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2007年7月22日 (日)

介護保険制度の根本的なおかしさ

 前回、介護ビジネスについて記事を書いたのをきっかけに、介護保険に関する本を何冊か図書館で借りて来て、遅まきながらながらこの制度についての勉強を始めました。制度がスタートした2000年以降、毎月の給料から介護保険料が引かれているにもかかわらず、とりあえずいまの自分には関係の無い制度だと思って、調べることさえせずに来たのです。調べてみると、なんだかずいぶん複雑な仕組みなんですね。もともとこの制度は、最初から試行錯誤をしながら練り上げて行くことを前提に、3年ごとの制度見直しということを計画に組み込んでスタートしたものだったそうです。実際に2003年、2006年に大きな見直しが行なわれ、その都度介護保険料が引き上げられると同時に、介護の現場にも大きな混乱を引き起こして来たというのが現実のようです。その挙句にコムスン事件のような問題が起こるのですから、決して制度として軌道に乗ったとは言えないでしょう。そもそも高齢者や社会的立場の弱い人たちの福祉に関わる分野で、こういった〈走りながら考える〉といったやり方が、本当に適切なのでしょうか? 今回はこの介護保険制度の問題点とその改革案について、自分なりに考察してみることにします。例によって、素人の思いつきに過ぎませんので、勘違いもあるかも知れません。お気づきの点がありましたら、ご指摘いただけると助かります。

 この制度の基本的な思想は、ここ数年来政府が取り組んで来た多くの政策と同様、福祉サービスを民間に開放するということだと思います。解説書によれば、行政の〈措置〉による介護から、利用者の〈選択〉による介護への転換なんだそうです。うまいこと言いますよね。従来は市場原理の働かない公的なサービスしか無かった世界に、民間業者によるサービスを導入して、利用者には自分に合った業者やメニューを選択出来るようにする。そうすれば業者間に競争原理が働いて、サービスの質の向上と効率化が図られるという訳です。前回も述べましたが、この理屈には明らかな嘘があると思います。それは介護保険では、利用者が負担する金額は利用料の1割に過ぎず、残りの9割は国や自治体の負担であるという点です(そのうち半分が介護保険料から、残り半分が税金で賄われます)。簡単に言えば、介護業者にとってお客様は利用者ではなく、国や自治体なんですね。こういう枠組の中ではおそらく、一部の介護業者は利用者を「金づる」としか見なくなる(言葉は悪いですが)。だからコムスンがやったように、ケアマネージャーという名の営業担当者に厳しいノルマを課して、とにかくあたま数を集めようとする訳です。しかも要介護度の高い利用者であるほど、多額の介護報酬を請求出来ますから、必要以上に重い認定をして、必要以上のサービスを提供しようとする誘因もはたらく。いわゆる〈介護漬け〉の状態にされてしまうのです。制度が見直されて、介護報酬が抑制されれば、架空請求のような不正行為も横行することになるでしょう。こう考えると、コムスン事件は起こるべくして起こったのだとも言えるし、業界全体として見れば、今回の事件は氷山の一角ではないかという疑惑も湧くのです。

 利用者側から見た時の、この制度のおかしな点も容易に指摘出来ます。そもそも市場原理を導入すると言いながら、サービスの分類ごとに決まった点数を付け、一律の料金体系を押し付けているところがヘンです(おそらく医療制度をモデルにしているのでしょうが)。例えば自宅での入浴介助は、保険点数では1250円が自己負担となっています。つまり1回のサービスにつき12500円が訪問介護業者に支払われる訳です。どこの業者がどのようなやり方をしても同じです。これでは、より快適な入浴サービスを提供するために、最新の機材を導入したり、介助者の人数を増やすなんてインセンティブも働きませんよね。利用者負担が一律であることは、貧しい人にとって過酷である一方、裕福な人にとっても選択の幅が少ないという不満をもたらす結果になるでしょう。こういうのを「悪平等」って言うんじゃなかったでしたっけ? 介護保険制度が根本的におかしいと思うのは、業者の参入という点では競争原理を取り入れておきながら、サービスの提供という点では、まるで社会主義国家のように官製の画一的な規格と値段を押し付けている点にあります。何故そんなことが出来るかと言えば、9割のお金を官が握っているからです。健全な市場原理というものが成り立つ条件は、企業側が公的な補助金を当てにせず、顧客側も〈身銭〉を切るということに尽きると思います。お金の流れの9割が官のコントロール下にあって、どこが民営化などと言えるのでしょう。

