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2007年9月24日 (月)

ハードプロブレムの先にあるもの

 心脳問題が、専門の研究者にとって入り組んだ多面的な問題であるのと同様(クオリアの起源、バインディング問題、ミラー・ニューロン、コネクショニズムと古典的計算主義、量子脳理論、等々)、我々のような市井の哲学人にとっても、この問題はそれなりに複雑な構造をしています。例えば、自分の心を少し覗いてみれば、すぐに次のような問題の系列が浮かんで来ます。①脳の働きがどのようにして心を生み出しているのか? ②心を生み出すためには脳という物質の働きだけで充分なのか、それともそこには何か別の原理も働いているのか? ③自然が心を生み出す原理が解明されたとして、そうして生まれた心がこの〈私〉であるとはどういうことか? ④40億年に亘る生物進化の果てに、ついにこの〈私〉というものを生み出した自然の意図はどこにあるのか? ⑤最期に自分が死んでしまったあと、この私の心はどうなってしまうのか、それは永遠に消えてしまうだけなのか? 思いつくままを列挙しましたが、きっと誰もが一度は考えたことのある問題ばかりだと思います。この中で、科学が取り扱える問題は①だけです(哲学的な傾向を持った、野心的な研究者なら②の領域にも踏み込むかも知れません)。③はもう科学の範囲を逸脱して、哲学あるいは心理学の問題ということになりましょうし、④や⑤になると、さらにそれを飛び越えて宗教またはスピリチュアリズムの領域になってしまう。でも、正直に認めましょうよ、私たちが心と脳の謎を解きたいと願うとき、これらすべての問題にまるごと答えてくれる解答が欲しいのではありませんか?

 デイヴィッド・チャーマーズという研究者は、心脳問題に関して、「解きやすい問題」(イージープロブレム)と「解きにくい問題」(ハードプロブレム)という二種類を分けています。不思議なことにこの問題は、見る人の立場、と言うか〈感性〉によって、易しくも難しくもなるんですね。例えばチャーマーズさんは、上記で言えば②の領域にまで踏み込んで、現代ふうの洗練された二元論を主張しています。つまり、人間の心には物理学を中心とした従来の科学の枠組では説明し尽くせないものがあるという立場です。超自然的な霊魂などというものを仮定する必要は無いが、心の科学にまともに取り組むためには、これまでの物理的な法則とは別の、新しい「精神物理法則」とでもいうべきものを編み出す必要があるというのです。こういう方向で研究を推し進めた果てに、何かまったく新しい知の領域が拓けて来るのか、私にはよく分かりません。(そもそもこの人の分厚い本自体が、私にとってはHard Problemなんです。笑) ただ、かく言うチャーマーズ氏の方針に従ったとしても、将来的に解ける見通しの立たない問題が、上記に挙げた③以降の問題です。私はこれを、科学のまな板には決して載って来ないが、私たちにとっては切実であることを止めない問題ということで、「私たちの問題」(Our Problem)という第三のカテゴリーに分類したいと思います。

 「私たちの問題」というのは、簡単に言ってしまえば、「自分は一体どこから来たのか?」、「自分は何故ここにいるのか?」、「自分は死んだあとどうなってしまうのか?」といったような問題です。つまりそれは〈心〉の問題というより、〈自分〉というものの存在に関する問題と言った方がいい。冷静に考えれば、こういう問題の立て方は、科学的な検証に馴染まないばかりか、ふつうの意味での知的考察の対象にもならないことは明らかだと思います。自分はどこから来たのかと言えば、母親の胎内から出て来たに決まっているし、自分が何故ここにいるかと言えば、両親の性行為の結果としてここにいる訳だし、自分が死んだあとどうなってしまうかと言えば、ただ単に消えて〈無〉になってしまうに決まっている。そんなふうに考える人は多いだろうと思います。一体どこにそれ以上の難しい問題があるの? 確かに私たちは、ふだんはあまりこうした問題を意識しないようにして生活しています。たまたま病気で余命いくばくもないと宣言された時とか、親しい人に先立たれた時とかに心に浮かんで来ることはあっても、そうした特別な事情が無いのにこの問題に取りつかれているのは、心を病んだ人かあるいは哲学者くらいなものでしょう。実際、もしもあなたが〈霊魂〉も〈死後の世界〉も〈生まれ変わり〉も信じていない合理主義者で、唯物論者でもあるならば、こうした問題を問題として捉えること自体がナンセンスだという結論に同意されると思います。逆に言えば、この問題にとらわれている状態の中では、私たちは多少なりとも霊的なものであるとか、物質を超えたものの存在を、(はっきりそう意識していなくても)可能性として受け入れている訳です。

