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2007年7月30日 (月)

選挙結果への感想

 予想されていたこととは言え、ここまで極端な結果になるとは思いませんでした。テレビや新聞の論調も、自民党の予想以上の大敗に、なかば戸惑いを隠せないといった様子です。ちょうど2年前の衆院選で、自民党が歴史的な大勝をした、今回はその反動という意味もあったのだと思います。安倍首相も貧乏くじを引いたものです。でも、今となっては、これも安倍さんの政治センスの無さのしからしむるところだったのかも知れませんね。まれに見る大衆的人気を誇った小泉さんの後継者というポジションには、最初から大きなハンディキャップがあることは分かっていたのですから。一度国民に愛想をつかされてしまえば、なかなか二度目のチャンスは無いと思います。一国の総理大臣を目指すほどの人なら、一度しかない登場のタイミングを測ることは、最高度に慎重な政治的判断を要することだった筈です。今回の結果をもたらした上、さらに辞任をも拒否している安倍総理は、ほぼ自らの政治生命を絶ってしまったという気がする。勝算ありと見て、退路を絶ってみせた小沢さんとは、政治家としての格が違ったと言われても、反論は出来ないでしょう。

 ブログの記事に、選挙ネタをさんざん使わせてもらった身の上として、選挙結果について感想を書きつけておく義務を感じます。今回の選挙でまず印象に残ったのは、多くの選挙区で自民党と民主党を中心に、有力候補が非常な接戦を演じたということです。これは偶然ではないと思います。昨日の記事で、今回の選挙では自分の応援したい候補に単純に投票するのではなく、自らの1票を最大限有効に活かす方法を考えると書きました。たぶん多くの有権者が同じように考えて投票したのではないかと思います。例えば応援している政党の2人いる候補のうち、あえて劣勢と言われている候補に投票するといったパターンです。マスコミの報道に対して、有権者のあいだで敏感なフィードバック機能が働いたと考えなければ、各地でこんなに僅差の接戦が起こったことの説明は出来ないと思います。これは日本の選挙が、株価の変動に似た合理的なダイナミズムを持ち始めたということで、欧米並みの二大政党制に近付いたと考えてもいいのかも知れません。自民党と民主党では、政策面で大した違いが無いようにも思えますが、少なくとも政権交代の可能性をいつでも与党に突き付けておくことで、政と官の腐敗を防止する効果はあると有権者は考えたのです。

 比例区の方は、応援していた9条ネットの天木直人さんが、思ったほどの票を集められず、残念な結果に終わりました。10万票くらいは行くのではと思っていたのですが、3万票弱しか獲得出来ませんでした。年金選挙の陰に隠れて、護憲を掲げていた天木さんは、完全に埋没してしまった感じです。天木議員の誕生を期待する自分としては、次回はぜひ民主党の公認を受けて立候補してもらいたい気がします。いまの選挙制度と、それに対応した有権者の投票パターンからすると、二大政党以外からの立候補では、ほとんど当選の可能性は無いからです。これからはおそらく、様々な政治的立場を採る人が、大政党の中でも比較的自由に発言し、行動出来る時代になるのではないでしょうか、多少の期待もこめてそう予想します。おそらく今回の選挙の結果により、改憲問題はかなり先の長い議論になったと思います。護憲派は長期的展望に立って、作戦を練り直す時です。

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2007年7月29日 (日)

選挙のルールが変わったのだ!

 今週は新聞の一面トップに、連日のように選挙の結果を予想する記事が踊りました。新聞社が独自に行なう有権者へのアンケートで、与野党の獲得議席数を占っているのです。公表される数字に恣意性や不当な細工があるとは思いませんが、新聞社が単に中立な立場で予測報道をしていると考えるのは、有権者としてちょっとナイーブ過ぎますよね。投票日直前に大新聞が発表する選挙結果への予測記事は、それ自体が有権者の投票行動に影響を与えずにはおかないからです。もちろん各新聞社は、そのことを計算の上でアンケートを実施し、記事にしているものと考えられます。特定の政党をひそかに持ち上げ、特定の政党をひそかにおとしめるためにです。

 マスメディアによるこういった選挙への影響の現れを「アナウンスメント効果」と呼ぶのだそうです。今回は与党にたいへんな逆風が吹いていて、たとえ善戦したとしても相当の議席減は避けられないだろうという観測が大勢を占めています。こういう報道が、さらに与党を苦戦に追い込むものなのか、逆に与党への同情票を喚起するものなのか、まあ両方の側面があるのだろうとは思いますが、選挙結果にかなりの影響を与えることは間違いなさそうです。私は昔から、マスメディアの権力濫用とも呼べそうな、こうした世論誘導に対しては強い警戒心を持っていました。もしもテレビ局や新聞社の経営陣が、選挙の結果など自分たちの一存でどうにでも左右出来ると考えているのなら、有権者にとってこんな不愉快な話はありません。

 今回の選挙では、比例区の方はぜひとも投票したい人がいるので迷いは無いのですが、選挙区には投票したい人がいなくて困っています。こういう時には、人よりも政党で選んで投票してしまうことが多くなりがちです。熱烈に支持している訳ではないけれど、多少は好感を持っている政党の候補へ。でも、今回は少し考え方を変えてみようかと思っています。新聞の予測では、私が好意を持っている政党の候補者は、ほとんど当選の見込みの無いポジションにいることが分かっているからです。ということは、私の1票は端的に言って〈死に票〉になってしまう訳です。一方、新聞のアンケート結果によれば、当落線上の微妙なポジションに2人か3人の候補者がいることも分かっています。それなら、その中からよりマシな候補に投票した方が、自分の1票は生きて来る筈です。

