でのCO2の削減目標が日本は6%というのも、科学的な根拠に基づいた数字ではなく、国際会議の駆け引きのなかで適当に決められたものだったようです。どうも地球温暖化がこれだけ世間の関心を集めている割りには、まだ〈環境の計数学〉といったものが充分に成熟していないように感じます。個人の生活についても、例えば自動車に乗る回数を減らすことだとか、暖房の温度を低めに設定することだとか、それは確かに環境に良いことであるとは思うけれども、そのインパクトが裏付けのある尺度で計測出来なければ、エコライフと言っても所詮は自己満足に過ぎないような気がする。そんなことを思いながらインターネットを調べていたら、エコロジカル・フットプリントという考え方があることを知りました。これは、国や企業または個人などが、活動のなかでどれだけ環境に負荷をかけているか、それを土地の面積で測ろうという試みだそうです。確かに私たちの生活は、食料にしても資源にしても、すべては〈土地の恵み〉によって支えられている訳ですから、それがどのくらいの面積の土地に相当するのかという尺度で測ることは、理に適った考え方のように思われます。いま世界の人口が60億人だとして、地球の陸地の面積の60億分の1の土地によって自分の生活が賄われているものなら、世界中の人が自分と同じような生活をしても、それを地球は許容してくれるでしょう。この指標を考案したカナダの学者による計算では、地球がひとりの人間に提供出来る有効な土地の広さは1.8ヘクタールほどなのだそうです。それに対して日本人の平均的な土地需要面積、すなわちエコロジカル・フットプリント値は4.3ヘクタールにも上るのだそうです。つまり日本人は、地球2.4個分の生活をしているということになる訳です。

 エコロジカル・フットプリント(以下EFと略)の考え方を普及しようとしているエコロジカル・フットプリント・ジャパンというNPO法人のホームページに行くと、簡単なクイズに答えることで自分が地球何個分の生活をしているのか、概算で算出してくれます。面白半分に試してみたら、私の場合には1.2という結果が出ました。日本人の平均値の半分という低い数字ですが、これは自家用車を所有していないことや、ここ数年来飛行機というものに乗っていないこと、電気製品は壊れるまで使い倒すし、本はなるべく買わずに図書館で借りて読む、風呂にも毎日は入らない、そういうことのトータルな結果のようです。エコというより単なる貧乏と言った方が当たっていますね(笑)。それでも地球1.2個分の生活ですから、改善の余地はあるみたいです。裏にどのような計算式が仕込まれているのか、それも別資料として提供されています。住居の床面積がけっこう大きなウェイトを持っているのが解せませんが(むしろ住んでいる家の耐用年数を聞いた方がいいような気がします)、その他で大きいのは光熱費や自動車の走行距離、飛行機の搭乗距離などで、これは常識的にも納得出来ます。EF値を下げたければ、とにかく消費を抑えればいいので、最もエコな生活というのはホームレスの生活ということになります。そりゃまあそうだ。

 とりあえず今年は自分もエコロジーにテーマを置いてみようかな、そう思っていた矢先に面白い考え方を知りました。ただ、ひとりの生活人としては、もう少し具体的な行動指針につながるようなパラメータが欲しいような気もします。直接的に電力や石油の消費量に換算出来るものは比較的想定がつきやすいのですが、既に製品となったものを購入した場合には、その製造過程や流通過程、また廃棄の過程でどれだけの足跡(EF)を残すものなのか、なかなか想像がつきません。割り箸やスーパー袋のEF値、缶やペットボトルの飲料1本当たりのEF値、カップラーメンのEF値、新聞購読のEF値、まあそのようなものですね。あとは製品をリサイクルした場合やゴミの分別を励行した場合のEF値の改善効果なども知りたいところです。そういう生活のシーン別にEF値の早見表を参照出来れば、エコライフ実践のための指針としてもっと便利でしょう。EFの算出方法は、専門的には複雑で難しいもののようですが、私たちは結果が欲しいだけですからね。