 前回の考察では、科学が人間の心や、さらに生命というものの根本原理を解き明かすことに成功した場合のイメージを素描してみましたが、今回は逆に〈不可知論〉の側が、生命や心の領域には科学では決して解き明かすことの出来ない何かがあることを証明して見せる、その場合のイメージを想像してみましょう。こちらもそう難しいことではありません。それは世の中にたくさん出回っている、あやしげな神秘主義やスピリチュアリズムのやり方を参考にすれば、簡単に思い描くことが出来ます。例えば、科学では決して説明されないようなテレパシーや予知能力、心霊現象のようなものが、実験で充分な信憑性をもって再現出来た場合や、あるいは催眠療法のようなもので、被験者の前世というものが数多く記述され、それが他の方法では知ることの出来ない歴史的事実と符合した場合など、要するに現代の科学では扱うことの出来ない超自然的な現象が、トリック無しで現れて来た場合を想像してみればいいのです。不可知論の陣営は、何故そのような不思議な現象が起こるのかを説明する必要はありません(合理的に説明出来れば、それは科学になってしまいますから)、ただそういう事実があることを証明するだけで、科学では捉え切れない何かがこの世界には存在することの有力な証拠を示したことになるだろうというのです。もちろんこういった超自然的な現象が、すなわち生命や心の成り立ちに直接関与しているかどうかは分かりません。それは生命という巨大なシステムから派生した副次的な現象に過ぎず、なんらその本質に関わることではないかも知れないからです。が、それでもそうした事実の発見は、現代の科学万能主義に対する強烈なカウンターパンチになることは間違いありません。

 こんなことを真面目に論じていると、私自身がオカルティズムの信者と思われてしまいそうで気が引けるのですが、実のところまだこのふたつの対立する考え方(唯物論的科学主義と不可知論的超自然主義)は、互いに相手に対して有効なパンチさえ繰り出せていない状況ではないかと私は思っています。つまり現代科学はまだ心を持った人工知能や人工生命を生み出すどころか、その基本原理を仮説としてさえ持っていませんし、不可知論の方も万人が認めざるをえない(安定した)超常現象の発見には至っていない。こういう状況のもとでは、心と脳、精神と物質の関係という問題については何も確定的なことは言えないというのが、合理的な判断というものではないでしょうか。この問題は、チャーマーズ氏が言うように科学的な方法論の問題でもなければ、ラマチャンドラン氏の言うように擬似問題でもなく、まさに〈霊魂〉や〈死後の世界〉といったものがほんとうに存在するかどうかの問題だと私は考えます。いや、〈霊魂〉だとか〈死後の世界〉だとか言えば、もう理性的には拒絶したくなるような概念ですが、この世界には従来の科学的理性だけでは理解出来ないものもあるという程度の言い方にすれば、それは自分の中でも強い反撥を受けるものではないような気がします。重要なことは、これまで物理学を中心に進歩して来た科学的世界観の中では、心身問題は自らの守備範囲外のものとして関心を払わずに通り過ぎることも出来たのが、脳科学という領域になると、そうは行かなくなる可能性があるということです。最近のこの分野での研究のスピードからすると、もしかしたら脳科学の分野から新たな不可知論への接近という事態も見られるかも知れない、個人的にはそんな予感も持っています。

 最近の脳科学ブームやスピリチュアリズムに対する関心の高さは、二十一世紀の今日になってもなお、この問題への解決の糸口が見出せないことに対する人々の苛立ちの現れかも知れません。ここで多くの人が関心を持っている問題というのは、はっきり簡単に言えば、唯物論と非唯物論のどちらが正解なのかということです。もしも唯物論が正しいことが証明されたなら、心身問題のうちの〈自我に関する問題〉は解消され(解決ではなく)、残る問題はただ脳の働きと心の動きの対応表作成、それにクオリアの起源に関する理論の構築といったくらいのことになると思います。(その時には人間と同じような心を持つ人工知能が実現していることを思い出してください。) 一方、いろいろな状況的証拠から非唯物論の方が優勢になったとすれば、そこから問題はさらに複雑なものになります。万能だと思われていた科学的理性の有効範囲が後退し、巨大な謎が人々の目の前に現れて来る。私たちは、この地球上に生命を生み出した超越者の意図であるとか、自分の死後のことや来世のことでも思い悩まなければならなくなるかも知れない。その時こそ「私たちの問題」が、ふたたび重大な深刻さをもって我々に迫って来ることになるのです。

