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2007年5月20日 (日)

ゲゼル思想研究日誌(4)

 タイトルにゲゼル思想研究と銘打ってはいますが、この一連のエッセイでは、シルビオ・ゲゼルという思想家の足跡をたどったり、テキストを読み解くことを目指してはいません。むしろゲゼル思想に惚れ込んでしまった一思索人の立場から、彼の思想を現代に甦らせるためのアイデアや、日本におけるその可能性について考察しようと思っています。すでに私は、ゲゼルの〈減価するお金〉という考え方を、政府レベルで実現するための方法について、その概略の構想を書いて来ました(構想というより、夢想に近いものですね)。基本となるコンセプトは、本位通貨とは別立ての国内向け第二通貨を、一定のプレミアム付きで政府自らが発行するというものです。私の考えでは、この政策は景気の拡大と税収の安定を同時にもたらします。一見、夢物語のような話ですが、これが決して実現不可能な政策ではない理由は、政府がまさに国内における通貨発行の特権(セイニアーリッジ特権)を持っているからに他なりません。特に政府部門が莫大な借金を抱える我が国では、財政建て直しのためにも、政府通貨発行を行なうべしという意見が一部の経済学者や政治家から出されています。政府によるマイナス利子のお金の発行は、セイニアーリッジ政策のひとつのバリエーションとも言えます。

 しかし、これを一国の経済政策としてだけではなく、もっと広く地球規模で考えてみたらどうでしょう。この場合、私たちはすぐにひとつの壁に突き当たります。というのも、国際的に通用する減価する新通貨などというものを、一体どうやって実現したらいいのか、そのイメージさえも私たちは思いつかないからです。ユーロというのは画期的な取り組みだと思いますが、これは米ドルに対抗するために、必要に迫られて生み出された戦略的な通貨であって、ゲゼル思想とはまったく関係の無いものです。世界中で試行されている小規模な地域通貨は、ゲゼルの思想を正統に受け継ぐものだと思いますが、また一面では現在の凶暴なグローバリズムへの対抗手段として支持されて来たものであり、それ自体グローバルな展開を志向したものではありません。それは米国流の自由主義経済から身を守ると同時に、従来からの自由な世界交易に対しても身構えているように見えます(「地産地消」というのは、要するにそういうことでしょう?)。世界経済全体をどう建て直すかという視点はそこにはありません。たとえ日本政府が国内にマイナス利子の通貨を流通させても、または世界中でもっともっと地域通貨が盛んになったとしても、そのことでアフリカの貧しい国が救われるとは思えないし、さらには世界的なエネルギー危機や環境問題が解決の方向に向かうとも思えない。ここに〈私の〉不満があります。私が考えるゲゼルの経済思想は、これらの問題を含めて、世界をまるごと救済すべきものだからです。

 ゲゼル自身がどのように世界経済の理想的な未来を思い描いていたかは、主著『自然的経済秩序』の中に出て来る「国際通貨連盟」(Internationale Valuta Assoziation)というコンセプトに現れていると思います。ゲゼルはそこでこの構想の頭文字を取ったIVAという新しい通貨を提唱しています。要するに、各国の国内通貨からは独立した、輸出入のための国際通貨を作って、加盟国のあいだで流通させようというアイデアです。明快なコンセプトではあっても、これが実現の難しい提案であることは素人の私にも分かります。当時はまだ金本位制の時代でしたが、IVAは金との兌換を認めない信用通貨として構想されていました。金本位制がすでに過去のものとなってしまった現代では、通貨の価値を保証するものはそれを発行した国家の信用だけです。ところが〈国際通貨〉というものには、この信用を担保するものがどこにも無いのです。今日、米ドルが世界の基軸通貨であるのは、別に国連や世界銀行がそのことを認定しているからではなく、アメリカという国の経済力や安定性を世界が評価しているからだと思います(最近はユーロが追い上げて来ていますが)。たとえ今の時代にIVAのような国際通貨を作ろうという運動があったとしても、それをドルやユーロに代わるものとして流通させることは難しい、というより不可能でしょう(何よりも基軸通貨の特権を持ったアメリカがそれを許さない筈です)。ところが、歴史を振り返ると、ゲゼルが没してわずか十数年後に、この構想が世界の中で実現するかも知れない局面があったのです。

