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2007年10月 8日 (月)

自我がコモディティ化する世界

 自己同一性、つまり自分が時を隔てても同じ自分であるという感覚(あるいは事実?)については、いろいろと面白い思考をめぐらすことが出来ます。私も以前の記事でこの問題に関するひとつの思考実験を試みました。この問題を考える人で、自分好みの「思考実験用舞台装置」を持っていない人の方がまれだと言えるかも知れません。例えばそれは「本人の記憶を移植されたクローン人間」だったり、「脳の中に埋め込まれたエンドーリ装置」だったり、「パラレルワールドにおけるもう一人の自分」だったりとさまざまです。まあ、舞台装置は違っても、表現している内容はほぼ同じ、自己同一性というのは、世間一般の人が考えているほど自明のものでもなければ、論理的または実証的に証明出来るものでもありませんよ、というオチで締めくくられるのが一般的です。

 で、今回もまたつまらない思考実験に付き合っていただくことになるのですが(まあ、そう嫌な顔をしないでください)、この問題の初心者にも分かりやすいように、一番簡単な入門編の装置を考えてみたいと思います。名付けて「三次元コピー機」というものです。物の分子的組成を高速にスキャンして、物理的にそれと完璧に同等の物体を作り出す装置。私たちにもお馴染みの二次元コピー機は、「シアン」、「イエロー」、「マゼンタ」といったインクカートリッジをセットして、平面の図形をコピーするために使いますが、新型の三次元コピー機の方は、「水素」、「酸素」、「炭素」といったラベルの貼られた〈元素カートリッジ〉をセットして、立体物をコピーするために使います。さて、ここで問題。この機械であなたの身体をまるごとコピーしたら、①新しく現れたあなたの身体は〈生命〉を持っているでしょうか? ②生命を持っていた場合、それはあなたと同じ記憶や性格を備えた〈心〉を持っているでしょうか? あなたならどう考えますか? 私の想像では、〈唯物論〉の立場の人(つまり生命や心といった現象も、物質の働きに還元出来ると考えている人)は当然、コピー人間は(そのコピーが完璧であるならば)生命や心を持つと考える筈です。そう考えなければ、生命や心といった現象の裏には、コピー機のスキャンでは捉えられないような神秘的な何かが働いていると仮定せざるを得なくなるからです。一方、「生命や心は機械でコピーすることなど出来ない」という〈神秘主義〉あるいは〈生気論〉の立場に立つ人だっているでしょう。こちらは物質的なものだけでは、生命現象は再現出来ないという立場です。このふたつの考え方は、どちらかが正しくて、どちらかが間違っている筈ですが、今日の知識ではまだその決着をつけることが出来ません。ただ、今回は一応唯物論を採用することにして、生気論側の人には黙って見ていてもらうことにしましょう。そうしないと話が先に進みませんから。

 三次元コピー機というアイデアが優れているのは、たとえ生命や意識を生み出しているものの根本原理が分からなくても、そんなこととは関係なく生命や意識を人工的に簡単に作れてしまうという点にあります。そしてこれが実現すれば、心身問題をめぐる長年の哲学的論争にもいっぺんで決着がつくことになるのです。で、さっそくあなたにはこの装置の中に入っていただきしょう。え、自分自身がコピーされるなんて、不気味だしあんまり歓迎したくないと、そうおっしゃるんですね? しかし、そんなに悪いことばかりではないかも知れませんよ。藤子不二雄さんのマンガ「パーマン」には、コピーロボットというものが出て来ました(古いね、どうも)。例えば嫌いな勉強や仕事はコピーの方にやらせて、自分は遊びや彼女とのデートに専念するというのは、なかなか魅力的なアイデアです。また仮に自分のコピーをすぐに作らなくても、コピー機でスキャニングだけしておいて、デジタルデータとして保存しておけば、いざという時の安心につながるという効能もあります。例えば、万が一あなたが事故で亡くなった場合、あなたのコピーに残された家族や仕事を託すことを遺言しておくのです。不幸にも子供さんを亡くしたご両親には、生前の一番新しいデータをもとに、お子様を再生することを法律でも認めてはどうしょう。跡取りのいない資産家のご老人には、本人の二十歳の時のデータで復元した若いころのご自身のコピーに遺産を継がせるというのは、法的に認めるかどうかは別にしても、ニーズはありそうです(ただ一挙に半世紀も未来にタイムスリップしてしまうコピー当人が、社会に適応するのには少し時間がかかるかも知れません)。ここまで空想の羽を広げると、倫理的な面での反論も受けそうですが、まあ思考実験ですから大目に見てください。

