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2007年10月28日 (日)

裁判員制度に白か黒かの判定を!

 久しぶりに裁判員制度のことを記事に取り上げたら、奇しくも今週の水曜日に法務省が重要な発表を行ないました。裁判員を辞退する理由に関する政令案が公開されたのです。実はこの政令案は、2004年に裁判員法が成立して以来、ずっと発表が待たれていたものでした。裁判員法では、国民が裁判員を辞退出来る場合について規定していますが、その中に個人の内面的な理由による辞退を認めるという項目はありません。要するに「私は人を裁きたくない」という理由だけで、裁判員を辞退することは法律上出来ないのです。但し、これに関しては法案成立当初から異論も多く、政府は法を補足する政令を制定して、この点についての基準を明確にして行くという考えを示していました。ようやくその政令案が今週出たのです。内容は、法務省の責任逃れとも思えるほど曖昧模糊とした、不明瞭なものでした。こういう文言です。「裁判員の職務を行い、または裁判員候補者として選任手続きに出頭することにより、自己または第三者に身体上、精神上または経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」場合にのみ辞退を認めるというのです。相変わらずまだ〈出頭〉というデリカシーの無い言葉を使っているんですね。問題はここで言う「重大な不利益が生ずる」かどうかの判断は、面接を行なう裁判官に一任されているという点です。要するに、明確な基準は設けないから、現場でケースバイケースで判断してよ、というのです。

 裁判員制度に対して断固反対する立場の私としては、これを読んでまた怒りがこみ上げて来るのですが、今回はそうした自分自身の想いは胸にしまって、出来るだけ中立な立場で考えてみることにします。この問題は、靖国問題や死刑廃止問題などと同様、どうしても感情的な対立に陥りやすい問題だからです。確かに、なんとかこの制度の実施にこぎつけたい政府としては、これは頭の痛い問題であるに違いありません。はっきり思想信条による辞退を認めてしまえば、辞退者続出で制度自体が成り立たないおそれがありますし、逆に思想信条による辞退を認めないと明言してしまえば、ただでさえ評判の悪いこの制度に対する国民の反撥が、さらに高まる懸念があるからです。でも、ここで少し気持ちを落ち着けて考えてみましょうよ。もしも裁判員制度というものが、新しい日本の司法制度として成功し、定着して行く可能性があるとすれば、それは気の進まない国民を無理矢理引っ張り出して、裁判員席に着かせることによってではないと思います。自ら裁判員としての義務を全うしようという前向きな気持ちを持った国民が集まって、六人の裁判員が三人の裁判官とともに、正しい公平な裁判を行なうというミッションを共有出来た時、初めてこの制度はうまく機能するのではないでしょうか。現代という時代は、憲法によって思想の自由が保証された時代ですから、どんなことにだって反対したがる国民はいるものです(例えばこの私みたいに。笑)。そんな人間の意見にいちいち耳を傾けていては、どんな改革だって実行は出来ない。だとすれば、法務省は根本的に発想を転換すべきです。

 で、私としては次のことを提案したいと思います。まず政府は、この制度を運営して行くために充分な候補者を確保出来るかどうか、きちんとした予備調査を行なってはどうでしょう。すでに政府機関や新聞社などによって、この制度に関するアンケート調査が実施されていますが、それらはすべて匿名の回答者による、つまり無記名のアンケートだったと思います。ここで行なう調査はそういうものではありません。調査対象者の住所氏名があらかじめ記載された回答用紙に、「この制度が始まったら、あなたは裁判員として参加する意思がありますか、ありませんか?」という質問を載せて、二者択一で記入させるのです。しかもこの調査の目的として、平成二十一年にこの制度が実施された時点で、今回の調査結果を参考にして裁判員候補を選ぶ予定です、とはっきり明記しておきます。(むろん参加する意思が無いと回答しても、何も罰則が無いことが大前提です。) 出来れば対象となる国民全員に調査票を送りたいところですが、それが難しいならサンプリング調査でも構わないと思います。調査票を受け取った私たちは、そこで初めて自分自身の問題として真剣にこの制度のことを考えることになります。遅くても一年半後には制度が開始されるという現在、その内容もすでに国民のあいだで周知されている筈ですから、調査を始める時期として早過ぎることはないでしょう。おそらく匿名のアンケート調査とは、かなり違った結果が出るのではないかと予想します。