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2007年9月17日 (月)

心身問題という迷宮からの出口

 で、一体どこにこの問題のほんとうの核心があるのか、という話です。前回ご紹介した茂木さんの本に書いてあったように、「物質である脳からいかに心が生まれるのか」、その〈第一原理〉を見出すことが、この問題を解決することなのでしょうか? おそらく、ふつうはそう考えるのだろうと思います。それを解明することだって、とてつもなく難しそうだということは、最近の脳研究の本をちょっと覗いてみるだけでも分かります。ところが、ここでひとつ素人っぽい疑問が湧くのです。仮にどこかの国の天才的な科学者が、この〈第一原理〉を発見したとして、それが科学的に正しい仮説であるかどうかを、私たちはどうやって確認することが出来るのかという疑問です。これは私の想像ですが、それがいくら理論として完璧な整合性を持った仮説だったとしても、それだけで我々がそれを求められている〈第一原理〉として受け入れることは難しいのではないかという気がします。何故なら、そこには証拠が無いからです。科学の仮説というものが、すべからく実験や観察によって実証されるべきものだとすれば、その仮説を裏付ける事実とセットでなければ、それは正しい仮説として認められない。科学である以上、それは当然なことです。

 と言うことは(これも素人の想像ですが)、もしも仮にこの分野で万人が認める〈第一原理〉なるものが確立される日が来るとすれば、それはこの原理に従って、〈心を持った人工頭脳〉というものを実際に作り出すことに成功した日がそれであるに違いないと考えられます。だってそうなれば、論より証拠、物質が心を生み出す現場を我々は目撃したことになる訳で、これまでの二千数百年に亘る心身問題をめぐる議論にも、たぶんいっぺんでケリがつくことになります。もちろん、こうして生み出された〈心を持った人工頭脳〉が、人間の脳とまったく同じ原理で心を生み出しているのかどうかは分かりません。実は物質に〈心的な機能〉を持たせるためには、いろいろな方法があって、たまたまそのうちのひとつが運良く実現されただけという可能性もあります(贅沢な話ですが)。また、〈心を持った人工頭脳〉の誕生に当たっては、もうひとつ難しい問題があります。その人工頭脳が何かしらの知的な能力を持っていることは確かだったとしても、それが人間のような自我を中心にした内的な意識(いわゆるクオリア)を持っているかどうか、それを科学的な方法で証明する手段は原理的にありえないという問題です(哲学で「他我問題」と呼ばれているものです)。ただ、これに関しては、人工頭脳による〈自己申告〉を取りあえず信じることを前提に、その時に人工頭脳の内部で起こっている物理的または化学的反応の分析、さらにそれを人間の脳の働きに関するデータと比較することによって、充分確からしい科学の原理にまで練り上げることは出来そうな気がします。少なくとも、その時から心身問題に対する新しいパースペクティブが開けることは間違いないと思います。

 もしもこの考え方が正しいならば、現代における〈心脳問題〉の研究者は、非常に苦しい立場に立たされているのではないかと想像されます。何故なら、心を持つ人工頭脳というものが実現するという見通しは、ここ半世紀くらいのスパンではありそうもないことですし、その間この分野で考えられたこと、議論されたことはすべて仮説にとどまるしかないからです(もしかしたら永久に仮説のままかも知れません)。人間の心の働きと脳の関係についての研究には、いろいろな機器によって詳しく調べられるようになった脳機能の分析と、それをシミュレーションさせるためのコンピュータの進化があるので、研究者は当面のあいだ手詰まりにはならないでしょう。が、いくらこの分野で精密な理論が構築され、深い専門的な議論が戦わされようとも、それは審判のいないサッカーゲームのようなもので、最終判定を下すことの出来ない、決着のつかない試合と似たものになります。アインシュタインの相対性理論が、原子力の可能性を予見させ、事実それが原爆となって華々しい成功を世界に見せつけた、そんな幸運はこのジャンルに限っては無いような気がします。私たちのような、専門の研究者ではないけれどもこの問題に深い関心を持っている(持たざるを得ない)一般の思索家にとっても、これはとてももどかしい状況だと言えます。