 そういう考え方をすること自体が、マスコミの予想に踊らされた愚かな選挙民の典型である、そんな批判もあるかと思います。が、私は考えるのですが、今回の選挙では、大政党が禁じられていた筈の公示期間中のホームページの更新も平気で行なっていますし、「情報戦」という意味では、どんどん規制がかからなくなっている。麻雀で言えば、食いタン先付け、なんでもありの〈ありありルール〉といったところです。私たち真面目な選挙民が知らないうちに、ルールがありありに変更されていたのなら、それに合わせてこっちだって戦法を変えなければいけない。で、今回、私が採用しようと思っているゲームの戦略は次のようなものなのです。いろいろな情報を総合した上で、当落ラインぎりぎりを狙って自分の1票を投じる。開票の結果、自分の投票した候補が、当選するにせよ落選するのせよ、当落ラインに一番近いところにいたなら、私の投票は成功です。どんな場合でも、理想の投票というものは、自分の推した候補が1票差で当選するという奇跡が起こった時に成就すると私は考えているからです。

 選挙をひとつのゲームのように見るこういった見方は、不真面目でよろしくないものでしょうか? でも、例えば企業の株価や競馬のオッズといった分野では、たくさんの人の思惑が集まって、結果として非常に精度の高い投票結果を実現している訳で、これに比較すれば選挙というものは、まだまだ未成熟な発展途上の段階でしかないとも考えられます。よく株価には、すべての要素が織り込み済みだと言われます。マスメディアとインターネットの発展したこんな時代に、選挙に関してだけは情報の統制を厳しくしなければならないと考える人がいるとすれば、それは有権者をなめています。ひとりひとりの有権者が、どのような考え方で投票に臨むにせよ、「私の1票には、すべての情報が織り込み済みだよ」と言えるようなしたたかさを持てた時、この国の政治のレベルはワンランクアップするのではないだろうか? といったようなことをあれこれ考えつつ、これから投票に行って来ます。

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2007年7月22日 (日)

介護保険制度の根本的なおかしさ

 前回、介護ビジネスについて記事を書いたのをきっかけに、介護保険に関する本を何冊か図書館で借りて来て、遅まきながらながらこの制度についての勉強を始めました。制度がスタートした2000年以降、毎月の給料から介護保険料が引かれているにもかかわらず、とりあえずいまの自分には関係の無い制度だと思って、調べることさえせずに来たのです。調べてみると、なんだかずいぶん複雑な仕組みなんですね。もともとこの制度は、最初から試行錯誤をしながら練り上げて行くことを前提に、3年ごとの制度見直しということを計画に組み込んでスタートしたものだったそうです。実際に2003年、2006年に大きな見直しが行なわれ、その都度介護保険料が引き上げられると同時に、介護の現場にも大きな混乱を引き起こして来たというのが現実のようです。その挙句にコムスン事件のような問題が起こるのですから、決して制度として軌道に乗ったとは言えないでしょう。そもそも高齢者や社会的立場の弱い人たちの福祉に関わる分野で、こういった〈走りながら考える〉といったやり方が、本当に適切なのでしょうか? 今回はこの介護保険制度の問題点とその改革案について、自分なりに考察してみることにします。例によって、素人の思いつきに過ぎませんので、勘違いもあるかも知れません。お気づきの点がありましたら、ご指摘いただけると助かります。

 この制度の基本的な思想は、ここ数年来政府が取り組んで来た多くの政策と同様、福祉サービスを民間に開放するということだと思います。解説書によれば、行政の〈措置〉による介護から、利用者の〈選択〉による介護への転換なんだそうです。うまいこと言いますよね。従来は市場原理の働かない公的なサービスしか無かった世界に、民間業者によるサービスを導入して、利用者には自分に合った業者やメニューを選択出来るようにする。そうすれば業者間に競争原理が働いて、サービスの質の向上と効率化が図られるという訳です。前回も述べましたが、この理屈には明らかな嘘があると思います。それは介護保険では、利用者が負担する金額は利用料の1割に過ぎず、残りの9割は国や自治体の負担であるという点です(そのうち半分が介護保険料から、残り半分が税金で賄われます)。簡単に言えば、介護業者にとってお客様は利用者ではなく、国や自治体なんですね。こういう枠組の中ではおそらく、一部の介護業者は利用者を「金づる」としか見なくなる(言葉は悪いですが)。だからコムスンがやったように、ケアマネージャーという名の営業担当者に厳しいノルマを課して、とにかくあたま数を集めようとする訳です。しかも要介護度の高い利用者であるほど、多額の介護報酬を請求出来ますから、必要以上に重い認定をして、必要以上のサービスを提供しようとする誘因もはたらく。いわゆる〈介護漬け〉の状態にされてしまうのです。制度が見直されて、介護報酬が抑制されれば、架空請求のような不正行為も横行することになるでしょう。こう考えると、コムスン事件は起こるべくして起こったのだとも言えるし、業界全体として見れば、今回の事件は氷山の一角ではないかという疑惑も湧くのです。

 利用者側から見た時の、この制度のおかしな点も容易に指摘出来ます。そもそも市場原理を導入すると言いながら、サービスの分類ごとに決まった点数を付け、一律の料金体系を押し付けているところがヘンです(おそらく医療制度をモデルにしているのでしょうが)。例えば自宅での入浴介助は、保険点数では1250円が自己負担となっています。つまり1回のサービスにつき12500円が訪問介護業者に支払われる訳です。どこの業者がどのようなやり方をしても同じです。これでは、より快適な入浴サービスを提供するために、最新の機材を導入したり、介助者の人数を増やすなんてインセンティブも働きませんよね。利用者負担が一律であることは、貧しい人にとって過酷である一方、裕福な人にとっても選択の幅が少ないという不満をもたらす結果になるでしょう。こういうのを「悪平等」って言うんじゃなかったでしたっけ? 介護保険制度が根本的におかしいと思うのは、業者の参入という点では競争原理を取り入れておきながら、サービスの提供という点では、まるで社会主義国家のように官製の画一的な規格と値段を押し付けている点にあります。何故そんなことが出来るかと言えば、9割のお金を官が握っているからです。健全な市場原理というものが成り立つ条件は、企業側が公的な補助金を当てにせず、顧客側も〈身銭〉を切るということに尽きると思います。お金の流れの9割が官のコントロール下にあって、どこが民営化などと言えるのでしょう。