 もしも調査の結果、国民の半数以上に裁判員として参加する意思があることが判明したら、きっとこの制度は成功すると思います。(私自身は残念ながら「参加しない」にマルを付けますけど。) 私の感覚では、そうですね、最初の調査で三割以上の国民に参加の意思があれば、制度としてはまず実施可能だと言えるのではないでしょうか。しかし、それを下回るようであれば、この制度は即刻廃案にすべきだと考えます。それは国民の支持を受けていない訳だし、調査の結果を見てマスコミも黙ってはいないでしょうから。もしも廃止するなら、経済的な損失のことを考えても、早ければ早いほどいい訳です(もうすでに手遅れかも知れませんが)。また逆に実施の方向で決まれば、この予備調査はさらに有益な意味を持ちます。これによって、やる気のない国民を裁判所に〈出頭〉させ、国民と裁判官の双方に無駄な時間の浪費をさせることが避けられるからです。仕事を休んで裁判所に出向き、裁判官にああだこうだと自分が裁判員をやりたくない理由を説明するのも時間の無駄なら、来る人、来る人、みんなああだこうだと理由をつけて辞退しようとするのを、なんとか説得して気持ちを変えさせようと努力するのも時間の無駄。(まったくこんな仕組みを思い付いた人のアタマの中を見てみたい。) そしてさらに、もうひとつこの調査を行なうことの大きなメリットがあります。それは調査の結果によって、この制度が実施されずに廃止されることになったとしても、そのことで誰も責任を取らずに済むということです。例えば参加する意思を持つ国民が三割未満だったら制度の実施は凍結する、そんなふうにあらかじめ決めて公表しておけばいいのです。そうすれば、旗振り役の誰かさんのメンツもつぶさずに、ソフトに廃止に持って行けるんじゃないかな。そしてお決まりの文句、「我が国ではまだ時期尚早だった」などと総括しておけばいいのです。(ちなみに私はこの制度が我が国にとって時期尚早だなんて思っていません。陪審制にしろ裁判員制にしろ、そんな野蛮で前時代的な制度を採用するには、この国の人々は民度が高過ぎる、むしろそう考えています。)

 このブログ上で裁判員制度への反対論を展開して来た自分が言うのもなんですが、そろそろ個人的な賛成、反対の議論は止めにしませんか? 議論をすればするほど感情的な対立は激しさを増し、双方が暗澹たる気持ちになって行くだけですから。その暗澹たる対立感情を引きずったまま、制度実施に突入して行くことほど、まずいパターンは無いと思います。とにかくこの制度は、国民が納得してやる気になってくれなければ始まらないのです。威嚇や罰金をちらつかせて、国民を動員するという発想は根本的に捨てるべきです。そういうやり方で強引にスタートしても、とても長続きなどする訳がない。ここはひとつ国民の声を素直に聞くことから始めませんか。いや、もしかしたら案ずることなどないかも知れませんよ。実際に予備調査をしてみれば、意外に多くの国民が参加表明をしてくれるかも知れません(なにせ民度の高い国民ですから)。結果、五割を超す国民が参加の意思表示をするようなことにでもなれば、反対派の急先鋒である私だって、これまでの意見をすべて撤回しても構いません。むしろ裁判員制度が、世界中で最も優れた裁判制度であることを宣伝するスポークスマンにだって転身しましょう。(でも個人としての私は、やっぱり「参加しない」にマルを付けるけど。笑) これが私の提示出来るぎりぎりの妥協案です。導入推進派のあなたからのご意見をお待ちします。

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2007年10月21日 (日)

「良心的出頭拒否」という選択肢

 私がこのブログに裁判員制度反対の意見を載せたのは、一昨年の12月のことでした。記事を書いたのはそれよりもさらに以前に遡ります。当時はまだこの新しい制度を正面から批判した本は出ていなかったように思います。書店で見かけて手にしたのは、この新しい制度をPRしている小冊子だったり、裁判員制より陪審制の方が優れていると説く専門家の意見だったり、そんなものばかりでした。ところが最近は状況が変わって来たようですね。最近出版された『裁判員制度の正体』という新書本を読んで、そう感じました。著者は西野喜一さんという、判事の経験もある大学の先生です。法律の専門家で大学教授という肩書きにふさわしく、あくまで中立な立場からこの制度の良い面も悪い面も論じている、と、そんな本じゃ全然ないんですこれが。もう裁判員制度を一から十まで完全否定。それは目次のタイトルを見ただけでも分かります、裁判員制度は、「無用な」、「違法な」、「粗雑な」、「不安な」、「過酷な」、「迷惑な」制度で、しかもこれは徴兵制復活への布石でもあり、裁判所からの呼出状は「現代の赤紙」であるとまで言い切っている。私も裁判員制度については完全否定論者ですので、著者の意見には心から賛同出来る点が多かったです。いや、それどころか、本を読みながらあらためてこれが言語道断な制度であることを思い知り、怒りがふつふつと湧き起こって来たほどなのです。

