« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007年11月25日 (日)

内部告発時代の新ビジネス

 高級料亭として有名な「船場吉兆」の料理を、私は見たことも食べたこともありませんが、「赤福餅」は家人が好きなこともあって、昔よく名古屋に出張に行った帰りにお土産として買っていました。個人的にはどちらかと言うと、餡の甘味を抑えた「御福餅」の方が好きだったのですが、残念なことにどちらも食べられなくなってしまいましたね。食品偽装の事件がこう立て続けに起こると、ふだん口にしている食べ物は大丈夫だろうかと不安になって来ます。インターネットのブログや掲示板を見ると、多くの食品スーパーなどでも悪質な偽装表示が日常的に行なわれているという証言があちこちで見付かります。

 食品業界に限らず、いろいろな業種で企業の不祥事が明るみに出て、それが企業の存続をさえ危うくするという事件が続発しています。この問題については、ふたつの異なる解釈が出来るのではないかと考えています。すなわち、①最近は社会の倫理的な規範が失われつつあり、以前はありえなかったような不祥事が現実に起こるようになった、②不祥事自体は昔からあったのだが、世間一般の倫理的な意識が高まったために、これを許さないとする空気が企業のなかにも浸透して来た。どちらもありそうな仮説ですが、このふたつはまったく正反対の前提に立っていることになりますね。もしも前者なら、今の時代は道徳的に衰退しつつある時代だということになるし、後者なら逆に、現代は道徳的に進化しつつある時代で、ただ前の時代から残っている〈膿〉を出しつつあるだけなのだということになる。あなたはどちらが正しい解釈だと思いますか? 事実としてどうかは分かりませんが、私は自分の信念として後者の考え方を採ります。

 明るみに出される不祥事は、ほとんどすべて従業員からの内部告発によるもののようです。私も企業人のひとりとして、なんだか複雑な気持ちにさせられます。さいわい今のところ、自分の周りで内部告発をしたくなるような不正を目の当たりにすることはありませんが、もしそういう立場にいたら自分ならどうするだろうか? 自分が告発者だと知れたら、もうこの会社にはいられなくなるに違いない、たとえそれが知られなかったとしても、会社は大きなダメージを受けて倒産するかも知れない、そうなればいずれにしても職を失うことになる。だからと言って、それを怖れて不正を見て見ぬふりをするのは、さらにはその片棒を担がされさえするのは、針のムシロに座らされているようなものだ。もしもこれが、リストラにでも遭って退職したあとなら、何の気兼ねもなく告発者になれるのかも知れません。が、その会社に長くいて、その仕事に誇りを持っていればいるほど、心の葛藤は深くなるに違いない。告発する先は、担当の行政機関よりもマスコミを選ぶ方が当世風であるようです。なにしろマスコミはそうしたスキャンダルを渇望しているし、世間が騒ぎ出せば当局も重い腰を上げざるを得なくなるからです。

 そのような悩める善良な従業員にとって、不正を黙って見過ごすか、あるいは世間に向かって告発するか、そのふたつしか選択肢が無いという点にジレンマがありますね。もしも理想を言うならば、不正の告発はいきなりマスコミに対して行なわれるのではなく、まずは社内でそうした不正を糾すための活動を起こして、内部の体制を建て直してから、当局に届け出るのが(従業員としては)ベストだと思います。「不正はあったが、それは過去のことだった」という既成事実にしてしまえば、いきなり営業停止ということにもならないでしょうし、さして面白いニュースでもないのでマスコミも騒ぐことはないでしょう。でも、船場吉兆や赤福もそうだったように、不正を起こす企業の多くはワンマン社長の独裁体制が敷かれていて、不正の横行も経営者ぐるみ、クーデターでも起こさない限り内部改革は難しいというのが実情なのだろうと思います。だから自浄作用も働かずに、不正は行き着くところまで行ってしまうことになる。ひとりの従業員としては、一体どうすればよいのでしょう?