 そこで私の介護保険制度改革案は、以下のようなものになります。まずは自宅で介護を受けたい人のための訪問介護を、すべて保険の対象からはずします。つまり公的な補助を止めて、本当の意味での市場原理に委ねるのです。そうなれば、民間業者は競って新しいサービスを開発し始めるでしょう。他社よりも安く数千円で入浴介助を提供する業者も現れれば、富裕層のために数万円のゴージャスな(?)入浴サービスを始める業者だって現れる。一方、訪問介護を保険の対象外にすることによって浮いた予算で、国は効率の良い高齢者向けの介護施設をたくさん作ります。特別養護老人ホームのような入居型の施設や、通所(デイサービス)または短期入所(ショートステイ)型の施設など、利用者のニーズに応じて様々な介護施設を作るのです。当然、施設を建てるための初期投資は必要ですが、これはいわば高齢化社会に向けた国としてのインフラ作りのための投資なので、当初の赤字は大目に見ましょう。そこの運用は、公的機関が直接行なうか、従来のような認可を受けた社会福祉法人が代行することになります。これは民間ではなく公的に運営される施設ですから、貧しい人でも少ない負担で利用出来るものになります。利用者の負担額は一律ではなく、ある程度の応能負担を原則とすべきでしょう。もちろん平均より高い利用料を払っているからと言って、その分高級なサービスが受けられる訳ではありません。これらの施設は、社会のセーフティネットの一部分だからです。

 「ちょっと待って。それって要するに貧乏人は自宅での介護を諦めて、国が運営する安い施設に行けっていうこと?」、そういう質問が当然出て来ますよね。それに対しては、「そのとおりです」と答えるしかありません。だって考えてもみてください、施設内に専用の入浴設備が備わった、スタッフも揃っている介護施設での入浴介助と、バスタブや昇降リフトを備えた特殊な自動車がわざわざこちらまで出張して来てくれる居宅での入浴介助とでは、経済的な効率性においてどれだけ差があると思いますか? あるいは調理スタッフが大きな厨房で入居者全員の食事をまとめて作るのと、派遣されて来たホームヘルパーがひとりの高齢者のために自宅の台所で調理をするのと、どちらが公費の使い道として無駄がないと思いますか? 介護保険の基本的な考え方は、お年寄りはなるべく施設に入れず、予防やリハビリを奨励しながら、必要最低限の介護を受けさせるというものだと思います。これは年をとって身体が多少不自由になっても、自宅で暮らしたいという国民の希望に合致するものですから、制度としては支持する人も多いのでしょう。だが、そこには経済観念が抜け落ちていると思います。要介護の状態になってからも自宅で暮らすということは、家族の負担も含めて非常に贅沢なことなのだという認識を私たちは持つ必要がある。贅沢だからいけないというのではありません、その贅沢が許される経済的な基盤を持っている人なら、民間のサービスを使って思う存分リッチな介護ライフを送ればいい訳ですし、そういう老後を夢見て若い頃から貯蓄に励んでおくことも大いに結構。ただ、そこに我々の血税を注ぎ込んで欲しくないというだけの話です。

 この制度が始まった2000年には、介護保険の総費用は3.6兆円だったものが、年々拡大して昨年は2倍の7.1兆円になったそうです。特に増えたのは在宅介護を受ける人の数で、当初の97万人が昨年は255万人と、6年間で2.5倍以上になっている。これは今後もさらに増え続ける見通しで、それに対応して私たちの介護保険料もどんどん上がって行くらしい。要するに、最初からサステイナブルな制度ではなかったんですね。マクロ的に見て、在宅介護よりも施設介護の方が経済的効率がいい筈だという私の仮説が正しいならば、いまの介護保険制度はやはり根本的に見直すべきでしょう。必要なのは、介護予算を今のまま「要介護度」という尺度だけで一律にばら撒くのではなく、本当にそれを必要とする貧しい層の人たちに、つまり社会のセーフティネットの部分に集中的に投下することだと思います。そしてそのために最も効率のよいお金の使い方を考えることです。このことは「高齢者介護とはこうあるべきだ」といった倫理観や価値観の問題ではなく、待ったなしの財政問題なのです。

 私はこれからの少子高齢化社会というものを、決して悲観的にばかり捉える必要はないと思います。いまの社会で、お金を持っているのは大企業と一部の高齢者です。大企業は海外または国内の安い労働力を使うことに味をしめてしまっているので、これからの若い人に充分な労働賃金を支払う準備はありません。一方、世界一の預金を持っている日本の高齢者は、今後様々な市場ニーズを生み出して行く可能性があります。しかもこのシルバー産業は、サービス業を中心とした労働集約型の産業であることがその特徴です(介護などはその典型です)。ここに新たな労働市場が生まれるのではないですか。もしも日本の高齢者が、総じて貧しい人々の集団であるならば、若者にとっても未来は悲惨なものでしかないでしょう。が、日本の場合、そうではないのです。個人資産1500兆円の多くは、高齢者が持っています。いずれにしても、世の中は高齢者から順に死んで行く訳ですから、この1500兆円はこれからの若者のものです。

 いまの日本の政治は、目の前の財政赤字にばかり気を取られて、高齢化社会に向けたグランドデザインを描けていないのだと思います。本来なら、日本人の豊かな個人資産は、急激な少子高齢化という社会構造変化に対応するための原資となるべきものでしょう。ところが、いまは政治がそれを阻害してしまっている。介護保険のような、民営化を促進しようとしているのか抑制しようとしているのか分からない、中途半端な制度は大きく見直すべきです。そして民間に任せる部分と、国が責任を持つセーフティネットの部分を、きちんと分けて行くことです。それが出来ない今の制度では、家庭ばかりでなく、国全体が〈介護疲れ〉になって、疲弊して行くだけだと思います。