 経済学を学んだ方なら誰でも知っている事実だと思いますが、不勉強な私はこれを知りませんでした。たまたまゲゼルつながりでインターネットを検索していて見付けた記事にあったのです。これを知った時、ゲゼルの提唱した通貨革命を世界規模で起こすためのヒントが見付かったような気がしました。今回はそれについて書きます。今回の主役はゲゼルさんではなくて、二十世紀を代表する経済学者だった英国人、ジョン・メイナード・ケインズです。時はまだ日本が絶望的な戦争を戦っていた1944年にまで遡ります。第二次世界大戦の帰趨が見え始めていたこの年の7月、連合国側はニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで戦後の経済体制について話し合いを持ちます。会議で対立したのは、イギリスとアメリカでした。もっと端的に言えば、それまで世界の基軸通貨だったポンドと、新しく基軸通貨の地位を狙うドルの対立だったと言ってもいいと思います。この時、イギリス代表として驚くべき提案を持って会議に臨んだのが、ケインズその人だったのです。それは(私見によれば)ゲゼルの「国際通貨連盟」と、ほとんど瓜ふたつの構想でした。ケインズの方は「国際清算同盟」(International Clearing Union、略称ICU)と呼び、そこが発行する国際通貨は「バンコール」と名付けられてはいましたが。

 ケインズ案を簡単に説明すると、こういうことになります。(例によって初学者の理解なので、間違いがあればご指摘ください。) ICUに加盟する国のあいだの貿易では、決済通貨としてバンコールが使われます。各国の通貨とバンコールは、基本的には一定のレートで固定されていて、ICUの仲介によって貿易収支の決済を行なうことになります。バンコールは貿易決済専用の通貨ですから、実体ある紙幣のようなものである必要はありません、ICUの帳簿上に存在すればいいのです。各国の通貨当局がICUに口座を開き、そこに貿易収支を記帳して行くイメージです。ね、これって何かに似ていませんか? そうです、地域通貨の代表格であるLETSそのものじゃないですか! LETSが発案されたのは、1983年にカナダのバンクーバーでだったと記憶しますが、それより40年も前にケインズは国際版LETSともいうべきものを考えていたんですね。(この点ではゲゼルのIVAは現実の紙幣(為替券)を想定していましたから、まだLETSのシンプルさにはたどり着いていませんでした。) しかも、ICUに参加する国には、多額の拠出金を求めないという点でも、ケインズの考え方は地域通貨のLETSに通じるものがありました(この点はゲゼルのIVAも同じ発想でした)。さらには現在のLETS通貨が抱えている問題、すなわち参加者のある人はマイナスばかりためてしまい、ある人はプラスばかりためてしまうという問題に対しても、ケインズは対策を考えていました。常に輸入超過または輸出超過でバンコール残高の大きくなってしまう国には、一定の課税を行なうことを盛り込んでいたのです。これは通貨の価値保蔵機能に制限を付ける持ち越し税、つまりマイナス利子のアイデアに他なりません。これによって、参加国は常に貿易収支がバランスすることを努力目標として求められるのです。