 国民の多くがこの制度に反対しているのに、また政治に対する不信がこれほど高まっている時代なのに、これに関しては国会でも大きく取り上げられないし、廃止や見直しの方向で検討しようという動きも見られない。そうこうしているうちに、施行期限まで一年半になってしまいました。これこそ民主党あたりが廃止法案提出に動けば、ほとんど反対の声もなく、国民の支持を得られるのではないかと思うのですが、調べてみると、なんのことはない民主党もこの制度の成立には党を挙げて賛成していたんですね。(うかつなことに社民党や共産党でさえ賛成して、この法案は全会一致で可決されているのです。信じらんない。) 要するによく考えもせずに法案に賛成してしまった手前、誰もこの制度に疑問を投げかけることが出来なくなってしまっているというのが現実なのでしょう。こうして誰も前言撤回する勇気を持たず、法案が成立して既成事実になってしまったという理由だけで、あとは官僚が準備したオートメーション機構に乗ってずるずると実施にまで至ってしまうのかも知れない。そう思うと、いても立ってもいられない気持ちになるのです。この制度に関しては、ブログ記事を書くために少しだけ勉強したことがあったのですが、この本を読んで初めて教えられたことも多かったので、久し振りにこのテーマを取り上げることにしました。盗人にも三分の理という言葉があるけれど、ほんとうに一分の理さえもない制度なんですよ、裁判員制度って。

 私たち一般の国民にとって、裁判員制度というものがどれほど心にしっくり来ないものだったとしても、欧米では市民参加の裁判制度がすっかり定着しており、日本もいずれはこうした方向に転換することは仕方ないのではないか? そう単純に考えている人がいるとすれば、それは全くの誤りです。それは欧米で行なわれている陪審制や参審制と、裁判員制度の仕組みを比較してみれば分かります。例えば、アメリカの陪審制は映画などでもおなじみですが、この国でもすべての刑事事件が陪審裁判によって審理されているのではありません。日本と同様、プロの裁判官だけで審理される事案も多く、むしろそちらの方が一般的なのです。陪審裁判が採用されるのは、①被告人が起訴事実を否認している「否認事件」で、②しかも被告人が自ら陪審裁判を希望した場合に限られるのです。(へえ、そうだったんだ。私は知りませんでした。) 翻って日本の裁判員制度の方は、一定以上の重大な刑事事件であれば、被告人が起訴事実を否認していようが認めていようが、また本人が素人に裁かれるのはごめんだと訴えたところで、裁判員による裁判は実施されるのです。このため、日本では国民が裁判員として駆り出される事案が非常に多くなる、その分国民の負担も大きなものになると懸念されるのです。日本でも大正から昭和にかけての一時期、陪審制裁判が実施されたことがありましたが、被告人が陪審による裁判を拒否する権利を認めたため、実際に陪審裁判が行なわれた件数は非常に少ないものでした。これは制度設計が悪かった訳ではなく、もともと陪審制というものはそういうものなのです。それに比較すれば、なにがなんでも一般の国民をかき集めて裁かせようとする今回の裁判員制度の方が、むしろ異常な制度だと言えるのです。

 もうひとつの比較は、控訴に関する規定です。これもアメリカの陪審制との比較になりますが、陪審裁判では原則として被告も原告も一審判決に対して控訴出来ないルールになっているのだそうです。つまり陪審員の下した決定は、それだけ重い意味を持つ訳です。それに比べて我が裁判員制度では、一審の裁判員判決が有罪か無罪かに関わらず、被告・原告ともに控訴することが可能なので、裁判員が多少ヘンな判決を下しても二審で審議しなおせばいい、裁判員制による誤審の可能性は限定的なものにとどまるだろう、そんなうがった見方もあるそうです。(裁判員の参加は地裁での裁判のみで、高裁・最高裁での裁判は従来どおりプロの裁判官だけで行なわれるからです。) 少しだけ肩の荷が軽くなったような気もしますが、では何故わざわざ裁判員制度などというものを導入する必要があるのかという、より根本的な疑問が頭をもたげます。国民の健全な判断を裁判に活かすという導入推進派の言い分がタテマエでないならば、控訴権を限定するか、高裁や最高裁にも裁判員を送り込む制度でなければ理屈が通りません。要するに推進派は、国民が形式的にだけであっても裁判に参加したという事実が欲しいだけで、本当に国民の判断力を当てにしている訳では決してないのです。一部の政治家や法曹関係者が、何故それを望むのかは推測の域を出ませんが、そんな形だけのセレモニーに付き合わされるのは、国民としてたまったものではない。一部の人間の隠された利害のために、日本の司法制度は実質上、三審制からニ審制に変わってしまう、そんな見方も出来ると思います。