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2007年7月15日 (日)

介護ビジネスと市場原理

 以前このブログで、居酒屋『和民』グループの総帥、渡邊美樹社長のことを取り上げたことがありました(記事はこちら)。渡邊さんは、私の注目する企業家のひとりですが、今や時の人といった観がありますね。中核となる外食事業を順調に拡大し、老人ホーム事業や学校経営でも頭角を現している、と思ったら、今回は例のコムスンの事業停止問題に絡んで、買収に名乗りを上げて世間の注目を集めています。その渡邊さんが、「日経ビジネスオンライン」に、自らの経営哲学を綴ったエッセイを連載されています(第1回の記事はこちら)。これを読んで、非常に感じるところがあったので、今回はこれを取り上げてみようと思います。まず第一印象として、渡邊さんの文章はとても平易な上に修辞が巧みで、読む人の心を捉える文章だということです。私も文章にはこだわる方なので、その点には感心してしまいました(執筆はご本人の手によるものだと私は信じています)。しかし、今回私が取り上げたいのは、渡邊さんの文章のうまさについてではありません、企業家渡邊美樹が主張するように、介護は本当にビジネスたりうるのかという点についての疑問です。

 渡邊さんの文章を引用しようとすると、全文を掲載したくなってしまうので、すでに読まれていることを前提に論を進めます。冒頭で渡邊さんは、まずこう言い切ります、小泉行革の時のスローガンは、「民間にできることは民間で」だったが、私ならさらにこう言う、「民間にできないことなど何もない」と。これが経験を積んだ企業家としての、渡邊氏のゆるぎない信念です。この信念の裏付けがどこから来ているかと言うと、本来は営利追求のビジネスに馴染みそうのない赤字の老人ホームや私立学校を買収して、外食産業で培った経営手法で立て直したところ、自分でもあっけないほど簡単に黒字化出来た、その経験から来ているようです。ここで「経営」と呼ぶのは、まずはお客様にとっての最大の幸せとは何かをはっきり定義すること、そして経営者と従業員がその「お客様の幸せ」という共通の目標に向けて仕事を改善して行くこと、このふたつだと言います。(私学の生徒をお客様と呼ぶのも変ですが、これは現場教師の立場ではなく、経営者の立場としての心構えですから、私は正しいと思います。) まさに経営学の基本であり、王道と言っていい。この王道を突き進んで、渡邊社長はこれまでどんな事業でも挫折することなく、成功を収めて来たのです。

 この成功体験の上に、今回のコムスン事業の一括引き受けという事業戦略がある訳ですが、ここに私は大きな落とし穴があると思うのです。当初、渡邊氏はコムスンの事業のうち、老人ホーム事業だけを引き受ける考えでした。この領域ならすでにノウハウもあり、収益の目途も立っているからです。ところが、コムスン側が事業全体の一括譲渡を希望しているという事実が明らかになり、これに応じるかたちで彼は、これまで経験の無かった訪問介護事業も含めての一括引き受けを決断することになったのです。ライバルの買収希望企業に負ける訳には行かないという理由からです。コムスンの事業の中でも、訪問介護は単独の事業としては赤字だったのだそうです。その分を老人ホーム事業などで補填していた訳ですね。ここで最初の渡邊社長の言葉に戻ります。「民間に出来ないことなど何も無い」、もしもこれが本当ならば、訪問介護だってビジネスに出来なければ嘘になります(顧客の切実なニーズはあるのですから)。でも、それは構造的に不可能なんですよね。考えてみれば当たり前のことですが、ライバル企業同士が競い合って良い製品やサービスを生み出すという市場原理の法則も、お金の集まる市場でしか成り立ちません。いくら有能な経営者でも、お金の無いところでは事業は営めない。訪問介護というのは、四十歳以上の国民が毎月払う介護保険料を原資に、国が事業者に決められた介護報酬を支払うかたちで成り立っている業界です。良いサービスを提供すれば、高い値段を付けても顧客が集まるという市場原理の成り立たない世界です。それどころか、国はこの制度が始まって以来、介護報酬の金額を下げたり、介護認定の基準を厳しくしたりして、公的な支出を抑える方向で動いている。こんな場所では、折口氏だろうが渡邊氏だろうが、まともなビジネスなど出来る訳がありません。これは重大な問題です。コムスンのあくどい商法よりも、一旦かけたハシゴをはずすような国のやり方に、国民は怒りを表さなければいけない。

 構造改革派の人たちが共通して口にする言葉があります、規制緩和や民営化を推し進めて、健全な市場原理を発展させることが重要だ、但し競争から落ちこぼれる人たちへのセーフティネットを整備しておくことも怠ってはならない、こういう言葉です。渡邊美樹さんも同じことを言っていますね、そしてこのセーフティネットの部分だけは、民ではなく官の役割なのだと明言しています。どこからも文句の出ない正論だと思いますが、ここで問題なのは、社会格差がここまで進んでしまった現在の日本で、必要とされるセーフティネットの経済的規模というのが、どのくらいのものなのかということです。昨年、国内の生活保護世帯が百万世帯を突破したというニュースがありました。生活保護水準以下で生活している世帯はさらにその4倍くらいあるそうで、これは日本の総世帯数の約1割に当たります。今後、高齢化や少子化、働く人の非正規雇用へのシフトがさらに進めば、1割が2割になり、2割が3割になるのも時間の問題だという気がします(専門家の方の反論を期待するところです)。そうなれば、このセーフティネットというのは、一部の例外的な人たちのためだけのものではなくなってしまう。とても〈小さな政府〉などでは支え切れない規模のものになってしまうのです(いや、もうすでに支えられなくなっていますが)。いずれこの国全体が、このセーフティネットを維持するためだけに経済活動を続けて行かなくてはならない時代が来る、そういったイメージの方が未来の現実に近いかも知れないのです。この点を、構造改革派の人たちは、うっかりかあるいは故意にか分かりませんが、見過ごしているように思えます。

