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2007年12月 2日 (日)

生態系の破壊を嘆くよりも

 私が小学生だった頃、お菓子の景品に応募して、ミドリガメをもらったことがありました。当時はまだ家の周りの池や沼で自生種のカメが採れた時代で、イシガメやクサガメといった種類のカメをつかまえて来ては、空き缶に入れて飼ったりしたものでした。そんな小学生にとっても、アマゾン原産という緑色のきれいなカメはとても目新しく、魅力的なものでした。もしも今なら動物愛護団体から抗議を受けそうな話ですが、景品のミドリガメは小さな箱に入れられて、普通郵便で送られて来たのです。これには子供心にも驚いたことを覚えています。(インターネット検索で調べてみたら、そもそもミドリガメはアマゾン原産ではないそうです。いまで言えば偽装表示ですね。) ところがしばらくしてそのミドリガメが、空き缶から逃げてしまうという事件が起きました。あちこち探したのですが結局見付かりませんでした。大人になってから、日本の多くの湖沼でミドリガメが繁殖して、そのために自生種のカメが絶滅の危機に陥っているというニュースを聞いた時、それは大変だと思うと同時に、一方でほっとしたような気分にもなったものです。ずっと昔に逃がしてしまったあのミドリガメが、その後環境に適応して無事生き抜いたことの便りを受け取ったような気がしたからです。

 琵琶湖でブルーギルという淡水魚が殖え過ぎて、従来からの魚の漁獲量が大幅に減っている、そのことにいま心を痛めていますという天皇陛下のお言葉がありました。ブルーギルという魚のことは知りませんでしたが、これは1960年にシカゴ市長から当時の皇太子に送られた四種類の魚のひとつだったのだそうです。スポーツ・フィッシングの愛好家が持ち込んで、今では日本の多くの湖に棲息するようになったブラックバスと同様、環境への適応力と繁殖力の強い魚で、これが従来の生態系を破壊しているのです。温暖な気候と豊かな自然に恵まれたこの国の生き物たちは、外国から来たこれら獰猛な肉食動物の前では、なす術もなく敗れ去ってしまうようです(人間だって同じかも知れません)。もしもブルーギルやブラックバスといった淡水魚が食用に適していて、しかも食べて非常に美味しい魚であったなら、日本の湖沼がこういった外来種で占領されてしまったとしても、それはそれでメリットがあったと思います(なにしろ日本は食料自給率が4割を割っている国なのですから)。ところが、だいたいにおいて生態系破壊の主犯である肉食動物は、人間が食べて美味しくないという点が問題をより深刻にしていますね。「憎まれっ子世にはばかる」のことわざ通りです。

 開発による自然破壊ということも含めて、人間によって引き起こされた生態系の狂いは、元に戻すことはもちろん、その進行を食い止めることさえ不可能だと感じます。一説によれば、二十世紀の後半から今日まで、地球上から姿を消してしまった生物種は百万種を超しているのだそうです。こういう問題を考える時、単純な環境保護の観点からでは、とても根本的な解決策は生まれて来ないような気がします。ひとつの考え方としては、人間もこの地球上の食物連鎖の一員なのですから、まずは人間にとって豊かな食料環境を作るという点から自然を捉え直してみたらどうだろう、そんなことを考えます。絶滅が危惧される稀少生物をリストアップしたレッドブックというものがありますが、そこに取り上げられている動植物のすべてを保護するのではなく、ご退場いただく生物種は勝手ながらこちらで決めさせていただく、その基準は人間にとって有用かどうかで判断するということです。もちろん食用に適しているかだけで有用かどうかを判断出来る訳ではありませんし、生物の多様性はそれ自体で価値があるものだと思います。しかし、人間にとって有用な生物の天敵であり、しかもそれ自体が食用にもならないような生物は、地球上からいなくなっても惜しまないと決意してみたらどうでしょう。例えば、ブルーギルやカラスがこの世界から完全に絶滅してしまっても、それが計画的な駆除であるなら仕方が無いという考え方です。

 そんな考えは人間の驕りだと反撥を感じる人も多いと思います(正直に言って、私もそう感じます)。ただ、環境保護やエコロジーといった思想を突き詰めて考えると、最後は人間そのものの存在を否定するところまで行ってしまう、またそこまで突き詰めなければ、環境保護と言ったって所詮は人間の自己満足に過ぎないだろう、そう思い込んでいる自分も一方にいるのです。環境保護団体の主張に時として矛盾を感じるのは、野生生物を捕獲することには反対する一方で、家畜として飼われている動物を食らうことには矛盾を感じていない感性の欺瞞性にあると思います。だったら答えは簡単なことです。我々は自らも食物連鎖に連なる肉食動物の一員として、他の動物と同様、利己的にふるまえばいいのだ。但し、人間はこれまで地球上に存在したどんな動物よりも強力な支配者として君臨しているのですから、地球環境や他の生物に対して負っている責任も重いと見なければなりません。そのように発想を転換すれば、失われて行く自然や変化してしまった生物環境ということをいたずらに嘆くばかりでなく、むしろそこに能動的に働きかけるという選択肢も生まれて来るのではないかと思うのです。すなわち〈環境保護〉ではなく、〈環境制御〉という考え方です。

 話を琵琶湖の問題に戻せば、ブルーギルのような外来魚だけを駆除することは現在の技術では難しいと思います。が、それはブルーギルだけを駆除しようとするから難しいので、琵琶湖に棲む魚類をいっぺんに駆除するような技術は考えられないものだろうか? ここからはまた無責任な素人の発想ですが、例えば魚が嫌う音波などで人工的な回遊ルートを作り定置網で一網打尽にする、毒性が時間の経過とともに消えるようなタイプの毒薬を湖全体に撒く、何らかの方法で湖水を一時的な酸欠状態にする、といったやり方は考えられないでしょうか?(物騒なことを言っていますね) 重要なのは、環境に永続的な悪影響を与えない方法を選ぶという点です。こうして琵琶湖は、決して死の湖ではないけれども、魚やその他の水生生物の棲まない湖になる。言ってみれば、新しい水槽に水を張ったような状態になるのです。そこに人間がデザインした最適な生物種を、最適な比率で放流すれば、あとは自然の持つ復元力で豊かな生き物の世界が再生すると期待出来る。いや、この発想が非現実的であることは認めますが、決して非道徳的なことではないだろうというのが、今回の私の主張なのです。もしも日本がこのくらいダイナミックな環境技術を開発出来れば、それは二十一世紀の人類にとって非常に大きな貢献になるのではないかと考えるのです。

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