 そこで私の介護保険制度改革案は、以下のようなものになります。まずは自宅で介護を受けたい人のための訪問介護を、すべて保険の対象からはずします。つまり公的な補助を止めて、本当の意味での市場原理に委ねるのです。そうなれば、民間業者は競って新しいサービスを開発し始めるでしょう。他社よりも安く数千円で入浴介助を提供する業者も現れれば、富裕層のために数万円のゴージャスな(?)入浴サービスを始める業者だって現れる。一方、訪問介護を保険の対象外にすることによって浮いた予算で、国は効率の良い高齢者向けの介護施設をたくさん作ります。特別養護老人ホームのような入居型の施設や、通所(デイサービス)または短期入所(ショートステイ)型の施設など、利用者のニーズに応じて様々な介護施設を作るのです。当然、施設を建てるための初期投資は必要ですが、これはいわば高齢化社会に向けた国としてのインフラ作りのための投資なので、当初の赤字は大目に見ましょう。そこの運用は、公的機関が直接行なうか、従来のような認可を受けた社会福祉法人が代行することになります。これは民間ではなく公的に運営される施設ですから、貧しい人でも少ない負担で利用出来るものになります。利用者の負担額は一律ではなく、ある程度の応能負担を原則とすべきでしょう。もちろん平均より高い利用料を払っているからと言って、その分高級なサービスが受けられる訳ではありません。これらの施設は、社会のセーフティネットの一部分だからです。

 「ちょっと待って。それって要するに貧乏人は自宅での介護を諦めて、国が運営する安い施設に行けっていうこと?」、そういう質問が当然出て来ますよね。それに対しては、「そのとおりです」と答えるしかありません。だって考えてもみてください、施設内に専用の入浴設備が備わった、スタッフも揃っている介護施設での入浴介助と、バスタブや昇降リフトを備えた特殊な自動車がわざわざこちらまで出張して来てくれる居宅での入浴介助とでは、経済的な効率性においてどれだけ差があると思いますか? あるいは調理スタッフが大きな厨房で入居者全員の食事をまとめて作るのと、派遣されて来たホームヘルパーがひとりの高齢者のために自宅の台所で調理をするのと、どちらが公費の使い道として無駄がないと思いますか? 介護保険の基本的な考え方は、お年寄りはなるべく施設に入れず、予防やリハビリを奨励しながら、必要最低限の介護を受けさせるというものだと思います。これは年をとって身体が多少不自由になっても、自宅で暮らしたいという国民の希望に合致するものですから、制度としては支持する人も多いのでしょう。だが、そこには経済観念が抜け落ちていると思います。要介護の状態になってからも自宅で暮らすということは、家族の負担も含めて非常に贅沢なことなのだという認識を私たちは持つ必要がある。贅沢だからいけないというのではありません、その贅沢が許される経済的な基盤を持っている人なら、民間のサービスを使って思う存分リッチな介護ライフを送ればいい訳ですし、そういう老後を夢見て若い頃から貯蓄に励んでおくことも大いに結構。ただ、そこに我々の血税を注ぎ込んで欲しくないというだけの話です。

 この制度が始まった2000年には、介護保険の総費用は3.6兆円だったものが、年々拡大して昨年は2倍の7.1兆円になったそうです。特に増えたのは在宅介護を受ける人の数で、当初の97万人が昨年は255万人と、6年間で2.5倍以上になっている。これは今後もさらに増え続ける見通しで、それに対応して私たちの介護保険料もどんどん上がって行くらしい。要するに、最初からサステイナブルな制度ではなかったんですね。マクロ的に見て、在宅介護よりも施設介護の方が経済的効率がいい筈だという私の仮説が正しいならば、いまの介護保険制度はやはり根本的に見直すべきでしょう。必要なのは、介護予算を今のまま「要介護度」という尺度だけで一律にばら撒くのではなく、本当にそれを必要とする貧しい層の人たちに、つまり社会のセーフティネットの部分に集中的に投下することだと思います。そしてそのために最も効率のよいお金の使い方を考えることです。このことは「高齢者介護とはこうあるべきだ」といった倫理観や価値観の問題ではなく、待ったなしの財政問題なのです。

 私はこれからの少子高齢化社会というものを、決して悲観的にばかり捉える必要はないと思います。いまの社会で、お金を持っているのは大企業と一部の高齢者です。大企業は海外または国内の安い労働力を使うことに味をしめてしまっているので、これからの若い人に充分な労働賃金を支払う準備はありません。一方、世界一の預金を持っている日本の高齢者は、今後様々な市場ニーズを生み出して行く可能性があります。しかもこのシルバー産業は、サービス業を中心とした労働集約型の産業であることがその特徴です(介護などはその典型です)。ここに新たな労働市場が生まれるのではないですか。もしも日本の高齢者が、総じて貧しい人々の集団であるならば、若者にとっても未来は悲惨なものでしかないでしょう。が、日本の場合、そうではないのです。個人資産1500兆円の多くは、高齢者が持っています。いずれにしても、世の中は高齢者から順に死んで行く訳ですから、この1500兆円はこれからの若者のものです。

 いまの日本の政治は、目の前の財政赤字にばかり気を取られて、高齢化社会に向けたグランドデザインを描けていないのだと思います。本来なら、日本人の豊かな個人資産は、急激な少子高齢化という社会構造変化に対応するための原資となるべきものでしょう。ところが、いまは政治がそれを阻害してしまっている。介護保険のような、民営化を促進しようとしているのか抑制しようとしているのか分からない、中途半端な制度は大きく見直すべきです。そして民間に任せる部分と、国が責任を持つセーフティネットの部分を、きちんと分けて行くことです。それが出来ない今の制度では、家庭ばかりでなく、国全体が〈介護疲れ〉になって、疲弊して行くだけだと思います。

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