 おそらく現在の脳科学研究が、〈心を持った人工頭脳〉の開発に向かう道筋さえ見出せていない最大の理由は、その研究の対象から、〈生命の相〉がぽっかり欠落しているからではないかと私は推測しています。例えば、人間が持つ認知機能であるとか、記憶と想起のメカニズムといったものなら、コンピュータによってそれに近いものをシミュレートすることも出来るかも知れない。しかし、私たちの常識では、人間の心の本質はそんなところにあるのではありません。それはもっとダイナミックな感情の動き、例えば空腹時に感じる食物への強い執着であるとか、時として心を占領してしまう生殖への欲求であるとか、身の安全を脅かされた時の恐怖心であるとか、身体を傷つけられた時の堪え難い痛みであるとか、そうしたものを指していると思われます。これらはすべて、自分の身を守り、将来に向けて自分の子孫を残して行くことを命令として刷り込まれた、生物としての特性です。私は以前の文章で、生物の心を〈快と苦の受容器〉に例えました。この問題を考えると、どうしてもその固定観念に舞い戻ってしまうのですが、人間の心の中核には、どんな生物でも持っている(持たされている)、快を求め苦を避けようとするこの基本的性質があるように思えてならない。私たちは、それをどうやって人工頭脳に持たせられるかという、最も根本的な原理が分からないのです。

 しかし、このことから、すぐに「生命の神秘」といった立て看板を出して、不可知論に引きこもる必要も無いと私は考えます。人工頭脳の場合と同じ論法で言えば、もしも〈人工生命〉というものを実験室で作り出すことに成功すれば、ここにも事態打開の希望はあります。最近の生命科学は、非常に単純な人工ウイルスを作ることに成功しているそうです。もっとも、ウイルスは生命進化の副産物として現れて来たものであるにせよ、それ自体が生命と呼べるものではない訳で、ホンモノの〈人工生命〉誕生までには、まだまだ長い研究が必要かも知れません(あるいはそれも永久に不可能かも)。ただ、それが実現した時のイメージを持つことなら、私たちにも出来ます。神経回路も何も持たない、比較的単純な構造物であるにもかかわらず、周囲の環境に好悪の反応を示し、自らの生存に有利だと思われる行動を示す有機体。要するにそれは自然界にいくらでも存在する単細胞生物のようなものです。(長い研究の歴史があるにもかかわらず、何故そんなありふれた簡単なモノを人間は作り出せないのだろう?) もしもそれが完成すれば、物質によって人工的な心を作り出す研究において、大きな前進になるような気がします。すなわち、そこにこそ〈物質が心を生み出す第一原理〉のヒントが隠されているように思うのです。進化したコンピュータがやがて心を持つようになるということは、常識的にありえないことのように感じるのですが、たとえ人工的に作られたものであっても、それが生命体と呼べるものであるならば、そこには心的なものの萌芽が見られる筈だというのが私の考えです。

 脳と心の問題の根底には、生命とは何かというより本質的な問題が横たわっているように思います。逆にそこが科学によって解明される日が来れば(つまり人工生命が完成したあかつきには)、いかに物質的な働きが心を生み出すかという問題にも、おのずから答えが見付かるのではないでしょうか。私たちが〈感情〉と呼ぶものに似た、ある種の反応を返すモジュールが物質界に見付かり、それを中核として人間の脳を模したニューロネットワークで結んでやれば、かなり高度な(人間以上の?)知性と感情を持った人工頭脳の出来上がり、ということになるかも知れない。もちろんそこに至る前に、どこかで不可知論に足場を見付けて、そこを安住の地とするという選択肢もあります。しかし、科学というものは、科学的に解明出来ないものがあると認めた瞬間に負けが決まってしまう知的ゲームのようなものですから、当然行けるところまで行こうとするでしょう。それはまったく出口の見えない無謀な挑戦という訳でもありません。少なくとも〈心脳問題〉に関しては、いま私が素描したような解答サンプルを想像してみることは出来ます。そこまで行けば、とりあえず科学者にとっては、目的地にたどり着いたことになるのだと思います。(人工生命と人工知能を実験室で作り出すことに成功したとすれば、それ以上の何を科学者は求められるのでしょう?) ところが困ったことに、私たちのような科学者ならぬ巷間の思索人にとって、本当の問題は実はその先にあるかも知れないということなのですが、それはまた次回の話題にしたいと思います。

(今回は心身問題に関して、何か新機軸を打ち出したいと思って書き始めたのですが、結局以前書いたことの焼き直しになってしまいましたね。なんだか虚しいです。この問題は、いくら考えても同じ場所での堂々めぐりになってしまう。茂木さんではありませんが、どこかに「アハ!」っというようなブレークスルーは無いものでしょうか?)