 もしもブレトン・ウッズで、ケインズのこの案が採択されていれば、その後の世界経済はどんなに違ったものになっていたでしょう。ある超大国の通貨が、世界の基軸通貨を兼ねることにより、ますます経済的な一極集中が進むといった状況も避けられた筈です。すべての国々が平等に交易を行なえる理想的なフェアトレードの世界。しかし、この画期的なケインズ案は、圧倒的な経済力で世界に君臨し始めていたアメリカの提案に敗れてしまいます。アメリカ案は、現在まで続いている「国際通貨基金」(IMF)を中心にしたものでした。これは参加各国の拠出金によって設立される基金で、その割り当て額は参加国の経済力に応じたものになっていました。しかも、ケインズのICUでは、すべての参加国が公平に一票の議決権を持つのに対し、IMFでは拠出金の額によって票数が決められていました。つまり最初からアメリカ一国が支配出来る体制が目論まれていたのです。そこにはバンコールに相当するような中立な国際通貨の仕組みもありませんでした。それどころか、米ドルにのみ金兌換の特権が与えられ、ここに実質的にドルが世界の基軸通貨となる路線が敷かれた訳です。ケインズは失意のうちにアメリカを去りました。そして2年後にケインズが没したあとには、ICU構想も歴史の忘れられたエピソードになってしまったのです。

 もちろんケインズの構想を、単に人道主義に貫かれた理想論とだけ捉えることは出来ません。チャーチル内閣の特使でもあったケインズは、あくまでイギリスの利益を守るために、ICU構想によってアメリカに牽制をかけようとした、それが歴史の真実でしょう。しかし、それでも二十世紀前半、ゲゼルからケインズに受け継がれた理想主義の流れがあったことは間違いないと思います。そしてそれはこれからの世界経済に対しても大きな指針を与えてくれるものではないかと思うのです。何故私たちは、いまのこの経済のあり方を唯一絶対のものとして受け入れなくてはならないのでしょう? 世界の貧しい国同士が貿易をする際にも、何故ドルが使われなければならないのでしょう? 私はケインズの考えたバンコールの考え方が、いまほど有効な時代はないのではないかという気がします。もしもそれが国際社会におけるLETSのようなものだとすれば、それを始めるのは簡単なことです。搾取されるばかりの貧しい国々、グローバリズムの恩恵にあずかれない負け組の国々が団結して、バンコールでの取り引きを始めればいいのです。いったん軌道に乗れば、これは大きな流れになるような気がします。資源の無い日本、今後世界の中で経済的地位の低下が決定づけられている日本は、この流れの先頭に立てばいい。外貨準備も、現在のように米ドル一辺倒ではなく、ドルを三分の一、ユーロを三分の一、そしてバンコールを三分の一の割合で持つ。これは有望な先行投資になり得ます。やがて地球上のエネルギー資源が枯渇し、世界が一定の貧しさのレベルに落ち込む日が来れば、主役に踊り出るのは貧困に耐えられるバンコール諸国かも知れないからです。

(今回の記事を書くきっかけになったのは、フランスのル・モンド紙から転載されたこちらの記事です。示唆に富む内容なので、興味のある方には一読をおすすめします。)

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2007年5月13日 (日)

憲法改正論議のポートフォリオ

 憲法記念日の朝日新聞朝刊は、紙面8ページを割いて21本もの社説を一挙に掲載するという大胆な企画でした。ふだんあまり社説というものを読まないので、今回の特集が何か新機軸を打ち出したものなのかは分かりません。それでも朝日新聞社が、おそらく社運を賭けて(?)何ものかを高らかに宣言している、そのトーンだけははっきり聞き取ることが出来ました。社説の冒頭には「地球貢献国家」などという、おそらく慎重に言葉を選び過ぎたがゆえに、インパクトが無くなってしまった平凡なキャッチフレーズが掲げられています。が、今回の文章の意図するところを深読みすれば、これは「護憲論的ナショナリズム」の宣言とでも言えるものではないかと感じました。