 例えば企業の内部告発を受けて、それを内々に調査した上で、外部から経営改革を手伝うといった新しいビジネスが成り立たないものか、考えてみましょう。もしもそういうサービスを提供する会社なり機関なりがあれば、内部告発をしたいと考えている従業員にとっては強い味方が現れたように感じられることでしょう。専門の覆面調査員が乗り込んで、法に触れる不正が行なわれているという動かぬ証拠をつかんだところで、経営者に報告書を突き付け、改革を迫る。むろん不正の内容や程度によっては、経営者と関与した責任者の更迭も含みます。経営者から見れば、企業の弱みにつけこんで〈ユスリ〉や〈タカリ〉を迫って来る暴力団と選ぶところはないかも知れない。いや、暴力団よりもさらにタチが悪いのは、こちらの場合、カネで片をつけるという落としどころが最初から無いことです。改革を請け負うこの会社は、人事を刷新し、再度不正が起こらないように業務改善を行なった後、一連の事実を新聞広告などで世間に告知します。行なわれていた不正が悪質であれば、過去に遡って関係者の逮捕というところまで行くかも知れませんが、この時には問題を起こした人たちは組織外に追放されていますから、企業として受けるダメージは最小限で済むことになります。

 何故こんなことを私が考えたかと言うと、おそらくこの先、内部告発はますます盛んに行なわれるようになるだろうし、それにともなってたくさんの企業が市場からの撤退を余儀なくされるだろう、それは日本経済にとって大きなマイナスだと思うからです。もちろん不正を行なっている企業を大目に見ようというのではありません。しかし、市場が歓迎する価値ある製品やサービスを提供して来た会社には、もう一度やり直すチャンスを与えてもいいではないですか。倫理的に進化した時代の消費者なら、そのくらいの度量を持ってもいい筈です。創業三百年の名門企業が、一夜にしてブランド価値を喪失する、それはその企業の従業員にとって痛恨であるばかりでなく、一般消費者にとっても大きな損失だと思います。優れた製品やサービスを持っているのに、自力で内部浄化出来ない古い体質の企業、そうした企業を情け容赦のないマスコミの攻撃から守り、その再生のお手伝いをするビジネス。どこかの監査法人か経営コンサルティング会社が、そういうサービスをメニューのなかに取り入れてはどうでしょう。それはもはや時代の要請だと言っても過言ではないと思うのですが。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年11月18日 (日)

マイナーブロガーとしての心得

 このところずっと重たいテーマが続きました。少し息切れがして来ましたので、今回はちょっと軽い話題を。久し振りに内田樹さんのブログを覗いてみたら、面白い記事が掲載されていました。相変わらず切れ味の鋭い語法で、読者の〈間合い〉にすっと入って来るような文章なのですが、これが自分のような弱小ブロガーにとってはなかなか恐ろしい内容を含んでいるのです。以下、『詩人のコピーライトについて』という文章からの引用です。

『自分のブログに「コピー禁止」とか「リンクを張る場合には必ず許可を求めること」とか書いている人が多々おられるが、私のブログは「コピーフリー」「盗用・剽窃フリー」である。
私はべつに私の「オリジナリティ」を誇示するためにこのようなところに駄文を記しているのではないからである。
私と「意見」を共にする人を一人でも多く増やしたいがために、このようなものを毎日せっせと書いているのである。
私の望みはできるだけ多くの人に「そんなこと当たり前じゃないか、私だって前からずっとそう思っていたよ」と言わせることであって、「そんなことを考えるのはお前だけだ」と言われるためではない。
「こういう考え方」をする人間は今のところ少数だから、それはさしあたり「ユニークな考え方」と言えるかもしれない。
だが、その「ユニークな考え方」が「ユニーク」なままで終わることを私は少しも望んでいない。
「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。
「多くのフォロワーを獲得したためにいつのまにか少しもユニークなものでなくなってしまったユニークさ」だけに価値があると私は思っている。
だから、「オリジナリティ」に値札をつける習慣にどうしてもなじむことができないのである。』(引用ここまで)