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2007年9月 9日 (日)

心脳問題に関する3冊の本

 ここ半月あまり、〈心脳問題〉に関する本を集中的に読んでいます。集中的にと言っても、図書館で割と気軽に読めそうな本を何冊か借りて来て、その中の3冊ほどをなんとか読み終わったという程度に過ぎないのですが。もともと自分が最も関心を寄せている領域なのに、このテーマの本をあまり読んでいなかったことに我ながら呆れています。今回は、この問題に復帰するウォーミングアップも兼ねて、読んだ本の感想を簡単に書きつけておくことにします。取り上げるのは、『脳内現象』(茂木健一郎著)、『脳のなかの幽霊、ふたたび』(V.S.ラマチャンドラン著)、『心脳問題』(山本貴光・吉川浩満著)という3冊です。最初の1冊はまったくの期待はずれでがっかりし、次の1冊は〈目からウロコ〉の連続でびっくりし、最後の1冊はこれまで漠然と感じていたことがうまく整理されていて、とても納得しました。

『脳内現象』(茂木健一郎著、NHKブックス)

 茂木健一郎さんの本は、これまでにも何回か読もうとし、その都度途中で放り出して来ました。自分が最も関心を持っているテーマについて書かれているにもかかわらず、何か心にしっくり来ないものを感じていたのです。今回は意を決して最後まで読み通しました。そして後悔しました。自分には読む価値の無い本だったと、読んでから気がついたからです。私は基本的に人を批判することはしないというポリシーで、このブログの記事を書いています。が、今回は少し言いたい気がする。茂木さんという方は、脳科学者という肩書きだそうですが、なんだか根本的な勘違いをされているんじゃないかしら、そう思えるのです。

 『現代の脳科学者は、物質である脳からいかに心が生まれるのか、その第一原理を理解していない。かつて錬金術師たちは金の原子核ができる核反応のメカニズムを知らないまま、化学反応によって金をつくろうとした。同様に、現代の私たちは、根本的な理屈を知らないまま意識についてあれこれと憶測しているだけである。現代の脳科学者は、一人残らず錬心術師に過ぎないのである。』(p.27)

 『本書は、脳内現象としての〈私〉がいかに創られるのか、その第一原理を追究する試みである。物質的過程である脳内の活動から、いかにして主観的・唯我論的な意識が生まれてくるのか。唯我論的発想と従来の科学的発想の両方の限界をふまえ、この難問を解くための新理論を探っていく。』(p.13)

 このふたつの文章は、この本の冒頭近くからの引用です。茂木さんは、科学者としては珍しいほど(?)修辞が巧みで、その文章からは強く訴えかけるものがあります。冒頭でこんなふうに宣言されれば、読者の期待はいやがうえにも高まりますよね。よし、それじゃあ、その「第一原理」とやらを聞かせてもらおうじゃないか。ところが、最新の脳科学のトピックを散りばめた長い論証の果てに、読者が連れて行かれるのは、『メタ認知的ホムンクルス』というとても科学的とは思えない曖昧な概念なのです。(メタ認知というのは、認知すること自体を認知するという働き、ホムンクルスというのは脳の中に住んでいるコビトのことです。ですからこのコトバは、〈認知することを認知している脳内のコビト〉という意味になります。) だいたい科学者と呼ばれる人が、こういった思弁的な概念操作で結論を導き出すことが信じられません。本書の結論にあたる最終章には、こんな文章が見当たります。

 『私たちは、意識がメタ認知的ホムンクルスのメカニズムを通して生み出される脳内現象であるというモデルに達した。このモデルは、意識が生み出される第一原理を未だ解決するものではないが、少なくとも、意識が因果的、客観的科学法則とどのような関係にあるかということを説明する。科学は、意識があろうとなかろうとどちらでもかまわないという。ならば、メタ認知的ホムンクルス・モデルとは、すなわち、意識の問題の科学からの独立宣言なのである。』(p.226)

 Webに掲載されている『クオリア・マニフェスト』などを読んでも感じるのですが、茂木さんという人は宣言をすることがお好きなようです。私もブログの中ではしょっちゅう宣言ばかり書いている人間なので、その気分というか、書いたあとのカタルシスについてはとてもよく理解出来ます。しかし、これは科学者としては非常によくない傾向ではないかと思います。上の文章から読み取れることは、①とりあえず本書では〈第一原理〉は見付からなかった、②それでも従来の意識の科学から独立する方向性は見えて来た、という二点です。確かに〈脳と心の科学〉はまだ端緒についたばかりで、まだ方法論が定まっていないところもあるのでしょう。だからと言って、現在の脳科学の方法を否定して、早々と独立宣言をするというのはどうなんでしょう。こんな書き方をされたら、真面目に地道に研究に取り組んでいる、世界中の脳科学者の人たちから反撥を買うだけだと思うのですが…