 これは以前にも書いたことですが、私は〈愛国心〉を唱える右派の人たちが、どうして改憲論一辺倒なのかを理解出来ずにいるのです。いまの日本国憲法を先入観なしに読めば、その前文からして私たち国民の愛国心にビンビン響いて来る文章であるように感じられるからです(前文をおさらいしたい方は、こちらをどうぞ)。でも、それは簡単な理由によるのですね、要するに愛国派の人たちは、その内容云々よりも、この憲法が占領国であるアメリカから押し付けられたという事実が気に食わないのだと思います。それでいて、アメリカとの公平ではない軍事同盟や国内の米軍基地のことには腹が立たないというのも奇妙だと思いますが、まあ、それはさておき。護憲派の自分としては、「愛国心」が改憲派の専売特許になってしまっている点に、大いに危機感を感じていた訳です(いつの時代でも、「お前には愛国心が無いのか!」というのは強烈な脅し文句ですから)。とにかく、「改憲=愛国的、護憲=非愛国的」というレッテルが貼られてしまったら、もう護憲論には勝ち目が無い。で、私自身、このブログの中では(半ば確信犯的に)「愛国的護憲論」を展開して来たのです(興味のある方は、こちらもどうぞ)。そしたら朝日新聞も同じことをやり出した。これはまずいという気がして来ました。一体何がまずいのか?

 試しにインターネットで朝日新聞の社説に対する一般のブログや2チャンネルなどでの反応を確認してみてください(検索ワードは“地球貢献国家”)。けっこうすごいことになってます。朝日新聞社のホームページにはコメント欄や掲示板はありませんが、まさにこの日の社説をめぐって、あちこちで火の手が上がっているって感じです。もちろん最近は〈ネット右翼〉というコトバに象徴されるように、インターネットの世界ではリベラルな言説よりもナショナリスティックな言説の方が優勢なのは周知の事実です。しかし、そこにだって多少は建設的な対立意見というものもある訳です。ところが今回の社説に関しては、これを熱烈に支持して、ここから議論を発展させるというスタンスのページは、ほとんど(というか全然?)見当たらない。そしてまずいことに、私のようなリベラル派で、長年にわたって朝日新聞を購読して来た者から見ても、ネット上で展開されている朝日バッシングの方に共感してしまう点があるのです。一例を挙げればこういうことです、どこかのブロガーの方がいみじくも言っていました、「朝日新聞は環境問題を争点にするなら、大量の紙資源を消費する新聞という形式を止めて、インターネットで情報を発信しろ」。まさに正論だと思います。これに対して朝日の論説委員はどう答えるのでしょう?

 私は今回の野心的な社説21連発には、基本的な戦略の間違いがあったのではないかという気がします。それはリベラルな護憲派が踏み込んではいけない論戦の領域に、自ら踏み込んでしまったという間違いです。現在、護憲派と改憲派が対立しているのは、単純に左翼と右翼の対立というようなことではなくて、もう少し複雑な構図になっていると思います。これを分かりやすく説明するために、世の中に出回っている憲法論議というものを少し整理してみましょう。私が思い付いた護憲論と改憲論の代表的な言説を、簡単なポートフォリオにまとめてみたのが下の図です(このブログに図が登場するなんて初めてですね。笑)。縦軸は議論の抽象性と具体性を表します。上が抽象的な理想論で下が具体的な現実論。横軸はナショナリズムへの傾倒を表していて、右側が強いナショナリズムの言説、左側はナショナリズムの色をあまり感じさせない言説という区分けです。まあ、私が感覚的に配置してみただけなので、信憑性のある図ではありませんが、これだけの整理でも何かしら気付くことはあります。図をクリックすれば拡大しますので、まずは眺めてみてください。

Portfolio_3

 私見によれば、今回の朝日新聞の社説特集は、最近の特に若い人たちのナショナリズムへの傾斜を、護憲論側に引き寄せる意図をもって書かれたものだと思われます。つまり、安倍内閣や多くの保守派の論客が論陣を張る「観念的な強いナショナリズム」の領域(この図の右上の部分)に、殴り込みをかけた格好です。「地球貢献国家」と言い、「国際公益の世話役」と言い、この領域に引き寄せられる人たちに向けて撒かれたビラに書かれた宣伝文句のようなものでしょう。しかしてその効果はどうだったかと言えば、インターネットの反応にも見られるとおり、効果が無いどころか逆効果だったとさえ言えると思う。これは考えてみれば当たり前の話で、いまどきこんなベタな宣伝文句に乗せられる人はそう多くはないからです。むしろ反撥を招きます。私が推奨してやまない内田樹さんに代表されるような、最近の洗練された護憲論者の人たちが、どんなに細心の工夫を凝らして、こういうストレートな恥ずかしいコトバを避けているか、朝日新聞社の論説委員の方々は、その点をよく考えてみるべきだと思います。私はかねがね、護憲派の最大の敵は護憲派内部にいると思っているのですが、大きな影響力を持つ大手マスコミが、こういう方向にまっしぐらに突き進むこと、それこそが世間が護憲論に愛想をつかす一番の要因ではないかという気さえするのです。