 もうひとつ、EFについて不満があるとすれば、せっかく複雑で精密な計算をした結果なのに、それが土地面積というたったひとつの数字に集計されてしまうという点です。環境負荷とひと言で言っても、そのなかにはCO2を始めとする大気汚染に関するものや、土壌汚染、水質汚染に関するもの、エネルギー資源や鉱物資源の消費に関するもの、生態系への影響に関するものなど、いろいろな区分があると思います。たとえ世界のすべての人が、EF値で1.8ヘクタール以下の生活をしたとしても、それだけで地球環境がサステイナブルになる訳ではありません。CO2の排出は抑えられたけれども、その技術のために石油の消費量が倍になったというのでは、それは地球1個分に収まるものとは言えないでしょう。重要なのは、バランスです。そのバランスがEFの考え方では捉えられないのだと思います。経営学の最近の流行にバランス・スコアカードというものがありますが、例えばこれを応用して「エコロジカル・バランス・スコアカード」といったものは考えられないでしょうか? 仮にこんな領域を考えてみます、①環境汚染(大気、土壌、水質)、②地下資源(エネルギー資源、鉱物資源)、③食料生産(農業、牧畜業、漁業)、④生態系保護(森林、海洋)、これで4領域10項目のEF値がプロット出来る。これをグラフにしてみた時、全項目が地球1個分の枠内に収まって、初めて持続可能な社会と呼べるというアイデアです。

 ひとりの人間やひとつの国が、全部の項目でサステイナブル・ライン以下の生活をすることは難しいでしょう。例えば日本は地下資源が乏しいし、現状では食料の自給率も40%以下なので、とてもいびつな十角形になると思います。ただ、これは世界中の国々がトータルでバランスがとれていればいい訳で、自国の得意分野でサステイナビリティに貢献すればいい(貢献するしかない)のだと思います。日本の場合なら、代替エネルギーの開発とか、淡水化技術とかでしょうか。個人の場合でもきっと同じでしょう。ワン・ナンバーで「お前のEF値は4.3ヘクタールだ」などと詰め寄られると、なんだか生きていること自体が悪いことであるような気がして来ます。むしろ自分の得意な分野や関心のある分野で努力をする方が、気も楽だし実効もあるのではないだろうか。その多様性を認めてこそのエコライフでしょう。ポスト京都では、国ごとにそういった自発的な目標設定が出来ないものだろうか、そんなことも考えたりします。

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2008年1月13日 (日)

京都議定書、日本の採るべき道

 昨年末から今年の始めにかけて、地球温暖化の話題を取り上げた記事や番組が目につきました。少し前までは、人間社会の排出するCO2と気候の温暖化については、因果関係が証明されている訳ではないなどと平気でうそぶいている人たちもいましたが、さすがにここに来てそんな声も聞こえなくなったような気がします。確かに昨年は、国内でもまた海外でも、異常気象に伴う災害や被害の多発した一年でした。いや、ここ数年、その傾向はどんどん顕著になって来ているとも感じられます。地球に何か取り返しのつかないことが起こり始めている、そういう危機感が私たちのような一般の生活人にも浸透して来たのが2007年という年だったと思います。

 1月3日の朝日新聞に、日本はCO2の排出権取引において、欧米の企業から「カモにされる」可能性があるという記事が載っていました。1997年に採択された京都議定書では、先進国はそれぞれCO2を始めとする温室効果ガス削減の目標枠を定められています。1990年の排出量を基準として、2008年から2012年までの5年間に、EU諸国は8%、アメリカは7%、日本は6%の削減を行なうというものです。一見、日本は優遇されているように見えますが、実は日本は早くから環境対策では世界の先端を行っていましたから、1990年を基準とされると非常に厳しいのですね。削減のための〈ノリシロ〉がほとんど無いからです。事実、2006年の実績では、削減どころか1990年比で6.4%の増加になっています。国内の電力消費量や自動車の台数が増えたからです。これでは2012年までに自力での6%削減など、どう考えても不可能です。アメリカなどは、目標達成が難しいと見るや、早々に京都議定書から離脱してしまいました。日本は議定書作成の議長国ですから、簡単に離脱も出来なければ、目標達成を諦めることも出来ないという苦しい立場に置かれているのです。