 結局、茂木さんの著作は、そのコトバの熱っぽさに内容がついて来ていないというのが読後の正直な感想です。予告編だけで本編が無い映画、あるいは実行に移されることのない政党マニフェストのようなものと言ったら、言い過ぎでしょうか。そもそも、〈クオリア〉という概念を研究の中心に据えること自体が、何やらあやしいことのような気がします。これに関しては、まだクオリア論の本家であるデイヴィッド・チャーマーズの著作を読んでいないので、明確なことは言えません。機会があれば、改めて考えてみたいと思います。

『脳のなかの幽霊、ふたたび』(V.S.ラマチャンドラン著、角川書店)

 という訳で、せっかく盛り上がって来た読書欲がちょっと萎えてしまったところに読んだのがこの本でした。そしたらあんまり面白くて、翌日の仕事のことも忘れて一気に読み耽ってしまった。同じ著者の代表作である『脳のなかの幽霊』の続編という位置付けですが、こちらの方がページ数も少ないし、一般人向けの講演をもとに書かれた著作であるだけに、とても読みやすくなっています。現在の脳科学研究の最前線でどのようなことが行なわれているかを知るためにも、格好の一冊だと思います。(茂木さんの本でも取り上げられていた事例や仮説の多くは、ラマチャンドラン本がその元ネタだったんですね。) この本に出て来る「幻肢」、「共感覚」、「盲視」、「クロス活性化」などという話題は、きっと最近の脳科学の入門書を読めば、みんな書いてあることなんでしょう。それでもこの本が格別に面白いのは(って、類書を読んでいないので想像だけど)、この著者が自ら観察し、発見し、仮説を立て、検証した事実をもとに書かれているからだと思います。世界的な名声を誇る第一線の研究者が、非凡な文才とユーモアを兼ね備えた著作家でもあったというのは、私たち読書人にとってなんと幸運なことだったのでしょう。

 脳科学などというものが、ほんとうに科学たりうるのだろうかと疑っていた自分にとって、著者の研究スタイルは実に納得の行くものでした。〈クオリア〉だとか〈ホムンクルス〉などというテーマの周りを巡っていては、結局、議論は思弁的な抽象論に陥って行くしかないと思います。しかし、自らが脳神経科の医師でもある著者が取り上げるテーマは、脳の機能障害による症例研究を中心としたもので、これは科学者の方法としてまったく正統なものだという気がします。昔から知られていた、一般的には不可解としか思えなかったような症例から、構想力豊かに新たな仮説を次々と立てて行く手腕は、まさに著者が天才であることの証でしょう。が、これは多くの研究者が協同して検証を行ない、またそこから新たな仮説を導き出して行く、すなわち〈科学の営み〉に道を拓くものです。なるほど、こういう人たちがこういう研究をしているのであれば、我々もこの分野から目が離せませんね。

 『自己の「統一」感についても、触れておく必要があります。なぜあなたは、さまざまな感覚印象や思考や情動の流れにたえずひたっているにもかかわらず、自分は「一つ」だと感じるのでしょうか? これは要注意の問いで、結局は擬似問題だったと判明する可能性もあります。ひょっとすると自己は本質的に、単一体としてしか感じられないものなのかもしれません。実際、二つの自己を感じるというのは論理的に不可能です。だれが、あるいは何が、その二つの自己を感じているのかという疑問が出てくるからです。』(p.153‐154)

 この文章は、クオリア問題に関する考察の中に出て来る一節ですが、本物の科学者がいかに〈ホムンクルス〉といった観念を慎重に扱うかがよく現れています。「擬似問題である可能性」というのはソフトな言い方ですが、要するにクオリア問題をハード・プロブレムだと捉える見方は、科学的な態度ではないと言っているのです。それでいて筆者の扱うテーマは、実際に検証可能な症例研究の領域にとどまらず、芸術の成り立ちから人類の文化が伝播して来た仕組みに至るまで、実に広い範囲に亘っています。つまりクオリアなんていう擬似問題に足をすくわれなければ、脳科学という研究分野には限りなく豊かな沃野が広がっている、そのことをこの小さな本は垣間見させてくれているのだと思います。

『心脳問題』(山本貴光・吉川浩満著、朝日出版社)