 裁判員制度の骨子を作った「司法制度改革審議会」という組織が、いかにデタラメな内容の組織だったかも、この本に詳しく書かれています。政府の設置する最近の審議会がみなそうであるように、最初から結論ありきで設置されたものだったのですね。そのために、法案がまとまってからも、周囲からの様々な批判にさらされ、それをかわすために小手先の手直しを重ねて、世界にも例を見ない珍無類の裁判法が出来上がった、それが現在の裁判員法だったというわけ。その実態がこの本を読むとよく分かります。問題は日本の司法制度そのものにあるのではなく、どうも立法府の能力の低さにあるようです。この制度の個々の問題点に関する検討は、専門家の方に任せるとしても、著者が指摘するように裁判員制度が我が国の憲法に違反している可能性があるという点については、私たち国民としてもよく見極める必要があると思います。西野教授は、この制度を「違憲のデパート」と呼び、その根拠をひとつひとつ挙げておられます。個々の論点はともかく、確かに日本国憲法第三十七条には、『すべての刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する』とあり、これが裁判員制度のようなものを容認していないことは明らかであるからです。法律については何も知らず、様々な思想・信条を抱いて集まって来る裁判員に、どうやって「公平な裁判」を期待することが出来のか、私にはまったく理解することが出来ません。

 この本の最後には、2009年に実際にこの制度が実施されたと仮定して、私たち国民がいかにこの「現代の赤紙」(召喚状、出頭命令)から逃れるか、その具体的な方法についても教示されています。まったく大学の先生が書いたとは思えないような実戦的なハウツーなのですが、私みたいに「死んでも裁判員になどなるものか」と思っている人間にとっては、非常に有益なアドバイスで、この部分だけでもこの本は買う価値ありです。私も将来自分のところに裁判所からの呼び出しが来た場合、どのようにそれを拒否するか、いろいろ考えたことがありました。とにかく自分は信条として人を裁くことが出来ないのだから、それを切々と訴える文章を持って裁判所の面接に出掛けようか。しかし、この本にはもっと手間のかからない簡単な方法が示されています。まずは最初の呼出状を受け取らない、読まずに捨ててしまう、あとで裁判所から問われたら「犬が食べてしまった」と言う。書留で送られて来た場合には受け取り拒否をする。あるいは単に面接当日、風邪を理由に欠席してしまう。一番面白かったのは、裁判員として欠格になることを目的に、朝から酒をたくさん飲んで、酔っ払って裁判所に出向くというものです(これなら私にも出来そう。西野先生、ナイスです。笑)。いや、ふざけている場合ではありません。大政党の中でこれに反対しているところが無く、選挙でこの制度にノーを言うルートが閉ざされている以上、私たち国民は事実上のボイコットでこの制度を実施不能にして行くしかない。裁判員になるのは気が進まないけれど、国民の義務である以上仕方がない、そんなふうに考えている真面目な人にこそ、この本はお勧めしたい気がします。

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2007年10月14日 (日)

不老不死の夢と現実

 「コモディティ化する自我」というフレーズがふと頭に浮かんで、これがちょっと気に入ったので書き始めたら、脱線して堅苦しい道徳論に落ち込んでしまいました。悪い癖ですね。せっかくいいテーマだったのに、もったいないことをした。前回自分が書いた文章を読み返しながら、少し落ち込んでいます。このところ心身問題についてずっと考えているのですが、とりあえずこれにまつわる道徳問題には関わらない方針で、話をもう一度もとに戻したいと思います。自分が書きたかったのは、そんなことではなかったような気がするからです。この問題についてはもう三十年以上も考え続けているのに、新しい発見も無ければ、解決の糸口も見えて来ない。答えが見付からない問題なら、文章の起承転結など無視して、とにかく書きながら考えて行くしかありません。

 これも思考実験のネタとしては使い古されたものかも知れませんが、今回は〈不老不死〉ということについて考えてみることにします。不老不死と言っても、アンチエイジング技術による生身の身体での不老不死ではなく、人間の脳を人工的な電子脳によって置き換えることによる不老不死のことです。前回採用した身体の物理的コピーというアイデアでは、老化してやがては死んで行く身体と同じものを新しく作り出すだけなので、不老不死の技術としては使えません。あなたの身体のスキャニングデータを保存しておけば、百年後の世界を二十歳のあなたの目で見ることも可能になる。しかし、コピーを繰り返して千年の歴史の目撃者になったにせよ、〈連続した意識体〉としてのあなたが生きた時間のトータルは、要するに百年足らずでしかない訳です。例えば人間が二十歳の時の活動的な脳のままで千年生き続けた場合、どのような叡智に(あるいは絶望に?)到達するかという実験にはなりません。ここはやはり経時的劣化の激しい有機脳にはご退場いただいて、永久保証付きの電子脳に主役を譲っていただきましょう。人間の脳よりもはるかに容量の大きな電子脳に、あなたの脳の全情報をアップロードすることで、あなたはとりあえず〈永遠の生〉への切符を手に入れることが出来る。もちろんICチップのような形状の電子脳だけでは生きて行くのに不便ですから、それは生身の身体に埋め込まれることになります。(ロボットのような人工身体では、美味しいものが食べられないし、セックスも出来ない。やはり人間にとってナマの身体に勝るものはないのです。) 困るのは生身の身体が老化することですが、これはクローン身体やコピー身体といつでも交換出来るので、本質的な問題ではありません。電子脳は、もともとのあなたの脳よりもはるかに高いポテンシャルを持っていますから、アップロードされた時点での知能は現在のあなた並みでも、それからの学習能力や成長力には目をみはるものがある筈です。