 長々と引用してしまいましたが、ご本人が「盗用・剽窃フリー」と言ってるんだから、まあいいでしょ。内田さんのブログの文章は、おそらく商用に書く文章のための〈アイデア出し〉という隠された目的があるので、ひとつのテーマについて充分考え抜いた結果を書いているというより、思いつきのままを書いているという面が強いのだろうと思います。だからあまり批判的に読んでも仕方が無いような気もするのですが、この文章はロジックに少し混乱がありますね。前半でオリジナリティというものに何の価値も認めないと言っておきながら、後半ではユニークさは多くのフォロワーを獲得したときに初めて価値を持つと言っている。むろん筆者のホンネは後半の部分にあるので、自分の書く文章は世間一般に受け入れられるところではないが、それは時代の一歩先を行く真理を先取りしているからであって、やがて多くのフォロワーがそれを追認すれば、世間一般の常識の方が私に近付いて来るだろう、そういう意を言外に含んでいるように感じられます。

 私はこれを思想家あるいは文筆家の志として正統なものあると肯定します。過去の歴史を振り返っても、最初は異端的な考え方と捉えられていた思想が、やがて社会の通念として受け入れられて来たという例はたくさんあるのですから。でも、だったら書き方がよくないよね。もしもこの文章を書いたのが、どこかのまったく無名のブロガーだったと想像してみてください(例えば私のような)。その場合にはこれは単なる〈ひがみ〉か〈強がり〉にしか聞こえないし、読者の共感を得られるような文章にはまったくならないと思います。有名な内田センセイが書いた文章だからこそ、そこはかとない奥の深さと有難みを感じる仕掛けになっているので、そこに気付いてしまえばこれは実に嫌味な文章にも見えて来る。その点については筆者はおそろしく無頓着だという気がします。ある程度の権威を確立した人が、意図的に自分を〈非主流〉の側に置いて、こういう自己韜晦的な文章で自身の正当性を補強しようとするのは、小林秀雄以来この国の文筆界にはびこる悪弊ではないかという気さえします。

 おっと、話題が逸れてしまいました。今回は別に日本の文筆界のことを論じようというのではなかった。この文章が自分のような、読者のほとんどいないマイナーブロガーにとって恐ろしいのは、『「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。』という一文です。この命題の真偽はともかく、これは自分がブログを続けて行くに当たって、いかにしてモチベーションを保ち続けるかと悩むひとりのブロガーにとって、死刑宣告に近い文言であるということは分かっていただけると思います。(まったく売れっ子作家でアルファブロガーでもある内田さんが、よくもこういう冷酷な文章を平気で書くよなあ、と私などは思ってしまう。笑)。というのも、一人のフォロワーどころか一人の読者さえも持たない私たちマイナーブロガーにとって(いつの間にか複数形になってるし)、ブログを続けて行くための意味を問われることほど切実な問題はないからです。

 長くブログを続けている方の中には、どうやってモチベーションを保ち続けるかについて、自分なりの工夫をしている方もいらっしゃるのではないかと思います。今回は、私自身がどのような工夫をしているか、それを初公開してしまおうと思います。実は私には、たったひとりだけですが理想的な読者(フォロワー)がいるのです。ただし、その人はまだこの世にはいません。私も一応思索系のブロガーのひとりとして、自分が考えて来たところ、探究して来たところを文章として残しておきたいと思っています。私は人間の〈生まれ変わり〉ということを1パーセントくらい信じているので(99パーセントは信じていませんよ。生まれ変わりについての私の考え方はこちら)、次に生まれて来た時に、同じ悩みをもう一度最初から悩み直すのは効率が悪い、それなら次回生まれて来る自分に向けたメッセージとしてこのブログを残しておこうと考えたのです。どうです、これこそがコトバのほんとうの意味での〈フォロワー〉でしょ? ひょっとしたら自分が死んだあとに、自分の文章が世間から注目を集めることもあるかも知れない、などという虫のいい考え方に比べると、こちらの方がずっとストイックでしかも価値ある考え方のように思えます。これなら批評精神旺盛な私の趣味にも合うというわけなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月11日 (日)