 私が哲学科の学生だった30年前には、「心身問題」という言葉はあっても、「心脳問題」なんていう言い方は無かったように思います。「心身問題」からは、いかにも伝統的な哲学のテーマが連想されますが(観念論や唯物論、または物心二元論といったような)、これが「心脳問題」になると、もはやそうした古き良き(?)哲学の香りはほとんど感じられません。それはこの言葉の字義からして唯物論を前提としているからです。つまり、人間の心は脳という物質の作用であることは間違いないのだけれども、その間を結ぶ原理であるとか法則であるとかが、ほとんど今のところ未知であるというのが「心脳問題」の核心なのです。事実、茂木教授にしてもラマチャンドラン博士にしても、科学者としての正当な態度として、物質を超えたものの存在などはなから認めてはいません。

 『心脳問題』と題されたこの本では、こうした現代の〈脳神話〉のよって立つ根拠を、もっと広い視点から捉え直そうとしています。まえがきの中で著者は、この本を「脳情報のリテラシー」を養うためのガイドブックと位置付けています。これはいい着眼点ですね。現代はまさに〈脳の時代〉と呼ばれるほど、脳に関するさまざまな情報が行き交っている時代だからです。その中には、あやしげな情報や危険な情報もたくさん混じっています(権威ある科学者でさえ、そういう情報の発信者になりうるのです)。で、ニンテンドーDSでちょっと脳でも鍛えてみるかと思う前に、まずはこういう本を読んで、脳情報のリテラシーを高めておくのが有用だというわけ。この本は、充分にその役目を果たすだけの内容を持った本だと思います。

 最近の〈脳関連本〉にしては、珍しいほど哲学の領域に比重をかけた本です。特に重く扱われているのが、自分も昔よく読んだ大森荘蔵氏だったりベルクソンだったりするところが、個人としては嬉しいところです。と言っても、決してこの本は哲学の復権などということを目指している訳ではなく、あまりに「唯脳論」(©養老孟司)に傾き過ぎた時代の風潮に、釘を差しているだけなのだと思います。本の中でも指摘されているように、この分野での研究は、人間を直接コントロールする技術の発展という、非常に危険な方向に進む可能性があります。脳科学の内部からは、これに対して抑制をかけることは出来ません。バイオエシックスなどの分野でも同じですが、どうしてもそこには広い意味での哲学が要請されるのです。心と脳を研究するに当たっても、一般性や同一性の観点でしか捉えられない科学の方法に対して、ベルクソンの〈持続〉の概念を対置した上で、著者はこう書きます。

 『すでに検討したように、持続なき科学的な記述か科学的な記述なき持続かといった二者択一が問題なのではありません。世界が権利上持続でしかありえないにもかかわらず、事実上同一性により記述され利用される次第を、政治的な観点を欠くことなく考え抜くこと。それがいまほど必要な時代はないのです。』

 この本のふたりの著者は、まだ三十代の若い方で、脳科学の専門家でもなければ哲学の研究者でもないそうです。たまたまインターネット上に「哲学の劇場」というサイトを主催していたところ、編集者の目にとまり、このような書物となって結実したんだそうです。もしかしたら、そういう背景があったからこそ、こういう目配りの利いたバランスのいいガイドブックが出来上がったのかも知れませんね。なんだか面白い時代になったものだと思います。

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2007年9月 2日 (日)

こんな財政再建策は要らない(と思う)

 インターネットで立花隆さんのエッセイを読んでいたら、「50年国債」というアイデアが紹介されていました(記事はここ)。償還期限が50年という超長期の国債のことです。30歳の時に買ったとしても、満期で受け取る時には80歳。そんなもの誰が買うんだろうと思ったら、これは資産家をターゲットにしたものなんだそうです。つまり、50年という長い償還期限の代償として、これを子や孫に相続する時の相続税を免除する、そうすれば資産家にとっては非常に魅力的な金融商品になるのではないかというのです。1998年以降、毎年大量に発行されるようになった国債の償還期限が、いよいよ来年からやって来ます。ここでもし新規国債の引き受け難が起こったら、巷でささやかれている財政破綻が現実のものとなるかも知れない。もうすでに国内の銀行や保険会社、近く民営化される郵政公社などは、国債をこれ以上買い増し出来ないほどたっぷりと持っています。日銀だって同じ。だとすれば、ここはどうしても国民の個人資産1500兆円を当てにするしかありません。個人向け国債をばんばん売り捌くには、なるほど相続税免除の長期国債というのはグッド・アイデアかも知れません。