 ここで当然湧き起こる反論は、そうして生まれた新しい自分は、あくまで現在の自分のコピーであって、この私自身が不老不死を手に入れた訳ではない、というものでしょう。が、そういう反論をする人には、前回の「眠っているあいだの身体コピー」の思考実験を思い出していただきたいと思います。私たちは生まれてから何十年にも亘って、同じひとつの身体の中に閉じ込められて生きて来たという経験を積んでいるので、〈自我〉というものを何か実体を伴う絶対的なものとして考える習慣が、骨の髄まで身についてしまっています。しかし、そんな思い込みは、身体の物理的コピーという単純な思考実験によっても粉砕されてしまうようなものではないですか。極端な話、我々は毎夜眠るたびに死んで、毎朝新しい肉体になって甦っているのだとしても、何も論理的な不整合は発生しない。今日のあなたが昨日のあなたと同じあなたであることすら証明出来ないくせに、不老不死を保証する電子脳への移行だけは拒否するというのは理屈に合いません。もちろんこの世にふたりのあなたが誕生することは、社会的な混乱を引き起こしますから、古い方のあなたには消えていただく必要があります(それは不老不死時代の当然の倫理コードなのです)。いや、安心してください、電子脳への移行手術のあと、麻酔が切れるのを待つこともなく、古い自我はすみやかに消去することを私が保証します。次に目を覚ます時は、驚くほど爽快な気分で、新しいあなたに生まれ変わっていることを信じてください(経験者の方は皆さんそうおっしゃいます)。もしも、あなたが経済的に裕福な人であるなら、有機脳を持つあなたの方も名前を変えて生き続ける選択肢もあります。でも、それはあまりお勧め出来ません。これまでの経験から、それは決して幸福な結末にならない場合が多いことが分かっているからです。

 と、またSFチックな空想力が暴走していますが(笑)、私がこうした素人っぽい(素人なんだから、素人っぽくてもいいの)思考実験で目指しているのは、もしも人間の心が脳という物質にすべて還元出来るものであるなら、自分というものの存在に関する我々の常識はどこまでくつがえるものか、その最終地点を確認したいということなのです。こうした思考実験をさらに推し進めてみれば、これまでの自我に関する常識が大きく変わることは間違いありません。例えば、現代の脳科学者の人たちは、クオリアというものが決して他人と共有出来ない〈私秘的〉なものであるということを強調して、そこに科学では解けない大きな謎を見ようとしています。いつかは科学的な方法でこの謎が解けるかも知れないが、それには脳科学におけるアインシュタインのような天才の登場が必要になるだろう、そんなことを言う人さえいます。でも、(思考実験派の)私たちから見れば、クオリアが私秘的であるという前提がそもそも確実なものとは言えない気がする。確かに生身の人間である私には、あなたの主観を通して景色を見たり、食べ物を味わったりは出来ない。が、もしも電子脳に移植された私の人格に、あなたの記憶情報だけを追加コピーすることが出来たとしたら? さらには記憶だけでなく、あなたのすべての脳情報をもそこにマージすることが出来たとしたら? ひとつの脳の中でふたつの人格が並立している状態は、決して望ましいことではないと思いますが(それは生身の人間でも同じです)、統一した人格を作り出すメカニズムは現在の我々の脳の中にもある訳で、電子脳を作り出すほどの科学技術を持った時代なら、当然そのメカニズムだって解明し尽くされているに決まっています。であるならば、文字通りあなたの心と私の心が合わさった、新しい自我というものだって可能であるかも知れない。電子脳の容量を拡張することは容易ですから、地球上のすべての人の脳情報を集めて、〈汎人類的な統一意識〉を作ることさえ理論的には可能でしょう。たまたま現在の私たちは、生物学的な限界に閉じ込められているので、何故クオリアは私秘的なものであるかとか、何故哲学的ゾンビが不可能だと言えるかといった、思弁的な擬似問題を真の問題であるかのように取り違えていますが、そんな思考は易々と乗り越えられてしまう時代が来ないとも限らない。もしもこの問題に、本当の意味でのブレークスルーがあるとすれば、そういった方向が最有力な可能性として考えられると思うのです。(そうそう、このことを書きたかったの。「自我のコモディティ化」と「クオリアの共有化」、これを私の予言ということにしておきましょう。)