 『和民』で成功をつかんだ渡邊さんの事業家としてのポジショニングは、中流のちょっと下くらいの層の顧客に(実は私もそこに所属しているのですが。笑)、手頃な価格でワンランク上の味やサービスを提供するという点にあったと思います。ホームページを覗いてみると、ワタミの経営する老人ホームは、有料老人ホームとしては高級過ぎず低級過ぎず、まさに現役時代に『和民』に通っていたくらいの中間層のお年寄りをターゲットにしているように見えます。入居時の一時金がだいたい500万円から1千万円くらい、月々の費用が18万円くらい(国民年金だけでは入れませんね)。この金額を支払っていただければ、ワタミは(たぶん)どこにも負けないコストパフォーマンスのいいサービスを提供出来ますというわけ。で、私はそれで充分じゃないかと思うのです。今回の渡邊さんのエッセイを読んで、とても共感すると同時に危うさを感じるのは、この人には営利企業を代表する経営者の心と、高邁な社会改良家の心が同居していて、それを同じひとつの方法論で貫こうとしているのではないかという点です。これは現代に特徴的なことだと思うのですが、私たちは政治家や官僚の世界がひどく腐敗しているという事実に対して、あんまり腹に据えかねているので、これを一掃するために市場原理というものに過度に期待している部分がある。この国民感情にうまく乗ったのが小泉行革だった訳です。渡邊さんのメンタリティーもこの線上にあるようです。しかし、〈官〉が堕落しているかどうかには関係無く、公的な補助(つまり国民の税金)を収益の一部として成り立っている業界では、市場原理は成り立たないし、成り立たせてはいけない。渡邊さんは『和民』の経営手法で、訪問介護サービスに進出してはいけないと考えるのです。現行制度のもとでは、訪問介護は渡邊さん言うところのセーフティネットの領域だからです。

 私はワタミという会社に期待するが故に、渡邊社長にはあまり無茶な業容拡大に走って欲しくない気がします。日本の社会が富裕層と貧困層に二極化されて行くなかで、その中間層をターゲットに質の高いサービスを提供する企業は貴重だと思うからです。もしもこの国に将来があるならば、いずれはあまりにひどい格差は是正されて、人々はまた中間層に戻って来ると私は予想しています(一億総中流というのは、普遍性と独自性を兼ね備えたこの国の「美しい形」です)。渡邊さんはそこにでんと腰を据えて待っていればいい。一方、現下の問題は、このままでは引き受け手がいなくなってしまうかも知れない、赤字体質の訪問介護事業をどうするかという問題ですが、これに関しては、いち民間企業の企業努力でどうなるものでもなく、政策ベースでのもっと抜本的な改革が必要になると思います。このことについては次回また改めて考えてみることにします。

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2007年7月12日 (木)

公示日を迎えて

 参議院選挙が今日公示されました。新聞によれば、定数が偶数の選挙区では与野党が半分ずつ議席を分け合う傾向にあるので、勝敗は全国で29箇所ある奇数区の結果に委ねられるのだそうです。確かに定数2の選挙区では、自民党も民主党もそれぞれ一人ずつしか候補を立てていない。最初から1議席ずつ無難に分け合おうという腹なのです。こういう状況を見ると、小選挙区にせよ中選挙区にせよ、やはり選挙区制度というもの自体に問題があることがよく分かります。しかも問題は政党側にだけあるのではありません、我々有権者側でも、自分の一票を〈死に票〉にしたくないという思惑から、本当に投票したい人に投票せず、とりあえず可能性のありそうな人の中から消去法で候補者を選ぶという投票行動をする傾向が現れます。選挙区制は、そもそも有権者の投票そのものから歪めてしまう可能性があるのです。やはり私は、選挙区は廃して全国区制に戻すべきだと思いますね。全国区は別名「残酷区」とも言われていて、候補者にとっては金はかかるは心身はすり減るはで大変な制度なんだそうです。だけど、そんなことは政治家の都合の問題で、我々国民の知ったことじゃない。それに今はインターネットでお金をかけずに、全国に自分の政見を発信することも出来るのじゃないですか。

 選挙が公示日を迎えたことで、楽しみにしていた天木直人さんのブログも、昨日で一旦中断ということになりました。まったく馬鹿げた話です、有権者としてはこれからの2週間あまりが、一番候補者の生の声を聴きたい時期だというのに。これはきっとパソコンを使えない有力政治家の陰謀に違いありませんね。公示期間中のインターネットの更新を禁止するくらいなら、やかましい街頭演説や宣伝カーだって禁止して欲しいものです。テレビCMや街頭演説のような、こちらが聴きたくもないのに聞かされる〈プッシュ型〉の情報発信はすべて禁止して、インターネットや政見放送のような、こちらが欲しい情報を取りに行く〈プル型〉の情報公開だけにすれば、候補者の選挙資金も大幅に削減出来るし、悪しきポピュリズムの流れにも歯止めがかけられようというものです。まあ、そんな私個人の不満はさておき、一昨日の天木さんの記事、『私はあなただ、あなたは私だ』の最終回の文章が素晴らしいものでした(記事はこちら)。私もいろいろ工夫をして、自分なりの護憲論を綴って来ましたが、天木さんの文章を読むと、どんな修辞も理屈もかなわない、本当の正論がそこにあると感じられます。いろんな人がいろんなことを言ってるけど、護憲論はこれにとどめを刺す、そんな感想を私は持ちました。いやいや、私も投票日が過ぎるまで、選挙の話題は自粛しなくてはいけませんね。更新は禁じられているけれど、過去の記事が読めなくなる訳ではありませんから、興味のある方は、こちらも参考にしてみてください。

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2007年7月 8日 (日)

