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2007年8月26日 (日)

日本円が電子マネーに代わる日

 『驚いたね、ICカードを使った電子マネーというものが登場して、まだ十数年しか経っていないのに、まさか日本の通貨がすべて電子マネーに置き換わってしまうなんて。今では街のどんなお店に行っても、紙幣やコインなんて受け取ってくれるところはありゃしない。銀行に持って行けば、昔の1万円札をカードにチャージしてくれるけど、その金額はまるまる1万円じゃないんだ。日本のお金が電子化されて、もう2年になるから、1万円札は9400円ほどにしかならない筈だ。つまり、日本のお金が電子マネーに代わった日から、日本円は毎日ほんの少しずつ目減りし始めたんだ、1年に3パーセントの割合でね。この3パーセントは、資産税とかいうやつで、国が新しく設立した税金なのだ。お金だけじゃない、銀行預金だって、株式や債券だって、みんな一律3パーセントの税金を取られる仕組になっている。もちろん最初は、ほとんどの国民が大反対をしたよ。でも、それと引き換えに消費税は廃止されたし、所得税や住民税もだいぶ軽減された。まあ、私のような大して貯金も無い貧乏人には、ありがたい税制改革だったと思うよ。いや、資産家だって今では納得している筈だ。何故って、2年前までは銀行預金はほとんど金利がゼロだったのが、最近では1年物の定期預金に預ければ、5パーセントほどの利息が付くんだもの。資産税を引かれても2パーセントの利回りなら、長く続いたゼロ金利時代に戻りたいと思う人もいない道理だ。

 実はこの制度のスタートは、3年前にまでさかのぼる。国から国民全員に、ひとり1枚ずつ電子マネー用のカードが配られたのが始まりだ。従来の銀行カードやクレジットカードとサイズは同じだけど、厚みは少し厚い高機能なICカードだ。最初の1年間は目減りするお金ではなかったし、従来の紙幣や硬貨もそのまま使えた。それまでにもあった民間の電子マネーと同じような使い勝手だった訳だ。それがちょうど1年目に、新税の導入に合わせて「減価するお金」に変わり、同時に従来の紙幣やコインも原則として使えなくなった。そんなに大きな混乱は無かったと思うよ。政府は何年もかけて、この政策のメリットをアピールしていたし、国の政策金利に合わせて銀行の預金金利も上がっていたしね。1年間の準備期間のあいだに、国内のほとんどの店舗では、この新しい電子マネーに対応したレジや読み取り機を設置していた(国からの補助が出るので自己負担は少ないらしい)。たまに個人商店などで、専用レジを入れていないところもあるけど、この電子マネーは、ICカード同士を接触させて、カード間でのお金のやり取りも出来るので、特に問題は起こらない。現金を持ち歩かなくても済む生活に慣れると、財布からお札を取り出したり、お釣りの小銭をまた財布に戻したりしていた昔の習慣には、二度と戻れない感じだ。なんであんな原始的で不便なものを、我々はこの二十一世紀になるまで使い続けていたんだろう、今ではきっと誰もがそう思っていると思うよ。ただ、お正月におじいちゃんが孫にお年玉を上げる時、昔のようにお年玉袋に入れて渡すのではなく、カードとカードをくっつけてお年玉を渡している風景を見ると、ちょっと情緒に欠けるようには思うけどね。

 さっきも言ったように、カードにチャージしたお金は、毎日少しずつ目減りして行くんだけど(1万円当たり、0.83円ほどが、深夜の3時かっきりに引かれるのだ。大した金額じゃないよね?)、その技術的な仕組に関しては、安全性の問題も絡んで、いろいろ議論があったらしい。結局、一番シンプルな方式が採用された。つまりカードの中に時計が内蔵されていて、チャージされた金額をカード自身が〈自律的に〉減価させて行くというものだ。別に銀行の口座と連動している訳ではなく、電子マネー自体がモノとして勝手に減耗して行く性質を持っているといったイメージだ。とすれば、きっとあなたはこう考えるよね、内臓の時計を止めてしまえば、お金の減価を止めることだって出来るんじゃないかって。電源はソーラー電池のようだから、カードを暗闇に数ヶ月も放置しておけば、時計も止まってお金の減価も止まるんじゃないか? 理屈はその通りなんだが、ことはそう簡単じゃない。お店でものを買ったり、ATMでチャージしたりする度に、日付や時刻やその他いろいろな情報を照合していて、不正な疑いのあるカードはすぐに取り引き停止になってしまうからだ。もちろん金額を不正に書き換えるなんてことも、ほぼ完璧に不可能らしい。しかもこの電子マネーは、すべてひとりひとりの国民のID番号に結び付いているから、不正が発覚した場合にも犯人の手掛かりを特定しやすいんだ。もちろん盗難されてしまえば、誰に使われるか分からないけど、カードには生体認証機能がついていて、本人以外の人間には取り引きはもちろん、残高確認さえ出来ないようになっている。総じてセキュリティ面での対策は万全という訳なんだ(まあ、当たり前だけど)。