 『まじめな話、これくらい過激なことをやらないと、日本の財政破綻は救えないと思う。』 立花さんはこんなふうに書いて、このアイデアが究極の財政再建策であるかのように推奨していますが、ここで疑問が湧きます。もともと日本の財政問題が深刻であるのは、その問題自体が先送りされて、いつか大爆発する時限爆弾のようなものになってしまっている、そのことにあると思います。先送りすればするほど、その爆発の規模は大きくなると予想されます。50年国債なんていうのは、それこそ究極の先送り策ですよね。確かに我々の世代が生きているあいだには爆発は避けられるかも知れない。が、それはほとんど将来の世代に対する犯罪行為に等しいものです。私は立花隆さんという著作家を、いろいろな点でとても面白くまた頼もしく思っているのですが、このアイデアに対してはとても納得が行きません。そしてさらに心配なのは、次の選挙のことしか頭にない政治家たちによって、この政策が本当に実施される可能性が高いのではないかということです。すでに日本には30年国債が存在しており、近く40年国債の導入も検討されていると聞きます。相続税免除の特約はまだ付けていないようですが、それが国会で議論され始めたら危険信号です。実はイギリスやフランスではすでに50年国債が売られている、そんな事実も正当化の理由にはなりません。

 経済に関してはずぶの素人である私が(いや、すべての分野において素人なんですが)、このブログでたびたび経済の話題を取り上げるのは、こうした素人目にも明らかにおかしいと思われる言説が、しばしば見受けられるからです。例えば社会格差を是正するために、昔のような重い累進課税を復活すべしというのも、そうしたおかしな言説のひとつです。今の税制では、年間所得が1800万円以上の場合、所得税と住民税の合計は一律50パーセントになっています。1970年代には最高税率が90パーセントを超えた時期もありましたから、現在の税制が高額所得者を優遇するものであるのは確かです。しかし、年収別の所得税額の分布を見てみれば(一昨年の統計がここにあります。119ページを参照)、年収2000万円以上の高額所得者の納税額はトータル約1兆4700億円程度であって、これを1.6倍(税率80パーセント)しても、国の税収は9千億円ほど増えるに過ぎないのです。これでは社会格差是正の原資としては全然足りませんよね。実は私も以前は、所得税の累進性をもっと高めるべしと考えていたし、そのことをブログにも書いた気がしますが、今ではこれは誤りだったと思っています。それは優秀な人材を海外に流出させ、国力を低下させることにしかならないと思うからです。ただ、世帯の所得格差が、貧しい世帯のいっそうの低所得化というかたちで広がっている現在、ワーキングプア層への減税と、超高額所得者層への多少の税率アップは、まあ妥当な政策ではないかとは思いますが。

 もうひとつ前言撤回のお詫びをひとつ。増え続ける政府の債務を解消するために、政府貨幣の発行ということを提言したことがありました。いわゆるセイニアーリッジ(シニョレッジ)政策というやつです(記事はこちら)。立花さんの言い方に倣えば、これくらい過激なことをやらないと、それこそ財政破綻は避けられないと思っていたのです。しかし、〈減価する貨幣〉を含む〈資産課税〉の考え方を知ったいま、もはや国家によるセイニアーリッジ権の発動は最善の策ではないと考えるようになりました。日本には1500兆円もの豊かな個人資産と、また借金に比べてあまり取り上げられる機会はありませんが、資産価値700兆円にも上る豊かな国有財産があります。冷静に考えれば、まだ窮余の秘策を繰り出すほど追い詰められている訳ではないんですね。仮に国民の資産への課税が、実行するのに難しい将来のテーマだったとしても、国の資産を有効に活かすことは、財政を立て直すための現実的な政策でありうる筈です。小さな政府を目指す自民党政権は、国有地の売却ばかりを考えているようですが、むしろこれは民間に貸し出すことで地代収入を持続的に得る方向で考えるべきでしょうね。これはシルビオ・ゲゼルの「自由土地」の考え方にもつながるものです。超長期の国債発行にせよ、重い累進課税の復活にせよ、セイニアーリッジ政策の発動にせよ、いずれも将来に向けた持続可能な財政政策とは言い難い訳です。

 ということで、今回は以前書いた文章への訂正も兼ねて、財政問題に関する現時点での私見を簡単にまとめておきました。まだこのブログを始めて2年足らずですが、以前の記事を読むと多少の違和感を感じることがあります。特に政治や経済の問題に関してはそうです。読者の方にとっても、同じテーマについて書いているのに、主張が一貫しないと感じる部分もあろうかと思います。これについては勉強中の身の上ゆえ、ご容赦いただけたらと思います。それにしても、最近の極端な経済状況のことを思うにつけ、ゲゼル思想の先見性というか、妥当性には驚かされるばかりです。誰か世論に大きな影響力を持つ人の中から、この思想に共鳴する人は現れないものでしょうか?

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