死刑賛成派のあなたへの手紙

 もしもあなたがブログをお持ちなら、ご存知だと思います。どこのプロバイダーでも、ブログの管理者用に「アクセス解析」という機能が提供されていますよね。1日のアクセス件数や訪問者数、どの記事がよく読まれているかといったことが数字やグラフで表示されるのです。私がこのブログを始めてから、二年以上のあいだに書いた百編あまりの記事の中で、実は最もアクセスが多いのが死刑廃止に関するこちらの記事なのです。もっとも、アクセスが多いと言っても、他の記事に比べれば多少は、という程度ですが、それでも毎日ひとりふたりはインターネットのキーワード検索でここを訪れてくれる人がいるようです。最近は死刑廃止論に関心を持つ人がそれだけ増えて来たということなのでしょうか? いや、そう簡単に結論を出すことは出来ませんね。むしろ死刑廃止に関するコトバをインターネットで検索すると、私のブログが上位に来てしまうほど、これは人気の無いレアな話題であるという証拠だと見た方がいいかも知れない。いまの日本では、死刑廃止の問題に関心を持っている人は、それほど少ないという方が正解だと思います。

 私は、まもなく裁判員制度というものが始まろうとしているこの時期に、死刑廃止問題がもっと国民的議論の俎上に載って来てもよいのではないかと思っています。先日のニュースでは、EU(欧州連合)が国連総会に対して、死刑執行停止の決議案を提出したという話が伝えられていました。これを受けて国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、決議案の支持を表明しているそうです。EUは過去にも、日本に対して名指しで死刑廃止を求める声明を出したりもしているんですね。あなたはこれを余計なお世話だ、そんなことは内政干渉じゃないかと言われますか? しかし、今日のグローバル化が進んだ社会では、たとえ外国人であっても国内で犯した殺人に対しては、日本の刑法で死刑が適用される可能性がある訳ですし、必ずしも一国の問題として済ませられる問題ではないと思います。死刑廃止が世界の民主主義国家のあいだでのトレンドである以上、この点においては日本は民主主義の潮流から取り残されていると言われても仕方が無い。私たちは戦後ずっとアメリカの方ばかりを向いていたので、気付きにくかったのだと思いますが、現在は先進国のみならず、世界の中で死刑を続けている国の方が少数派になってしまっているのです。お隣りの韓国は、日本と同様にまだ死刑を残している国のひとつですが、その韓国もこの12月には最後の死刑執行から十年が経過して、アムネスティ・インターナショナルの基準で言うところの「事実上の死刑廃止国」の仲間入りをしようとしています。

 私はここで、よく死刑廃止派の人たちが口にするような、日本がいまだに死刑存置国であることは国際的に見て不名誉なことだ、というような議論を持ち出したいのではありません。どう考えても、日本が世界のなかで〈道徳後進国〉である訳がない、そこには何か理由がある筈だという信念を持っているからです。もしも死刑を廃止することが、国としての道徳的な成熟度を示す指標であるならば、日本はすでに平安時代、今から1200年前から約350年間、「事実上の死刑廃止国」だった経歴を持っています。これも死刑廃止派の人たちが、好んで口にする歴史的事実ですが、日本はまごうかたなき世界初の死刑廃止国だったのです。確かにこのことは同時代の他の国々と比較した場合、奇跡のようなことだったのでしょう。一方、現代の日本では、政府のアンケート調査の結果によると、80パーセントを超す国民が死刑制度を支持しており、死刑を廃止すべきだと答えた人はわずか6パーセントに過ぎないのです。私にはこちらの事実も奇跡のようなことだと感じられます。しかし、この事実の〈からくり〉は実は簡単に説明出来ることなのかも知れません。要するに、我が国の場合、一般的に国民の高過ぎる、あるいは厳格過ぎる道徳意識が、死刑の廃止を拒絶しているということです。人を殺した罪に対しては、自らの命をもって償うべし、これは死刑という制度の基本思想ですが、他の国々ではそれを命じるのが国家の権力であるのに対して、日本の場合は民衆の意思がそれを支えているという点が違うのだと思う。だから民主主義の発展がそのまま死刑の廃止につながらないという構図があるのです。