 話の収拾がつかなくなりました。何の話でしたっけ? ああ、そうだ、不老不死の話でした。いずれにしても我々が生きているあいだには、そんな技術が実現することはあり得ないと思いますので(たとえあなたが14歳の中学生だったとしてもです)、真剣に悩むほどの問題ではありません。え? むしろあなたは、自分が生きているあいだに不老不死技術が実用化されないことの方に悩んでいるのですか? ええ、むろん私にだってその気持ちは分かります。やがては人類がそれを実現する日が来るかも知れない、それは可能性としてはゼロではないのですから。その時代に生まれ合わせることは、ひとつの僥倖と言えるでしょう。おそらく不老不死が当たり前になれば、人間は子供を作ることもほとんどしなくなります。自分が永遠に生きられるのであれば、子供を持つ必要性もあまり感じなくなりますし、限られた地球上に、人間の数ばかり増やすことも出来ないからです。つまり、その時代に生まれ合わせるためには、生まれるタイミングはそれより前であっても後であってもいけないということなのです。こうして地球は、ほとんど同世代の人間たちばかりで構成された会員制クラブのようなところになります。それは個人主義が究極にまで達した、エゴイストたちの世界です。いくら彼らが抜群に頭の良い人たちであっても(なにせ頭の中は電子頭脳なんだから。インテル、入ってる?)、そこが他人への思いやりに満ちた住みやすい世界になることは難しそうな気がします。そう考えると、人間には寿命というものがあり、誰もが次の世代に強制的に席を譲らなければならない今の仕組みも、それなりによく考えられたいい仕組みだと言えるのではないでしょうか。新しく生まれて来る子供たちに地球の未来を託すことは、電子頭脳を持った自分の分身にそれを託すこと以上に、希望と安心の持てることなのですから。(って、やっぱり最後はオチをつけないと気が済みませんでしたね。笑)

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2007年10月 8日 (月)

自我がコモディティ化する世界

 自己同一性、つまり自分が時を隔てても同じ自分であるという感覚(あるいは事実?)については、いろいろと面白い思考をめぐらすことが出来ます。私も以前の記事でこの問題に関するひとつの思考実験を試みました。この問題を考える人で、自分好みの「思考実験用舞台装置」を持っていない人の方がまれだと言えるかも知れません。例えばそれは「本人の記憶を移植されたクローン人間」だったり、「脳の中に埋め込まれたエンドーリ装置」だったり、「パラレルワールドにおけるもう一人の自分」だったりとさまざまです。まあ、舞台装置は違っても、表現している内容はほぼ同じ、自己同一性というのは、世間一般の人が考えているほど自明のものでもなければ、論理的または実証的に証明出来るものでもありませんよ、というオチで締めくくられるのが一般的です。

 で、今回もまたつまらない思考実験に付き合っていただくことになるのですが(まあ、そう嫌な顔をしないでください)、この問題の初心者にも分かりやすいように、一番簡単な入門編の装置を考えてみたいと思います。名付けて「三次元コピー機」というものです。物の分子的組成を高速にスキャンして、物理的にそれと完璧に同等の物体を作り出す装置。私たちにもお馴染みの二次元コピー機は、「シアン」、「イエロー」、「マゼンタ」といったインクカートリッジをセットして、平面の図形をコピーするために使いますが、新型の三次元コピー機の方は、「水素」、「酸素」、「炭素」といったラベルの貼られた〈元素カートリッジ〉をセットして、立体物をコピーするために使います。さて、ここで問題。この機械であなたの身体をまるごとコピーしたら、①新しく現れたあなたの身体は〈生命〉を持っているでしょうか? ②生命を持っていた場合、それはあなたと同じ記憶や性格を備えた〈心〉を持っているでしょうか? あなたならどう考えますか? 私の想像では、〈唯物論〉の立場の人(つまり生命や心といった現象も、物質の働きに還元出来ると考えている人)は当然、コピー人間は(そのコピーが完璧であるならば)生命や心を持つと考える筈です。そう考えなければ、生命や心といった現象の裏には、コピー機のスキャンでは捉えられないような神秘的な何かが働いていると仮定せざるを得なくなるからです。一方、「生命や心は機械でコピーすることなど出来ない」という〈神秘主義〉あるいは〈生気論〉の立場に立つ人だっているでしょう。こちらは物質的なものだけでは、生命現象は再現出来ないという立場です。このふたつの考え方は、どちらかが正しくて、どちらかが間違っている筈ですが、今日の知識ではまだその決着をつけることが出来ません。ただ、今回は一応唯物論を採用することにして、生気論側の人には黙って見ていてもらうことにしましょう。そうしないと話が先に進みませんから。