 京都議定書は、これに参加する先進各国にそれぞれ削減目標を課すものですが、その達成を自国だけの地道な努力によって進める以外の選択肢についても定めています。そのひとつが問題の「CO2排出権取引」なのです。もしも2012年までに目標達成が難しいようなら、目標をクリアしてさらに余裕のある参加国から、その余剰分をCO2排出権として買い取り、自国の排出枠をその分だけ拡大しても良いというのです。新聞記事では、すでに排出権の買い取り競争が始まっており、価格の高騰を招いていることが伝えられています。日本の商社が排出権を買い付けようとしても、欧米の企業に出し抜かれてしまい、買った欧米企業はその値段をさらにつり上げて日本に売り付けようとして来る、そんなことが実際に起こっているのだそうです。これを聞いただけでも、最初から日本は狙い撃ちされたに違いないと思ってしまいますね。もしかしたら1997年の京都会議の時点から、日本は(EUが仕組んだ)国際的な罠にはめられていたんじゃないだろうか。現在、日本はイギリスに次ぐ世界第二位の排出権購入国なのだそうですが、そのイギリスにしても、おそらく日本に転売するために排出権をキープしているだけなのでしょう。

 相も変わらぬ日本の国際戦略のまずさはともかくとして、こういった京都議定書の枠組みでは、世界全体のCO2排出削減などとても覚束ないと感じます。一部の国や企業が排出削減に向けた努力をしたとしても、そこでの削減分が商品となって別の国や企業の排出増加に対する免罪符になるというのでは、地球全体としてのCO2削減には何の効果も無いと考えられるからです。日本だって、そんなふうに買い集めた排出権によって、なんとか6%の削減目標を名目上達成したとしても、そんなことは環境先進国の名にも値しないし、むしろ国際的な恥さらしになるだけでしょう。(また日本は自分の手を汚さずに、カネだけで解決する国だと言われる訳です。) だとすれば、日本政府や日本の企業は、やはり戦略を大きく転換すべきでしょうね。まずは世界中で排出権を買い漁るようなさもしいことは止めて、もっと実質的で価値のあるCO2削減策に取り組むべきだと思います。どこで取り組むか? すでに国内のCO2削減では技術的な限界に近付いている訳ですから、もっと簡単に投資効果が現れるところで取り組むのです。いまそれに最適な場所は地球上にひとつしかありません。つまりお隣りの中国です。

 まだ1997年には、中国は先進国として認知されていなかったためなのでしょうか、京都議定書の批准を行なってはいても、中国政府には温室効果ガスの削減目標は課されてはいません。その後、中国は急速な発展を遂げ、米国に次ぐ世界第二位のCO2排出国になったことは誰もが知るところです。実は京都議定書のルールの中には、排出枠の設定を受けた先進国同士での排出権の取引の他に、先進国が排出枠を持たない途上国と共同でCO2削減のプロジェクトを行ない、途上国での削減実績を自国の排出枠にプラスしてもいいという規定があります。これを「クリーン開発メカニズム」(CDM)と呼ぶのだそうです。日本が中国で買い付けようとしているのが、このCDMによる排出枠なのですね。しかし、ここでも日本は後手に回っていて、新聞記事の例では、既に実績を上げている出来合いのCDMを事後的に買い付けようとしているだけのようです。

 これは中国にとっては美味しいビジネスかも知れませんが、日本にとっては不名誉な話です。むしろここは、日本の環境技術を積極的に供与して、本来の意味での共同クリーン開発を進めるのが筋でしょう。なにしろ中国では、昔の日本のように環境汚染がひどくて、それで国民の健康が害されているという事実があるのです。京都議定書の目標などという以前に、隣りの国が公害問題で苦しんでいて、こちらがそれを解決する技術を持っているなら、それを提供するのは先進国として当然の義務だと思います。もちろん、中国の工場が排出する汚染源を、日本のコスト負担ですべてクリーンにすることなどは出来ません。が、日本企業が持っている環境対策に関する特許技術を、政府が買い上げて無償で提供したり、またはそのノウハウを持った技術者を政府費用で派遣したりすることなら出来る筈です。そんな費用をどこから捻出するのかですって? そんなの決まってるじゃないですか、新聞記事によれば、現在のままでは2兆円から5兆円にも達するというCO2排出枠の購入費用を、そちらに振り向ければいいのです。そうすれば京都議定書の6%枠など自然にクリア出来ると思いますし、たとえ出来なくても地球全体のCO2排出抑制に実効的な貢献が出来ることになる。それは結果として、京都会議議長国としての日本の名誉にもなることですし、これからの日中の経済関係を考えた上でも、とても意味のある先行投資であるような気がします。