 以前の紙幣に比べて不便な点があるとすれば、カードにチャージ出来る金額が最高30万円までと意外に少ないことだ。かつての現ナマなら、アタッシュケースに1億円入れて持ち運ぶことも出来たんだからね。30万円を超える買い物をする場合は、クレジットカードか銀行振込を使うことになる、これもここ2年ですっかり定着した習慣だ。このことで最も打撃を受けたのは、暴力団のような裏社会での取り引きらしい。そりゃそうだよね、麻薬売買の現場で、カードをくっつけて30万円をやり取りしても埒が開かないし、だからと言って銀行振込では足が付くしね。お金がすべて電子化されて、お金の流れがすべて透明になってしまったのだから、国内でのこうした非合法な取り引きも相当減ったと考えられる。カードには取り引きの履歴がすべて記録されていて、ATMに差し込めばそれが財務省のデータベースに吸い上げられることは誰でも知っている。この点についてプライバシーの問題を指摘する人もいるけど、私はプラスの効能の方が大きいと思うな。だってこの2年のあいだに、そうした裏社会の資金源が枯渇していることは、いろいろなニュースからも明らかなんだから。面白いのは、不明瞭な政治献金も減って、一部の政治家が経済的にとても苦しい立場に追い込まれているという噂があることだ。これもさもありなんことだよね。そんな政治家には、さっさとお辞めいただけばいいだけの話さ。

 減価する電子マネーの導入が決まって、政府が一番心配していたのは、資産税の対象にならないような資産に、国内のお金の多くが逃避するのではないかということだった。例えば土地は、従来の固定資産税のままだったから、税制上はだいぶ有利だと思われていた。確かにそれで全国の土地の値段が少しだけ上がった。金やプラチナのような貴金属も同じだ。こちらも政策上の議論はあったが、結局資産税の対象外として据え置かれた。で、こちらも(世界的に)わずかだが値を上げた。でも、結局のところ、影響は懸念されたものよりずっと小さかった。前にも説明したとおり、政策金利に合わせて、国内の金利が資産税を相殺するくらいの比率で上がったからね。なにしろ日本人は、長いあいだゼロ金利というものに慣らされて来たから、相殺後の金利がゼロなら、それは許容範囲だったって訳だ。この点、日本政府はほんとうにラッキーだったと思うよ。まさか日銀が、そこまでを将来の計画に入れて、何年もゼロ金利を続けて来た訳ではないだろうけど。ただひとつだけ、政府が厳しい政策を採ったところもある。それは外貨預金や外国証券への課税ということだ。日本国内からこうした海外の資産に投資する場合は、やはり3パーセントの資産税が課されるのだ。国内の銀行を使わずに、直接オフショアに資産を移すことが出来れば、資産税は回避することも可能だろう。だが、日本政府はそういう行為には断固たる態度で臨むことを宣言している。近くそのための法律も国会を通る予定だそうだ。一方海外の投資家が日本円を買っても、そちらには課税されないルールになっている。不公平なようだけど、そうしなければ外資を日本に呼び込むことは出来ないだろうからだ。