 犯罪者に対する日本人のこの厳格さは、宗教的な寛容さに欠けているせいだとする意見を目にしたことがありますが、私は違う見方をしています。誰でも非道の殺人者によって罪のない子供が殺されたというニュースを聞けば、はらわたが煮えくり返るような憎しみを感じると思います。それは日本人でなくても、どこの国の人でも同じ筈です。が、私はその憎しみの強度が、おそらく日本人の場合、他の多くの国民よりもワンランク上を行くのではないかと想像しているのです。もちろんそれは客観的に比較出来るようなものではないので、証明することは出来ません。ただ、これも以前の記事で書いたことですが、我々が犯罪者に対して感じる憎しみの感情は、そのおおもとをたどれば〈裏切られた同胞意識〉というものに帰着すると思うのです。私たちは、私たちにとって別世界の存在、例えば動物園から逃げ出した猛獣や、脳に障害を持った精神疾患の患者が人を殺したというニュースに接しても、言い知れぬ怖さを感じることはあっても、殺した相手をうまく憎むことは出来ません。憎しみの感情を抱けるのは、相手が自分と同じ仲間(同胞)である場合に限るのです。(少し危険な議論になるので深くは立ち入りませんが、日本国内で日本人が殺人を犯した場合と、外国人が殺人を犯した場合に感じる私たちの憤りの感じには、おそらく質的に異なったものがあるような気がします。) いまだに日本という国は個人主義が未発達で、同胞意識の強い国ですから、EUが何と言って来ようと、ヨーロッパ流の死刑廃止プログラムではうまく機能しないのではないかと思います。

 このことから、私が日本での死刑廃止は慎重にすべし、と結論しようとしているのかと言えば、逆です。今日の日本では、市民道徳としての個人主義は確立していないのに、生活様式としての個人主義は他の先進国並みに確立しています。このことによって私たちは非常に苦しい立場に立たされているように思うのです。アパートの隣りに住む住人の名前すら知らないのに、テレビから流れて来る凶悪犯罪のニュースには、まるで我が子を殺されたかのようなリアルな感情を呼び覚まされる。昔のように共同体の絆がしっかりしていれば、同胞意識に根ざした裏切り者への憎悪の感情は、(それが道徳的なものであったかどうかは別にして)共同体の中で充分意味を持つものだったでしょう。けれども今日では、私たちは自分の生活に何の関係も無い道徳的感情の高まり(道徳的ニューロンの発火?)を、ただ単に消費するように仕組まれているのです。そして世間を驚かすような凶悪犯罪に対しては、マスコミが煽って犯人を殺せという大合唱が起こる。その結果が、八割の国民の死刑制度賛成につながる訳です。私はこの流れが日本人の道徳心を非常に誤った方向に導いているのではないかと危惧しているのです。

 この悪い流れを断ち切るために、死刑廃止はひとつの処方箋になるだろうと私は思っています。死刑制度を廃止することの思想的な意味や歴史的な意味については、すでに別のところで意見を書きましたから、ここでは繰り返しません。ただ、八割の国民のひとりであるあなたに考えていただきたいことは、もしもこの国から死刑というものが無くなったら、私たちの心のなかにある重しがひとつ取り除かれて、気持ちが少し楽になるのではないかということなのです。もしもあなたが現実に殺人事件で殺された被害者の遺族であるならば、こんな心ない言葉を使わざるを得ないことを謝ります。が、もしもそうでないならば、あなたには冷静に考える心の余裕がある筈です。自分が被害者でもないのに犯人に復讐したいなどと考える気持ちの高ぶりは、自分にとって苦しいだけでなく、なんら生産的なものでもありません。それをもっと前向きな方向に転換することだって出来るのじゃないですか。まったく国内でどれほどの憎悪のエネルギーが無駄に消費されていることか。それは本来なら、被害者家族の心のケアであるとか、犯人の教育や更生のためであるとか、同じような事件の再発防止であるとかに費やされるべきものであったと思います。それだけの道徳的なエネルギーを、この国の国民はまだ持っているのです。国民の八割が死刑制度に賛成している我が国だからこそ、ほんとうに意味のある死刑廃止が成し遂げられるのではないか、私にはそんな気がするのです。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2007年11月 4日 (日)