 コピーロボットの場合と違って、ひとつ面倒なことは、生身の人間のコピーはうっかりするとホンモノとの見分けがつかなくなってしまうということです。それは第三者である私にとって見分けがつかないだけでなく、実験台になったあなた自身にとっても同じかも知れないという点が面倒なのです。もしもコピー機に「複製元」と「複製先」のふたつのカプセルがあって、自分がどちらから出て来たのかを記憶していれば、あなたがたふたり(本人とそのコピー)にとっては、どちらがオリジナルかの区別がつくのかも知れません。しかし、もしもあなたが眠っているあいだにコピーが行なわれて、目覚めてみると隣のベッドにもうひとりのあなたが寝ていた、といった状況を想像すれば、もうあなた自身にとってもオリジナルかコピーかの判別は不可能になってしまう。ふたりとも眠りにつく前までの同じ記憶を持っているのですから、立場はまったく同じ訳です。少しおっちょこちょいな人だったら、ふたりとも自分こそがオリジナルだと主張して、取っ組み合いの喧嘩を始めるかも知れません。でも、あなたのような思慮深い人は、そんな野蛮な反応はしない。客観的に見て、自分の方がコピーであるかも知れないという二分の一の確率を、あなたがたふたりはたぶん冷静に受け入れることでしょう。では、コピーが1体ではなく99体で、目覚めてみると100人のあなたが100台のベッドに寝ていたら? 簡単な話ですね、あなたは99パーセントの確率でコピーだということになる。オリジナルである確率は1パーセントだけ。さらに想像をたくましくすれば、自分が寝ているあいだにコピーとすり替えられてしまった場合には、目を覚ましたこの自分が実はコピーだったとしても、そのことには一切気付かないだろうという考えも浮かんで来ます。つまり、こういった技術が実現した世界では、もはや自己同一性という概念そのものが成立しなくなるのです。

 これが現実になった時に起こる、社会の倫理的な混乱についても少し考えてみましょう。例えば逃走中の殺人犯が自分のコピーを作って、そのコピーの方が警察に捕まるように仕組んで、自分はまんまと逃げおおす。犯人が逮捕されれば指名手配も解除されますから、彼は晴れて自由の身です。(身代わりにコピーの方が、刑務所で刑期を務めているか、死刑台に向かっている訳です。) むろんコピーの方でも、そんなあなたの計画はお見通しですから(コピー直前に自分が計画したことなんだから)、取り調べの際には事実を暴露して、自分がコピーであることを主張するでしょうし、検察側でもそれを否定することは出来ないでしょう。だいたい、犯罪者そのもののコピーが現れた場合、法律はそれをどう扱うべきかという点が難しい。明らかに死刑に値するほどの凶悪犯だったとして、そのコピーが100人も現れたら、全員を死刑台に送るべきか、それともオリジナルのひとりをあくまで探し出すべきか(それは理論的に不可能なんだけど)。もしかしたら、捕まった自称コピーのひとりはこんな釈明をするかも知れません。私は確かに犯人本人のコピーですが、彼が犯罪を犯す1週間前のデータで作られたコピーなんです。だから私には殺人を犯した責任も無ければ、その記憶も無いのです。さあ、こんな男を我々はどう処遇すればいいのでしょう?