 三次元コピー機というアイデアが優れているのは、たとえ生命や意識を生み出しているものの根本原理が分からなくても、そんなこととは関係なく生命や意識を人工的に簡単に作れてしまうという点にあります。そしてこれが実現すれば、心身問題をめぐる長年の哲学的論争にもいっぺんで決着がつくことになるのです。で、さっそくあなたにはこの装置の中に入っていただきしょう。え、自分自身がコピーされるなんて、不気味だしあんまり歓迎したくないと、そうおっしゃるんですね? しかし、そんなに悪いことばかりではないかも知れませんよ。藤子不二雄さんのマンガ「パーマン」には、コピーロボットというものが出て来ました(古いね、どうも)。例えば嫌いな勉強や仕事はコピーの方にやらせて、自分は遊びや彼女とのデートに専念するというのは、なかなか魅力的なアイデアです。また仮に自分のコピーをすぐに作らなくても、コピー機でスキャニングだけしておいて、デジタルデータとして保存しておけば、いざという時の安心につながるという効能もあります。例えば、万が一あなたが事故で亡くなった場合、あなたのコピーに残された家族や仕事を託すことを遺言しておくのです。不幸にも子供さんを亡くしたご両親には、生前の一番新しいデータをもとに、お子様を再生することを法律でも認めてはどうしょう。跡取りのいない資産家のご老人には、本人の二十歳の時のデータで復元した若いころのご自身のコピーに遺産を継がせるというのは、法的に認めるかどうかは別にしても、ニーズはありそうです(ただ一挙に半世紀も未来にタイムスリップしてしまうコピー当人が、社会に適応するのには少し時間がかかるかも知れません)。ここまで空想の羽を広げると、倫理的な面での反論も受けそうですが、まあ思考実験ですから大目に見てください。

 コピーロボットの場合と違って、ひとつ面倒なことは、生身の人間のコピーはうっかりするとホンモノとの見分けがつかなくなってしまうということです。それは第三者である私にとって見分けがつかないだけでなく、実験台になったあなた自身にとっても同じかも知れないという点が面倒なのです。もしもコピー機に「複製元」と「複製先」のふたつのカプセルがあって、自分がどちらから出て来たのかを記憶していれば、あなたがたふたり(本人とそのコピー)にとっては、どちらがオリジナルかの区別がつくのかも知れません。しかし、もしもあなたが眠っているあいだにコピーが行なわれて、目覚めてみると隣のベッドにもうひとりのあなたが寝ていた、といった状況を想像すれば、もうあなた自身にとってもオリジナルかコピーかの判別は不可能になってしまう。ふたりとも眠りにつく前までの同じ記憶を持っているのですから、立場はまったく同じ訳です。少しおっちょこちょいな人だったら、ふたりとも自分こそがオリジナルだと主張して、取っ組み合いの喧嘩を始めるかも知れません。でも、あなたのような思慮深い人は、そんな野蛮な反応はしない。客観的に見て、自分の方がコピーであるかも知れないという二分の一の確率を、あなたがたふたりはたぶん冷静に受け入れることでしょう。では、コピーが1体ではなく99体で、目覚めてみると100人のあなたが100台のベッドに寝ていたら? 簡単な話ですね、あなたは99パーセントの確率でコピーだということになる。オリジナルである確率は1パーセントだけ。さらに想像をたくましくすれば、自分が寝ているあいだにコピーとすり替えられてしまった場合には、目を覚ましたこの自分が実はコピーだったとしても、そのことには一切気付かないだろうという考えも浮かんで来ます。つまり、こういった技術が実現した世界では、もはや自己同一性という概念そのものが成立しなくなるのです。

 これが現実になった時に起こる、社会の倫理的な混乱についても少し考えてみましょう。例えば逃走中の殺人犯が自分のコピーを作って、そのコピーの方が警察に捕まるように仕組んで、自分はまんまと逃げおおす。犯人が逮捕されれば指名手配も解除されますから、彼は晴れて自由の身です。(身代わりにコピーの方が、刑務所で刑期を務めているか、死刑台に向かっている訳です。) むろんコピーの方でも、そんなあなたの計画はお見通しですから(コピー直前に自分が計画したことなんだから)、取り調べの際には事実を暴露して、自分がコピーであることを主張するでしょうし、検察側でもそれを否定することは出来ないでしょう。だいたい、犯罪者そのもののコピーが現れた場合、法律はそれをどう扱うべきかという点が難しい。明らかに死刑に値するほどの凶悪犯だったとして、そのコピーが100人も現れたら、全員を死刑台に送るべきか、それともオリジナルのひとりをあくまで探し出すべきか(それは理論的に不可能なんだけど)。もしかしたら、捕まった自称コピーのひとりはこんな釈明をするかも知れません。私は確かに犯人本人のコピーですが、彼が犯罪を犯す1週間前のデータで作られたコピーなんです。だから私には殺人を犯した責任も無ければ、その記憶も無いのです。さあ、こんな男を我々はどう処遇すればいいのでしょう?