死刑のある国の裁判員制度

 今回ももう一度、裁判員制度について書きます。前々回の記事では、日本の裁判員制度をアメリカの陪審制と比較して、その問題点を指摘しました。が、これは少し〈あざとい〉論法でしたね。一般的に市民が裁判に参加する制度としては、陪審制と並んで参審制というものがあって、裁判員制度はどちらかと言えば参審制に分類されるものだからです。もしも比較するなら、ヨーロッパで多く採用されている参審制と比較しなければ意味が無かった。調べてみれば、同じ市民の司法参加と言っても、このふたつの制度はまるで異なる理念を持つもののようです。以前書いた記事の訂正と補足を兼ねて、今回はこのふたつの制度の比較考察から始めたいと思います。

 簡単におさらいをしましょう。陪審制というのは、市民から抽選で選ばれた(通常)12人の陪審員が、プロの裁判官抜きで評議を行ない、有罪か無罪かの評決を行なう制度です。評決は陪審員の全員一致が原則で、全員の意見が揃うまで審議を行なうことが義務付けられます。(どうしても意見が一致しない場合には、12人全員を入れ替えて公判をやり直すこともあるそうです。) 扱う事件は、ふつう被告人が起訴事実を否認している事件に限られていて、自白している事件は対象になりません。また、被告人には陪審員による裁判を希望するかどうかの選択権があるのが一般的です。裁判官は陪審員の評議には加わりませんが、もしも有罪判決が出されれば、それに対して量刑を行なうことになります。(無罪ならばその場で釈放です。) 陪審裁判での判決に対しては、検察側も被告側も上訴出来ないか(アメリカ)、上訴出来るとしても条件がある(イギリス)のがふつうのようです。

 どんな刑事事件においても、被告人が起訴事実を認めている場合は割と話が簡単ですが、難しいのは否認している場合です。特に被告人が無実を主張している場合、それが重大な殺人事件であれば、判決は無罪か極刑かでその中間は無い訳ですから、誰が判決を下すかというのは非常に重要なポイントになります。陪審制度というのは、このような難しい局面における判断を、プロの裁判官にではなく、12人の市民に任せようという制度と言えます。その方がより真実に迫れるからとか、誤審が少なくなるからといった理由ではなく、つまりそれが民主主義というものだからです。もしかしたら、有能な裁判官に任せた方が正しい判断が下せるのかも知れない、でも、ほんとうの真実は被告人自身と神様しか知らない訳だから、ここでは民主主義の原則の方を優先させよう、それが陪審制度の底に流れる理念なのだと思います。だから、民主主義の原則に従って、被告人には陪審裁判そのものを拒否する権利も与えるし、陪審員は一部のエリートではなく、市民の中から無作為の抽選で選ばれることになるのです。こう捉えれば、なるほど陪審制度というものは、民主主義のひとつの〈精華〉だと言えるような気もします。

 これに対して、参審制の方はだいぶ趣が違います。こちらは市民から選出された参審員が、裁判官と合議して評決を行なう制度です。参審員はまさに市民としての良識を評議の場に持ち込むことを期待されており、職業裁判官がえてして陥りがちな社会常識からの逸脱に対してバランスを取るための機能を担っているのです。日本でも時折、なんだかびっくりするような常識はずれの判決が出されることがありますが、これを市民の参加によって是正しようという仕組みなんですね。ですから、適用される事件も否認事件に限らず、自白事件も対象にしますし、被告人に参審裁判を拒否する権利もありません。参審員は裁判官の補佐役として、それなりの見識やバランス感覚を持った人が望ましい訳で、その選出方法にも国によって工夫が見られます。陪審員と同じように抽選による場合もありますが(フランス)、政党や地域の推薦によって一次候補を選出する方法や(ドイツ)、また自薦によって熱意ある人を選任するルートを設けている場合(イタリア)などもあります。また、参審員は一般に数ヶ月から数年の任期を持っており(ドイツでは4年)、ひとつの事件のためだけに集められるのではない点も特徴的です(ここにも例外はあります)。評議は事実の認定だけでなく、量刑まで含まれ、判決は裁判官、参審員の多数決によって決まります。検察、被告とも上訴することが出来ます。上訴審にも参審員を参加させる仕組みを採用している国も多くあります。(陪審制と参審制、それに日本の裁判員制を簡単に比較する表をこの稿の最後に掲載しましたので、参考にしてみてください。)