 国内で未曾有の好景気が続いている、そのせいばかりじゃなく、このところ社会全体がとても明るくなった気がする。昨年から国家予算は黒字に転換して、今年も国の税収は百兆円を超える見通しだ。やはり国家財政の莫大な赤字というものが、国民の気持ちを暗くしていた部分もあったんだろうね。今でも国の借金は1千兆円ほどあるけど、それが国の持っている700兆円の資産とバランスするまでには、あと十年くらいしかかからないという試算もあるらしい。これからの日本は、おそらく世界で初の〈高成長〉かつ〈高福祉〉の国になろうとしている。その実感が国民の気持ちを明るくしているのだ。そのからくりは実に簡単で、減価する電子マネーの導入によって、お金の流通速度がめざましく速くなった、それがすべての根底なんだ。今から百年近く前、オーストリアのヴェルグルという町で、初めて減価するスタンプ紙幣というものが導入された。利子というものの弊害を見抜いたシルビオ・ゲゼルという経済学者の理論に従ったものだったらしい。スタンプ紙幣は理論通りの効果を発揮し、ヨーロッパ中が不況にあえぐなか、ひとりヴェルグルだけは好景気に沸いたのだ。同じ奇跡がいま二十一世紀の日本でも起こっている。このことに世界中も注目し始めたところだ。このところ各国の政治家や経済学者、また一般の観光客が大挙して日本を訪れるようになった。彼らは新しいお金の使い心地を自分で確かめ(政府は旅行者用の特別なカードも発行しているのだ)、またこの国の最高に洗練されたもてなしを堪能して帰るのである。いくつかの国では、同じような電子マネーの導入を検討中だと言う。ヴェルグルの試みは時の政府につぶされてしまったけど、日本発のこの仕組は、もしかしたら世界を変えるほどの動きになるのかも知れない。さて、この話を聞いて、あなたは一体どう思うかな?』

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2007年8月19日 (日)

ゲゼル思想研究日誌(5)

 ひとつ不思議に思うことがあります。格差社会ということがこれだけ取り沙汰されていながら、マスコミが取り上げる〈格差〉の内容が、ほとんどの場合「収入格差」であって、「資産格差」が論じられることはあまり無いという事実です。年収が百万円しかない家庭でも、数億円の資産を持っているなら、ワーキングプアなどとは呼べませんし、ニートと呼ばれる若者だって、親が資産家なので、ぶらぶら遊んで暮らしているだけなら、別に社会問題化するような話ではないと思います。最近の格差問題に関する議論から、ぽっかり抜け落ちているのがこの観点です。おそらくこれは、誰も国民の資産格差というものの実態を、正確に把握していないという点に一番の理由があるような気がします。国民の総資産が1500兆円を超えているというのは、ある程度正確な情報なのでしょうが、その数字の根拠になっているのは、銀行預金や郵便貯金の残高、国債の発行額、企業の株価総額、土地の評価額などをもとに〈理論的に〉計算しているだけであって、決して各世帯の資産額を調べて合計した結果ではない筈です。年間の国民の総所得(GDP)が約500兆円程度なのに対して、その3倍にも当たる国民の総資産は、行政から見てほぼブラックボックスに等しいと言ってもいい。もしも真に格差社会の是正を目指すなら、この隠された資産格差に目をつぶることは出来ません。

 国が国民から税金を徴収する場合、そのほとんどはストックからではなく、フローからの徴収です。つまり、税金というものは、その大部分をお金の入り口(所得課税)と出口(消費課税)で取られる仕組になっています。もちろん固定資産税や相続税、贈与税のようなストックに対する税金もありますが、その割合は思いのほか小さくて、今年の財務省の予算では、資産課税は税収全体の14パーセントに過ぎません(出典はここ)。所得課税が占める割合は58パーセント、消費課税でも28パーセントですから、そのバランスの悪さは一目瞭然です。このことからも、資産を持つことの優位性は明らかですね。一旦預金として貯め込まれたお金は、所有者が代わらない限り、課税されることもなく将来に持ち越せる、いや、それどころか利子が付いて殖えさえします。だから誰でも貯金はしたいし、今日のような相対的に豊かな社会では、自然な傾向として国民の資産は膨らんで行く一方になる。その結果が1500兆円の個人資産と、国が抱える1千兆円を超す借金という訳です。このことを認識すれば、国が採用出来る財政再建策は実はひとつしかないように思えます。すなわち、1500兆円のストックに対して課税すること。国民の総資産に年率3パーセントの課税をするだけで、45兆円の税収が見込まれますから、一気にプライマリーバランスが黒字化します。個人だけでなく、企業の資産にも課税すれば、それだけで国家予算の全部をカバーすることも可能でしょう。そうなれば、所得税や消費税や法人税を廃止することさえ出来ます。拡大する一方の経済格差を是正するためには、所得税の累進性を高めてもほとんど効果はありません。〈資産課税〉こそが、退蔵される個人資産と増え続ける国の借金という負の連鎖を断ち切る、おそらく唯一の方法ではないかと思うのです。