 理念と理念がぶつかり合うこの右上の領域は、要するに神学論争の領域です。私たちは60年も憲法論議を続けて来て、もういい加減に神学論争には飽き飽きしている訳です。だから安倍さんや中曽根さんのような、それこそベタベタなアナクロニズムの言説は、むしろそれを孤立させて、さらしものにしておけばいいじゃないか、私なんかそう思ってしまう。せいぜいそれを中立な立場からクールに茶化してみせるか(左上の領域)、現実的な立場からその矛盾を指摘してみせるか(右下の領域)、その程度で止めておくべきです。決して同じ土俵で言い争うのは得策ではない気がする。むしろこれからの憲法論議を意味あるものにして行くためには、政治的なイデオロギーとは無縁で、誰にでも分かりやすい現実論(左下の領域)に議論の軸足を移して行くことだと思います。今週も、安倍内閣が進めようとしているMD(ミサイル・ディフェンス)構想に関する、おそろしくお粗末なニュースが報じられていました(なんでも迎撃ミサイルの基地の近くに高層マンションが建つ予定があって、ミサイルを有効な角度で打ち上げられない懸念があるのだそうです。この計画って、もうそんな具体的なところまで進んでいましたっけ?)。こういう現実的な話題こそ、社説で取り上げるべきではないですか。MD構想が本当に国民の税金を費やす価値のあるものなのか、そういう論点をこそマスコミは追求して行くべきだと思います。地球貢献国家などと寝言を言っている場合ではない。

 と、ちょっとコトバが激してしまいましたが、私個人としては、今回の朝日の社説にはおおむね共感するところが多いことも最後に告白しておきます。というか、自分も同じようなことを書いて来たし、今後も書きそうな気がするので、今回の新聞特集を読んだ時の一種気恥ずかしい感じを、他山の石としてよく肝に銘じておこうと思って、今回の記事を書いておくことにしました。まだまだ国民投票までは時間があるのだし、われら護憲派はもっとクールに行かなくちゃ。

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2007年5月 6日 (日)

金融自由化に関する私の意見

 少し以前の話題になりますが、米国の証券会社大手ゴールドマン・サックス社の昨年末のボーナスは、日本円にして平均7200万円にものぼる金額だったそうです。一部の役員や優秀な成績を上げたトレーダーの話ではありません、日本人1千人を含む全世界のゴールドマン・サックス社の社員2万6千人の平均ボーナスが、です。なにしろ今年入社したばかりの新人にも1千万円を超えるボーナスが出たという話で、これは相当インパクトのあるニュースでした。こういう話を聞いて、「ふーん、証券会社ってそんなに儲かってるんだ、羨ましいな」なんて軽く考える人がいたら、それはちょっと呑気過ぎる気がします。何故って、このバブルマネーが一体どこから出たものなのかを考えれば、単に指をくわえて羨ましがってなどいられない筈だからです。

 金融自由化が極端に進んだ今日では、全世界の1日の金融取引の総額は、全世界の1日の実物取引の総額の100倍以上にもなるのだそうです。まさに世界全体が巨大なひとつのカジノ場と化してしまった訳で、胴元のひとつである証券会社に巨額のテラ銭が転がり込むのも当然と言えば当然です。もしもそれがマネーゲームに興じる人たちの間だけでの勝ち負けなら、どうぞお好きなだけやってくださいとも言えますが、現実はそうではありませんよね。世界中のマネーが実体経済を離れて、利を求めて文字どおり秒速で動き回る状況下では、しばしば経済的基盤の弱い国に通貨危機を引き起こし、一国の経済であってもひとたまりもなく破壊されてしまう、その実例を私たちはたびたび目撃しています。叩きのめされるのは、賭けに負けた金融ディーラーではない、常に貧しい国、貧しい階層の人々なのです。