 従来から京都議定書というものの名前くらいは知っていましたが、その具体的な内容は知らずにいました。今回の記事を読んだのがきっかけで、私も初めてその中身を少し勉強してみました。人類が初めて共通の数値目標を定めて、地球温暖化の問題に取り組もうとしている、その記念すべき試みに「キョウト」の名が冠されていることに、多くの日本人は誇りを感じたのではないかと思います。その誇りを、慾得まみれの排出権争奪戦などで踏みにじってはいけない。これからの時代、世界の中で日本がプレゼンスを発揮出来る分野はどんどん少なくなって行くと予想されます。環境対策や温暖化対策は、その数少ない分野のなかでも有望なもののひとつでしょう。これに対して、政府は予算を惜しんではならないというのが今回の私の主張です。なにしろ我が国一国だけの問題ではない、それは世界と人類を救うための予算でもある訳ですから。今年は私もこのテーマについて、いろいろと考えて行きたいと思っています。

(付記です。この文章を書いたあと、CO2が地球温暖化の元凶だという説に筆者は疑いを持つようになりました。この記事には続編があります。こちらもご参照いただけると助かります。)

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2008年1月 6日 (日)

哲学と育児の関係について

 クサンチッペというのは、悪妻としてその名を歴史に残してしまったソクラテスの奥さんの名前です。これについては面白い逸話がありましたね、ソクラテスが若者から結婚すべきかどうかと相談を受けた時、こう答えたというのです、「結婚したまえ。もしも結婚相手が良妻なら君は幸せになれるし、悪妻なら哲学者になれる」。これはもちろん後世の人が脚色したジョークですが、ソクラテスの場合、いかに哲学者という職業(?)が結婚や家庭生活に不向きであるかを、身をもって証明しているとも言えそうです。このことはソクラテスを始祖とする西洋の哲学者たちの多くが、生涯独身を貫いているという事実からも窺えることです。試しに名前を挙げてみましょうか、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ジョン・ロック、ベンサム、カント、ショーペンハウエル、ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ウィトゲンシュタイン、そうそうたる顔ぶれですね。(ちなみにアリストテレスとヘーゲルは四十歳を過ぎてから結婚しています。) ルソーやハイデガーは結婚している上に女性関係も派手だったようですが、これはまあ例外と言っていいと思います。

 人間いかに生きるべきかを問うことの専門家であった筈の大哲学者たちが、揃いも揃ってみな独身者で、夫婦生活や子育てといった分野ではまるで未経験者であったということが、特に西洋哲学というものの全般的な欠落点につながっているような気がします。恋愛問題で苦しい時や、夫婦関係がうまく行っていない時に、プラトンやカントを読んでみても何の役にも立たないでしょう? さらにこれが育児となると、恋愛や結婚などとは違って、やり直しの利かない一発勝負の事業である訳で、先人の深い智恵を当てにしたいところなのに、これに関して頼りに出来るような書物というものが見当たりません。これは私の不勉強もあるのかも知れませんが、誰もが認める育児論の古典などというものは聞いたことがないと思いませんか。(いかに我が子を頭の良い子にするかといった、実利的な育児書なら毎年いくらでも出版されていますけど。)