政治家の失言問題に思う

 防衛大臣の久間章生(きゅうまふみお)氏が、アメリカの原爆投下はしょうがなかったと発言したことがきっかけで辞任に追い込まれました。久間さんは、前にも米軍のイラク侵攻は間違いだったと思うと述べて、防衛相にあるまじき発言だと問題になったことがありましたね。きっとよほど正直な人なのでしょう。イラク侵攻が間違いだったというのは、いまや日本国民のあいだでも常識ですから、この時は安倍首相からのお咎めも無かったようですが、今回の発言は日本国民の逆鱗にふれるものだったために、あっという間に辞職ということになってしまった。私は久間元大臣の肩を持つ訳ではないけれど、この責任の取らされ方にはいささか疑問を感じざるを得ません。だって、「原爆はしょうがなかった」というのは、言ってみれば結党以来の自民党の公式見解じゃないですか。政府はこれまでアメリカに対して、原爆のことで一度でも正式に謝罪要求をしたことがありましたか? 原爆についてだけは赦せないと公式に発言した自民党議員がひとりでもいましたか? いや、政治家だけではない、新聞だって原爆の非道さについては書いても、当時のトルーマン大統領を直接糾弾するような論説は(朝日新聞ですら)書かなかったと思います。最近アメリカ下院が、従軍慰安婦問題について、日本政府に謝罪要求をする決議案を可決しました。中国や韓国の政府がそれをするならともかく、直接の被害国でもないアメリカに、何故いまごろそれを言われなければいけない? 私はちょうどいいタイミングなので、日本政府はこれに対抗して、原爆投下に対する謝罪要求を出せば良かったと思います。でも、そんなことを言い出す議員さんもいませんでしたね(民主党の小沢一郎さんは言ったらしいけど)。「原爆はしょうがなかった」、これはそういう政治家を選んで来た日本人の、戦後一貫した暗黙の了解事項ではなかったですか?

 私は最近の政治家が、〈失言〉によってかなりの頻度で辞任に追い込まれて行くことに、以前から不審な気持ちを抱いていました。少し前には、柳沢厚生大臣が「女性は産む機械」と発言して、大騒動になりました。辞任までは行かなかったものの、この時の身内をかばい立てするような安倍さんの対応も、国民の目からは信頼を失わせるものと映ったと思います。久間発言にしろ柳沢発言にしろ、国民感情を無視した浅薄なものだったのは確かです。が、たったひと言の無思慮な発言によって、その度に大臣の首をすげ替えていたのでは、円滑な国政の運営はおぼつかないとも言えます。まあ、柳沢さんや久間さんが、余人をもって代え難いほどの閣僚だったかどうかは別として、国民感情の尻馬に乗って失言大臣を辞任に追い込むまで追及の手を緩めない野党やマスコミのやり方もどうかと思うのです。仮にこれが二十年くらい昔だったら、今回のような発言はきっと問題にもならなかったのではないでしょうか。だとすれば、この二十年のあいだに何が変わったのでしょう? 政治家の質が落ちた? たぶんスケールは小さくなったかも知れないが、今の政治家の道徳的資質が、二十年前に比べて特段低下したとは私には思えません。むしろ世間の見方が変わったのです。世間が政治家に求める道徳的なクライテリアが、恐ろしいほど高くなったのです。

 このことは政治家に対してだけではありませんよね。次々に明るみに出る企業の不祥事にしても、昔ならそこまで大きな問題にはならなかったようなことが、企業の存続をさえ危うくする大事件に発展する。マスコミと国民が騒ぎ立てるからです。基本的にはこのような変化は、社会が道徳的に進歩して行くための好ましい変化だという認識を私は持っています。ただ必ずしも好ましくないと思うのは、こうした〈正しさ〉を政治家や企業に突き付けて、辞任や倒産(時には自殺)にまで追い込まなければ気が済まない、我々国民やマスコミの気持ちのあり様の方です。仮に発覚した問題が看過出来ないほど由々しいものだったとしましょう。それでもその政治家や企業がこれまでやって来たことは、すべて何の価値も無いことばかりだったのでしょうか? 少なくともその検証くらいは、ネタで稼がせてもらったマスコミが中心になってすべきなのではないでしょうか? そしてもしも得失点差を計算してみて、少しでもプラスが残っているものなら、もう一度チャンスを与えるという選択肢だってあっていいのではないでしょうか。(本人だって、しおらしく反省している様子なんだし…。) 道徳的に他人を責める心は、つまるところ自分自身に向けられた鋭利な刃物でもあります。道徳的なクライテリアを引き上げるに際しては、それにともなって私たち自身の心の寛容さの間口も広げておかなければ、相手に対する不満ばかりが募って行って、結局は世間が住みにくくなるだけだと私は思うのです。

 さらにこのことは、政治や企業経営といった公の世界に限ったことではありません。私たちのふだんの日常生活、例えば夫婦関係や親子関係の中においても同じだと思います。現代の私たちは、無意識のうちに相手にとても高い要求を突き付けている場合が多いので、たいていいつも相手に不満を持って生活しています。その要求の中には、家事の分担だとか学校での良い成績だとかいった目に見えるものばかりでなく、公衆道徳面での潔癖さといったことも含まれているように思います。(あなたはあなたの夫や妻が、タバコの吸い殻を道端にポイ捨てするのを見て平気でいられますか? 自分の子供がお年寄りに席を譲らずに平然とテレビゲームで遊んでいるのを見過ごせますか?) 特に日本のように、長い年月に亘って平和な時代を過ごし、みんなが真面目に勤勉に働いて来た社会では、こうした目に見えない〈道徳的淘汰圧〉といったものが、非常に高まっているのではないかと想像します。しかし、それにも個人差があります。非常に円満な人生を送って来て、人格的にも欠点が無いように見えるお年寄りが、ある一点についてはどうしようもなく頑迷で、時代錯誤的な考え方を持っているという例はよく見聞きします(例えば、女性蔑視的な見方だとか、部落差別のような偏見だとか)。人は誰でもその生まれて来た時代や環境の影響を受けて、道徳的に成長もすれば欠点も身につける。客観的に見て、100パーセント完璧な人格者なんて存在する訳がありません。問題は、誰もが持っている道徳的な瑕疵ではなく、それを許せないと感じさせる現代人の道徳的潔癖症の方です。