 結局のところ、今日の経済システムが、誰を富ませ、誰から搾取する仕組みであるのかは、結果を見れば誰にでも分かることです。世界のお金は先進国の富裕層のところに集まり、そこを中継してさらに米国の大金持ちのところに吸い上げられて行く。世界経済が全体として不況に陥ったとしても、この流れは変わりません。現代の進化した金融工学の手法は、あらゆる経済の局面に備えて、リスクを最小限にして利益を最大限にすることをコンピュータを駆使して実現しているからです。1980年代に国家戦略として金融工学を高度に発展させた米国は、まさに世界の経済機構のなかに、自国向けの自動集金システムとも呼べるものを作り上げることに成功したのだと思います。(これを米国によるソフトな経済搾取の仕組みと呼ぶなら、武力と戦争によるハードな経済搾取の仕組みがもう一方にあります。フセイン政権崩壊後、誰が実質的にイラク原油の利権を握ったかを見れば、それは明らかです。) 日本でこの流れに追随したのが、小泉政権による構造改革内閣でした。一連の規制緩和や金融自由化政策によって、この国がどれほど深いところで変質してしまったか、そのことに現在の私たちは気付き始めています。

 そもそもこの世界に何も実体ある生産物やサービスを産み出さない金融取引における利潤追求を、私はインモラルなものだと思うのですが、それは富める者と貧しい者の格差を拡大するからだけでなく、この競争に参加する人たちの勤労へのモラルを著しく損傷するからです。最近は個人でもデイトレーダーと呼ばれる人たちが増え、ふつうに働いていたのでは一生手に出来ないような金額のお金を一瞬で稼いでみせたりしています。現代の社会で人々の勤労意欲を失わせている理由のひとつがこれです。実体経済の百倍のお金がマネーゲームに費やされているということは、つまり国民の真面目な勤労の価値が百分の一に減ったということです。堀江貴文氏や村上世彰氏といった人たちが時代の寵児だった頃、小泉前首相や竹中前大臣は彼らを手放しで賞賛していました。結果はおそまつな茶番劇に終った訳ですが、あの頃に対する反省を不思議と誰もしていませんよね。堀江氏や村上氏が悪人なのは、彼らが法を犯したからではない、むしろ合法的な手段を使って、この国の基盤である経済的モラルを叩き壊すという破壊行為を働いたからだ。何故そうはっきり言ってはいけないのでしょう?

 ここ何年ものあいだ、私たちはひとつの釈然としない思いを抱えて生活して来ました。それは、日本は政府レベルでも民間レベルでも、「お金に関する技術」において途轍もなく遅れていたので、アメリカ(やそれに追随する金融先進国)の「いいカモ」にされて来たのではないかということです。金融政策による攻撃は、軍事政策による攻撃のように誰の目にも明らかなものではないので、気が付いた時には取り返しのつかないほどの深手を負っているということもあると思います。日本もアメリカに負けないくらいの研究費を投じて、高度な金融工学理論とそれを応用した金融政策を実現して、これに対抗するという考え方もあるでしょう。が、私はその方向はリスクが大き過ぎると思う。何故なら、それはこの国の競争力の源泉である、国民の勤勉さや労働に対するモラルの高さを破壊する方向でもあるからです(もう既に手遅れなほど破壊されてしまったかも知れません)。これに対する政策変更は、日本を再生するための最重要な課題のひとつではないかと思います。金融自由化に関しては、日本は(戦略的に)臆病なほど慎重になって、これに歯止めをかけるべきだというのが私の意見です。

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