 悪夢のような話だ、そう思われますか? しかし、科学が生命現象や脳の仕組みを解明するということは、要するにそういった技術が実現する可能性のある時代がやって来るということに他なりません。今日の技術でも、人間の身体のさまざまな部分が生体移植や、あるいは人工的な臓器よって置き換えられるようになっています。最近の義肢は、脳から出ている運動神経と直接結ばれて、本人の意思どおりに動くところまで進歩しているのだそうです。まだ脳そのものを人工脳に置き換えるところまでは行っていませんが、それは倫理的なタブーとして脳だけは不可侵だという暗黙の了解があるからではなく、脳科学がまだそのレベルまで達していないという理由からに過ぎません。今ではもう行なわれていないものの、ロボトミー手術のようなもので脳そのものにメスを入れることを人間は昔からやって来た訳だし、最近はさまざまな向精神薬や記憶を消去する薬なんてもので、脳を内側から改変することはどんどん現実になって来ている。やがては記憶力の衰えた人向けの〈人工海馬〉だとか、どんな外国語でもたちまち話せるようになる外付けの〈ブローカ野ユニット〉なんてものだって発明されるかも知れない。それでも人間性の源である〈人格脳〉だけは最後まで神聖なものとして残るだろうですって? いや、甘い、甘い。統一された人格を生み出す仕組みだって、やがては解明されて、最初は治療目的で、その次には不老不死を求める人間の貪欲さに突き動かされて、交換可能な人格脳モジュールといったものさえ開発される可能性が無いとは言えません。製造業の世界では、どこからでも調達が出来て、代替可能な汎用部品をコモディティと呼びますが、科学技術の進歩にともない、人間の身体のすべての部品が、いや〈自我〉そのものだってコモディティ化する時代がやって来るかも知れないのです。

 おそらく多くの人は、そこまでの科学技術は行き過ぎだし、特に生命科学の分野においては、科学者はどこかで無制限の発展を抑制すべきだと思っているのではないでしょうか。私もその考えには基本的に賛成なのですが、人間の知的探究がどこかで踏みとどまることが出来るという可能性に対しては、悲観的な観測を持っています。おそらく人間という生物種に一番欠けているのは、この〈踏みとどまる〉という力なのではあるまいか。(高速性能の優れたエンジンを搭載しているのに、ブレーキが甘いスポーツカーのようなものですね。) 私はむしろ、自我がコモディティ化する世界が到来する前に、我々の世界観や道徳観をそちらの方向に向けてシフトしておくことこそが重要ではないかと思っています。人間の脳が自由自在に改変出来るようになった社会でも通用する、新しい道徳の体系を構築すること。夢物語である以上に、一種の危険思想であると受け取られるかも知れません。が、考えてみてください、私たちがいま生活の基盤にしている道徳意識というものは、なかば超越論的(宗教的)なものに支えられ、なかば現実論的(科学的)なものに支えられている、未分化な状態にあるものです。そしてそれが二十一世紀の今日になってさえ、世界にどれほどの災厄をもたらしているか、私たちはこの目で見て知っている訳です。(それは世界各地で頻発している宗教的対立や民族紛争などを見れば明らかです。) であるならば、科学技術の進歩に合わせて、古い夾雑物をたくさん含んだ我々の道徳意識を合理化し、純化させる方向を探ることにこそ、人類の未来に向けた可能性があるのではないかとも考えられるのです。

 誤解のないように付け加えておきます。以上の見解はもしも科学が生命現象や心的現象を解き明かし、唯物論が勝利した前提での話です。逆に科学の限界がはっきり認識され、超越論的な世界観が優勢になった場合には、別の方向を私たちは探らなければならなくなるでしょう。しかし、その場合でも、現在のプリミティブで未分化な道徳観や宗教観を純化させる方向に進まざるを得ないのは同じです。まずは歴史的、地政学的にバラバラに発生し、進化の袋小路に落ち込んでしまっている多くの宗教の垣根を取っ払うことから始めなければならない、それだけは間違いのないことだと思います。

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