 悪夢のような話だ、そう思われますか? しかし、科学が生命現象や脳の仕組みを解明するということは、要するにそういった技術が実現する可能性のある時代がやって来るということに他なりません。今日の技術でも、人間の身体のさまざまな部分が生体移植や、あるいは人工的な臓器よって置き換えられるようになっています。最近の義肢は、脳から出ている運動神経と直接結ばれて、本人の意思どおりに動くところまで進歩しているのだそうです。まだ脳そのものを人工脳に置き換えるところまでは行っていませんが、それは倫理的なタブーとして脳だけは不可侵だという暗黙の了解があるからではなく、脳科学がまだそのレベルまで達していないという理由からに過ぎません。今ではもう行なわれていないものの、ロボトミー手術のようなもので脳そのものにメスを入れることを人間は昔からやって来た訳だし、最近はさまざまな向精神薬や記憶を消去する薬なんてもので、脳を内側から改変することはどんどん現実になって来ている。やがては記憶力の衰えた人向けの〈人工海馬〉だとか、どんな外国語でもたちまち話せるようになる外付けの〈ブローカ野ユニット〉なんてものだって発明されるかも知れない。それでも人間性の源である〈人格脳〉だけは最後まで神聖なものとして残るだろうですって? いや、甘い、甘い。統一された人格を生み出す仕組みだって、やがては解明されて、最初は治療目的で、その次には不老不死を求める人間の貪欲さに突き動かされて、交換可能な人格脳モジュールといったものさえ開発される可能性が無いとは言えません。製造業の世界では、どこからでも調達が出来て、代替可能な汎用部品をコモディティと呼びますが、科学技術の進歩にともない、人間の身体のすべての部品が、いや〈自我〉そのものだってコモディティ化する時代がやって来るかも知れないのです。

 おそらく多くの人は、そこまでの科学技術は行き過ぎだし、特に生命科学の分野においては、科学者はどこかで無制限の発展を抑制すべきだと思っているのではないでしょうか。私もその考えには基本的に賛成なのですが、人間の知的探究がどこかで踏みとどまることが出来るという可能性に対しては、悲観的な観測を持っています。おそらく人間という生物種に一番欠けているのは、この〈踏みとどまる〉という力なのではあるまいか。(高速性能の優れたエンジンを搭載しているのに、ブレーキが甘いスポーツカーのようなものですね。) 私はむしろ、自我がコモディティ化する世界が到来する前に、我々の世界観や道徳観をそちらの方向に向けてシフトしておくことこそが重要ではないかと思っています。人間の脳が自由自在に改変出来るようになった社会でも通用する、新しい道徳の体系を構築すること。夢物語である以上に、一種の危険思想であると受け取られるかも知れません。が、考えてみてください、私たちがいま生活の基盤にしている道徳意識というものは、なかば超越論的(宗教的)なものに支えられ、なかば現実論的(科学的)なものに支えられている、未分化な状態にあるものです。そしてそれが二十一世紀の今日になってさえ、世界にどれほどの災厄をもたらしているか、私たちはこの目で見て知っている訳です。(それは世界各地で頻発している宗教的対立や民族紛争などを見れば明らかです。) であるならば、科学技術の進歩に合わせて、古い夾雑物をたくさん含んだ我々の道徳意識を合理化し、純化させる方向を探ることにこそ、人類の未来に向けた可能性があるのではないかとも考えられるのです。

 誤解のないように付け加えておきます。以上の見解はもしも科学が生命現象や心的現象を解き明かし、唯物論が勝利した前提での話です。逆に科学の限界がはっきり認識され、超越論的な世界観が優勢になった場合には、別の方向を私たちは探らなければならなくなるでしょう。しかし、その場合でも、現在のプリミティブで未分化な道徳観や宗教観を純化させる方向に進まざるを得ないのは同じです。まずは歴史的、地政学的にバラバラに発生し、進化の袋小路に落ち込んでしまっている多くの宗教の垣根を取っ払うことから始めなければならない、それだけは間違いのないことだと思います。

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