 いや、家族の問題や、うちのおじいちゃんの頑固さについてならそれも分かるけど、いま問題になっているのは政治家の発言についてだよ。政治家、特に大臣ともなれば、それは全国民を代表する立場にいる訳で、そういう人に最高度の道徳性を求めるのは当然のことなんじゃない? きっとそんな意見もあろうかと思います。しかし、それにも私は異見があるのです。どんな職業にも、その職業に要求される倫理性というものは当然ある筈です。が、それといわゆる〈人徳〉というものは分けて考えるべきだと思うのです。政治家ばかりでなく、医者や教育者や企業経営者や裁判官など、通常のレベル以上の高い職業倫理を求められている人たちはたくさんいます。だからと言って、彼らに一点曇りの無い人格的完璧さを求めるのはどうなんでしょう。私としては人柄のよい医者にかかるよりは腕のいい医者にかかりたいし、子供の担任には高い道徳性よりも優れた教育技術を望みたい気がする。政治家だって同じです。人間的にはひどく癖のある、好き嫌いの分かれるタイプだが、偉大な業績を残した大政治家と認められる人たちが、過去には大勢いた訳じゃないですか。現代という時代が、構造的にそういう政治家の登場を許さない仕組みになっているのなら、それはやはりこの国にとって大きな損失なのではないでしょうか。

 戦前、戦後にかけてに活躍した三木武吉という政治家は、「愛人を3人も囲っている」ということを対立候補に暴露された時、「それは誤解だ、愛人は3人ではない、5人だ」と選挙演説の中で答えたのだそうです。この発言によって、国民のあいだでの武吉の人気はいっそう高まったと言います。その豪胆さと率直さに、国民の心を打つものがあったのですね。とても今日では考えられないことですが、考えてみれば愛人がいるかどうかなんてことは、政治家としての適性に何も影響を与えることではない、当時の民衆だって、それが誉められたことではないという認識はあったのでしょうが、それよりも武吉の政治家としての手腕を買った。これは健全なことではないかと思うのです。いや、もしかしたらこんな言い方をすること自体、読者であるあなたの道徳的クライテリアに抵触してしまうことかも知れませんね。特にフェミニズム方面からは、鋭い批判の声が聞こえて来そうです。でも、それならば話は簡単。私はあなたに比べて〈道徳的な開明度〉において遅れた古いタイプの人間なのですから、私より開明しているあなたはもっと寛容になって、発展途上の私のことを大目に見てくれなくちゃいけない、それだけのことだと思います。

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2007年7月 1日 (日)

「ロングテール新党」ってどうでしょう?

 前回の記事で、同じ比例区の選挙でも、参議院方式(非拘束名簿)の方が衆議院方式(拘束名簿)よりも、民意を反映出来る良い制度だと書きました。ひとつの政党内での当選順位を、党幹部の思惑で作られた名簿によって決定されるよりも、候補者個人の得票数によって決定した方が、ずっと透明性は高いし、公平感もあると思ったからです。ところが、2000年に初めてこの方式が採用された時には、野党はこぞって猛反対をしたんですね。もちろん制度改正が自党に不利に働くという判断から反対したのだろうと思いますが、今も続くこの参院選の非拘束名簿方式は、インターネットで検索してみると一般的にも評判の悪い制度のようです。

 その理由として多くの人が挙げているのは、非拘束名簿方式では、大量に票を集める人気候補の余った票が、同じ党の別の候補に〈横流し〉されるからというものです。だから例えば、非常に人気のあるタレントなどを擁立すれば、その獲得票の〈おこぼれ〉で、あとひとりかふたりが繰り上げ当選してしまう。それを狙って各政党は、これまで政治には何も関係が無かった有名人の獲得合戦に走るという訳です。しかし、私はこの弊害は、ちょっとした工夫で是正出来るものではないかと思っています。現在の参院選のやり方では、候補者の個人名を書いて投票した場合、その候補の所属する政党に対する信任(これが政党の獲得議席数を決める)と、その候補者自身に対する信任(これが党内での名簿順位を決める)という二重の意味を持つことになります。一方、個人名ではなく政党名を書いて投票した場合、それは政党に対する信任票というだけで、名簿順位についてはその政党に(と言うより他の投票者の意向に)一任したということになるのです。有権者としては、当然自分の1票を最大限有効に使いたい訳ですから、論理的に考えれば政党名を書いての投票はありえない、1票で2票分の効力を持つ個人名投票をするのが合理的です。ところが、前回の参院選の結果を見ると、公明党を除く各党とも、個人名投票よりも政党名投票の方が圧倒的に多いのです。実に不思議なことです。

 おそらく選挙制度が頻繁に変わるせいもあって、有権者の多くが制度改正の意味するところをよく理解しないまま投票をしているのではないか、そんな気がします(少なくとも私自身はよく分かっていませんでした。今回天木さんの立候補によって選挙の仕組みに興味を持つようになって、初めて知ったのです。そんな有り様でよく自分のブログに選挙制度改革案なんて書くものです。苦笑)。これは投票用紙に政党名でも個人名でも、好きな方を書いていいとする現行制度の分かりにくさにも原因があります。よく考えれば、この制度自体が理屈に合わないものです。改善案はまったく簡単明瞭、投票用紙に政党名と個人名を別々に書けるようにすればいいのです。説明だって簡単です、「あなたの信任する政党名をひとつお書きください。それが政党の獲得議席数を決めます。あなたの信任する候補者をひとりお書きください。それが候補者の所属政党内での当選順位を決めます」。これなら誤解のしようがありません。注意書きとして、「投票する候補者は、必ずしも投票する政党の所属候補である必要はありません」という一文を付け加えれば完璧です。これなら〈票の横流し〉などという、いわれのない非難も当たらなくなりますし、現実問題としてタレント候補擁立を抑制する効果にもなると思います(政党票を保証しないタレント候補は、既存候補のライバルでしかないからです)。実際に、非拘束名簿方式の比例代表制を採っている他の国では、投票する政党と候補者を別々に書かせるのが一般的なようです。