 シルビオ・ゲゼルの「減価するお金」の思想に魅せられて、いろいろ考えを巡らすうちにたどり着いたのが、以上のような結論です。もちろん資産課税とひと言で言っても、簡単に実行出来ることではありません。銀行預金や国債などの債券、また今後電子化される株券のようなものには比較的容易に課税出来るでしょうが、登記の必要が無い貴金属や美術品のような資産、そして何よりも現金(貨幣)に対しての課税は技術的に難しい話になります。貨幣に対する課税方法には、ゲゼルのスタンプ紙幣というアイデアがありますが、貨幣ですら銀行ATMへの入力媒体として半ば電子化されている現代において、スタンプ紙幣などというものはとても現実的ではありません。いっそのこと、次回の貨幣デザイン変更の際には、日本では紙幣や硬貨をすべて廃止して、電子マネーに統一するかです。(非現実的なアイデアだと思われるでしょうが、このままでは避けられない財政破綻のことを思えば、これは現実的に検討すべき課題であると私には思われます。) また最近人気の外貨預金や外国株式のようなものに対する課税をどうするかというのも難しい問題です。国内の銀行や証券会社が売り出す商品なら課税の対象に出来ますが、直接海外のプライベートバンクに送金されてしまえば、それはもう押さえようがありません(現在でも資産家の多くは、こういった方法で利息や配当に対する課税を逃れていると聞きます)。いずれにしても脱税や節税を完全に封じ込めることが不可能なのは、いつの時代でも同じです。が、例えば将来、国民年金が保険料方式から税方式に変わった時、それまでに納めた資産税の金額を年金額に反映することなどで、納税の意欲を高めることなら出来るかも知れません。

 資産課税が当たり前の制度になると、現在私たちが暮らしているような〈非ゲゼル社会〉での常識が大きく変わることは間違いないと思います。日本人がこれほどまでに貯蓄好きである理由は、ひとつには勤勉で真面目な国民性によるところもあるのかも知れませんが、もっと本質的な理由は、私たち国民が現在の国の財政状態や年金制度の将来に関して強い不安を持っていて、自分の老後は自分で守るしかないという悲愴な覚悟を決めているという点にあります。その思い込みがあるからこそ、余裕のない生活の中でも出費を抑えて、みんな貯蓄に励んでいる訳です。そうやって作ったなけなしの資産に対して、さらに課税をするなんて非情なことだと思いますか? しかし、そのことによって国の財政が将来に亘って安定したものになり、社会福祉や年金制度も国民の期待に応えるものに生まれ変わるとしたら? その安心感があれば、平均して年収の3倍もの金額を個人資産として積み上げる必要も無くなるのではありませんか? 日本に北欧諸国にも負けないような充実した社会福祉制度が確立し、しかも預金や現金(電子マネー)が銀行利息を上回る速度で減価して行ってしまうとすれば、お金は貯めるよりも使うものだという気分が国民のあいだに芽生えるでしょう。いかに節税し、有利な金融商品に投資するかを毎日考えているよりも、稼いだお金を何に使おうかと日々悩んでいる方が、楽しい充実した人生と言えそうじゃないですか。これによってお金の流通速度が一気に上がり、国内が驚くほどの好景気に沸くことになる。しかもそれは決して一時のバブル景気ではなく、この国の実力に合った自然な好景気なのです。これが私の想像する、理想的な〈ゲゼル社会〉の風景です。

 太古の昔から、お金には預ければ利子が付くという不思議な性質があって、そのことによって人間の持つあらゆる財の中でも、お金には特権的な地位が与えられて来ました。本来、お金というものは交易の道具であって、人々のあいだを流通することがその役目であった筈です。ところが、利子というものが存在するために、お金は蓄財の道具となってしまい、世の中を駆け巡ることをやめてしまいました。これは経済の停滞を意味します。現代の日本がまさにその状態に陥ってしまっている訳ですね。お金を社会の血液に例えるならば、1500兆円にも膨れ上がった個人資産は、言ってみれば日本経済における循環器系の病気、その鬱血した患部です。この症状に対してシルビオ・ゲゼルの出した処方箋は、お金にマイナスの利子を付けてやることでした。〈マイナスの利子〉とは、言い換えれば〈資産課税〉のことに他なりません。これを財政政策として実施しようとすれば、資産を持つ層からの反撥は必至でしょう。が、このまま日本が財政破綻にまで至れば、すさまじいインフレによって資産価値が急激に下落することが予想出来る訳で、それに比較すれば年率3パーセント程度の資産課税は、充分受け入れられるものだとも考えられます。いや、むしろ国民としては、それを積極的に政府に提言して行くくらいの気持ちを持ってもいいとさえ思う。なにしろこんな贅沢な政策を選択出来るのも、この国ならではのことだからです。国家も赤字、国民も借金漬けというアメリカのような国では、こういう政策自体が意味を成さない訳ですから。まったくシルビオ・ゲゼルの自由経済思想というのは、現代日本のためにあつらえたような思想だと思います。

 最初、マイナス利子の考え方を知った時は、理想的ではあっても現実味の無いアイデアだと感じました。例えば利息がマイナスだとすれば、誰も銀行になどお金を預けなくなるだろうし、そうなれば銀行はすべて倒産してしまうだろうと想像したのです。でも、違うんですね。マイナスの利子というのは、あくまで国が国内の現金や預金、有価証券などに一定の課税をするということに過ぎない訳です。だからその税率が年に3パーセントだとすれば、年利5パーセントの定期預金に預けておくことで、差し引き2パーセントの利回りを受け取れるかも知れない。そう考えれば、銀行というものの存在は、いま以上に重要なものとなるかも知れません。『自然的経済秩序』というゲゼルさんの主著には、自由貨幣(マイナス利子のお金)が導入されることで、いろいろな職業の人たちがどういう影響をこうむるかについて、その本人たちの証言という形で未来予測が提示されています。もちろんそれぞれの立場で生活の変化はありますが、最終的にはみんなが自由貨幣を受け入れるというシナリオになっています。ゲゼルさんが生きていた時代と現代とでは、職業の種類も経済の環境も違うので、資産課税が社会にどのような影響を及ぼすものか、経済学者ではない私には想像もつきません。ただ、基本的な考え方がヒューマニスティックで理にかなったものである以上、誰かを犠牲にして成り立つような、冷酷な改革ではないという確信だけは持っています。

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2007年8月12日 (日)

「輪廻転生」について考える

 天木直人さんの落選が決まって、私にとっての政治の季節も終わりを告げました。このへんで気持ちを切り替えて、本来のテーマに戻したいと思います。思えばここしばらく、このブログのテーマである哲学的な問題からは離れてしまっていました。ただ、連日35度を超える猛暑が続くなか、「自分とは何か?」とか、「生命と非生命の境界は?」とかいった問題を考える元気も出て来ません。とりあえず今週は、以前に書きためておいた原稿から、「生まれ変わり」というものについて考察したエッセイを掲載します(本文はこちらです)。ファイルの日付を見ると、2005年5月になっています。まだこのブログを始める前に、発表の当てもなく書きためていた原稿のひとつです。読み返してみると、我ながら結構面白い。本当はこういった文章を書きたくて、私はこのブログを始めたのでした。

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2007年8月 5日 (日)

拝啓、安倍総理大臣殿

 大きな歴史的使命を背負った貴方にとって、今回の選挙の結果は返すがえすも残念なものでした。国家としての高邁な理想が、取るに足りない大臣の失言や、本来政策とは分けて考えるべき年金スキャンダルによって、泥を塗られ、踏みにじられる光景は、私たち国民にとっても見るにしのびないものでした。こういう結果になってみて初めて気付くのですが、安倍総理、貴方は戦後の歴代首相の中でも少し変わった特殊なタイプの首相であるように思えます。この国の行く末について、単に政治的な観点を超えて、日本人の精神的な問題にまで踏み込んで憂慮の念を持っているという点において特殊なのです。貴方の性急過ぎた改革の裏には、この国の道徳的な再生や独立した矜りある国民意識の醸成といった確固たる目標がある。確かに戦後の日本は経済的には大復興を遂げました。が、その陰で失われてしまった大事なものがあったのです。これを回復することを政策の第一目標に掲げたリーダーは、もしかしたら貴方が最初ではなかっただろうか。思えば戦後六十余年を経て、ようやく日本にもそういう首相が誕生したのだとも考えられます。

 貴方が現実的な問題として提起した憲法改正について、国民レベルでもようやく積極的な議論が戦わされる土台が整って来ました。その結果、国民のあいだでひとつの合意が形成されつつあると私たちは考えています。それは、日本もいつかは国民の手による自主憲法を持つことが必要である、しかしそれは日本が真の意味で独立した国家になった後のことだという考え方です。つまり、①日米安保条約という片務的な条約を見直して国内の米軍基地を撤廃し、②国民が納得する日本独自のバランスのいい防衛体制を構築し、③第二次大戦で日本が侵略した国々と本当の意味での和解を成し遂げた後で、憲法の改正に着手すべきだということです。それまでは憲法九条をむしろ戦略的に活用しなくてはならないと私たち国民は考えるのです。この点が、総理にぜひ再考していただきたい点なのです。現行憲法のもとでも集団的自衛権が行使出来る筈だという貴方のお考えは、美しい日本の実現とどのような論理的な整合性を持っているのか? ここに私たちは大きな矛盾を感じるのです。安倍政権は〈美しい国〉を標榜しながら、対米従属政策を一層推し進めようとしているだけではないか、多くの国民はそう感じ始めています。今回の選挙で、自民党がノーを突き付けられたのは、単に年金問題のためだけではないのです。

 これからの時代、本当に日本を変えられるリーダーが登場するとすれば、その人は中国や韓国やアジアの国々との、歴史的な和解を主導出来る人でなければならないと思います。小泉前首相は、この点で歴史を十年以上も逆行させてしまった。この罪は重いと見なければなりません。最近ある人のエッセイを読んでいたら、こんな歴史的なエピソードが紹介されていました。ドイツでは1970年に、時のブラント首相がポーランドを訪問して、初めてドイツ軍の侵略の犠牲者に対して、ひざまずいて謝罪をしたのだそうです。その時のブラントさんの言葉が素晴らしい。『こうすべきであったのに、こうしなかったすべての人たちに代ってひざまずく』、こういう言葉です。政治家の力量は、やはり発する言葉の重みで量られるものですね。この言葉によって、戦後のドイツは過度の自己卑下に陥ることなく、また戦後25年という空白の期間をも埋めて、歴史的な和解に向けて一歩を踏み出したのだと思います。この名文句が無ければ、侵略国と被侵略国、双方のあいだの心理的対立に架け橋はかからなかったかも知れない。残念なことに、こうした言葉を発せられるリーダーが、戦後の日本にはいなかったのです。ただ、私は思うのですが、もしもこの言葉を小泉さんが口にしたとしても、それは上っつらな反感を買うものにしかならなかったでしょうが、安倍さんの口から出れば、それなりにサマになったのではないかという気がするのです。

 小泉さんという人は、心の奥底に根本的な人間不信を抱えた、冷酷な指導者だったという気がします。それに比べれば、貴方はむしろ政治家として愚直過ぎるくらい正直で、空想的なまでの理想主義者と映ります。私たちは、今日の日本の窮状を打開するためには、冷酷な現実家よりも誠実な理想家の登場を待つ必要があると考えています。ですから、貴方が続投を決意すると聞けば、もう一度だけ貴方に期待してみようかという気にもなるのです。もちろん逆風は強いでしょう。その中で貴方が国民の期待に応えるためには、これまでの方向性を大きく転換して、我々をあっと驚かすくらいのことをやってみせなくてはいけない。これまでの矛盾に満ちた対米従属路線を捨て、クリントン氏かオバマ氏かは分かりませんが、アメリカの次期リーダーとは丁々発止のタフな外交戦を繰り広げ、一方アジアの国々に対しては、ブラント首相も色褪せて見えるほどの効果的な演出と魅力的な言葉で、歴史的な和解への道を切り拓いて見せる。それが出来る資質という点からすれば、小沢さんよりも安倍さん、やはり貴方だと私は思う。もしもそれが実現すれば、憲法や教育基本法を改正すること以上に、この国は道徳的にも復活するのです。

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