 どこで読んだものだか忘れてしまいましたが、子供に対する大人の接し方について、とても印象に残る逸話がありました。幕末の頃、日本にやって来た西欧列強の使節団の人たちが、日本人が子供を可愛がる様子を見て驚いたというのです。150年前の西洋人たちは、子供がそれほど可愛くなかったのでしょうか? それとも江戸時代の庶民は今よりずっと子供を可愛がる習慣を持っていたのでしょうか? 事実がどのへんにあるのか私には分かりませんが、西洋哲学が子供に無関心な点を考え合わせても、なんとなく得心のいくものがあります。日本は万葉集の山上憶良の時代から、子供を慈しむ心を歌に詠む伝統を持っていました。西行法師や良寛さんの歌、小林一茶の句や宮沢賢治の詩や童話を思い浮かべてみれば、その伝統は明らかだと思います。前回取り上げた中原中也にも、子供をテーマにしたいい詩がたくさんありましたね(ちなみに私は未刊詩篇のなかの『坊や』という詩がたまらなく好きです)。ヨーロッパの文学史の中には、こういった気分の作品系列というものがあるのだろうか、私は寡聞にして知りません。そもそも、子供を慈しむという、この「いつくしむ」という動詞のニュアンスを、英語やフランス語ではどう表現するのでしょうか?

 いや、こんなことを書き散らかしていると、どんどん自分の無知をさらけ出すだけですから、このへんにしておきましょう(まだ正月気分が抜け切れていないんです)。話を哲学と育児の問題に戻せば、西洋の哲学者の中でまとまった教育論を残しているのは、ジョン・ロックとルソーだと思います。ロックが子供をタブラ・ラサ(白紙)に喩えたのは有名な話です。でも、これっていかにも机上の論理だという気がします。私ごとで恐縮ですが、私も四十歳を過ぎて結婚し、四十代後半で子供を授かり、いままさに子育て真っ最中の人間ですが、その実感からして子供って全然タブラ・ラサどころじゃないと思っています。いまでも我々夫婦のあいだで語り草になっていることがあります。まだ息子が二歳になって間もない頃、たまたま夫婦がつまらない口論をしている場面がありました。突然、息子が大きな声で「けんかしないで!」と言ったのです。まだ言葉を覚え始めたばかりの頃で、そんな〈ませた〉セリフが出て来るとは思わなかったので、夫婦して顔を見合わせてしまいました。たぶん保育園で覚えて来たコトバだったのでしょうが、そのタイミングと言い、コトバの調子と言い、あまりに場面にぴったりだったのです。で、思いました、この子は全部知っているんだ、まだ語彙が少なくて何も表現出来ないけれど、両親の考えていることくらいすべてお見通しなんだ。子供は言葉を覚えたり知識を吸収したりしているというより、すでに知っていることを思い出しているだけなのかも知れない、そんな感覚を持ったのです。息子の方は、たまたまそのコトバがヒットしたので、それ以後、両親がふつうに話していても、口癖のように「けんかしないで!」を連発するようになったのですが(笑)。

 ロックやルソーにしても、また現代の児童心理学や発達心理学でもそうですが、子供というものを客体として研究の対象としていたのでは捉え切れない何かがあるような気がしてなりません。単純な話、私たちは誰でもかつては赤ん坊であり幼児であった訳ですから、子供というものを単なる観察や実験の対象として、あるいは教育や矯正の対象として扱う以外のやり方があってもいいと思います。むしろ子供と相対するなかで、自分のなかにもある子供の部分を再発見し、追体験して理解を深めるという方向もあるのではないだろうか。それは日本人が長い歴史で培って来た「いつくしみ」という方法によってなされるものであるかも知れない、そんなことを思うのです。――まあ、そんなきれいごとはともかく、子育てを体験してみて分かったことは、子供というのは親(大人)の時間を食べて生きている生き物であるということです。とにかく眠っているとき以外は、一瞬たりとも親を解放してくれない(我が家の甘ったれ坊主に限ったことかも知れませんが)。この正月休みも、昨年買ったシルビオ・ゲゼルの主著でもじっくり読もうかと思っていたのに、とてもそんな余裕はありませんでした。こういう状況では、新しいテーマにもなかなか手を出しづらいので、今年はブログのテーマのひとつとして、子育てについてライブに綴って行こう、そんなことを一年の計として考えた次第です。

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