 同じ市民の司法参加と言っても、このふたつの制度は、その仕組みだけでなく目指すところが全く違う制度であることがこれで分かりましたね。それでは、日本で採用しようとしている裁判員制度というのはどうなのでしょう? 裁判員が職業裁判官と一緒に評議し、量刑まで行なうという点で、本質的にこれは参審制の一種だと言えると思います。が、一方で裁判員の選任方法が無作為抽出である点や、裁判員が任期制ではなくひとつの事件に限定される点、上訴審での裁判員参加が仕組みとして組み込まれていない点など、参審制のモデルケースからははずれていて、むしろ陪審制に近い部分も多いのです。もしもこれが両方の仕組みの良いところを組み合わせて、さらに高い理念を目指した結果であるというなら納得もいきます。しかし、実態はそんなものではないのですね。もともと日本の司法制度改革派は、陪審制の採用を目指していたので、最初から参審制を導入しようと考えていた学者や法曹関係者はほとんどいなかったのだそうです。裁判員制度成立の経緯を書いた本を読めば、要するにこの制度が、陪審制度導入派と現行制度維持派のあいだの妥協の産物に過ぎなかったということがよく分かります。一見、西欧ふうの参審制にかたちは似ていますが、そこには理念も無ければ思想も無い、単に折衷案を採ったらこんな制度になってしまったというだけなのです。もしも市民の良識と裁判官の専門性を協調させて、より質の高い裁判を目指すというなら、裁判員を選出する方法に工夫があってもいいし、質の高い裁判員を育てるために任期制も検討すべきだと思います。あるいは思い切って、昭和初期に実施されていたような、被告人に拒否権のある正統な陪審制に戻すかです。

 そしてもうひとつ、これは私の以前からの論点ですが、死刑制度との関連という問題があります。これまでの説明でも分かっていただけたと思いますが、陪審制では市民が有罪・無罪を決めると言っても、量刑は裁判官が行なう訳ですから、市民が直接死刑の判決を下すことはありえない訳です。(もちろん凶悪な殺人犯であれば、有罪イコール死刑であるかも知れませんが、それでも刑を決定するのは裁判官です。) 一方、裁判員制を含む参審制では、市民が量刑まで行なう訳ですから、死刑判決の責任の一端は市民が負うことになります。私たちが裁判員制度のことを考える時、気が重くなる理由のひとつはそれがあるからだと思います。それも民主主義の国に住む市民としては、引き受けざるをえない心理的負担なのでしょうか? ところが、いいですか、参審制を採用している国のほとんどは、すでに死刑を廃止した国なんですよ。少なくとも先進国においては、参審制採用国は、すべて死刑廃止国なのです。ということは、裁判員制導入後、日本は先進国中で唯一、市民が市民に死刑を言い渡す国になる訳です。ヨーロッパを中心とした参審制の国々も、かつてはその多くが陪審制を採用していたし、死刑も行なっていました。陪審制から参審制への切り替えと、死刑廃止とが歴史的な事実としてどうリンクしていたのか、私にはよく分かりません。が、このふたつがとにかく並行して実現されて来たのは事実です。そういう歴史的な背景を無視して、いきなり死刑存置国である我が国に〈参審制もどき〉が導入されようとしているのです。抽選で裁判員に選ばれ、思想信条による辞退も認められず、周りからの圧力で死刑判決への同意を強制される、こんな理不尽な事態も、この極東の野蛮国だからこそ起こりうることなのでしょう。

裁判制度 陪審制 参審制 裁判員制
代表的な国 アメリカ、イギリス ドイツ、フランス 日本
市民の選出方法 無作為抽出 一般に推薦 無作為抽出
選任者の任期 1事件のみ 一般に任期制 1事件のみ
被告人の拒否権 拒否出来る 拒否出来ない 拒否出来ない
評決の方法 全員一致 多数決 多数決
評決の範囲 事実認定まで 量刑まで 量刑まで
控訴の可否 不可または制限あり 可能 可能
上審での市民参加 なし 一部にあり なし
死刑制度 存置または廃止 廃止 存置

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »