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2007年7月15日 (日)

介護ビジネスと市場原理

 以前このブログで、居酒屋『和民』グループの総帥、渡邊美樹社長のことを取り上げたことがありました(記事はこちら)。渡邊さんは、私の注目する企業家のひとりですが、今や時の人といった観がありますね。中核となる外食事業を順調に拡大し、老人ホーム事業や学校経営でも頭角を現している、と思ったら、今回は例のコムスンの事業停止問題に絡んで、買収に名乗りを上げて世間の注目を集めています。その渡邊さんが、「日経ビジネスオンライン」に、自らの経営哲学を綴ったエッセイを連載されています(第1回の記事はこちら)。これを読んで、非常に感じるところがあったので、今回はこれを取り上げてみようと思います。まず第一印象として、渡邊さんの文章はとても平易な上に修辞が巧みで、読む人の心を捉える文章だということです。私も文章にはこだわる方なので、その点には感心してしまいました(執筆はご本人の手によるものだと私は信じています)。しかし、今回私が取り上げたいのは、渡邊さんの文章のうまさについてではありません、企業家渡邊美樹が主張するように、介護は本当にビジネスたりうるのかという点についての疑問です。

 渡邊さんの文章を引用しようとすると、全文を掲載したくなってしまうので、すでに読まれていることを前提に論を進めます。冒頭で渡邊さんは、まずこう言い切ります、小泉行革の時のスローガンは、「民間にできることは民間で」だったが、私ならさらにこう言う、「民間にできないことなど何もない」と。これが経験を積んだ企業家としての、渡邊氏のゆるぎない信念です。この信念の裏付けがどこから来ているかと言うと、本来は営利追求のビジネスに馴染みそうのない赤字の老人ホームや私立学校を買収して、外食産業で培った経営手法で立て直したところ、自分でもあっけないほど簡単に黒字化出来た、その経験から来ているようです。ここで「経営」と呼ぶのは、まずはお客様にとっての最大の幸せとは何かをはっきり定義すること、そして経営者と従業員がその「お客様の幸せ」という共通の目標に向けて仕事を改善して行くこと、このふたつだと言います。(私学の生徒をお客様と呼ぶのも変ですが、これは現場教師の立場ではなく、経営者の立場としての心構えですから、私は正しいと思います。) まさに経営学の基本であり、王道と言っていい。この王道を突き進んで、渡邊社長はこれまでどんな事業でも挫折することなく、成功を収めて来たのです。

 この成功体験の上に、今回のコムスン事業の一括引き受けという事業戦略がある訳ですが、ここに私は大きな落とし穴があると思うのです。当初、渡邊氏はコムスンの事業のうち、老人ホーム事業だけを引き受ける考えでした。この領域ならすでにノウハウもあり、収益の目途も立っているからです。ところが、コムスン側が事業全体の一括譲渡を希望しているという事実が明らかになり、これに応じるかたちで彼は、これまで経験の無かった訪問介護事業も含めての一括引き受けを決断することになったのです。ライバルの買収希望企業に負ける訳には行かないという理由からです。コムスンの事業の中でも、訪問介護は単独の事業としては赤字だったのだそうです。その分を老人ホーム事業などで補填していた訳ですね。ここで最初の渡邊社長の言葉に戻ります。「民間に出来ないことなど何も無い」、もしもこれが本当ならば、訪問介護だってビジネスに出来なければ嘘になります(顧客の切実なニーズはあるのですから)。でも、それは構造的に不可能なんですよね。考えてみれば当たり前のことですが、ライバル企業同士が競い合って良い製品やサービスを生み出すという市場原理の法則も、お金の集まる市場でしか成り立ちません。いくら有能な経営者でも、お金の無いところでは事業は営めない。訪問介護というのは、四十歳以上の国民が毎月払う介護保険料を原資に、国が事業者に決められた介護報酬を支払うかたちで成り立っている業界です。良いサービスを提供すれば、高い値段を付けても顧客が集まるという市場原理の成り立たない世界です。それどころか、国はこの制度が始まって以来、介護報酬の金額を下げたり、介護認定の基準を厳しくしたりして、公的な支出を抑える方向で動いている。こんな場所では、折口氏だろうが渡邊氏だろうが、まともなビジネスなど出来る訳がありません。これは重大な問題です。コムスンのあくどい商法よりも、一旦かけたハシゴをはずすような国のやり方に、国民は怒りを表さなければいけない。

 構造改革派の人たちが共通して口にする言葉があります、規制緩和や民営化を推し進めて、健全な市場原理を発展させることが重要だ、但し競争から落ちこぼれる人たちへのセーフティネットを整備しておくことも怠ってはならない、こういう言葉です。渡邊美樹さんも同じことを言っていますね、そしてこのセーフティネットの部分だけは、民ではなく官の役割なのだと明言しています。どこからも文句の出ない正論だと思いますが、ここで問題なのは、社会格差がここまで進んでしまった現在の日本で、必要とされるセーフティネットの経済的規模というのが、どのくらいのものなのかということです。昨年、国内の生活保護世帯が百万世帯を突破したというニュースがありました。生活保護水準以下で生活している世帯はさらにその4倍くらいあるそうで、これは日本の総世帯数の約1割に当たります。今後、高齢化や少子化、働く人の非正規雇用へのシフトがさらに進めば、1割が2割になり、2割が3割になるのも時間の問題だという気がします(専門家の方の反論を期待するところです)。そうなれば、このセーフティネットというのは、一部の例外的な人たちのためだけのものではなくなってしまう。とても〈小さな政府〉などでは支え切れない規模のものになってしまうのです(いや、もうすでに支えられなくなっていますが)。いずれこの国全体が、このセーフティネットを維持するためだけに経済活動を続けて行かなくてはならない時代が来る、そういったイメージの方が未来の現実に近いかも知れないのです。この点を、構造改革派の人たちは、うっかりかあるいは故意にか分かりませんが、見過ごしているように思えます。

 『和民』で成功をつかんだ渡邊さんの事業家としてのポジショニングは、中流のちょっと下くらいの層の顧客に(実は私もそこに所属しているのですが。笑)、手頃な価格でワンランク上の味やサービスを提供するという点にあったと思います。ホームページを覗いてみると、ワタミの経営する老人ホームは、有料老人ホームとしては高級過ぎず低級過ぎず、まさに現役時代に『和民』に通っていたくらいの中間層のお年寄りをターゲットにしているように見えます。入居時の一時金がだいたい500万円から1千万円くらい、月々の費用が18万円くらい(国民年金だけでは入れませんね)。この金額を支払っていただければ、ワタミは(たぶん)どこにも負けないコストパフォーマンスのいいサービスを提供出来ますというわけ。で、私はそれで充分じゃないかと思うのです。今回の渡邊さんのエッセイを読んで、とても共感すると同時に危うさを感じるのは、この人には営利企業を代表する経営者の心と、高邁な社会改良家の心が同居していて、それを同じひとつの方法論で貫こうとしているのではないかという点です。これは現代に特徴的なことだと思うのですが、私たちは政治家や官僚の世界がひどく腐敗しているという事実に対して、あんまり腹に据えかねているので、これを一掃するために市場原理というものに過度に期待している部分がある。この国民感情にうまく乗ったのが小泉行革だった訳です。渡邊さんのメンタリティーもこの線上にあるようです。しかし、〈官〉が堕落しているかどうかには関係無く、公的な補助(つまり国民の税金)を収益の一部として成り立っている業界では、市場原理は成り立たないし、成り立たせてはいけない。渡邊さんは『和民』の経営手法で、訪問介護サービスに進出してはいけないと考えるのです。現行制度のもとでは、訪問介護は渡邊さん言うところのセーフティネットの領域だからです。

 私はワタミという会社に期待するが故に、渡邊社長にはあまり無茶な業容拡大に走って欲しくない気がします。日本の社会が富裕層と貧困層に二極化されて行くなかで、その中間層をターゲットに質の高いサービスを提供する企業は貴重だと思うからです。もしもこの国に将来があるならば、いずれはあまりにひどい格差は是正されて、人々はまた中間層に戻って来ると私は予想しています(一億総中流というのは、普遍性と独自性を兼ね備えたこの国の「美しい形」です)。渡邊さんはそこにでんと腰を据えて待っていればいい。一方、現下の問題は、このままでは引き受け手がいなくなってしまうかも知れない、赤字体質の訪問介護事業をどうするかという問題ですが、これに関しては、いち民間企業の企業努力でどうなるものでもなく、政策ベースでのもっと抜本的な改革が必要になると思います。このことについては次回また改めて考えてみることにします。

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