 3年前の参院選比例区の結果を見ていると、いろいろ面白いことに気が付きます。個人の得票数が20万票以上もあるのに落選したのは、「みどりの会議」の中村敦夫さんです。逆に最も少ない票数で当選したのが公明党の鰐淵洋子さんで、個人得票数はわずか1万7千票でした。まあ、公明党の場合、どんな人が立候補しようと組織票の数は変わらない訳ですから、比較の対象にはならないのでしょうが、それにしても20万票対1万7千票という、十倍以上の一票格差には、理不尽なものを感じない訳には行きません。この格差を是正する方法をいろいろ考えてみたのですが、〈政党政治〉と〈比例代表制〉というものを前提とする限り、この矛盾を解くのは難しいことのようです。個人的には、政党名での投票を止めてしまって、候補者別の得票数だけで当選を決めてしまうのが一番すっきりしていいように思うのですが、これに賛同してくれる人は少なそうです。

 政党中心の政治がこれからもずっと続くものならば、国会議員を目指す人も、また私たち有権者も、それを前提に最も効率の良い選挙戦略を練らなければなりません。前回の参院選比例区の結果をエクセルシートにコピーして、いろいろ加工したり眺めたりしているうちに、ひとつのアイデアが浮かびました。これまでに無かったコンセプトの政党、名付けて「ロングテール新党」というのを作ってみてはどうだろうというのです。国民に人気のタレントや有名人を擁立して、少ない数の候補者でドーンと票を稼ごうとする既存政党とは、対極的な考え方をするのがロングテール新党です。具体的に言えば、例えば全国の地方自治体で活躍した議員や市町村長などの経験者、あるいは多少は名の知れた文化人や人権活動家や教育者や企業家など、手堅く1万票から5万票くらいを集められる候補者を100人くらい集める。すると、どんぐりの背比べのような長い候補者の列が出来上がります(ほら、ロングテールでしょ)。ひとり平均3万票を集めれば、トータルで300万票くらい集められる。そうなれば、比例区から2人くらいの議員を送り出せるのです。

 この政党は、いわゆる政権政党を目指すものではありません、天木直人さんが言うところの〈オンブズマン政党〉としての機能を目指すのです。候補として名を連ねる人も、自分自身が当選することよりも、自らの集票力によって政党に寄与することを目標に参加してもらう。ですから、無理をして選挙資金を集めたり、全国行脚をして投票を呼び掛けるといった手間のかかる選挙運動だってしなくていいのです。ただ多少は名を知られた人間の〈ノーブレス・オブリージ〉として、自身の影響力の範囲内で有権者に語りかけてくれればいい。そしてもしも運悪く(?)、自分が当選を果たしてしまったら、その時には覚悟を決めて6年間頑張ってもらうのです。6年後には再選を目指すことなく、次の人に席を譲るのがいいですね。ロングテールを売り物にしている党だけに、現職が退いても後任で困ることはない筈です。テレビで全国に顔を知られたスター政治家や有名人を中心にした既存の大政党を「セレブリティ政党」と呼ぶならば、我が「ロングテール政党」の方は、まさに国民による国民のための政党と呼ぶに相応しいものではないでしょうか。やがてその認知度が高まり、「セレブリティ政党」vs「ロングテール政党」の対立の図式が一般的に知られるようになれば、その時こそ日本の政治に一大ムーブメントが巻き起こるような気がします。

 既存の大政党が、何故ロングテール戦略を採れないかは、説明するまでもないと思います。これはビジネスの世界でのロングテール理論にも通じますが、自公民といった大政党では、すでに市場のシェアがほぼ決まっており、これ以上多くの候補を立てても、政党全体としての得票数は増える見込みが無いからです。では、何故新党であるロングテール党に、新たなシェア獲得の可能性が残されているのでしょう? それはもちろん既存の大政党に愛想を尽かしている無党派層という大きな市場が残されているからに他なりません。この大票田を狙うロングテール党は、個性的な候補者を立てれば立てるほど票が集まる可能性があるのです(だってそれがロングテール理論なんだから)。無党派層の中にも、リベラリストもいればナショナリストもいる筈ですから、彼らの受け皿としてのロングテール党も、当然複数あって然るべきです。私自身は、リベラルな護憲派の人間なので、とりあえず天木直人さんあたりを党首にして(本当は党首だって要らないんです、輪番制で充分です)、「護憲党」といった名前のロングテール党を結成し、3年後の参院選を目指して活動が始まればどんなにいいだろうと思っています。天木さんにはぜひ、今回の選挙戦で燃え尽きてしまわずに、そういった長期的展望に立って活動を続けて欲しい気がします。


(追記です。これも今回、日本の選挙制度について調べていて気付いたことですが、ロングテール党を興す上での最大の難関は、日本の選挙の高過ぎる供託金制度にあります。衆参両院の比例区では特に供託金が高く、候補者ひとりにつき600万円、しかもその政党の中で当選した人数の2倍までの供託金は返還されますが、それ以下は全て没収されてしまうのです。100人の候補を出し、2人の当選者を出した場合、4人分は返還されるが、残り96人分は没収ということです。前回の参院選でも、それぞれ10人の候補を出し、当選者を出せなかった「みどりの会議」と「女性党」は、それぞれ6千万円の供託金を没収された筈です。こんな高額の供託金と、厳しい返還条件を設定しているのは日本だけなのだそうです。要するに既得権を持った大政党だけを認めて、国民の政治参加を認めないという、あからさまな意図を持った制度設計です。まったく日本の政治はどこまで腐り切っているのだろう! もし天木さんが国会議員になられたら、まずはこの制度からぶっ壊していただきたいものです。)

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